250329 52回 最終回
今日は最終回である。日本文化にとって「源氏物語」とは何だったのかについて話して、一年間のまとめにする。「源氏物語」は世界に誇る文学作品である。日本文化のシンボルでもある。「源氏物語」に対して捧げられた称賛の言葉は沢山ある。けれども「源氏物語」ほど夥しい批判にさらされてきた古典も少ない。我が国が近代に突入した明治時代に、富国強兵と殖産興業が国を挙げての目標であった。この時「源氏物語」は世の中の進歩に全く貢献しないどころか、近代化への障害であるとの批判がなされた。内村鑑三も批判者であった。
内村鑑三の批判
クラーク博士の教えの残る札幌農学校で学び、教育勅語・日清戦争・足尾銅山事件などに勇気ある発言をした知識人である。その内村に「後世への最大遺物」という講義録がある。内村は我々が後世に残すべき最大の遺産は、思想であると主張する。その反対に決して残してならないものが文学であるという。その発言に耳を傾けよう。明治27年 1894年日清戦争が起きた年に、キリスト教青年会の夏季学校で話した。
朗読①
また、日本人が文学者というものの生涯は、どういう生涯であると思うているだろうと言うに、それは絵草子屋に行ってみると分る。どういう絵があるかというと、赤く塗った御堂の中に美しい女が机の前に座っておって、向こうから月の上って来るのを、手を翳して眺めている。これは何であるかというと、紫式部の源氏の間である。これは日本流の文学者である。しかし文学がこんなものであるならば、文学は後世への遺物でなくて却って後世への害物である。成程、「源氏物語」という本は、美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れない。しかし「源氏物語」は日本の士気を鼓舞するために何をしたか。何もしないばかりでなく、我々を女らしき意気地なしにした。あのような文学は我々の中から、根こそぎ絶やしたい。あのようなものが文学ならば、実に我々はカーライルと共に、文学というものには一度も手に付けたことが無いということを、世界に向けて誇りたい。文学はそんなものではない。文学は、我々がこの世界に戦争する時の道具である。
解説
内村鑑三の「後世への最大遺物」の第二回の一部である。石山寺にはここで紫式部が「源氏物語」を書き始めたという伝説があり、その部屋が源氏の間である。後年、日露戦争の際には、非戦論を主張した内村鑑三だから、彼の言う戦争は、悪しき世界を変革するための思想的戦いの事を指している。内村鑑三は「源氏物語」を批判する根拠は、我々には文化と社会をより良いものに変えていく使命がある。だが「源氏物語」では、近代社会は何一つ良い方向に変えられない。
むしろ悪しき世界を温存させるだけであるという点に尽きる。
近藤芳樹 「源語奥旨」
また近代教育の世界でも「源氏物語」は不評であった。近藤芳樹は明治9年に「源語奥旨」という本を書いている。近藤は長州藩士で江戸時代後期を代表する名文家である。維新後も宮内省の文学御用係を務めた。近藤の書の中に紫式部が現れ、自分が「源氏物語」を書いた本当の理由を語る。「源氏物語」は現代でも有益であるというのが、「源語奥旨」の内容である。この書の冒頭部分を読む。
京都の女子教育の発展がテ-マである。
朗読②
明治五年の東京日新堂の日誌に・・・ 以下省略
近藤は明治5年と書いているが、私の調べでは明治4年である。分かり易く現代語訳する。
東京の日新堂から刊行されている新聞雑誌は、私と同郷の木戸孝允卿の肝いりということもあり、毎号読んでいる。その新聞雑誌の明治4年6月発行の第5号には、興味深い記事が載っていた。何でも京都では近年、教育制度がとても充実しているそうである。明治維新以来、文明は日々に進んでいる。学校制度も極めて充実してきており、中学や小学の新設が相次いでおり、その規模はこれまでなかった程盛んである。などという冒頭文があり、それに引き続いて統計や学生数、優秀な学生の氏名を挙げながら、京都の教育界の充実ぶりを詳しく報道している。この新聞雑誌の結びの段落が、私の心に深く突き刺さった。京都の女性はこれまで、容貌の美しさで天下に轟かせていた。
今、近代的学校制度の充実により学問を身につけ、持って生まれた才質を磨けば、彼女たちには精神的道徳的善が備わり、完全な美を習得することが可能である。平安時代の京都では、「源氏物語」を書いた紫式部や、「枕草子」を書いた清少納言が活躍した。彼女たちは才質に富み、また精神的な美を具現していなかったわけではないが、彼女たちの残した作品は実用の学とは無縁な軽佻浮薄な恋愛譚ばかりである。今、京都で文明開化に相応しい新しい学校教育を受けている女子学生たちがこれから熱心に学問に励めば、彼女たちの身につける美は、どうして紫式部や清少納言に劣ることがあろうか。この新聞雑誌の記事をよんだ私は、心の中で思う事が沢山あった。何故ならば私は実用の学ではないと断罪された「源氏物語」を、幼少の頃から愛読してきた人間だからである。私は無骨者で物心がついた頃には既に髭面で、その髭を撫でながら考え事をするのが常だった。見た目はこのように偉丈夫であった私は、紫式部の「源氏物語」を好みその研究書や注釈書を読み漁り、それにさえ満足できずに自分自身でも「源氏物語」に関する注釈書を著したいと思ってきた。だが「源氏物語」への愛着は、この新聞雑誌の記事によれば近代日本に必要な実学ではないそうだ。
今の日本に必要なのは実学である。「源氏物語」はその対極にある。この記事をよんだ私は、心の底から反省した。汗顔の至りである。そして「源氏物語」の注釈書を書きたいととう願いも捨て去った。
解説
無論これは近藤芳樹の演技である。この後、近藤の夢に現れた紫式部が「源氏物語」の執筆に籠めた真意を語って聞かせる。近藤は明治時代にも「源氏物語」は社会の進歩に有益だと主張する。但し名文家として知られた近藤芳樹でも、「源氏物語」は実用の書ではない、世の中の役に立たないという近代人の批判を正面から受け止めきれていない。それほど我が国の近代化は急激であり、「源氏物語」は害物・障害物となりつつあった。
中島広足の批判
もう一人、「源氏物語」に対する批判を行った人物を紹介する。中島広足という人物である。明治維新直前に亡くなった国学者である。熊本藩士であるが、長崎で長く暮らした。オランダから齎される西洋文化、特に軍事力と経済力に脅威を感じ続けた。中島は文政9年1826年に「物語文の論」を書いている。物語本 即ち 「源氏物語」などの文章を批判的に論じた。中島は、物語は女の打ち明け話である と定義する。幕末期の激動を生きる男は、どういう文章を書くべきか。それを論じた部分を読む。
朗読③
その上より世間に押しなべていとめでたしと持て囃せるは「伊勢」「源氏」の二つなり。しかるに今の世、雅文書くことを学ぶ人、「伊勢」をば暫く置きて、「源氏」を旨と学びかくめる。げにこの物語は「伊勢」よりも、こよなく広く細やかに至らぬ隈なく書き表されるものなれば、今何ごとを書かんにもその趣き、言葉遣いもこの物語に漏れたるはなかりけり。さればいと良き詩にはあれど、それ、もと女の書けるものなれば、その言葉遣いも女の振りにて思う心の細やかなるも、女の心の物語、はた女の物語なり。されば今、これを学ばんに女こそあれ、男はよく選び取りて言葉遣いも事の趣も男の振りに
叶えらんをのみ写し取り書くべきなり。この選びなくして、いたく愛ずる余り、ひたぶるにその様を羨みまねび書くときは、男にして女言葉を使い、かつ女の心向けになりぬべし。
解説 彼は何を言いたいのであろうか。
古来、「伊勢物語」と「源氏物語」は、名文の手本とされてきた。昨今は専ら「源氏物語」を真似て文章修養をする人が多い。確かに「源氏物語」にはありとあらゆるテーマが深く掘り下げられており、文章を書く時のヒントにはなる。但し「源氏物語」は紫式部という女性が書いた文章なので、男が手本とすると女の文体になってしまう。よくよく注意しなければならない。この様に中島は「源氏物語」の文体は、幕末の激動を生きる男には相応しくないと結論する。何故かというと、西洋文明の圧倒的な力の前に、「源氏物語」は無力だと中島は考えたのである。この「物語文の論」が書かれた2年後、
1823年に長崎ではシーボルト事件が起きる。海外に持ち出すことが禁じられている日本地図を、
シーボルトが密かに持ち出そうとした。シーボルトが乗った船が暴風で遭難し発覚したのである。中島はシーボルトの野望を打ち砕いたのは神風であると考える。外国文明と戦う国学者の気概が感じられる。戦う国学者である中島にとって、「源氏物語」は戦わない 戦えない ものであったのだろう。だから国を守る男にとって、女性的な「源氏物語」は相応しくないと主張した。
「源氏物語」への批判は二つに集約される。一つは「源氏物語」では世界の文明の急激な変化に立ち向かえないという批判。もう一つは「源氏物語」は世の中の役に立たないという批判である。私は古典講読を担当するに当たって、北村季吟が著した「湖月抄」の時点まで遡った。北村季吟は江戸自体後期に、本居宣長の「玉の小串」によって批判された。本居宣長の批判が中島達国学者の「源氏物語」批判の始まりである。私には強い思い入れがあり、古典講読では北村季吟の「湖月抄」で「源氏物語」を読むことを基本とした。無論本居宣長の解釈も可能な限り紹介した。このアプローチによって「湖月抄」の解釈が蘇ってきた手ごたえを感じている。「湖月抄」の読み方は、人間関係が調和している世の中こそが、平和な理想社会であるという考えに立脚している。人々が平和と調和を手にする為の最良の教科書が、「源氏物語」であるという認識である。この教訓は、平安時代末期の源平争乱から江戸時代初期の大阪夏の陣に到るまで続いた戦乱の時代に、文化人達が「源氏物語」に求めた祈りであった。21世紀の現在、未だに世界規模の戦乱大災害が起き続けている。
内村や中島は、「源氏物語」を根幹に据える日本文化では、到底世界と戦えないと論陣を張った。けれども明治時代以降も、「湖月抄」の命脈は続いている。人間関係の調和と社会の平和を願う「湖月抄」ほど、実用的なものはないと私は思う。だからこそ、「湖月抄」は読み続けられたのである。その事を確認していこう。
坪内逍遥と森鴎外の 没理想論争
明治18年~19年にかけて書かれた坪内逍遥の「小説神髄」は、近代批評を切り開いた名著である。「小説神髄」には「湖月抄」 の影響力が残っている。草子の地 という言葉が二回見える。これは草子地のことで、物語の語り手が読者に向かって直接に話しかけるナレ-ションの部分である。坪内逍遥は近代小説を論じる際に、「湖月抄」に見える草子地を用いた。その坪内逍遥と明治2年代に没理想論争を戦わせたのが森鴎外である。坪内逍遥が理想ではなくて、現実を描くべきだと言う立場であるのに対して、森鷗外は理想の大切さを主張した。鴎外の理想は、「湖月抄」の唱えた平和と理想を「源氏物語の中に見出す姿勢と似ている。森鷗外は「湖月抄」の流れを受け継いでいる。坪内逍遥との論争の中で、森鷗外は 非有非空 という言葉を用いている。非有非空 は存在するわけではないが、存在しない訳でもないという意味の仏教語である。「源氏物語」の仏教的、哲学的世界観を象徴する言葉であり、紫式部の肖像画にも書き添えられることがある。この非有非空 という言葉は、「湖月抄」に見える。
「湖月抄」は桐壺の巻の前に、発端つまり総論を載せている。そこでは54帖のタイトルには、四通りの名付け方があると説明している。
朗読④
一には 言葉を取り 二には 歌を取り 三には 言葉と歌の二つを取り 四には 歌にも言葉にもなきことを名とせり。
天台の教えには 以下略
解説
「湖月抄」の発端の一節である。54帖のタイトルには次の四通りとなる。
一、言葉つまり散文の中にのみ見られる言葉
二、和歌の中にのみ見られること言葉
三、言葉、散文の両方にみられる言葉
四、言葉散文と和歌のどちらにも見られない言葉
この四通りは天台宗の教えにある四つの世界認識と対応しているという。
ウモンのウ は存在するという意味である。世界は存在するし人間も存在するという認識である。
クウモン のクウは空である。世界は存在しないし、人間も存在しないという認識である。やくクウやクウクウモン ヤクはまたという意味である。AかつB という時の かつ にあたる。世界も人間も実在すると同時に、実在しないとい複雑な見方である。ヒウヒクウモン のヒウは非である。世界も人間も存在するわけではなく、存在しない訳でもないという見方である。
この四つの世界認識は54帖の巻のネーミングだけでなく、「源氏物語」の主題にも及んでいる。この事を雲隠の巻 の 解説で「湖月抄」は語っている。更に注目すべきは、俳句の革新を唱えた正岡子規の「俳諧大要」という本である。個々にはヒクウヒジツ の大文学という言葉が見える。この ヒクウヒジツ は「湖月抄」の ヒウ ヒクウと同じ意味であろう。
正岡子規の「俳諧大要」を読む。
朗読④
一つ 空想に非ず。写実に非ず。半ば空想に属し、半ば写実に属する一種の作法あり
一、空想と写実を合同して一種、非空非実 の大文学を製出せざるべからず
解説
空想でもなく写実でもない。そういう文学を俳諧において実現すべきだという。子規の唱えた写生は、写実だけを意味するものではなかった。子規の主張する非空非実 は、鴎外が逍遥との文学論争で用いた ヒウ ヒクウ という言葉に影響を受けたのであろう。その言葉の淵源は「湖月抄」にあるのであった。
さて夏目漱石と並び、近代文学の双璧とされる森鷗外は、「湖月抄」に大きな影響を受けている。私は鴎外の文学世界に憧れている。彼の初期の文学作品は、「源氏物語」で用いられた言葉が多くちりばめられている。但し、鴎外はそれらの言葉を、漢字表記を用いる場合がある。「舞姫」の一節を読む。
朗読⑤ 「舞姫」の一場面。豊太郎がエリスを残して、ロシアに旅立つ場面に うしろめたし という言葉がある。
さすがに心細きことのみ多きこのほどなれば、出で行く後に残らんも物憂かるべく、また停車場にて涙こぼしなどしたらんにはうしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がりい出しやりつ。余は旅装整えて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
解説
文中の ういろめたし は、道心が咎めるという意味である。鴎外はこの うしろめたし を漢字で、影護 という字で書いている。所で「源氏物語」桐壺の巻に、桐壷の更衣の母親が若宮・光源氏を宮中に戻したくない、いつまでも手元においておきたいと思う場面がある。そこに いと うしろめとう思ひきこえたまひて とある。北村季吟の「湖月抄」には、この箇所で うしろめたしに 影を護る という漢字をあてることがあり、心許なし という意味であると解説している。
本居宣長は「湖月抄」に反対して うしろ目痛し うしろの目、眼が痛い が うしろめたし の正しい語源であると主張する。鴎外の使用する 影護 と書く うしろめたし は、「湖月抄」を通して「源氏物語」を読んで初めて習得できる言葉と言える。鴎外は「舞姫」だけでなく、名訳として知られる「即興詩人」でも影護と書く、うしろめたし を五例ほど用いている。文学者にとって言葉は命である。鴎外は「湖月抄」から言葉を習得したのである。
うしろめたし だけではない。鴎外の初期の小説には「湖月抄」を経由して「源氏物語」から学んだと考えられる言葉が沢山使われている。それでは言文一致で小説を書くようになるとどうなるのか。普通に考えれば口語体の小説には、「源氏物語」の文語は不適合である。ならば鴎外の中で「源氏物語」の影響は消滅したのであろうか。「高瀬舟」は鴎外の代表作の一つである。その一説を読む。島送りになる喜助を同心の羽田庄兵衛が観察する場面である。
朗読⑥ 同心羽田庄兵衛は、喜助とわが身は本質的に同じだと思う。
庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べてみた。喜助は仕事をして給料を取っても、右から左へ人手に渡してなくしてしまうと言った。いかにも哀れな、気の毒な境界である。しかし一転してわが身を顧みれば、彼と我れとの間に、はたしてどれほどの差があるか。自分も上からもらう扶持米を、右から左に人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。彼れとの相違は、いわば十露盤の桁が違っているだけで、喜助の有難がる二百文に相当する貯蓄だに、こっちにはないのである。
解説
私は「源氏物語」の夕顔の巻を連想する。この巻のヒロインである夕顔は、「舞姫」のエリス、更には「雁」のお玉にも通じるキャラクタ-である。
大邸宅で暮らしている光源氏は、庶民たちの住むむさくるしい家を見ている。その一説を読む。
朗読⑦「源氏物語」夕顔の巻 源氏が下町の夕顔の家を訪れる場面。
すこしさし覘きたまへれば、門は蔀のようなるを、押し上げたる、見入れのほど゛なく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何処かさして」と思ほしなせば、玉の台も同じことなり。
解説 この箇所について「湖月抄」は次の様に解説している。
源氏は玉の台 に住みたもう身で、このはかなき住まいを見て観じたまふ。もっとも殊勝なり。源氏の君のご本性見えたり。殊勝なり。
観じたまふ の観 は仏法語である。実相観入 の観 である。心静かに対象を観察し、世界の真実を悟ることを意味する。高瀬舟の羽田庄兵衛は、罪人喜助の人生を見て、自分自身の人生の基盤の脆弱さを感じた、見て取った、洞察した。「湖月抄」のいう 観じる と同じである。
鴎外が「高瀬舟」にわが身を顧みれば と書いた時、彼の脳裏にわが身を観ずればという言葉が思い浮かんでいたことであろう。
鷗外にとっての「源氏物語」の影響力は、口語体の小説にも及んでいるのである。それはとりも直さず、「湖月抄」の影響なのである。
「湖月抄」と本居宣長
その「湖月抄」と本居宣長の知力の限りを尽くした戦いのドラマを一年間具体的に見届けてきた。
「湖月抄」は「源氏物語」を、平和と調和の大切さを教える教科書として理解した。平和は日本、中国、天竺などの異文化を一つに統合して調和させることからスタートする。これが「湖月抄」の基本理念である。それに反して、本居宣長は真っ向から反対した。本居宣長は儒教の説く道徳や仏教思想に染まらない本来の生き方が、人間にはあると考えるからである。けれども紫式部が白氏文集を踏まえているのに、本居宣長が漢文の使用は無いと主張するので、時として本居宣長の反論が空疎に感じられる。本居宣長は「湖月抄」の表現解釈を大きく変更した。現在の学者は、本居宣長が解釈を変更したことの多くを認めている。但し橋姫の巻 45帖 で薫が手渡された柏木の遺書の封を誰が書いたのかなど、明らかに本居宣長の解説が外れていることもあった。
また 関屋の巻 16帖 で、関屋よりざと外れ出でたる旅姿ども が、常陸介一行と解釈している「湖月抄」を本居宣長は、光源氏の従者たちだと読み改めた。また空蝉が詠んだ歌、
よくとくと せきとめがたき涙おや 絶へぬ清水と 人は見るらん
の解釈を本居宣長は一変させた。これらの解釈は、本居宣長の新説であり、卓見であると、現代では認められている。但し「湖月抄」の説にもそれなりの説得力はある。本居宣長の説が完全に勝利しているとは私は考えない。「湖月抄」には鎌倉時代の藤原定家以降の研究の厖大な蓄積が準備されている。それに対して、本居宣長はたった一人で立ち向かった訳だが、450年位の分厚い研究の蓄積には重みがある。「湖月抄」が乗り越えてきた戦国時代は、武将たちが権力欲や名誉欲をむき出して自己主張した時代であった。彼らは名誉欲や権力欲に駆られ、ありのままの自分を正直に生きた。それが社会の混乱を引き起こした。その反省から平和と調和を求める「源氏物語」の主題解釈が確立した。
本居宣長は再び本能に正直に生きよ、心を道徳や学問に錆びつかせてはならないと説く。自分に正直に生きた人間として、本居宣長は光源氏と柏木を称賛する。匂宮にも好意を抱いているようである。光源氏は自分の父親であり天皇でもある桐壷帝の女御 藤壺 と過ちを犯し、罪の子を作った。その子を冷泉帝として即位させる。柏木は準太政天皇として人々の尊敬を集めている、光源氏の正妻 女三宮と罪の子を作った。これらの行為は人が人を愛するという心に、正直に生きた結果である。道徳などによって抑制されない純粋な行為である。この様に考える本居宣長はひたぶるな心を持っていたのであろう。ひたぶるな心は障害物に正面からぶっつかっていく。巨大な壁をぶち破ることもあるし、壁を突破できず自滅することもあろう。これが本居宣長の説く もののあはれ の本質である。
美しい人生、自分らしい生き方とは何なのであろうか。私は若い頃から本居宣長の考える もののあはれ に違和感を感じていた。人間の幸福は人と人とが結びつくにあるのではないかと考えて居たからである。そこで「源氏物語」の人間関係に着目した。男女関係、親子関係、友人関係、師弟関係、色々な関係を通じて、人間にとっての幸福の在処を探し求めようとした。この視点は「湖月抄」のあとがきに大きな影響を受けている。
朗読⑧ 「湖月抄」のあとがきの一節
まことに君臣のまじわり、仁義の道、好色の仲立ち、菩提の縁に到るまで、これを載せずということなし。
解説
「源氏物語」には人間関係の全てが網羅されているというのである。君臣のまじわりは、主君と従者、為政者と被統治者、上司と部下の関係である。仁義の道は親子関係、友人関係などである。好色の仲立ちは男女関係、夫婦関係を指している。菩提の縁 は、悟りに到る手助けをしてくれる宗教的精神的な師弟関係であろう。人間は社会の中で生きていくことで、自分の居場所を見つける。その事の大切さを「源氏物語」の人間関係は教えてくれている。
古典講読を担当し始めた2020年からは、文学史だけでなく文化史の中に、古典文学を位置づけ現代性を取り出そうと努めた。人間関係が調和する時に平和が生まれる。但し人間はなかなか真実の人間関係を結べない。自分が偽りの人間関係の中に縛られていると感じる所から、本居宣長の「湖月抄」批判が始まるのであろう。けれども私は良い人間関係を作る努力を続けたいと思う。「源氏物語」を読めば読むほど、作者である紫式部と読者である私との結びつきを感じ嬉しくなる。作者と読者の人間関係これこそが古典文学の醍醐味ではなかろうか。
これまで私の話をお聞きになった皆さんと心の結びつきが出来たなら、本当に嬉しいことでありその事に感謝しつつ放送を終わります。有難うございました。
放送時間変更のお知らせ
古典講読は新年度4月より
本放送 ラジオ第二 (日) 6:00 第一回 光源氏でたどる「源氏物語」
新しくFMで(日)1:15 で放送する
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先生有難うございました。古典に無学な私に、目覚めさせて頂いた恩を感じます。古典講読自体はかなり昔から聞いて簡単にまとめてはいました。真面目に聞き出したののは先生の講座から。先生の講座の受講は日記文学多数から始まってもう長い、そう5年以上になります。そして一番しっかり聞いたのは源氏物語」。今後も一生懸命に聞きますので今後とも宜しくお願いいたします。