240921㉕「胡蝶の巻」24帖

三島由紀夫は「源氏物語」54帖の中から、光る君青年期の8帖(はなの)(えん)の巻と壮年期の24帖・胡蝶の巻の二つをあげ、美と優雅と憂愁に満ちていると絶賛している。タイトルは紫の上と秋好(あきこのむ)中宮(ちゅうぐう)の和歌の贈答から作られている。胡蝶は蝶々である。

光源氏36歳の3月と4月。晩春から初夏にかけてである事は、「湖月抄」と本居宣長で一致している。早速胡蝶の巻の冒頭を読む。光源氏と紫の上が住む春の町つまり春の御殿の素晴らしさがテ-マである。

朗読①弥生に春の御殿は美しい庭になった。光源氏は親王や上達部、女房を集めて船楽を催す。

三月(やよい)二十日(はつか)余りのころほひ、春の御前(おまえ)のありさま、常よりことに尽くしてにほふ花の色、鳥の声、他の里には、まだ()りぬにやといとめづらしう見え聞こゆ。山の木立、中島のわたり、色まさる苔のけしきなど、若き人々のはつかに心もとなく思ふべかめるに、唐めいたる舟造らせたまひける、急ぎさうぞかせたまひておろし始めさせたまふ日は、雅樂寮(みやづかさ)の人召して、船の楽せらる。親王(みこ)たち、上達部(かんだちめ)などあまた参りたまへり

 解説

三月(やよい)二十日(はつか)余りのころほひ、春の御前(おまえ)のありさま、常よりことに尽くしてにほふ花の色、鳥の声、他の里には、まだ()りぬにやといとめづらしう見え聞こゆ。

春の御前(おまえ) は、春の御殿の庭の事である。三月の下旬になった。春の町では華麗な春景色が広がっている。ここ六条院には春が巡ってくるのはまだ二回目である。昨年は初めての春だったので、素晴らしく感じたものだが、今年は更に一層輝く度合いが増している。春の花の色だけではない。春の鳥の声もまた、春の町ではまことに素晴らしいので、他の場所ではこれほど見事な春景色は見られないだろうと思いながら、人々は花の色を眺めながら鳥の声を聞いている。なお本居宣長説では、六条院の初めての春である。本居宣長の弟子の鈴木(あきら)他の場所ではこれほど見事な春景色は見られないという「湖月抄」の解釈に異を唱えている。他の場所ではとっくに春の盛りを過ぎているのに、この六条院の春の町だけは、春の盛りが続いていると解釈するのである。確かに鈴木(あきら)の解釈の方がよいと思う。

山の木立、中島のわたり、色まさる苔のけしきなど、若き人々のはつかに心もとなく思ふべかめるに

はつかに は、わずかに   若き人々 は、若き女房たちの事である。

庭に作られている築山の木々の緑や、池の中島の千草や、緑の色が深まりつつある苔など、若い女房達は遠くからわずかに見るだけでは満足できず、すぐ近くまで行って鑑賞したがっているようである。

唐めいたる舟造らせたまひける、

女房達の要望に応えるため、光る君は中国風の船の建造を命じていた。春の終わりになってから、慌てて作ろうと思い立ったのではなく、早春の頃雪がまだ積もっている頃から、春の盛りの日々になったら若い女房達が池の(みぎわ)などを間近に眺めたく思うだろうと考えて船を造らせたのである

急ぎさうぞかせたまひておろし始めさせたまふ日は、雅樂寮(みやづかさ)の人召して、船の楽せらる。親王(みこ)たち、上達部(かんだちめ)などあまた参りたまへり。

新造なった船に、屋方の部分の覆いや幔幕など美しい飾り付けをする。その船を初めて池に浮かべる日には、雅楽を司る役所である雅楽寮(うたづかさ)の楽員たちを召して船楽を催す。招待客として親王たちや上達部などが、大勢六条院の春の町に参集する。

 

続く場面を読む。

朗読②中宮が秋に紫の上の贈った歌の返歌は、今が良かろうと考えた。

中宮、このころ里におはします。かの「春まつ苑は」とはげましきこえたまへりし御返りもこのころやと思し、大臣(おとど)の君も、いかでこの花のをり御覧ぜさせむ、と思しのたまへど、ついでなくて軽らかに這ひ渡り花をももて遊びたまふべきならねば、若き女房たちの、ものめでしぬべきを舟にのせたまひて、南の池の、こなたにとほし通はしなさせたまへるを、小さき山を隔ての関に見せたれど、その山の崎より漕ぎまひて、東の釣殿に、こなたの若き人々集めさせたまふ

 解説 この場面は「湖月抄」の解釈をベ-スとして現代語訳する。

この頃に秋好中宮が宮中から里下がりしていた。六条院が落成した時は秋だったので、秋の町の風情は特別の美しさであった。その事を中宮は誇って、春の町の紫の上に

  心から 春まつ苑は 我が宿の 紅葉の風を つてにだにせよ

という歌を贈った。その時光る君は紫の上に、この歌の返事は春の盛りにしたら良いのではと提案した。今まさに春の町は春の盛りである。紫の上は今、あの歌の返事を詠まないでいつ詠めるというのだろうと思う。光る君もまた、この春の町の見事な景色を中宮に何とか見せたいと思うし口にする。但し中宮の立場はまことに重いものなので、六条院に里帰りしていると言っても軽々しく春の町まで渡ることは出来ない。そこで光る君はせめて中宮にお仕えしている女房達にだけでも、春の町の素晴らしさを見せたいと思う。

風流を愛する若い女房達を集めて、船に乗せた。というのは秋の町の庭の池は、春の町の庭の池と繋がるように設計してあったからである。二つの町の池の境目の辺りに中島があり、小さな築山が作ってある。それが二つの町の関所の役割を果たしている。その築山の向こう側から船に乗って中島まで漕ぎ回ってくると、南の町の広い池に出てくる構造である。そこから船に乗せ、秋の町から入ってきた船と合流して船遊びに興じるというのが光る君が立てた計画であった。

 

春の町の紫の上と秋の町の中宮が競い合っている。続きを読む。

朗読③唐風に派手に飾り付けた船が漕ぎ出した。春の庭の素晴らしさの描写。

竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)を、唐の装ひにことごとしうしつらひて、(かじ)とりの棹さす童べ、みな()(づら)結ひて、唐土(もろこし)だたせて、さる大きなる池の中にさし出でたけば、まことの知らぬ国に来たらむ心地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。中島の入り江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵に描いたたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の(かた)ははるばると見やられて、色を増したる柳枝を垂れたる、花もえもいはれぬ匂ひを散らしたり。他所(ほか)には盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほ笑み、(ろう)(めぐ)れる藤の色もこまやかにひらけゆきにけり。まして池の水に影をうつしたる山吹、峰よりこぼれていみじき盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもをくひて飛びちがふ、鴛鴦(をし)の波の(あや)に文をまじへたるなど、物の()(よう)にも描き取らまほしきに、まことに斧の柄も(くた)いつべう思ひつつ日を暮らす

 解説

竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)、唐の装ひにことごとしうしつらひて、

ここは日本なのだが唐、中国の風景が広がっている。秋の町の女房達を迎えている紫の上の女房達は、新造の二艘の船に乗り込んだ。一艘は 竜の頭 を船主に掲げ、もう一艘は (げき) という鳥の首を船首に掲げている。これを 竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)

という。 と 鷁 は、どちらも空想上の動物だが、ともに水難を避ける力がある。竜は水を縦横に支配し、水鳥の は、風を受けてよく飛ぶとされる。紫の上の女房達が乗る二艘の船には、中国風の装いが派手派手しく施されている。

この日は竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ) の船が初めて六条院の池に浮かべられた記念すべき日である。(ふな)(がく)が為された後で、女房達が乗り込んだのである。

(かじ)とりの棹さす童べ、みな()(づら)結ひて、唐土(もろこし)だたせて、さる大きなる池の中にさし出でたけば、まことの知らぬ国に来たらむ心地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。

()(づら) は、少年の髪型である。

さて中国風の装飾が施された二艘の 竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ) の船で、(かじ) を取り棹をさして操縦するのは童だったが皆、中国の少年風の髪型である ()(づら) を結っているので、唐子(からこ)の様ないで立ちをしている。

この二艘の船が広大な池の上に浮かび、進み始めたのを見た秋好中宮の女房達はただびっくりしている。紫の上の町の趣向は余りにも日本離れして中国風であるので、自分たちはどこか知らない異国や仙人たちの住む理想郷に紛れ込んだのではあるまいかという心境になっている。六条院の雅は、日本文化と中国文化を融合調和させたものであった。

中島の入り江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵に描いたたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の(かた)はるばると見やられて、色を増したる柳枝を垂れたる、花もえもいはれぬ匂ひを散らしたり

ここは胡蝶の巻の冒頭を踏まえている。少し前に、紫の上に仕える女房達も建物から遠くに見える築山の木々や、中島の千草を遠くから見るだけでは満足できないと書いたが、船に乗って近くまで来ると格別である。まして初めて見る中宮の女房達にとって感嘆するばかりであった。船は中島に作られた入り江の岩蔭へと近づいた。遠くからよく見えなかった石も近くで見ると、ひとつひとつの石に趣きがあり、また見事な配置がなされ、まるで中国の仙人たちが住む理想郷を描いた絵を見ている様な気持ちになる。あちらこちら春霞が棚引いているので、木々の梢も一面に錦を張り巡らせているようだ。紫の上が住んでいる建物の前庭は、この中島から見ると遠くに見える。緑色を濃くしている柳が枝を垂れているし、桜の花も薄赤い色を際立たせ、目にも鮮やかである。

他所(ほか)には盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほ笑み、(ろう)(めぐ)れる藤の色もこまやかにひらけゆきにけり。まして池の水に影をうつしたる山吹、峰よりこぼれていみじき盛りなり。

ここも胡蝶の巻の冒頭を踏まえている。すこし前に六条院の春の町はまことに素晴らしいので、他の場所ではこれ程素晴らしい春景色は見られないだろうと思いながら、人々は花の色を眺め鳥の声を聞いていると書いたのは、春の町で暮らして居る人の思いであった。今、秋の町から訪れた女房達は、他の場所ではとうに盛りを過ぎている桜がこの春の町では盛りと咲き誇っていると驚きを隠せない。渡り廊下を巡って蔓が延びている藤の花房も濃い紫色で咲き始めている。

更に池のほとりに植えられ、その黄色い姿を水面に映している山吹の花が、築山の峯からこぼれ落ちる様に咲き盛っている。

山吹、峰よりこぼれて

の部分について、本居宣長は岸よりこぼれてと訂正している。峯と岸と言う感じの草書体はよく似ている。意味で区別するしかない。本居宣長のいうように岸よりこぼれてが正しい。「湖月抄」の印刷ミスある。

水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもをくひて飛びちがふ、鴛鴦(をし)波の(あや)に文をまじへたるなど、物の()(よう)にも描き取らまほしきに、

ここには絵のデザインが二つ織り込まれている。池では水鳥たちが何羽ずつか纏まって泳ぎまわり、飛び上がっては花の枝を啄んでいる。花食い鳥というデザインそっくりである。元々風が吹いて池の表面に描かれていた波紋の上に、夫婦仲の良い鴛鴦が泳ぎ回っては新しい別の文様を織り加えている。

  水の(おも) あや吹き乱る 春風や 池の氷を 今日はとくらん 紀友則 後撰和歌集

という歌が思われる。

余りにも見事なので、絵の図案集の中に書き留めておきたいと思う。

まことに斧の柄も(くた)いつべう思ひつつ日を暮らす。

ここでは(おう)(しち)という木こりが、森で童子が碁を打つのを眺めて時の経つのを忘れ、気が附いたら手に持っていた斧の柄が腐るほど、長い時間が経っていたという故事が踏まえられている。

この春の町は仙人の世界の様な理想郷なので、ここに入り込んだ人々は、時の経つのを忘れてしまう。そういう楽しい時を秋の町から訪れた人々は春の町で過ごし、あっという間に日が暮れた。春の町の素晴らしさを秋の町の女房達は見せつけられたのである。

 

船遊びの翌日には、秋の町で秋好(あきこのむ)中宮主催の法要が行われた。

朗読④秋好(あきこのむ)中宮主催の法要。趣向は優美である。

今日は中宮の御読経のはじめなりけり。やがてまかでたまはで、休み所とりつつ、日の御装ひにかへたまふ人々も多かり。障りあるはまかでなどもしたまふ。(ひる)刻ばかりに、みなあなたに参りたまふ。大臣(おとど)君をはじめたてまつりて、みな着きわたりたまふ。殿上人なども残るなく参る。多くは大臣の御勢ひにもてなされたまひて、やむごとなくいつくしき御ありさまなり。

春の上の御心ざしに、仏に花奉らせたまふ。鳥、蝶にさうぞき分けたる童べ八人、容貌(かたち)などことにととのへさせたまひて、鳥には、(しろがね)花瓶(はながめ)に桜をさし、蝶は、黄金の(かめ)に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になきにほひを尽くさせたまへり

南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこし散り(まが)ふ。いとうららかに晴れて、(かすみ)()より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。

 解説 最初の部分は現代語訳しておく。

今日は秋好(あきこのむ)中宮の町で 御読経 の始まる日である。春と秋の年二回、沢山の僧侶を招いて24時間大般若経を読綬させるのである。昨日から夜通し行われていた宴に参加した人々も、兵部卿をはじめ六条院から退出せず六条院に留まり、控室で夜の服装である直衣(のうし)から昼の服装である束帯へと着替えをする方も多い。ただし所要で退出する人もいる。正午近く、光る君以下殿方達は秋の町へ移動する。中宮主催の法要に太政大臣である光る君を最上座に公卿たちが着座する。殿上人も一人残らず参上している。彼らの多くは光る君の威光に靡いて参列している。中宮の法事は養父である光る君の引き立てによって、盛大な法要となった。中宮の栄光は光る君が支えている。この後は詳しく読む。

春の上の御心ざしに、仏に花奉らせたまふ。

春の町の紫の上からは、仏様への供華(くげ)を献上される。

鳥、蝶にさうぞき分けたる童べ八人、容貌(かたち)などことにととのへさせたまひて、

花を献上する役割を仰せつかったのは、八人の童である。顔かたちの整った特に可愛らしい少女たちが選ばれていた。

鳥には、(しろがね)花瓶(はなが)に桜をさし、蝶は、黄金の(かめ)に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になきにほひを尽くさせたまへり。

八人の少女たちは鳥に扮した四人と、蝶に扮した四人に分かれていた。鳥に扮した少女が持っていた銀色の花瓶には桜が挿してある。蝶に扮した少女が持っている金の瓶には山吹が挿してある。花の色と瓶の色が合わせてある。桜の花も山吹の花も花房が実に見事で、これほど美しい花がこの世にあったのかと思われる最高のものが選んである。

南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこし散り(まが)ふ。

春の町と秋の町は池で繋がっている。今日は春の町の前庭の築山の辺りから漕ぎ出して、秋の町へと向かい、それを秋の町に揃っているお歴々が待ち受けるという趣向である。船が現れ秋の町の御殿に近づく頃、春風が吹いて、瓶に挿してある花から花びらが微かに散って舞っている。

いとうららかに晴れて、(かすみ)()より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。

これは語り手のコメントである。秋の町で船が近づくのを御覧になっている方々は、うららかに晴れた空の下、たなびく霞の間から 竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ) の船に乗って、鳥と蝶に扮した少女たちが姿を現したのはまことに感動的で優美に思われた。

八人の少女たちは鳥に扮した四人と、蝶に扮した四人に分かれている。花を献じた後で、鳥の舞と蝶の舞を披露する舞人でもある。

 

続を読む。三島由紀夫はこういう場面を読みながら、王朝の雅に思いを馳せたのであろう。

朗読⑤

童べども()(はし)もとに寄りて、花ども奉る。(ぎょう)(こう)の人々取りつぎて、閼伽(あか)に加えさせたまふ。御消息(みしょうそこ)、殿の中将の君して聞こえたまへり。

  花ぞのの こてふをさへや 下草に 秋まつむしは うとく見るらむ

宮、かの紅葉の御返りなりけりと笑みて御覧ず。昨日の女房たちも、「げに春の色はえおとさせたまふまじかりけり」と花におれつつ聞こえあへり。鶯のうららかなる()、鳥の(がく)はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなく(さえず)わたるに、急になりはつるほどに、飽かずおもしろし。蝶はまして、はかなきさまに飛びたちて、山吹の(まがき)のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひいる

宮の(すけ)はじめて、さるべき上人(うえびと)ども、禄とりつづきて、童べに()ぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹(かさね)()ぶ。かねてしもとりあへたるやうなり。物の師どもは、白き一襲(ひとかさね)、腰差など次々に()ぶ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装束かづけたまふ。御返り、「昨日は()に泣きぬべくこそは。

  こてふにも さそはれなまし 心ありて 八重山吹を へだてざりせは

とぞありける。すぐれたる御(ろう)もに、かやうのことはたへぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。

 

 解説

童べども()(はし)もとに寄りて、花ども奉る。

船から降りた()童の八人はお供えの花を捧げ持って御殿の階の近くまで進んできて、桜の花と山吹の花を捧げる

(ぎょう)(こう)の人々取りつぎて、閼伽(あか)に加えさせたまふ。

 

これも行者と呼ばれる役目の殿上人が受け取り、僧達のもとに持っていく。(ぎょう)(こう) いうのは参列者の焼香の為の香を配る人物で、宮中では殿上人が務める。その(ぎょう)(こう) の人が少女たちから花を受け取り、すでに沢山並べてある 閼伽(あか) 供え物の中に置き添えた。

御消息(みしょうそこ)殿の中将の君して聞こえたまへり。

紫の上から秋好中宮への手紙は、光る君の長男である中将の宮、つまり夕霧から中宮へ渡された。

 花ぞのの こてふをさへや 下草に 秋まつむしは うとく見るらむ  紫の上の歌である。

少女(おとめ)巻で秋好中宮から、秋の素晴らしさを自慢してきた歌への返事である。

中宮様、あなたはかつて

  心から 春待つ園は わが宿の 紅葉を風の つてにだに見よ

という歌を送ってこられた。遅くなりましたが、その時の返事です、今は春なので心の中で秋の訪れを待ちわびていらっしゃる松虫は、咲き誇る花の中を飛び回る胡蝶までも気に入らないと思って、眺めていらっしゃるのでしょうか。

宮、かの紅葉の御返りなりけりと笑みて御覧ず。

はあの時の紅葉の歌の返しを、春の盛りになさったのだと、微笑みを浮かべながら御覧になる。

昨日の女房たちも、「げに春の色はえおとさせたまふまじかりけり」と花におれつつ聞こえあへり。

昨日船に乗って南の町を訪れた女房達も、紫の上様が春の盛りを自慢されるのはまことにその通りです。春の美しさを言い負かすことは出来ませんと口々に言い合っていた。本心では秋を一番にしたいのだが、昨日見届けた春気色が余りにも素晴らしかったので、我を折って春に勝ちを譲ったのである。この様に 花におれつつ を「湖月抄」は譲歩する、負けるという意味の折れると取っている。本居宣長の弟子の 鈴木 (あきら) は、おろける という意味と判断しうつつを抜かすというニュアンスであると言っている。現在は鈴木 朖の説に従って愚かになるという意味で理解されている。

鶯のうららかなる()に、鳥の(がく)はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなく(さえず)りわたるに、急になりはつるほどに、飽かずおもしろし。

何処からとなく鶯の明るい(さえず)りの声が聞こえてくる中で、鳥の舞の音楽が華やかに鳴り渡る。自然と人間が一つに溶け合い、見事に調和している。鳥に扮した少女たちが桜の花を(かざ)、鳥の羽をつけ極楽にいるという迦陵頻伽(かりょうびんが)という鳥になりきって舞を披露する。池を泳ぐ水鳥たちもそれとなく鳴き交わして、舞に加わっているようである。その内、舞は序破急の最後の急になって、終わりが近づくのは見ていて飽きることなく素晴らしかった。

蝶はまして、はかなきさまに飛びたちて、山吹の(まがき)のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひいる。

鳥の舞に続く蝶の舞は、我が国で作られたものである。四人の少女たちが山吹の花を手に持ち、蝶の羽をつけて舞う。彼女たちが軽やかに舞いながら、山吹の植えてある垣根の近くまで近づいて、咲き誇る山吹の葉に交じって舞い続ける。

少女たちにつられて本物の蝶たちが姿を現したという解釈は取らない。

宮の(すけ)をはじめて、さるべき上人(うえびと)ども、禄とりつづきて、童べに()ぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹(かさね)()ぶ。かねてしもとりあへたるやうなり。

少女達への中宮からの授け物は、中宮に仕える中宮職をはじめとして、然るべき殿上人たちが順に取り次いで少女たちに手渡される。鳥に扮した少女には 桜の細長 子供の衣服、蝶に扮した少女には山吹(かさね) の細長 それぞれ下される。鳥の少女は桜を捧げ、蝶の少女は山吹を捧げた。その事と中宮からの授け物が見事に対応しているので、まるでこの日の為に中宮が予め周到な準備をしていたと思われる程だった

物の師どもは、白き一襲(ひとかさね)、腰差など次々に()ぶ。藤の細長添へて、女の装束かづけたまふ。

物の師 は、舞に合わせて音楽を演奏した楽人たちの事である。楽を(かな)でた楽人たちにも白い絹の一襲(ひとかさね)と、巻絹など身分に応じて授けた。

紫の上の手紙を差し出した夕霧には、中宮からお返事の歌だけでなく、藤の細長と女性用の()や唐衣など(ひと)揃いが授けられた

御返り、「昨日は()に泣きぬべくこそは。

中宮から紫の上への返事である。和歌の前に言葉が書いてある。中宮から紫の上への返事には、古今和歌集に

  わが園の 梅のほつえに 鶯の ()に鳴きぬべき 恋もするかな

という歌があるが、昨日は私は招待して貰えず本当に泣きそうなくらいに残念な事でしたと書いた後に、歌があった。

  こてふにも さそはれなまし 心ありて 八重山吹を へだてざりせは

昨日は胡蝶に誘われて、私も春の町の素晴らしさを自分の目で見たかったのです。あなたが幾重にも心隔てをなさっていて、山吹の垣根で私の来るのを防いでいらっしゃらなかったのならば。

なお本居宣長は こてふにも のこの部分に来るという意味の動詞 来()の命令形 こ 来なさいと言うという意味が掛詞になっていると指摘している。この説は現在でも踏襲されている。けれども私が不思議なのは、紫の上が秋好中宮に送った歌の 

  花ぞのの こてふをさへや 下草に 秋まつむしは うとく見るらむ

 こ には、掛詞であるという指摘がされていない。秋好中宮の歌が掛詞ならば、紫の上の歌も掛詞のはずである。

そうすると紫の上は、春の町の私が 来( 来て下さいと誘ってもあなたは私に心隔てをして、来て下さらないでしょうと言ったと解釈すべきではないか。それを受けて秋好中宮の歌は、心隔てをして会いたくないと思っているのは私ではなくて、あなたの方でしょうと切り返したのではないかと思う。

紫の上と秋好中宮は、かなりバチバチと挑み合っている。

とぞありける。すぐれたる(ろう)どもに、かやうのことはたへぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。

この部分は草子地、語り部のコメントである。

(ろう)ども  (ろう) は、上臈 臈たけたという意味の  で、教養と才能のある立派な人という意味である。

とこのようなご返事があった様である。語り手である私の目から見て、紫の上の歌も秋好中宮の歌もそれほど優れたものではなかった。二人とも、身分も教養も最高の人である。それなのにこういう晴れの儀式で、歌を詠み交わすのは荷が重かったのだろうか。二人ともそれほど巧みでない詠み振りでないのは、惜しまれる。

語り部はこう言っているが、二首とも立派な歌である。見守っている光源氏も満足したと思われる。

 

「コメント」

庶民は食うや食わずで災害、疫病に怯えているのに、この豪華な遊びに義憤を覚える。が、これが今に続く400年の平安文化なのである。