241005㉗「常夏の巻25帖と篝火の巻27帖」

光源氏の住む六条院は夏になった。六条院は広い敷地が四つに区切られ、春の町・夏の町・秋の町・冬の町と呼ばれている。町は区画の事である。北東になる夏の町は花散る里が女主人である。その他。夕顔の娘である玉鬘も住んでいる。光源氏は頭中将の娘である玉鬘を、自分の娘という触れ込みで六条院に引き取った。さて常夏の巻である。

「湖月抄」でも本居宣長でも光源氏は36歳である。巻の名前は和歌の言葉から採られた。常夏はなでしこの事である。

(はは)(きぎ)の巻は母親である夕顔が、常夏の女、娘である玉鬘がなでしこと呼ばれていた。常夏となでしこは同じ植物だが常夏には とこ妻の のイメージがある。なでしこは漢字で書くと、子を撫でる だから子のイメージがある。

 

この巻には内大臣頭中将の娘である雲居の雁が登場する。それでは常夏という巻の名前の由来となった場面を読む。

朗読①光源氏が夕霧に、母親・夕霧のことを話す場面である。

人々近くさぶらへば、例の戯れ言も聞こえたまはで、「撫子を飽かでもこの人々の立ち去りぬるかな。いかで、大臣(おとど)にも、この花園見せたてまつらむ。世もいと常なきをと思ふに、いにしへも、物のついでに語り出でたまへりしも、ただ今のこととおぼゆる」とて、すこしのたまひ出でたるにもいとあはれなり

なでしこの とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人やたずねむ

このことのわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しう思ひきこゆれ」 とのたまふ。君うち泣きて、

  山がつの 垣ほに生ひし なでしこの もとの根ざしを たれかたづねん

はかなげに聞こえないたまへるさま、げにいとなつかしく若やかなり。「来ざらましかば」とうち()じたまひて、いとどしき御心は、苦しきまで、なほえ忍びはつまじく思さる。

 解説 ここは「湖月抄」の解釈を元にして現代語訳する。

光る君は玉蔓に近付いて親密な話をしたいのだが、女房達が何人も控えている。その為、いつものように際どい冗談を口に出来ない。いつにも父親らしい言葉を掛ける。光る君は、今日は内大臣頭中将の長男である柏木は来ていないが、次男の弁少将と三男の藤侍従なども屋敷に顔を見せた。庭には美しい撫子の花が咲いているが、彼らはなでしこのように美しいあなたの顔を眺めることなく早々に退出したようだ。それにしてもあなたの父君である内大臣には、何としてでもなでしこの花のように美しく成長したあなたの顔を見せたいものである。私もいつの間にか36歳になった。人の世は無常なので、私もいつ命の終わりを迎えるか分からない。私が存命中にはあなたと父君との対面を実現したいと思っている。それにしても私はあなたの存在を初めて知ったのは、私がまだ16歳の頃だったので、もう20年も前の事である。

長雨が降りしきる夜に、私を含め男だけ4人で、理想の女性やこれまでの恋愛体験について語り合った。その時に当時頭中将であったあなたの父君・内大臣は、あなたやあなたの母君・夕顔のことを涙ながらに話してくれたその夜のことが、つい今さっきのように思い出されるなどと語る。光る君は 雨夜の品定め の内容を少しだけ玉鬘にも話す。話しながら夕顔のことを思い出し、こみ上げてくる悲しみに耐えている。そして歌を詠んだ。

   なでしこの とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人やたずねむ 

とこなつかし が、とこしえに懐かしい と 常夏の花 との掛詞である。もう20年も昔のことだが、あなたの父君は、あなたの母君・夕顔の詠んだ歌を披露した。

  山がつの 垣ほ()るとも をりをりに あはれはかけよ 撫子の露

この撫子があなたのことなのだ。私はあなたを本当の父親である内大臣に引き合わせたいのだが、ためらう気持ちもある。撫子のようにあなたを私が育てている事実を知ったら、あなたの母君・夕顔と私との悲しい恋の顛末をあなたの父君は知ろうとするだろう。けれど私は知られたくない。光る君はなおも話を続ける。若い頃の私は、あなたの母君との関係を父君との関係を知っていながら彼女とは情事をしていた。この事を父君に知られるのは気が進まない。そこで(かいこ)(まゆ)の中に閉じ籠っている様に、あなたを私の六条院の中で大切に育んでいる。けれどもあなたの行動の自由を奪っていて申し訳ない。この言葉は

  たらちねの 母が()()の (まゆ)(こも)り ()れる(いも)を 見むよしもがな 拾遺和歌集 柿本人麻呂

という歌を踏まえている。

()() は蚕の事である。それを聞く玉鬘は涙にくれる。ややしばらくして歌を返した。

  山がつの 垣ほに生ひし なでしこの もとの根ざしを たれかたづねん

私が顔を覚えていない母親は、私が顔を見たことの無い父親の訪れを空しく待ち続け、

  山がつの 垣ほ()るとも をりをりに あはれはかけよ 撫子の露

という歌を詠んだと先ほど教えて貰った。私たち親子は取るに足りない存在なので、父親は私の顔を見ても、母の最期を詮索したりしたりはしないだろう。どうか少しでも早く私を父親と対面させて下さい。玉鬘は自分たち親子を卑下して控え目に歌を詠んだ。誠に人柄が奥ゆかしく初々しい。そのような玉鬘を目の前にして光る君は、「来ざらましかば」 と何かの歌の一部を口ずさむ。この歌の元歌はよく分かっていない。もしここに来なかったならば、玉鬘の歌を耳に出来なかっただろう。良い歌だったという気持ちだったのだろう。光る君は一層玉鬘への恋心が強くなっていく。玉鬘への思いを我慢し続けることは出来ないかも知れないと思う。

玉鬘は 若やかなり とされている。湖月抄の年立てによれば、玉鬘は23歳、紫の上29歳、明石の君28歳、そして秋好む中宮28歳。

 

さて光源氏が玉鬘との関係で悩んでいる様に、内大臣・頭中将も娘の雲居の雁の処遇で悩んでいた。光源氏の政治権力と対抗する為に、雲居の雁を入内させたかったのだが、彼女は光源氏の息子の夕霧と愛し合っている。内大臣が娘の部屋を訪れる場面を読む。

朗読②内大臣が娘の雲居の雁の部屋を訪れると、昼寝をしている。

とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽らかに這ひ渡りたまへり。少将も御供に参りたまふ。姫君は昼寝したまへるほどなり。羅の単衣(ひとえ)を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。透きたまへる肌つきなど、いとうつくしげなる手つきして、扇を持たまへりけるながら、(かいな)を枕にて、うちやられたる御(くし)のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。人々物の背後(うしろ)に寄り臥しつつ休みたれば、ふともおどろいたまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみらうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。

 解説

とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽らかに這ひ渡りたまへり。少将も御供に参りたまふ。

内大臣頭中将は、娘の雲居の雁の事で頭を悩ましている。ふと思い立って身軽に娘の部屋に向かう。弁の少将・後の紅梅大納言はお伴でついてきた。

姫君は昼寝したまへるほどなり。羅の単衣(ひとえ)を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。

姫君は昼寝をしている時だった。夏用の薄い絹の単衣を着て横になっている姿は、涼やかで軽やかである。とても愛らしく小柄な体つきである。

透きたまへる肌つきなど、いとうつくしげなる手つきして、扇を持たまへりけるながら、(かいな)を枕にて、うちやられたる御(くし)のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。

持たまへり は、持ち給うという意味である。薄い単衣を着ているので、肌が透けて見える。その肌の色艶がとても可愛らしく、扇を持っている手つきも可愛らしい。腕を横にしているので、髪の毛は自然と広がっている。この髪の毛はそれほど長くはなく、ボリュウムも多くはない。但し切り揃えてある髪はとても美しい。

人々物の背後(うしろ)に寄り臥しつつ休みたれば、ふともおどろいたまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみらうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。

人々 は女房たちである。

「湖月抄」はこの箇所で教訓読みをしている。こういう時に姫君を起こすのが役割である女房達も、几帳の蔭で寄りかかって一緒に昼寝をしている。だから内大臣が来ても眠ったままである。不用心に昼寝をしている姫君も姫君なら、女房達も女房達達である。

扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみらうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。

内大臣は姫君を起こすために手にしていた扇でパチンと音をたてた。姫君はやっと目を覚ましたけれども、状況がよく分からず音のした方をぼんやり見上げている。その目元が可愛らしく見える。

 

目を覚ました娘に向かって内大臣は昼寝の戒めを語る。それがいつの間にか光源氏の教育方針にたいする批判に展開していく。その場面をよむ。

朗読③

うたたね寝は(いさ)めきこゆるものを、などか、いとものかはかなきさまにては大殿(おおとの)(こも)りける。人々も近くさぶらはで、あやしや、女は、身を常に心づかひして守りたらむなんよかるべき、こころやすくうち棄てざまにももてなしたる品なきことなり。さりとて、いとさかしく身固めて、不動の陀羅尼誦みて、印つくりてゐたらむも憎し。(うつつ)の人にもあまりけ遠く、もの隔てがましきなど、気高きやうとても、人憎く心うつくしくはあらぬわざなり。太政大臣の后がねの姫君ならはしたまふ教へは、よろづのことに通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくもあらじと、ぬるらかにこ(おき)てたまふなれ。げにさもあることなれど、人として心にも、するわざにも、立ててなびく方は方とあるものなれば、()ひ出でたまふさまあらむかし。この君の人となり、宮仕に出だし立てたまはむ世の気色(けしき)こそ、いとゆかしけれ。

 解説 ここでも正道読み、教訓読みを繰り広げている。現代語訳する。

内大臣頭中将はわが娘の雲居の雁に次の様に語った。転寝(うたたね)が良くないことを親である私は注意してきたはずである。

  垂乳根の 親のいさめし うたたねは 物思ふ時の わざにぞありける 拾遺和歌集 よみびと知らず

と歌われている通りである。然るべき家のお姫様が他人の目につきやすい所で、軽々しい振舞いをしてはならないことは、中国古代の詩経にも書かれている。屋敷の隅の方には髪を祀る神棚がある。その神様が見ているから、恥ずかしい振舞いは家の中であってはならない。その事も詩経に書いてある。昼寝などもってのほかである。それなのにどうしてこんなに無防備に昼寝するのか。それに加えて姫君のお側で見守るべき女房達まで一緒に眠りこけているとはどうした事か。女はいつも自分の周囲の状況に木を配り、わが身を安全にしておくのである。気を許して自分でも責任のとれない振舞いをするのは、姫君には絶対にあってはならない。けれどもだからと言って、女性が男女関係から守られている安全地帯にわが身を置いて、真面目一辺倒に振る舞うのも如何かと思う。いかにも賢い女ですと言わんばかりに、誰からも接近されないように鉄壁の防御で自分の身を守り、不動明王に向かって陀羅尼を読み、手で不動印を結び、抹香臭い振舞いというのも憎らしいことである。他人から見れば可愛げがありません。太政大臣である光る君は自分の姫君には将来のお后になる器量があると考え、お后教育をなさっているようだ。光る君の教えというのは、中国の儒教で言う所の修養の精神である。どれか特定の側面に関して突出した才能を持たせるのではなく、あらゆる側面にわたって幅広い見識を持たせ、どの側面に関しても不足が無いようにするという教育である。まさに過不足のない均整がとれた人間教育を心掛けているそうである。光る君の教育方針は成程そうかも知れないが、私には承服できない。何故ならば人間には個性があって、心の中で思う事にも実際にすることにも、得意な事と不得意なこと、好きな事と嫌な事とが必ず存在するからである。これは教育によって解決は出来ない。それなのに人間を修養の美徳の中に押し込めてしまえば、好きな事も出来ず、嫌な事でも無理してしなくてはならない。個性が消滅し人間性も損なわれる。人は自ずと個性を開花させながら大人になっていくものである。光る君は熱心に姫君を育てているが、姫君がどんな大人に育ち実際に入内する時には、どういう人間性の持ち主になっているか今から楽しみな事である。

 

私も内大臣の光源氏への批判には説得力を感じる。

 

それでは27番目の巻である篝火の巻に入る。54帖の丁度半分に当たる。篝火というタイトルは、

言葉、散文、和歌にもみられる。光源氏36歳の秋の初めである。光源氏と玉鬘の苦しい恋、燻る恋がテーマである。ここでは光源氏が六条院の夏の町の西の対に渡り、そこで暮らす玉鬘に添い臥す場面を読む。

朗読④ 光る君と玉鬘は琴を弾き終わってことを枕に添い臥す。そして物思いに耽る。

秋になりぬ。初風涼しく吹き出でて、背子(せこ)が衣もうらさびしき心地したまふに忍びかねつつ、いとしばしば渡りたまひて、おはしまし暮らし、御琴なども習はしきこえたまふ。五六日(いつかむいか)夕月(ゆうつき)()はとく入りて、すこし雲隠るるけしき、荻の御供やうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。かかるたぐひあらむやとうち嘆きがちにて夜ふかしたまふも、人の咎めたてまつらむことを思せば、渡りたまひなむとて、御前の篝火のすこし消え(かた)なるを、御供なる右近大夫を召して、(とも)しつけさせたまふ

 解説

秋になりぬ。 秋になった。

初風涼しく吹き出でて、背子(せこ)が衣もうらさびしき心地したまふに忍びかねつつ、いとしばしば渡りたまひて、おはしまし暮らし、御琴なども習はしきこえたまふ。

  わが背子の 衣の裾を 吹き返し うら珍しき  秋の初風 古今和歌集 よみびと知らず

などと歌われている様に、秋の初風は心にうら淋しさを生じさせる。光る君もまた心の中に淋しさを感じている。そのさびしさを、玉鬘に埋めて貰いたくなると、度々玉蔓の部屋に行く。二人はまだ妹背の仲には無いが、光る君は玉蔓にとっての背の君、恋人、夫の積りなのである。光る君は和琴、六弦琴などを教えながら一日中二人で過ごしている。

五六日(いつかむいか)夕月(ゆうつき)()はとく入りて、すこし雲隠るるけしき、荻の御供やうやうあはれなるほどになりにけり。

七月の五日(いつか)六日(むいか)に出る月は、夕方頃には早くも沈んでしまう。その後の空は、日中の暑さが薄れ、涼し気に曇っている。

微かな風にそよぐ荻の葉の音も、日に日に秋のあわれを感じさせる。

御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。

光る君と玉鬘はさっきまで弾いていた和琴を枕にして、寄りそって横になる。和琴の長さは190cmである。

かかるたぐひあらむやとうち嘆きがちにて

たぐひ は、光源氏と玉鬘の二人の間柄の事で、父と娘のようでそうではない、男と女のようでそうでない。私たち二人の関係はこれまでにあっただろうかと玉鬘は思い悩んでいる。この様に「湖月抄」は玉鬘の悩みだと解釈する。現在では光源氏の心とする説が有力である。

夜ふかしたまふも、人の咎めたてまつらむことをおぼせば、渡りたまひなむとて、御前の篝火のすこし消え(かた)なるを、御供なる右近大夫を召して、(とも)しつけさせたまふ。

そして夜が更けていく。これ以上玉鬘と添い臥し続けていると、二人の様子はどうも怪しいと見咎められる恐れがあるので、光る君もそろそろ自分の部屋に戻ろうとする。部屋を出ようとすると、庭先に置いてある篝火の勢いがやや衰えているのが見えた。篝火は鉄で出来た籠の中に木を投げ入れて燃やすのだが、薪が減っていた。光る君はお伴として附き従っている右近の大夫を呼び、庭の篝火に薪を継ぎ足し、明るくするように命じる。

 

次の場面である。

朗読⑤

いと涼しげなる鑓水のほとりに、けしきことに広ごり伏したる(まゆみ)の木の下に、(うち)(まつ)おどろおどろしからぬほどに置きて、さし退(しりぞ)きて(とも)したれば、御前の方は、いと涼しくをかしきほどなる光に、女の御さま見るにかひあり。御(くし)の手当たりなど、いと(ひや)やかにあてはかなる心地して、うちとけぬさまにものをつつましと思したる気色(けしき)、いとらうたげなり。帰りうく思しやすらむふ。「絶えずひとさぶらひて点しつけよ。夏の、月なきほどは、庭の光なきは、いとものむつかしく、おぼつかなしや」とのたまふ。

   「篝火に たちそふ恋の 煙こそ 世には絶えせぬ ほのほなりけれ

いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃(したも)えなりけり」と聞こえたまふ。女君、あやしのあのさまやと思すに、

   行く方なき 平に消ちてよ 篝火の たよりにたぐふ 煙とならば

人のあやしと思ひはべらむこと」とわびたまへば、「くはや」とて出でたまふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、(そう)に吹きあはせたり。「中将の、例の、あたり離れぬどち遊ぶにぞありける。

 解説 光源氏と玉鬘それぞれの心の中に分け入る。

いと涼しげなる鑓水のほとりに、けしきことに広ごり伏したる(まゆみ)の木の下に、(うち)(まつ)おどろおどろしからぬほどに置きて、

六条院の夏の町は暑い夏を快適に過ごせるように、鑓水や泉が設置され豊かな水が流れている。篝火は燃えている姿が見ずに移ると、更に美しさが増す。六条院の夏の町でも、鑓水の近くに篝火の台が置かれている。篝火の鉄の籠の中にくべる薪は、鑓水の傍に見た目が良いように高さを低くして積んである。松の木を()いたものを、鉄籠の中にうち入れるので、(うち)(まつ)という。一年近く枝を広げている(まゆみ)の木の下 で、それ程大量ではなく、丁度良い程の重量である。

さし退(しりぞ)きて(とも)したれば、御前の方は、いと涼しくをかしきほどなる光に、女の御さま見るにかひあり

篝火玉鬘 の部屋からは少し遠のいて置かれているので、篝火 は 燃え上がると水に映えるだけではなく、部屋の中の玉鬘の顔を丁度よい位の涼やかな光で照らし出す。その姿が見れば見るほど美しい。

(くし)の手当たりなど、いと(ひや)やかにあてはかなる心地して、うちとけぬさまにものをつつましと思したる気色(けしき)、いとらうたげなり。

光る君はその美しい髪を出てかき撫でている。その手触りがひんやりとして気持ちよく、品がよく感じられる。光る君に髪をいじられている玉鬘の方は、光る君に足して心を閉じるでもなく打ち解けるでもなく、体を固くしてやり過ごしている。その様子が、光る君の側からはいじらしく見える。

光源氏の好色な振る舞いに、嫌悪感を抱く読者もいるだろう。一つだけ光源氏の為に弁明しておけば、二人の間に実事は起きなかった。これは後に玉鬘と結婚した(ひげ)(くろ)の驚きと喜びとして、はっきりと書かれている。

帰りうく思しやすらふ。

一度はそろそろ引き上げようかと思った光る君だったが、帰るのが辛く感じられた。帰ろうか帰るまいか迷っている。

「絶えずひとさぶらひて点しつけよ。夏の、月なきほどは、庭の光なきは、いとものむつかしく、おぼつかなしや」とのたまふ。

光る君はふと我に返り、周囲の者たちに命令する。庭には必ず誰か控えていて、篝火の籠の薪が少なったら継ぎ足すのだ。夏の夜の月がない時は、甚だ君が悪く心が不安に駆られるものである。今はもう秋になったのに、まだ残暑が続いているので、思わず 夏の夜 という言葉が口をついて出てくる。

光源氏は歌を詠む。

  「篝火に たちそふ恋の 煙こそ 世には絶えせぬ ほのほなりけれ

(こひ)  の ひ が fire の火の掛詞である。庭では篝火が炎を上げて燃え上がり、煙も立ち上っている。その激しい炎の薪も燃え尽きれば、いつかは消えてしまう。私の心の中ではあなたへの愛が激しく燃え盛っている。私の恋の炎は、決して燃え尽きることはない。これほどの思いをあなたはどうして分かってくれないのですか。

いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃(したも)えなりけり」と聞こえたまふ。

光源氏の言葉である。光る君はなおも玉鬘に恋心を訴える。

 夏なれば 宿にふすぶる 蚊遣火の いつまでわが身 下燃えをせむ 古今和歌集 よみびと知らず

私のあなたへの恋心はこの歌に詠まれている蚊遣火のように、いつまでも心の奥底で燃え続け消えないのだというのである。

女君、あやしのあのさまやと思すに、

玉鬘はそれにしても私たち二人は奇妙な関係だと困惑するばかりである。そして返歌を口にした。

  行く方なき 空に消ちてよ 篝火の たよりにたぐふ 煙とならば

あなたは自分の心を蚊遣火に似ていると歌われた。女の篝火の煙は空に立ち上ってやがて消える。貴女の心で目に見えないけれども燃えているという恋の煙も、篝火の煙と同じ様に消えて欲しいものです。男の恋心をビシリと断りながら、それでいて冷たくはない。玉鬘は巧みな処世術を身に着けている。

人のあやしと思ひはべらむこと」とわびたまへば、

玉鬘は私たち二人を他の人が見たら、きっと不自然だと思うでしょうと言って困惑している。

「くはや」とて出でたまふに

くはや は感動詞である。これを聞いた光る君はおや、そう来たか、 それではここで引き下がるしかないと言って、玉鬘の部屋を後にする。

東の対の方に、おもしろき笛の音、(そう)に吹きあはせたり。「中将の、例の、あたり離れぬどち遊ぶにぞありける。

内大臣の息子たちはまだ滞在していた。玉鬘は夏の町の西の対に暮らして居る。東の対には花散る里が住んでいて、花散る里を母親代わりにしている夕霧が住んでいる。

その夕霧がいつものように、友人たちと音楽を演奏している音が聞こえてきた。筝、十三弦の音に合わせて、吹いている美しい横笛の音色だった。この場面は篝火に照らされる玉鬘の姿が印象的である。蛍の巻で玉鬘は蛍の光に照らされた。ここでは篝火である。彼女が玉のように周囲の人に幸せをもたらす宝物だったのだろう。

 

「コメント」

 

遊び惚けている貴族たちにも教育論あるのには驚く。結局は自分のまた家の栄達の為なのである。そうでないのは源氏くらいか。男は遊び人ばかり、女はその中を達者に泳いでいく。まともな人はどこに。内大臣頭中将の教育論は聞くべし。