240824㉑「『絵合の巻』と『松風の巻』」

今日は絵合(えあわせ)の巻と松風の巻の名場面を読む。まず絵合の巻である。絵の優劣を競う絵合が中心である。この絵合は960年村上天皇が主催した(てん)徳内裏絵合(とくだいりえあわせ)を準拠・モデルにしている。「湖月抄」の年立では光源氏30歳、本居宣長説では31歳である。光源氏は六条御息所の娘を養女として冷泉帝に入内させる。かつて斎宮だったので、斎宮の命婦或いは住んでいる建物に因んで梅坪の女御と呼ばれた。秋の季節を好んだので秋好(あきこのむ)中宮(ちゅうぐう)とも呼ばれる。

冷泉帝には彼女より以前に権中納言かつての頭中将の娘である弘徽殿の女御が入内しており、冷泉帝に寵愛されていた。光源氏は美術を好む帝の心を、絵の力で梅坪の女御へと向けさせようとする。権中納言も優れた絵を集め、光源氏に対抗する。そこで二人の女御の持つ秘蔵の絵の優劣を競わせる絵合が行われるのである。

3月のある日、冷泉帝の母親である藤壺が参内した。その御前で梅坪の女御が昔物語の絵を、弘徽殿の女御は今物語の絵を提出し、優劣を競い合った。梅坪の女御が最初に提出したのは竹取物語である。まず、物語の出で始めの親なりで始まる場面を読む。

朗読①

まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇津保の俊蔭を合馳はせて争ふ。「なよ竹の世々に()りにけること、をかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契りたかく、神世のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」と言ふ。右は、かぐや姫ののぼりけむ雲居はげに及ばぬことなれば、誰も知りがたし。

この世の契りは竹の中に結びければ、下れる人のこととこそは見ゆめれ。ひとつ家の内は照らしけめど、ももしきのかしこき御光には並ばずなりにれり。阿倍のおほしが千々(ちぢ)(こがね)棄てて、()(ねずみ)の思ひ片時に消えたるもいとあへなし。車持ちの親王(みこ)の、まことの蓬莱(ほうらい)のふかき心も知りながら、いつはりて玉の枝に(きず)をつけたるをあやまちとなす。絵は巨勢相覧(あふみ)、手は紀貫之書けり。に紙屋紙(かむやかみ)に唐の()(はい)して、赤紫の表紙、紫檀(したん)の軸、世の常のよそひなり。

 解説  ここは「湖月抄」を踏まえた現代語訳を行う。

いよいよ藤壺の御前で絵合わせの勝負が始まった。光る君の養女である梅坪の女御が格上の左、権中納言頭中将の娘である弘徽殿の女御が右に分かれた。それぞれの側が自分の絵の長所を誉め、相手の絵の短所を批判するという順序である。最初の勝負で左方が出したのは、物語の出来(いでき)めの親、即ち物語のはじまりとされる竹取物語だった。

右方は清原の俊蔭が登場する宇津保物語を出した。この作品は源(したごう)作者だと伝えられる。左方が口火を切り竹取物語をほめたたえる。この竹取物語のヒロインはなよ竹のかぐや姫とも笹竹のかぐや姫とも呼ばれる。ご承知の様に竹には節がある。竹に節が沢山あるように、この物語は世々、長い時代に亘って読者に愛読されてきた。これは謙遜であるが、古い作品なので陳腐で奇抜な節はない。富士山も登場する神代の昔の物語なのである。かぐや姫は多くの男性から求婚されながら誰とも結婚せず、非常に高い志を持って生き抜き、遥かな月の世界へと帰って行った。かぐや姫の持って生まれた運勢は素晴らしいものであった。但し物語の本質が分からない読者たちには、もしかしたらかぐや姫の素晴らしさが想像できないのではないのではと心配している。これで左方は右方の反論を牽制した積りであった。けれども右方は竹取物語の問題点を数え立てて反論した。成程かぐや姫が天に戻ったという結末は素晴らしいかも知れない。

けれども雲の上の世界は私たち人間とは無縁なので、そこが本当に素晴らしい場所なのかは分からない。これから証明できる範囲で、竹取物語の欠点を指摘する。

第一点

かぐや姫の生まれてきたのは竹の中からである。という事は身分的にはかなり低いと考えられる。

第二点

かぐや姫は光り輝いて家の中を明るく照らし出したそうだが、あくまであくまで狭い一軒の家の中だけの話である。

それに対して宮中に暮らして居る帝は、我が国の隅から隅までを明るく照らし出している。そのような帝の求愛を断って、后にならなかったのは如何なものであろうか。

第三点

かぐや姫から難題を吹っ掛けられた求婚者たちの一人、阿倍(あべ)御主人(みうし)多額の金銭を費やして()(ねずみ)(かわ)(ころも)を購入した。本物ならば火にくべても燃えないはずなのに、めらめらと燃えてしまったことが、あっけなし・あえなしという言葉が、阿倍に因んで あへなし の語源とされる。あへなし という言葉が、竹取物語にはピッタリである。

第四点

車持(くらもち)皇子が本物の蓬莱の玉の枝が素晴らしいものだと知りながら、敢えて人工的に偽造したことは作品の大きな瑕となっている。

左方が提示した竹取物語は、絵は巨勢金岡の子とされる巨勢相覧(おうみ)描き、文字は古今和歌集の歌聖・紀貫之が書いたものである。色紙に中国から渡来した絹織物が裏打ちされている。表紙は赤紫、軸は紫檀という一見、世の中にありふれた体裁であった。

 

この後、弘徽殿の女御の右方は、宇津保物語を提出した。内装、装丁、軸、筆跡などどれをとっても今風で申し分なく、左方は反論できなかった。物語の出来始めの親とまで言われながら、竹取物語が宇津保物語に押されているのが興味深い。

竹取物語は一見古臭いので新しい物語に押されているのであろう。この後、絵合わせは伯仲し、決着はつかなかった。

そこで日を改めて冷泉帝の御前で催されることになった。光源氏、中納言、そして藤壺も立ち会う。またしても左方と右方は白熱した戦いを繰り広げる。その大詰めの場面を読む。

朗読② 絵合わせの大詰め。左が勝つ。

左なほ数ひとつある果てに、須磨の巻出で来るに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選りおきたまへるに、かかるいみじきものの上手の心の限り思ひ澄ましてしずかに描きたまへるは、たとふべき方なし。親王(みこ)よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。その世に、心苦し悲しと思ほししほどよりも、おはしけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のように見え、心のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく描きあらはしたまへり。(そう)の手に仮名の所どころに書きまぜて、まほのくはしき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかし。誰も(こと)ごと思ほそず、さまざまの御絵の興これにみな移りはてて、あはれにおもしろし。よろづみなおしゆづりて、左勝つになりぬ。

 解説

左なほ数ひとつある果てに、須磨の巻出で来るに、中納言の御心騒ぎにけり。

歌合せでも絵合わせでも、それぞれの勝負毎に行う。勝った側にはその事を示すものが与えられる。天徳内裏歌合わせでは、金や銀で作られた美しい藤の枝が勝者に与えられた。最終的には獲得した藤の数で全体の勝敗が決定する。

左方、梅坪の女御側が一つリードした時点で、いよいよ残す所があと一つになった。どちらが最終的な勝者になるかは、この勝負次第である。そこで左方は満を持して、光る君がかつて須磨に住んだ頃に書き留めた絵日記を提出した。

光る君が都を旅立ち、須磨へ向かったのは今から5年前の事だった。左方が持ち出した須磨の絵日記を見た瞬間に、自らの負けを予感した頭中将の心は激しく動揺した。この絵日記を描いた光る君は比類のない絵の名手だからである。

かつ頭中将は須磨を訪れた事があるので、そこの風光明媚さを知っていた。

 

これが「湖月抄」の解釈である。本居宣長は、左なほ数ひとつある果てに、 とあるのは、左方がこれまでの通算は一つリードしている とまでは言っていないと考える。現在の研究者は本居宣長説を採用している。けれども「湖月抄」は一つ一つの対決で勝者に与えられる品物の仕組みについて具体的に解説していた。「湖月抄」の解釈にもリアリティがある。

左が一つだけリードして迎えた最後の戦いという理解でいいと思う。

あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選りおきたまへるに、かかるいみじきものの上手、心の限り思ひ澄ましてしずかに描きたまへるは、たとふべき方なし。

無論、弘徽殿の女御の側も最後に選りすぐりの名品を残していたが、勝負にならない。光る君ほどの絵の名手が、都から遠く離れた須磨に滞在中、悲しみの限りを尽くし心を澄ませ、静かな心境で描いた絵はまことに他と比べようもない傑作であった。

右方が準備していた名品はかき消されてしまった。

親王(みこ)よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。その世に、心苦し悲しと思ほししほどよりも、

親王(みこ) は、この絵合わせで判定した蛍宮の事である。光源氏の弟で風流な人物である。この絵合わせの判者である蛍宮をはじめ、この場にいた人たちは巨大な感動の渦に巻き込まれた。溢れる涙を堪えきれない。今から5年前、世の中の光であったお方が都を追われ須磨へと去られた。その時に光る君がどんなに辛い悲しいと思ったかがこの絵日記から伝わってくる。

本居宣長は反対意見を述べている。その世に、心苦し悲しと思ほししほどよりも、 とあるのは、「湖月抄」では光る君が須磨で悲しんでいると解釈しているが違う。ここは都に残された人々光る君の不在を悲しんだことであるという。これは本居宣長説に分がある。但し旅に出た光源氏も見送った都の人々もというのが正確なのかもしれない。

おはしけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のように見え、心のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく描きあらはしたまへり。

更に絵日記を見ていると、旅先で光る君がどんなふうに暮らして居たのか、どんなことを考えどのようなことを感じていたかも、今目の前で起きていることの様にありありと伝わってくる。須磨の住まいの景色をはじめ、都に残った人たちが須磨はどんな所かとぼんやりと推し量っていた浦々の具体的な様子も、磯の様子も描かれている。

(そう)の手に仮名の所どころに書きまぜて、まほのくはしき日記にはあらず、あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかし。誰も(こと)ごと思ほそず、さまざまの御絵の興これにみな移りはてて、あはれにおもしろし。

(そう) は草書体。仮名 は平仮名の事である。絵に添えられている文字、言葉書きも素晴らしい。漢字の草書体が主だが、所々には平仮名も混じっている。日々の出来事の記録ではなく、しみじみとした和歌もあり感動的な散文作品である。絵日記はこの一巻だけなのだろうか。もっとあるならばぜひ続きを見たいと思い、その場に居合わせた全員がこの須磨の絵日記だけをひたすら感動して見入っている。

よろづみなおしゆづりて、左勝つになりぬ。

この絵合わせには沢山の名品が出品されたが、人々は須磨の絵ただ一つを繰り返し鑑賞しては感動している。他の絵が全部纏まっても、須磨の絵一つに敵わず判定するまでもなく左方の勝利と決まった。本居宣長はここでも本文に異を唱えている。

左勝つになりぬ。 は 左勝ちになりぬ とあるべきという。但し私は 左勝つ で問題ないと思う。中世には数多くの歌合せが行われたが、勝つへし という判定が多い。勝つ のままで問題はない。

さて歌合せは終わった。その後光源氏の心の中が率直に語られる。光源氏は30歳にして内大臣として政治の世界の頂点を極めつつある。所が若くして位を極めた政治家の末路は悲劇的な事が多い事から、出家の願望が強くなった。けれども光源氏の出家はこれからの20年以上も後の事である。

 

それでは次の松風の巻に入る。
この巻が「源氏物語」54帖の内の18帖である。全体の1/3まで進んできた。光源氏の年齢は「湖月抄」では30歳。本居宣長説では31歳。この巻では明石の姫君の扱いが焦点である。光源氏は自分が暮らしている二条院の東側に二条東院という
建物を造営した。そこに姫君とその母親を明石から呼び寄せる積りである。けれども姫君は母、祖母と三人で上京し、京都の西にある大堰(おおい)屋敷に入る。桂川の上流、嵐山の渡月橋の辺りを大堰川と言う。光源氏は自らが建てた嵯峨の御堂に通いがてら、明石の君とは三年振りの再会を果たした。姫君とは初めての対面であった。松風という言葉は、三世代の明石の女たちが移り住んだ大堰の淋しさを象徴している。

それでは姫君たちが上京する場面まで時間を巻き戻す。祖父の入道は一人、明石の地に留まり、姫君の幸福を祈り続ける覚悟である。

朗読③明石に残った入道の有様

秋のころほひなれば、もののあはれとり重ねたる心地して、その日とある暁、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を見出してゐたるに、入道、例の()()りも深う起きて、鼻すすりうちして行ひいましたり。いみじう(こと)(いみ)すれど、誰もいと忍びかたし。若君はいともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より(ほか)には放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかくひとに(たが)へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらではいかでか過ぐさむとすらむと、つつみあへず。

  「行くさきを はるかに祈る わかれ()に たえぬは老いの 涙なりけり

いともゆゆしやとて、おしのごひ隠す。

 解説   可愛い孫と別れる入道の心を読み取ろう。

秋のころほひなれば、もののあはれとり重ねたる心地して、

今は秋、折から もののあわれ を感じる景物が幾つも勢ぞろいしている様に感じられる。

その日とある暁、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに、海の方を見出してゐたるに、

主語は明石の君である。いよいよ今日は都へ旅立つ当日となった日のまだ暗い時間帯である。秋風がすずしく吹き、虫も悲しそうに鳴いている。明石の君はいつもは風の音や虫の音を聞くと感動するのだが、今日に限っては気持ちが慌ただしく落ち着かない。もう二度とこの海を見ることもないだろうと思いながら、ぼんやりと海の方を眺めている。

入道、例の()()よりも深う起きて、鼻すすりうちして行ひいましたり。

()() は 夜遅くから朝までの時間帯である。この屋敷の主人である入道は、()() の務めがあるのでいつもの様にまだ暗い内、午前4時ころから起き出してお務めをしているが、今日はお祈りに集中できずしきりと鼻水をすすっている。別れが悲しいのである。

いみじう(こと)(いみ)すれど、誰もいと忍びかたし。若君はいともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より(ほか)には放ちきこえざりつるを、

(こと)(いみ) は、旅立ちに際して不吉な言葉を口にしたり涙を見せたりすることである。「湖月抄」の注釈を加味して現代語訳する。

今日は将来の 后がね お后候補である姫君の晴れの門出の日である。返す返すも不吉な言葉を口にしたり、涙を見せるのは不吉で縁起の良くない行為は禁物である。けれども別れの悲しみが込みあげて来て、人々は 言忌(こといみ)守り通すことが出来ない。入道はもう少しで泣きそうなので、鼻水でごまかしている。入道から見て姫君は何とも可愛らしく宝物である。中国の史記には 夜光(やこう)(たま) という光り輝く珠の話が語られている。随侯の珠 の故事としても知られる。我が国の万葉集で

  夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに (あに)若かめやも 大伴旅人

の歌もある。

これらの夜光の珠 夜光る珠は 如意宝珠 の事である。人間にありとあらゆる幸せを齎すとされる宝の珠である。三歳の姫君は后、更には国母の道を歩んでいくであろう。これまでは入道が掌中の珠として大切にして、袖の中に包んで育んできた。これからは父親である光る君の下で、より大きな珠へと成長していくことだろう。

見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかくひとに(たが)へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらではいかでか過ぐさむとすらむと、つつみあへず。

姫君は三歳になったので入道の顔を見分けて懐いている。入道は頭の中では出家者となった自分は、姫君の洋々たる未来に比べれば、取るに足らない存在である。普通の人間とは違う僧侶の姿をしているので、人前にしゃしゃり出たり、姫君と会うことは慎むべきだと思っている。けれどもいざ姫君と別れるとなると、ほんの短い時間でも姫君と会えない事すら悲しいのに、これからはもう会えないと思うと胸が張り裂けそうになり、涙を抑えきれない。

  「行くさきを はるかに祈る わかれ()に たえぬは老いの 涙なりけり

入道の歌である。これから都に向かう姫君の未来の幸せを、私は遠くからひたすら祈っています。姫君の晴れの門出を笑顔で見送りたいのだが、耄碌して涙もろくなっているのでどうしても涙をこらえきれない。お許しください。

いともゆゆしやとて、おしのごひ隠す。

入道は旅立ちに涙は不吉だと分かっているので、必死に涙を押し拭って隠している。

 

祖父である入道にとって、孫の姫君は夜光る珠・如意宝珠であった。光り輝く如意宝珠はその光を浴びる人々に幸せを齎す。この珠は今後光源氏が所有者となる。光源氏の栄華を実現する力が、姫君にはある。そして東宮の后から天皇の中宮となる事で、国家の安寧を齎す宝へと成長していくのである。

 

さて上京した明石の姫君たちが移り住んだ大堰の屋敷について説明しておく。

ここは明石の君の母親である明石の尼君ゆかりの土地であった。尼君の祖父である中務宮(なかつかさみや)かつてここに隠棲していた。この中務宮は兼明親王が準拠・モデルとされている。兼明親王は醍醐天皇の皇子である。政治情勢に翻弄された絶望感からか嵯峨の大堰に隠遁した。彼の残した漢詩文は、鴨長明の「方丈記」にも影響を与えている。

その兼明親王を準拠とする中務宮の孫が明石の君である。彼女は祖父の大堰(おおい)の山荘を整備して、そこへ移り住んだ。光源氏はその近くに嵯峨の御堂と呼ばれる寺院を建立していた。こちらは(みなもと)(とおる)の山荘だった(せい)()(かん)を準拠としている。現在の清凉寺の東にある阿弥陀堂の辺りとされる。

 

さて二条院と大堰(おおい)遠く離れている。光源氏は嵯峨の御堂に参拝することを口実にして、明石の君と姫君に会っていた。紫の上は明石の君に対しては穏やかでない感情を抱いていた。光源氏は姫君を二条院に移し、紫の上の養女として育てたいと思う。それは権力獲得の為に実の母親と実の娘の絆を引き裂くことであった。

明石の君から届いた手紙を光源氏が読んでいると、紫の上が不機嫌そうなので嫉妬しているのではと、光源氏はからかう。その後の場面を読む。

朗読④

さし寄りたまひて、「まことは、らうだけなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとてものめかさむほども憚り多かるに、思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして、御心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。

ここにてはぐくみたまひてんや。(ひる)子が(よわい)にもなりにけるを、罪なきさまなるも、思ひ棄てがたうこそ。いはけなげなる(しも)つかたちも紛らはさむなど思ふをも、めざましと思さずはひき()ひたまへかし」と聞こえたまふ。

「思はずにのみ取りなしたまふ御心の隔てを、せめて見知らずうらなくやはとてこそ。いはけなからん御心には、

いとようかなひぬべくなん。いかにうつくしきほどに」
とて、すこしうち笑みたまひぬ。(ちご)わりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばやと思す。

いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ち出でて、月に二度ばかりの御契りなめり。年の渡りにはたちまさりぬべかめるを、及びなきことと思へども、なほいかが思はしからぬ。

 解説 これが松風の巻の巻末となる。

さし寄りたまひて、「まことは、らうだけなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとてものめかさむほども憚り多かるに、思ひなむわづらひぬる。

光る君は紫の上の近くに寄ってきて、真面目な口調で相談する。冗談はさて置いて、私の本心を言います。可愛い娘に恵まれたので、浅からぬ因縁があったのであろう。だからと言ってその娘を本妻との間に生まれた娘として育てるのも、世間の目が気になる。

同じ心に思ひめぐらして、御心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。

ここにてはぐくみたまひてんや。(ひる)の子が(よわい)もなりにけるを、罪なきさまなるも、思ひ棄てがたうこそ。いはけなげなる(しも)つかたちも紛らはさむなど思ふをも、めざましと思さずはひき()ひたまへかし」と聞こえたまふ。

光源氏が紫の上に、姫君を引き取る積りはないかと打診する言葉である。(ひる)の子が(よわい) は、姫君が三歳であるという意味である。この問題をあなたも自分の問題として私と一緒に考え、解決策を見付けてくれませんか。

どうでしょう、あなたがその娘をこの屋敷に引き取り、あなたの手元であなたの生んだ実の子として育ててくれませんか。その娘は今は三歳である。日本書紀に登場する蛭子が詠んだ

  父母(かぞいろ)は あはれと見ずや 蛭の子は 三年(みとせ)なりぬ 脚たたずして

という歌がある。あの娘は三歳になるまできちんとした姫君としての扱いを受けていない。あなたは姫君の母親に対していい気持ちを持っていないでしょうが、姫君は無邪気で可愛らしい。三歳だから今年は袴着の年に当たる。腰のあたりがまだ幼げに見えるので、早く袴を着せたいと思っている。あなたが嫌だと思わないのだったら、あなたが母親となって姫君の袴の紐を結ぶ役目を引き受けて貰えないかという。

光源氏は姫君の袴着の前に、紫の上の養女にしたいのである。本居宣長は いはけなげなる(しも)かたちも紛らはさむ という部分について、幼い子供が袴をはかないと腰から下の部分が、しどけなく見えると説明している。

「思はずにのみ取りなしたまふ御心の隔てを、せめて見知らずうらなくやはとてこそ。いはけなからん御心には、

いとようかなひぬべくなん。いかにうつくしきほどに」とて、すこしうち笑みたまひぬ。

紫の上の光源氏への返事である。紫の上は返事をする。私は大堰(おおい)住んでいる女性に対して嫉妬していない。けれどもあなたが私が嫉妬しているのではないかと心外なことを口になさるので、私も少しはあなたの期待を裏切らないように心にもなく嫉妬の振りをしていた。その可愛らしい姫君のことですが、23歳にもなった私のことをあなたは今でも子供扱いしているので、私と似た者同士で相性はぴったりだと思います。私は幼い子供を扱うのは得意です。それにしても姫君がどんなに可愛い事だろうと言いながら、早くも口元がほころんで笑みを浮かべている。

(ちご)わりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばやと思す。

この部分は草子地で語り手の読者への説明である。語り手の私から説明するが、紫の上は子供に恵まれていないが、幼い子供をとても可愛がる性分である。恐らく心の中ではその姫君を私の娘として引き取りたい、自分の実の娘の様に抱っこして大切に育てたいと思っているのであろう。

そしてこの場面は次の様に結ばれる。

いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ち出でて、月に二度ばかりの御契りなめり。年の渡りにはたちまさりぬべかめるを、及びなきことと思へども、なほいかが思はしからぬ。

光る君は姫君をどうしたらよいものだろうか、この屋敷に迎えようかとまだ心を決めかねている。公私に多忙なのでいかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ち出でて、大堰(おおい)まで出かけるのはまことに困難である。嵯峨の御堂で毎月二回念仏があるので、それにかこつけて二回だけは会っているようである。明石の君の方でも月に二回は光る君に逢えるので、織女が牽牛と年に一度しか

会えないのに比べると、自分の方が恵まれていると思っているのだろう。月に二度以上会うのは無理だろうと分かっている。それでもやはり物思いに沈んでしまう。彼女の悩みは深かった。

 

姫君という大切な宝を入手する事は実の母親の苦しみを増すことでもあった。

 

「コメント」

 

まあ源氏の君に都合のいい話ばかりで、またまたと呆れるが当時の人々はリアリティ-がないなどと無粋な事は言わなかった。カッコウの托卵を思い出した。