240907㉓「少女(をとめ)の巻と玉蔓の巻」

今回は少女(をとめ)の巻と玉蔓の巻を読む。少女(をとめ)の巻で六条院が完成し、玉蔓の巻から始まる玉蔓十帖の舞台となる。壮年期の光源氏は、栄華の絶頂へと向かっている。先ず少女(おとめ)の巻である。乙女は新嘗祭で舞を披露する五節の舞姫の事である。光源氏が若かりし頃、筑紫の五節に歌を贈った様に、光源氏の子供の夕霧も舞姫となった惟光の娘に歌を贈った。「湖月抄」の年立てでは光源氏32歳~34歳まで、本居宣長の年立てでは33歳から35歳。少女の巻の内容は二つある。一つは夕霧の恋の行方である。夕霧は幼馴染の雲居(くもいの)(かり)と相思相愛の仲だが、彼女の父親であるかつての中将は会うことを禁じている。もう一つは光源氏の六条院が完成した事である。宏大な地に春夏秋冬の四つのスペ-スに区切り、妻や娘たちを住まわせた。

 

まず光源氏は元服した夕霧に学問が必要だと考え、大学で学ばせる場面である。ここでは光源氏の口を借りて、紫式部が文明批評を繰り広げている。光源氏の言葉を読む。葵上の母親、夕霧の祖母に当たる大宮に向かって光源氏は語っている。

朗読① 自分は世間知らずに育った。親に勝るということはないので、子には勉強させねばと思った。

みづからは、九重の中に()ひ出ではべりて、世の中のありさまも知りはべらずて、夜昼御前にさぶらひてわづかになむ、はかなき(ふみ)なども習ひはべりし。ただ、かしこき御手より伝へはべりしだに、何ごとも広き心を知らぬほどは、(ふみ)(ざえ)をまねぶにも、琴笛の調べにも、()たちず及ばぬところの多くなむはべりけむ。はかなき親に、かしこき子の(ためし)は、いと(かた)きことになむはべれば、まして次々伝はりつつ、隔たぬりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、思ひたまへおきてはべる。

 解説

(ふみ)(ざえ) は、漢籍を学ぶこと。光源氏が父親である桐壺帝の教えで、学問や芸術を学んだことが回想されている。ここは「湖月抄」の解釈に従って現代語訳する。

現在、内大臣として国家の政を取り仕切る立場にいる光る君は、我が子夕霧の教育方針について大宮に話をする。私は母親が帝に仕える更衣という身分であり、その没後も桐壷帝に可愛がって頂いたので、宮中で物心がつき育った。そのため一般社会の有様がよく分かっていない。夜も昼も帝のお側近くに控えていた。学問好きな帝の影響で漢籍を学んだ。また畏れ多いことであるが、帝からも直接貴い教えを授けられた。帝は偉大な師であったが、弟子である私の教養が浅かったため、私が学び得たものは少なかった。学問や漢詩・漢文の道だけではなく、音楽の道も不十分で、琴や笛の音色に肝心の魂が宿らず足りぬことが多くある。大宮様の兄上で、賢帝とたたえられた桐壷帝という最高の父親にして、師である御方から教えを受けても子供の私が愚かであったので、この様な恥ずかしい結果となった。また世間を見ると父親が愚かでも、子供が賢かったとしても、賢い子が愚かな父親を上回ることも困難なようである。

さて私の息子である夕霧だが、父である私の教えを受けるだけでは、私よりも更に愚かな人間になってしまうだろう。

どうしても大学に入って本格的な学問を身につけさせなければならない。このままでは親子・孫・ひ孫の順に先細りになる。その事が私には不安でならない。私は桐壷帝から(みなもと)という名字を賜った一世の源氏である。この家を先細りさせず、学問の力によって末長く栄えさせるのが、初代である私の務めなのだと信じている。

 

国家の政に携わる人間には学問が必要であるというのである。この少し先から続ける。

朗読②学問を基礎にしてこそ、実践の才も世間に重んじられるのです という。

なほ、(ざえ)をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。さし当たりては心もとなきやうにはべれども、つひの世の重しとなるべき心おきてをならひなば、はべらずなりなむ後もうしろやすかるべきによりなむ。

 解説

大和魂 という言葉が文献に現れた最初の用例である。

なほ、(ざえ)をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

(ざえ) は、儒学などの漢学である。

大和魂 は、この文脈で考える限り、外国の学問を我が国の実情に合わせて活用することを意味している。私の考えではあるが、やはり政の道を進もうとする人間は漢籍や漢学を本格的に習得すべきである。それを基本に据えれば、我が国の文化や世の中の実情も理解できる。かくて適切に物事に対処することが可能となる。

さし当たりては心もとなきやうにはべれども、

夕霧を大学に入らせることは一見遠回りの様にみえるが、

つひの世の重しとなるべき心おきてをならひなば、

夕霧が国家の柱石となるだけの見識を身に着けることが出来るのならば

はべらずなりなむ後もうしろやすかるべきによりなむ。

私がこの世からいなくなっても、桐壷帝から賜った源の家も安泰である。

 

中国文化と日本文化を重ね合わせその二つの文化を調和させるならば、我が国の社会秩序が円滑に機能すると紫式部は主張している。これこそが我が国の中世の文化人たちが「源氏物語」から読み取った知恵である。

「湖月抄」を著した北村季吟の学問の真髄もここにある。

仏教などのインド文化、儒教、道教、漢詩文などの中国文化、和歌、神道などの日本文化、それら複数の異なる文化のどれをも否定せず縦に積み重ねること。なおかつ全体を美しく調和させること。この様な文明感を、私は異文化統合システムと呼んでいる。この異文化統合システムこそが、「源氏物語」が生み出した我が国の中世文化である。

この考えに真っ向から反対したのが本居宣長の国学である。本居宣長は仏教や儒教などを(から)(こころ)と名付けて取り除こうとする。外来思想を積極的に取り込んで、日本文化を充実させるのが「源氏物語」の大和魂 、大和心の思想である。

それに対して本居宣長以降の大和魂、大和心は外来思想を除いた純粋な日本文化という意味になる。少女の巻の大和魂 の教えを受け継いだのが、「湖月抄」だったと私は評価している。

 

さて少女の巻の終わり近くで光源氏がかねてから造営していた六条院が完成する。早速姫君たちが移り住んだ。この六条院は四つの町を占めて作られた。ここでは面積25m四方もの単位で一つの町は、120m四方である。四つの町を占めるので、その区画の中を通っている大路などの道路も、建物の敷地の中に取り込まれている。その結果六条院は252m四方で、63500m2の大邸宅となった。四つの町にはそれぞれ春夏秋冬の四季が割り当てられた。

古今和歌集以来の四季の美学が凝縮されている。その庭造りの妙を味わおう。

 

朗読③八月には六条院が完成する。四つの町それぞれの説明である。

八月(はづき)には、六条院作りはてて渡りたまふ。未申(ひつじさる)の町は、中宮の御旧宮(きふるみや)なれば、やがておはしますべし。辰巳には、殿のおはすべき町なり。丑虎は、東の院に住みたまふ対の御方、戌亥(いぬい)の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山のおきてをあらためて、さまざまに、御方々のこころばへを造らせたまへり。

 解説

六条院の全体像が概観されている。

八月(はづき)には、六条院作りはてて渡りたまふ。

「湖月抄」の年立てでは光源氏が34歳の秋、八月に六条院が完成して女君たちが移り住んだ。六条院の準拠は六条にあった源融の河原院とされているが、規模は全く違う。六条院は四つの町に区切られている。女君たちはどこに住んだのだろうか。

未申(ひつじさる)の町は、中宮の御旧宮(きふるみや)なれば、やがておはしますべし。

南側には南西と南東二つの町がある。その内の南西即ち未申の町には、元々六条御息所の娘である梅壺中宮・秋好中宮が当然のこととして住む。

辰巳には、殿のおはすべき町なり。

南東即ち 辰巳 の町には六条院の主人である光源氏が住む予定である。紫の上と明石の姫君も一緒に住む。北側には北東と北西の二つの町がある。

丑虎は、東の院に住みたまふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。

北東即ち 丑虎 の町には、現在二条院の西の対に住んでいる花散る里が入る。北西即ち戌亥(いぬい)の町には、現在洛西の大堰に住んでいる明石の君が入る。光源氏はこのように四つの町の女主人を決定した。

もとありける池山をも、便なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山のおきてをあらためて、さまざまに、御方々の御ひのこころばへを造らせたまへり。

夫々の町には光源氏とその女君の美意識が前面に押し出された。この土地には前の所有者の時から、池や築山があったが、光る君たちの美意識と合致しない時には、築山を崩し池や鑓水の流れも配置し直すなどして、女君のそれぞれが愛している季節の美しさ際立たせる庭造りがなされた。

 

これからはそれぞれの町の季節感について語られる。順に読んでいく。

朗読④まず春の町である。光る君と紫の上が住む南東の町。

南の(ひんがし)は山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさまおもしろくすぐれて、御前(おまえ)近き前栽(せんざい)、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅(つつじ)などやうの春のもてあそびをわざとは植ゑて、秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり。

 解説

まず光る君と葵の上が住む南東は、築山が高く作られた。紫の上が春を好むので、春に花が咲く木々の殆どの種類が植えてある。池の姿も誠に風情があって格別である。建物の近い場所で、光源氏と紫の上が目にする前栽には早春から晩春まで楽しめる様に、五葉、紅梅、桜、山吹、躑躅(つつじ)などの植物が植えられているが、それだけではない。

春が終わって秋になっても楽しめる様にと、秋の草花も又庭のあちこちに植えてある。春を愛しながら秋を見捨てない葵の上の心映えが面白い。

 

朗読⑤次に秋の庭である。

中宮の御待ちをば、もとの山に、紅葉色濃かるべき植木どもを植え、泉の水遠くすまし、鑓水の音まさるべき(いわほ)たて加へ、滝落として、秋の野を遥かに作りたる、そのころにあひて、盛りにあひて、盛りに咲き乱れたり。嵯峨の大堰のわたり野山むとくにけおされたる秋なり。

 解説

むとくに は、折角のものが無駄になる事である。「湖月抄」の解釈を現代語訳する。

秋好む中宮が住む南西の町には、元の持ち主である六条御息所の時代からあった築山がそのまま残してある。中宮は亡き母と同じ様に秋に心を寄せているので、秋が主体の庭作りがなされている。色が赤く焦がれるように紅葉が素晴らしく映えるように、木を植えてある。澄み切った泉の水を遠くまで流し、鑓水の音が際立つように流れの中に岩を置き並べて、滝を作って落とすなど、六条御息所の頃と違った風に変えてある。そのようにして宏大な秋の野を作り上げたものである。この六条院が落成して、移り住んだのは秋の八月だった。季節柄、秋の草花が咲き乱れて美しい。

天然の秋は嵯峨の大堰の辺りの風景が格別に優れているが、この六条院の中の秋の町の庭の方がそれよりも美しい。自然が折角演出してくれた嵯峨の秋気色は無駄になった。都の中の六条院の方が、優れていると誰しもが思った。

 

なお「湖月抄」が、紅葉色濃かるべき植木どもを植え、としている箇所について、本居宣長は反対している。濃かるべきは、焦がしたような色ではなく、濁らずに 濃かるべき 、紅葉の色が濃いという意味だという。現在は本居宣長説を採用しているが、私は焦がるの方が秋の和歌的だと思う。

 

次は夏の町である。

朗読⑥ 夏の町である。

北の(ひむがし)は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、末孝樹森のやうなる木ども

木深(こふか)くおもしろく、山里めきて、(うの)(はな)の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇(そうび)、くたになどやうの花野くさぐさを植ゑて、春秋の木草、その中にうちまぜたり。(ひむがし)(おもて)は、分けて馬場(うまば)殿つくり、(らち)結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲植ゑしげらせて、むかひに御厩(みまや)して、世になき上馬(じょうめ)どもをととのへさせたまへり。

 解説

ここは「湖月抄」の解釈を踏まえて現代語訳をする。

北側の北東は花散る里の住まいである。いかにも涼し気に見える泉があり、これまた涼し気な木陰が広がっている。

近くの庭の前栽には呉竹が植えられ、その下を吹き過ぎてくる風が爽やかである。また奥の方には高い木々が鬱蒼と茂っていて、都の中なのに山里めいた雰囲気を醸し出している。初夏を告げる卯の花の垣根を目立つように張り巡らせている。

  五月()つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする 古今和歌集 よみびと知らず 伊勢物語60段

と詠まれ、また花散る里のシンボルである橘の木も植えられている。その他、撫子、薔薇、()(たに)等様々な松の花が植えられており、春の千種や秋の千種も交じっている。春の町と秋の町を一つの町全体一人の女君で使っていたのに対して、この夏の町の東側には 馬場(うまば)殿 が作ってある。馬場の周りには柵が張り巡らせてある。夏の五月に行われる

競馬(くらべうま)がここで行われる。水辺には菖蒲(あやめ)が茂っている。水の流れの向こう側には、厩舎が建てられ名馬が何頭も調教されている。

 

最後は冬の町である。

朗読⑦ 冬の町

西の町は、北面(きたおもて)()きわけて、御倉(みぐら)町なり。隔ての垣に松の木しげく、雪をもてあそばんたよりによせたり、冬の初めの朝霜むすぶべき菊の(まがき)、我は顔なる(ははそ)(はら)、をさをさ名も知らぬ深山(みやま)()どもの木深きなどを移し植ゑたり。彼岸のころほひ渡りたまふ。

 解説  現代語訳する。

最後に残った北西を見てみよう。この町の北側には築地で区画分けして、沢山の倉庫が建てられている。その南側が明石の君の住まいである。ここは冬なので、倉庫群との境には松の木が沢山植えられている。この松の木に雪が積もったら、さぞかし素晴らしい長めだろうと予想される。冬の初めに、朝の霜が降りたら見ものであろう菊の垣根も作られている。また(ははそ)ナラ、柏の木も植えられているが、今は秋なので見事に紅葉している。この冬の町に住む明石の君の娘の姫君は、葵の上の養女となり、春の町で暮らして居る。姫君の母という特別な待遇が、この (ははそ) の木に象徴されているのだろう。成る程そう思って見ると、(ははそ) の木は、どこか得意げに色づいているようだ。その他、名前も殆ど分からない奥山に生える木々が写し植えられている。

さて、これが六条院の四季の庭である。八月の彼岸は夜と昼の時間が等しくなり、縁起が良いことから引っ越しにも相応しく、多くの女君たちがその頃に六条院に移った。

 

これが六条院である。春夏秋冬の四季が見事に配列されている。

所で昔話ではしばしば四方四季の宮殿が描かれている。

東が春、南が夏、西が秋、北が冬となっていて、時計回りに時間が循環するユートピアである。浦島太郎が訪れた竜宮城がその典型である。六条院では南側の春と秋が重要で、北側の夏と冬の比重が軽くなっている。
厳密な意味で四方四季の宮殿ではない。

さて六条院の夏の町には、花散る里の外、もう一人が住むことになる。玉蔓である。その経緯を語るのが玉蔓の巻である。頭の中将・現在の内大臣と夕顔の間に生まれた玉鬘は、夕顔が急死した後、乳母と共に九州に下った。乳母の夫が大宰府の役人となったからである。美しく成長した玉鬘は上京し、長谷寺に詣でる。そこで夕顔が急死した際に(はべ)っていて、その後は光源氏に仕えていた右近と偶然に再会した。右近から玉鬘の存在を聞いた光源氏は彼女を自分の実の娘として六条院に引き取った。巻のタイトルは光源氏が詠んだ、

  恋ひわたる 身はそれなれど 玉かづら いかなるすぢを 尋ね来つらむ

という歌に基づいている。

さて問題は年立てである。二つ目の帚木の巻以来、光る君の年令は「湖月抄」と本居宣長で一歳の違いがあった。「湖月抄」は六条院が完成したのは光源氏が34歳の時、その翌年35歳の時に玉蔓の存在を知って六条院に住まわせた。更にその翌年、光源氏が36歳から初音の巻のお正月風景が始まると考える。

本居宣長は六条院が完成したのは光源氏が35歳の秋、その年女君たちが六条院に移り住んだのと同じ時期に、玉蔓も六条院に迎えられた。

翌年光源氏が36歳の正月が、初音の巻であると考えた。この為少女の巻以前の巻々の光源氏の年令が、一歳ずれていた。「湖月抄」と本居宣長は、玉鬘が六条院に入ったのは光源氏が35歳の年だったという点では一致している。ここから後の巻は、年齢の違いは無くなる。

 

さて時間を巻き戻す。

九州の肥前国で美しく成長した玉鬘は、肥後国の豪族・大夫監(たゆうのげん)から強引に求婚される。玉蔓は大夫監(たゆうのげん)から逃れる為に、舟に乗って都を目指した。その船旅の場面を読む

朗読⑦ 玉蔓の舟での脱出

かく逃げぬるよし、おのずから言ひ出で伝へば、負けじ魂にて追ひ()なむと思ふに心もまどひて、早船いひて、さまことになむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、危きまで走り上りぬ。ひびきの灘もなだらかに過ぎぬ。「海賊の舟にやあらん、小さき船の飛ぶように来る」など言ふ者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの恐ろしき人の追ひ来るにやと思ふにせむ方なし。

  うきことに 胸のみ騒ぐ ひびきには ひびきの灘も さはらざりけり 

「川尻」といふ所近づきぬ」と言ふにぞ、すこし生き出づる心地する。

 解説 現代語訳で理解を深める。

玉蔓一行は自分達が肥前国から逃げ出したという情報が広がって、大夫監(たゆうのげん)の耳に入ったら彼のことだから追いかけてくるに違いないと思うだけで恐くなる。一行は早舟といって、櫓を多くして早く走ることが出来る舟を特別に用立てた。順風までが吹いてきたので、恐くなるほどの速度で都を目指した。危険な海域として知られる播磨国のひびき灘も難なく通り過ぎた。所が「遠くに小さな舟が見える。海賊の舟ではないだろうか」と言い出したものがいる。一行の者たちは瀬戸内海には乱暴な海賊がいて舟を襲撃することがあると聞いているが、それよりもあの肥後国の大夫監(たゆうのげん)が追いかけて来る方が恐ろしい。大夫監(たゆうのげん)の方が無慈悲で冷酷だからと不安に思うのはどうしようもない。乳母の娘が詠んだ歌

  うきことに 胸のみ騒ぐ ひびきには ひびきの灘も さはらざりけり 

無事に船旅が終わるかどうか心配の余り、私の胸は大きな音を立てて轟いている。その響きの大きさに比べると、海の難所として知られるひびき灘は問題にならない程の静けさだ。なおこの歌を玉鬘の詠んだ歌とする伝承もある。

舟人達が摂津の川尻という港が見えてきたというのを聞いて、一行はやっと 大夫監(たゆうのげん) の虎口を逃れたことを知り、生き返った様な安心感を感じたのであった。

 

ひびき灘は山口県西方と福岡県北方の海域である。ここは現在の響灘の事だと解釈している。

 

さて玉蔓一行は都に戻ってきたものの、実の父親である頭の中将と対面する伝手(つて)がない。こうなったら神仏にすがるしかないと、長谷寺に詣でた。長谷寺の入り口である()石榴(ばい)()で、夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近と宿が同じとなった。その場面は「湖月抄」の解釈に基づいた現代語訳で読む。

朗読⑧ 夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近が、夕顔の娘・玉蔓と再会する場面。

軟障(ぜじょう)などひき隔てておはします。この来る人も恥づかしげもなし。いたうかいひそめて、かたみに心づかひしたり。さるは、
かの世ととも恋ひ泣く右近なりけり。年月にそへて、はしたなき混じら妃のつきなくなりゆく身を思ひ悩みて、この御寺(みてら)になむたびたび詣でける。

例ならひにければ、かやすく構へたりけれど、徒歩(かち)より歩みたへがたくて、寄り()したるに、この豊後介、隣の軟障(ぜじょう)のもとに寄り来て、参り物なるべし、折敷(おをしき)手づから取りて、「これは御前にまゐらせたまへ。御台などうちあはで、いとかたはらいたしや」と言ふを聞くに、わが(なみ)の人には新地と思ひて、物のはさまよりのぞけば、この男の顔見し心地す。誰とはおぼえず、いと若かりしほどを見しに、ふとり黒みてやつれたれば、多くの年隔てたる目には、ふとしも見分かぬなりけり。「三条、ここに召す」と、呼び寄する女を見れば、また見し人なり。故御方に、下人(しもびと)なれど、久しく仕うまつり馴れて、かの隠れたまへりし御住み()までありし者なりけりと見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼしき人は、いとゆかしけれど、見ゆべくも構へず。思ひわびて、この女に問はむ。兵藤(ひょうどう)()といひし人も、これにこそ姫君のおはするにや、と思ひ寄るにいと心もとなくて、この中隔てなる三条を呼ばすれど、食物(くひもの)に心入れて、とみにも来ぬ、いと憎しとおぼゆるもうちつけなりや。

 解説

松の模様などが描かれている 軟障(ぜじょう) 幔幕 を仕切りにしているだけの部屋で、玉蔓一行と同宿することとなった。玉蔓一行は大人数で、右近は一人だけである。玉葛は幕の向こう側にいて、気配を消している。新しく訪れた相客、右近はそれほど気兼ねをしなければならない人ではないようである。それでもお互いに大きな声を立てないようにして、相手に配慮しあっている。

ここで語り手である私から説明する。

この新しい客はかつて夕顔に仕え、夕顔の悲劇的な死に立ち会った、あの右近なのであった。そして幕の向こう側にいる玉鬘こそ、右近が20年近くも何とかして会いたいと願い続け、夜も眠れずに毎夜何とか会いたいと恋い慕いつづる夕顔の遺児、玉鬘である。右近は夕顔の死後には、夕顔が隠れ住んでいた宿には戻らず、光源氏の下で宮仕えしていた。

具体的には紫の上に仕えているのだが余りにも華やかな雰囲気なので、右近はどうにも馴染めず夕顔の忘れ形見の玉鬘が元気であるならば、そこでお仕えしたいものだという一心で、何とかしてたまかずらと再会したいと願って、長谷寺の観音様にお祈りするために何度も都から長谷寺にお詣りに来ているのであった。右近は何度も徒歩で都と長谷寺を往復しているので、今回も軽装でやってきたのだが流石に肉体的な負担が大きくて、物に寄りかかって疲れを癒していた。

幕の向こうでは乳母の子である豊後介が玉鬘の近くまで寄ってきて、折敷(おをしき) 食器を自ら手に持ち、これはお姫様に差し上げて下され、旅先の事なので御膳など不十分な物しかありません、真に申し訳なく恥じ入るばかりと言っているのは、女主人への食事を持ってきたのだろうと右近は察しながら聞いていた。

右近はこの幕の向こうにいるのは、自分と同じ身分の女房などではなく、身分の高いお姫様なのであろうと思って、隙間から向こうをそっと見た。

すると何とした事か、玉鬘に食事を持参した豊後介の顔をどこかで見た様な気がした。だがそれが誰なのか、具体的な名前は浮かんでこない。

再び語り手である私から説明すると、右近が当時 兵藤(ひょうどう)() と言っていた豊後介を見たのは20年も昔のことであった。当時は豊後介も若かったし、今は田舎暮らしの為に日焼けして顔が黒ずみ、経済的な不如意から身なりも良くないので、久し振りに対面した右近にはとても思い出せなかったのである。その内、豊後介は玉鬘が召しあがらなかった食事を下げるようにと下女を呼んだ。三条さん、ここに来なさい。姫様の御膳を下げなさい といって、呼ばれた女の顔を見て右近はびっくりした。その女の顔にも昔どこかで見た記憶があったからである。右近はやっと思い出した。今は亡き夕顔に

下女としてずっと仕えていたのがこの女であった。この女は夕顔が頭の中将の北の方から脅迫されて、こっそりと五条の小さな家に隠れて住んでいた家にも一緒について来て仕えていた。そう気づくと余りの不思議な成り行きに、自分が夢でも見ているような気持になる。右近はこの一行の女主人の顔を見たくてたまらない。自分が会いたくて堪らない夕顔の忘れ形見の姫君かも知れないからである。だが女主人は右近からはどうしても見えない位置にいるようである。困った右近は、そうだ、この三条とか呼ばれていた女に聞いてみよう、さっきの見覚えのある男は 兵藤(ひょうどう)() とか言っていた男で乳母の息子である。そうなると彼の一行の中に姫君がいるのではないかと、そこまで思い出した右近はもう誰かに確かめたくてたまらなくなった。そこで幕のすぐ向こうにいる三条を宿の庭に呼ばせたのだが、三条は玉鬘が殆ど食べなかった食事のお下がりを食べることに夢中になっていて、いくら待ってもやってこない。早く話を聞きたいと焦っている右近は、食い意地の這っている三条を憎らしく思う。語り手の私に言わせて貰うと、これは右近のせっかちというものである。突然の呼び出しにそう簡単に応じられるものではない。

 

滑稽で説話的な語り口である。こういう文体が、後の宇治十帖で駆使されることになる。三条という下女について、「湖月抄」の傍注は 狂言にかくなり と指摘している。物語の俳諧とおなじ意味である。玉鬘の人生が極度の危機にある時に、敢えて食欲旺盛な下女を登場させ、滑稽に描いているのである。右近は長谷寺の観音の導きで巡り合った玉鬘の存在を光源氏の耳に入れた。光源氏は夕顔を忘れられなかったことと、六条院に若い貴公子達を引き付ける華が欲しかったことから、玉鬘を六条院に引き取った。夏の町の花散る里に後見させる。玉鬘は(あで)かな八重山吹の花に例えられる夏の女であった。

 

「コメント」

今回のメインイベントは、春夏秋冬を象徴する六条院の完成と、玉鬘の出現であろう。

まあ、よくもここまで思いつくことに感嘆する。当時の人々が熱狂して続きを待っていたことが想像できる。舞台が九州まで広がった。