240817⑳「蓬生の巻と関谷の巻」

今回は蓬生(よもぎふ)の巻と関谷の巻の名場面を読む。都に戻ってきた光源氏は末摘花と再会し、空蝉とすれ違う。

それでは蓬生(よもぎふ)の巻から読む。

蓬生(よもぎふ)いう言葉は和歌にも散文にもみられない。但し(よもぎ)という言葉は七回ほど使われている。光源氏27歳から28歳までが中心になる。本居宣長説では一歳上になっていて、光源氏28歳の秋から29歳の4月まで。

「源氏物語」の本筋は、須磨、明石、澪標の巻から絵合わせの巻へと続く。蓬生(よもぎふ)巻と関谷の巻は、光源氏の人生の歩みを語る本筋からは離れた余談である。

 

それでは末摘花が貧しさに耐えながら、光源氏の帰りを待ち続ける場面を読む。日本文学で荒れ果てた屋敷や庭園を描いた典型的な例となっている。

朗読① 末摘花の屋敷には兄の禅師がたまに来るくらい。

はかなきことにてもとぶらひきこゆる人はなき御身なり。ただ御兄弟(せうと)の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ時はさしのぞきたまへど、それも世になき古めき人にて、同じき法師と言ふ中にも、たづきなくこの世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草蓬をだにかき払はむものとも思ひよりたまはず。

かかるままに、浅茅は庭の(おもて)も見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。(むぐら)は西東の御門(みかど)を閉じこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角(あげまき)の心さへぞめざましき。

 解説

はかなきことにてもとぶらひきこゆる人はなき御身なり。

末摘花は亡き常陸宮の娘であるが、世間から忘れられた存在で、何かの用事で訪ねて来る人などいない。

ただ御兄弟(せうと)禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ時はさしのぞきたまへど、それも世になき古めき人にて、同じき法師と言ふ中にも、たづきなくこの世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草蓬をだにかき払はむものとも思ひよりたまはず

いや、この屋敷を訪ねて来る人がたった一人だけいた。兄にあたる人が阿闍梨として醍醐寺で修行している。その兄がたまに都に出てきた際に、ほんの一寸屋敷に顔を出す。法師には世間の常識に疎い人がいるが、末摘花の兄も古風な人であった。本人も貧しいので妹に経済的な援助を申し出ることもなかった。妹の家の庭にびっしりと草が生え、蓬が高く伸びていても、それらを引き抜いて庭を奇麗にしようという発想すら浮かばない人だった。

かかるままに、浅茅は庭の(おもて)見えず、しげき蓬は軒をあらそひて生ひのぼる。

そういう訳で末摘花の屋敷はあっという間に荒れ果てた。浅茅、チガヤは庭の土が見えなくなるほどに生い茂り、蓬は軒の高さに達する程であった。

(むぐら)西東の御門(みかど)を閉じこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角(あげまき)の心さへぞめざましき。

(むぐら) は、西と東にある二つの門を覆い尽くし、門が開かないようになったのは不審なものが屋敷に入ってこないので心強い。古今和歌集に 

  いまさらに 問ふべき人も おもほえず 八重(やえ)(むぐら)して 門(とざ)せりてへ  読み人知らず

という歌があるとおりである。だが土塀が崩れがちで、実際に崩れた箇所がある。そこから侵入した馬や牛が歩き回った跡が、いつの間にか道になっている。春や夏の季節には屋敷の中で牧童たちが馬や牛を放牧して草を食べさせる。彼らのやり方は目に余る。屋敷が荒れ果てて行くプロセスが笑いの中に描かれている。

 

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朗読②八月の野分で廊下が倒れた。建物は骨組みだけが残って、下人もいなくなった。盗賊も寄りつかない。

八月(はづき)野分荒かりし年、(ろう)どもも倒れ伏し、下の屋どものはかなき板葺(いたぶき)なりしなどは骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆(げす)だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりのさびしければにや、この宮をば不用のものに踏み過ぎて寄り来ざりければ、かくいみじき野ら藪なれども、さすがに寝殿の内ばかりはありし御しつらひ変らず、

つややかに掻い掃きなどする人もなし、塵は積もれど、紛るることなきうるはしき御住まひにて明し暮らしたまふ。

 解説 ここは「湖月抄」の解釈で現代語訳をする。

ある年の八月に大きな台風が襲来し、風で末摘花の屋敷の渡り廊下が倒壊した。粗末な板垣の建物が幾つかあり使用人たちが住んでいたが、骨組みだけを残して吹き飛ばされた。こうなると屋敷の使用人もいなくなる。朝夕の食事を作る煙も絶えた。みじめでひどく悲しいことばかりだった。余りにも荒れ果てているので、人を思いやる優しい心など微塵も持たない盗賊達も、この屋敷を素通りする。盗むべき高価な品物などここには無いと思ったからである。ことわざに 賊 金貨をうかがわず とある通りである。だから庭は恐ろしい程の草藪なのだけれども、寝殿の中だけは昔通りの調度品が残っていた。末摘花の寝殿は掃除する人がおらず、塵は積もる一方だった。

けれども末摘花は決して俗塵にまみれず昔からの品を大切にし、しっかりとした生き方を守り続けて一日一日を過ごしていた。

経済的な援助をしてくれた光源氏が須磨へと去ったので、末摘花は困窮した。意地悪な伯母が末摘花を、自分の娘の侍女にしてこき使おうとしたこともあった。何とか耐えて屋敷を守り続ける末摘花であったが、光源氏が明石から戻ってからも貧しさは続いた。光源氏が末摘花という女性の存在を忘れていたからである。

 

この二人が再会する感動的な場面を読む。

朗読③光源氏は花散る里を訪ねようと行くが途中で荒れたる屋敷に出合う。

卯月ばかりに、花散る里を思い出できこえたまひて、忍びて、(たい)上に御(いとま)きこえて出でたまふ。日ごろ降りつるなごりの雨すこしそそきて、をかしきほどに月さし出でたり。昔の御歩きおぼし出でられて、艶なるほどの夕月(ゆうづく)()に、道のほどよろづのことおぼし出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立しげく森のようなるを過ぎたまふ。

大きなる松に藤の咲きかかりて月影になよびたる、かぜにつきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなきかをりなり。

橘にはかはりてをかしければさし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地(ついじ)さはらねば乱れ伏したり。見し心地する木立かなと思すは、はやうこの宮なりけり。

 解説

卯月ばかりに、花散る里を思い出できこえたまひて、忍びて、(たい)の上に御(いとま)きこえて出でたまふ。

(たい) は、紫の上である。

4月になった、爽やかな初夏である。この季節になると橘の花の香りが何処からともなく漂ってくるので、光る君は花散る里の奥ゆかしい人柄を思い出す。そこで花散る里と会うためにこっそり外出する。二条院に暮らしている紫の上に外出の許しを貰い屋敷を出た。

日ごろ降りつるなごりの雨すこしそそきて、をかしきほどに月さし出でたり。

ここ何日か降っていた雨はやっと上がったけれど、名残の雨がパラパラと降っていて風情がある。空に月が顔を見せた。

昔の御歩きおぼし出でられて、艶なるほどの夕月(ゆうづく)()に、道のほどよろづのことおぼし出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立しげく森のようなるを過ぎたまふ。

光源氏は牛車に乗って花散る里の屋敷に向かっている。須磨、明石から戻ってからは、殆ど外出していないが、若かりし頃に女のもとに忍び歩きしていた時の記憶が蘇ってくる。情緒たっぷりな月が空に掛っているので、花散る里の屋敷までの途中、あの女性やこの女性のことなどおもい浮かべながら牛車に乗って進んでいく。ふと気づくと大層荒れ果てて、屋敷の原型をとどめていない家の前だった。手入れがされていない庭の木はまるで森の様に見える。

大きなる松に藤の咲きかかりて月影になよびたる、かぜにつきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなきかをりなり。

橘にはかはりてをかしければさし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地(ついじ)もさはらねば乱れ伏したり。

松の大木に藤が蔓を絡みつかせて這い上り、季節柄長い花房を垂らしている。その長い花房は光を浴びてなまめかしく揺れ動いている。藤の花房が揺れているのは、風が吹いているからで、その風向きによっては藤の花の香りが牛車にも漂ってくる。そこはかとない藤の香りが好もしい。

  人もなき 宿ににほえる 藤の花 風にのみこそ 乱るべらなれ  紀貫之

という歌も思い出される。鬱蒼とした茂みの木立から漂ってくる香りが藤の花だと気付いた時、光る君ははなはだ趣き深く感じた。というのはこれから会う花散る里は、橘の花と深い所縁(ゆかり)があるので、橘の香りを思い浮かべながら牛車に乗っていたので、それとは異なる藤の花の香りに趣きを感じたからであった。

光る君は牛車の中から顔を出し、その荒れ果てた屋敷を御覧になる。目に入ったのは、柳の枝が垂れ放題の姿であった。周囲の築地塀が崩れているので、塀で柳の枝が遮られて困ることもなく地面まで届いている。

見し心地する木立かなと思すは、はやうこの宮なりけり。

この はやう については、本居宣長の意見に耳を傾けよう。この はやう は、俗に もとよりそのはずじゃ という意味である。この屋敷はどこかで見た記憶があると感じたのは、 もとより そのはずじゃ これまで何度も訪ねた末摘花の屋敷だったからだと、本居宣長は説明している。

 

それでは今の文章からほんの少し先の場面を読む。

朗読④末摘花が父を思い出しながら、この荒れた屋敷を嘆く。

ここには、いとどながめまさるころにて、つくづくとおはしけるに、昼寝の夢に故宮(こみや)の見えたまひければ、覚めていとなごり悲しく思して、漏り濡れたる(ひさし)の端つ方おし拭はせて、ここかしこの御座(おまし)ひつくろはせなどしつつ、例ならずづきたまひて、

  亡き人を 恋ふる(たもと)の ひまなきに 荒れたる軒の しづくさへ添ふ  末摘花

も心苦しきほどになむありける。

 解説  ここは「湖月抄」の解釈をベ-スにした現代語訳をする。

光る君は惟光を屋敷の中に入れて、末摘花がまだ健在であるかを確かめようとする。最後に会ったのは須磨に下る前だから、もう4年も前のことになる。その末摘花と言えば普段よりも物思いが勝る頃で沈みがちだったのだが、昼寝をしていたら亡き父 常陸宮 夢に現れた。目が覚めてからも父宮のことが懐かしく、また父親のいないことが悲しく涙をこぼした。その涙に加えて、(ひさし)が破損しているので遠慮なく部屋の中を濡らしてしまう雨が加わり、屋敷の中は湿っている。だが夢で常陸宮を見たのは、瑞夢(ずいむ)・縁起の良い夢だと思われた。そもそも美しくはない末摘花が光る君と結ばれたのも、顔をみられてからも光る君から捨てられなかったのもひとえに亡き常陸宮の霊魂の導きだった。末摘花が屋敷に残っている数少ない女房達に命じて涙と雨で濡れた部屋を拭わせる。あちこちに置いた敷物をきちんと直させたのも、今日常陸宮の導きで誰かが、それは光る君しかいないのだが、この屋敷を訪れることを予感していたからなのだろう。普段は全く気の利かない末摘花が今夜に限って、世間並みの気配りをしている。だからいつもは古風な和歌しか詠まない末摘花が、

今夜は素晴らしい歌を詠んだ

  亡き人を 恋ふる(たもと)の ひまなきに 荒れたる軒の しづくさへ添ふ

亡き父宮の夢を見て慕わしく思う気持ちから、ここで落ちた涙に壊れている軒から漏れ落ちる雨の雫までが加わって、私の心を一層苦しくすることである。

語り手の私が見ても末摘花の様子は痛ましくあはれに見える。間もなく再会する光る君もきっと私と同じ様に感じるのではないだろうか。

 

末摘花の存在を思い出した光源氏は再び彼女の面倒を見る様になる。
末摘花の巻では笑われる役であった末摘花が、この蓬生の巻では感動的に描かれている。歌も素晴らしい。これが彼女の実像なのかも知れない。

 

それでは関屋の巻に入る。タイトルは言葉つまり散文の中の言葉からつけられた。関屋は関所にある建物という意味である。「湖月抄」では光源氏28歳の9月の出来事である。本居宣長説では29歳である。直前の蓬生の巻が、末摘花の後日談を描いたのと同じ様に、関屋の巻は空蝉の後日談である。それでは空蝉と光源氏が逢坂の関ですれ違う場面を読む。

空蝉は夫が常陸守となったのに伴い、常陸国に下っていたが4年間の任期が終わって東国から上京してきた。光源氏が明石から帰京した翌年の秋である。石山寺に詣でる光源氏一向と、逢坂の関ですれ違ったのである。逢坂の関で人と人とが会うのは昔から物語の約束事である。

 

上洛中である常陸介一行は、決して田舎びていない。斎宮に任命された内親王が都から伊勢へと下向する際の装いすら連想される豪勢さである。空蝉が乗っている牛車の装いも見事で、道行く人達の注目の的であった。彼らは光源氏の一行が石山寺に向かうのに道を譲る為、木陰建物の影に潜んでいる。その場面を読む。

朗読⑤

九月(ながつき)晦日(つごもり)なれば、紅葉のいろいろこきまぜ、霜枯れのくさむらをかしう見えわたるに、関屋よりさとはづれ出でたる旅姿どもの、いろいろの(あを)のつきづきしき縫物、括り染(くくりぞめ)のさまもさる方にをかしう見ゆ。御車は(すだれ)おろしたまひて、かの昔の小君、今は衛門(えもん)(すけ)なるを召し寄せて、「今日の御関迎へは、え思ひ棄てたまはじ」などのたまふ。御心の中いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のことわすれねば、とり返してものあはれなり。

  行くと()と せきとめがたき 涙をや 絶へぬ清水と 人は見るらむ  空蝉

え知りたまはじかしと思ふに、いとかひなし

 解説

九月晦日なれば、紅葉のいろいろこきまぜ、霜枯れのくさむらをかしう見えわたるに、関屋よりさとはづれ出でたる旅姿どもの、いろいろのあをのつきづきしき縫物、括り染くくりぞめのさまもさる方にをかしう見ゆ。

時はあたかも九月の下旬で、紅葉の美しい時期である。赤や黄色などの様々な色の紅葉が入り混じっている。霜枯れた秋草も濃淡さまざまな斑になっている。誠に美しい。

関屋よりざとはづれ出でたる旅姿どもの、いろいろの(あを)のつきづきしき縫物、括り染(くくりぞめ)のさまもさる方にをかしう見ゆ。

「湖月抄」は ざと と濁点を打っている。現代では さと と読む。所でここは「湖月抄」と本居宣長とで大きく解釈が分かれている。先ずは「湖月抄」の解釈を先に示す。常陸介一行の男たちは光る君をお迎えするために木陰や建物の物陰に身を潜めている。それでも彼らの旅姿は表から見える様にこぼれ出ている。彼らが着ている色とりどりの狩衣は季節に相応しい刺繍や括り染め施されている。場所と季節が一致して素晴らしく見える。これが本居宣長が登場するまで続いていた解釈である。ざとはづれ出でたる旅姿 は、常陸介たちの旅姿と読まれてきた。これに正面から反対し、新しい

解釈を打ち出したのが本居宣長である。本居宣長はこの場面は常陸介一行を描く場面から、光源氏一行を描く場面に切り替わっていると考えた。逢坂の関の建物で休息していた光源氏の従者たちが一斉にサッと飛び出してきた華やかさを表現しているというのである。畏まっている常陸介一行の姿ではなく、光源氏に随従している者たちの姿だと大きく解釈を転換させた。それ以降この本居宣長説が採用され、現代では「湖月抄」の解釈は忘れ去られた。因みに三重県松坂市の本居宣長記念館に

所蔵されている「湖月抄」には、本居宣長本人の書き込みが残っている。

この ざとはづれ出でたる旅姿 の箇所への書き込みは存在しない。

本居宣長が常陸介一行ではなく、光源氏の従者たちだと読み始めたのはかなり後の事かも知れない。国宝「源氏物語絵巻」の関屋の巻を見ると、関屋から勢いよく飛び出してくる光源氏の従者たちの姿は描かれていない。与謝野晶子の最初の現代語訳である「新訳源氏物語」ではどうであろうか。常陸介の供周りが関の従舎からサッとこぼれた様に出た姿と訳している。「湖月抄」の様に常陸介の側の描写と読む方が、与謝野晶子にとっても自然だったのでしょう。

御車(すだれ)おろしたまひて、かの昔の()(きみ)、今は衛門(えもん)(すけ)なるを召し寄せて、「今日の御関迎へは、え思ひ棄てたまはじ」などのたまふ。

小君 は、空蝉の弟で光源氏と空蝉の仲を取り持とうと努力したあの小君 である。都へ戻る旅人と、都から下る旅人でごった返しているので、光る君の乗っている牛車は簾が下ろしてあり、外からは中が窺えない。これから石山寺に向かう光る君は、上洛の途中で畏まって控えている常陸介一行に気付いた。そしてかつて寵愛した 小君 、現在は衛門(えもん)(のすけ)を召しだされる。そしてたまたますれ違っただけの常陸介一行に向かって、今日はわざわざ私が逢坂の関まで空蝉を出迎えに参上したのだよ、その事を私につれなかった空蝉も少しは有難く思ってくれるだろうねと、空蝉に言伝される。

御心の中いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。

おほぞう は、大雑把とか通り一遍という意味である。光る君は心の中でそうはいっても12年も前になった、空蝉とのはかなかった関係について深い感慨を催す。けれどもこういう時と場所では通り一遍の言葉しか口に出来ないのでもどかしい。

女も、人知れず昔のことわすれねば、とり返してものあはれなり。

小君の口から光る君の言葉を伝え聞いた空蝉の方でも、この12年間というもの、人知れず光る君との関係を忘れたことはなかった。あの頃が戻ったかのようにしみじみとした物思いにふける。空蝉は歌を詠んだ。

  行くと() せきとめがたき 涙をや 絶へぬ清水と 人は見るらむ

この歌も「湖月抄」と本居宣長とで全く違う解釈がなされている。

先ず「湖月抄」の解釈である。

この逢坂の関は、蝉丸が

  これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関  

と詠んだ場所である。私は上洛する途中で逢坂の関に差し掛かると、光る君が都から石山寺へ向かう所と行き会ったのは偶然ではない。都へ上る私と、都から東へ行く光る君とはかつては知る仲であった。けれども今は知らぬ仲である。

逢坂の関の名所である関の清水からは絶えることなくこんこんと水がほとばしり流れているが、私の目からの堰き止めがたい涙が、関の清水よりも大量にこぼれて居る。

 

蝉丸の歌も踏まえ、かなり説得力がある。所がこの解釈に本居宣長は反対した。

歌の 行くと()と は「湖月抄」が説いているような行く人と来る人という意味ではない。この歌は空蝉の一人だけの心の中の思いを詠んでいる。4年前自分が逢坂の関を越えて東国の常陸国に向かった時の、そして今常陸国から都へ戻ってきた時のどちらの時も、自分の目は涙で濡れている。泣いていたという意味である。現在は本居宣長説を採用しているが、蝉丸の歌を念頭に置くと 行く人来る人 つまり光源氏と空蝉とする「湖月抄」の解釈も成り立たなくもない。

松坂市の本居宣長記念館の「湖月抄」にはこの歌への書きこみがある。本居宣長は早い時点から行くと() の「湖月抄」の解釈に違和感を抱いたのである。私は初めてこの歌を読んだ時に、「湖月抄」の様に理解した。けれども訳文で読むと本居宣長説に従った内容が書かれていたので驚いた記憶がある

またしても与謝野晶子の「新訳源氏物語」だが、 君と行き会う関山の と訳している。「湖月抄」を踏襲している。

与謝野晶子は「湖月抄」の 行くと()と の解釈に違和感を抱かなかった。

え知りたまはじかしと思ふに、いとかひなし

空蝉はこの歌を心の中で思っただけで、光る君に届ける(すべ)ない。だから幾ら泣いても幾ら歌を詠んでも空しいことだった。

 

それではこの場面に連続している部分を読む。ここには政治家としての光源氏の厳格さ、冷酷さが感じ取れる。光源氏はこれから親友の頭中将と政界の第一人者の地位を巡って競い合うことになる。それに勝利するには政治家としての手腕が必要である。「源氏物語」は私的な恋愛を中心に描き、公的な政治の出来事は書かない方針であるが、時として政治家としての光源氏の顔がうかがわれる場面がある。光源氏の基本姿勢はいわゆる信賞必罰である。飴と鞭を使い分けている。

 

それでは次を読む。

朗読⑤ 小君 今は左衛門佐が参上した。光源氏に目を掛けて貰っていたが、光源氏の不遇の折に遠ざかった

石山より出でたまふ御迎へに衛門佐参れり。一日(ひとひ)まかり過ぎしかしこまりなど申す。昔、童にていと睦ましうらうたきものにしたまひしかば、かうぶりなど得しまで、この御徳に隠れたりしを、おぼえぬ世の騒ぎありしころ、ものの聞こえに憚りて常陸に下りしをぞ、すこし心おき年ごろは思しけれど、色にも出だしたまはず、昔のやうにこそあらねど、なほ親しき家人(いえびと)の中に数たまひけり。紀伊守といひしも、今は河内守にぞなりにける。その弟の右近将監(うこんのぞう)解けて御供に下りしをぞ、とりわきてなし出でたまひければ、それにぞ誰も思ひ知りて、などて少しも世に従ふ心をつかひけんなど思ひ出でける

 解説 ここは「湖月抄」の解釈に従って現代語訳する。

光る君は空蝉達と逢坂の関ですれ違った後、石山寺で7日間の参篭をした。お籠り終えて都へ戻る時に、衛門佐がお迎えに参上した。衛門佐は光る君が石山寺に向かう時にお供を出来なかった事のお詫びを申しあげる。この衛門佐というのはかつて小君といった空蝉の弟のことである。童だったころに光る君はことのほか可愛がられていた。そして空蝉への手紙を持たせるなど身近に控えさせ寵愛されていた。彼が従五位下に任命されたのも光る君のお口添えによるものであった。にも拘らず彼はその恩義に報いなかった。右大臣と弘徽殿(こきでん)大后(おおきさき)派に押された光る君が須磨明石へと退去した時には、権力を握った右大臣一派から、自分が光る君側の人間だと思われることを恐れた。光る君の御供をして須磨に向かうという決断は彼には出来ず、姉の空蝉達と一緒に常陸へ下っていた。光る君はその事・政治的な裏切りがいささか気に入らず、ずっと不愉快であった。けれども流石に目の前で衛門佐が詫びているのを聞いて、面前でお叱りになる事はない。かつての様な強い信頼関係こそないものの、それでも親密な家人の一人には彼を数えている。この小君・衛門佐と対照的なのが右近将監(うこんぞう)という人物である。彼は葵の巻で賀茂の斎院の御禊に供奉した光る君を護衛した人物である。彼の兄は常陸介の息子でかつて紀伊守と言っていた男である。今では河内守となっている。この男も右大臣一派の側に日和(ひよ)って、落ち目の光る君を見限った男である。所がその弟である右近将監(うこんぞう)は兄の紀伊守とは違い、勿論小君・衛門佐とは違い、どこまでも光る君に付き従った。右近将監(うこんぞう)は光源氏派として睨まれ、官職をはく奪され、都の妻子と別れてまで、須磨と明石で淋しい思いをしている光る君をしっかりと支えた。その忠誠心を愛でて光る君は、帰京した後で彼を抜擢した。このことを知って衛門佐や河内守は、どうして自分はあの時時の権力に靡き光る君を見棄てたのだろうかと反省するのだった。そもそも小君が光る君と親しかったのは空蝉への恋愛を取り持ったためであり、公の政治の世界で眞の主従関係を結んだのではなかった。それが右近将監(うこんぞう)との違いである。衛門佐の様な(やから)、言葉巧みにすり寄ってくる心のねじけた人間と言っても過言ではない。真実の忠義ではなく、口先だけの追従、弁チャラで主君に近寄ってくる小君の様な男に、政治家は騙されてはならないという教訓を、この場面から読み取るべきである。また論語には

ただ仁者のみ、()く人を(にく)む 

ただ仁者(人間に愛情を持っている人)だけが純粋に人を愛し、純粋に人を憎むことが出来る  とある。

光源氏の様な君子は先入観なしで他人を評価する。けれども小君の様な(やから)は、仁者からも憎まれるタイプの人間なのである。光源氏は一度でも自分を見捨てた人間を、心から許すことはなかったのである。逆境に直面していた時に、自分を信じて附いてきた人間には、抜擢人事などで報いている。この信賞必罰が政治家としての光源氏の厳しさである。

なお本居宣長はこの場面については何も意見を述べていない。論語などを持ち出して教訓読みをしているのは下らないと、論評するまでもないと無視したのであろう。

 

「コメント」

 

蓬生も関屋もまさに一休みの巻である。でも困窮していた末摘花が救われたのは良かった。

小君の件を挙げて、政治家がどうとかと言うのは噴飯もの。単なる日常的な出来事に過ぎない。