240803⑱「明石の巻1

今日は明石の巻の前半を読む。明石は播磨の国にある。光源氏は摂津国の須磨から播磨国の明石へと移り住む。

摂津国と播磨国の境にあるのが須磨の関である。明石の入道からもてなされその娘と結ばれた。彼女が懐妊する頃、光源氏は都に戻り足掛け3年の旅が終わる。「湖月抄」の年立てでは光源氏26歳の3月から27歳の秋まで。本居宣長の年立てでは27歳の3月から28歳の秋までとなっていて、現在は本居宣長の説が採用されている。但し「湖月抄」も本居宣長も須磨の巻末から連続していて、翌年に帰京するまでという点では一致している。なおこの巻には浦伝い という別名があるが、「湖月抄」にはその点に触れていない。

 

さて明石の巻は須磨の巻の巻末を受けて、大雷雨の描写から始まる。光源氏は天の怒りを浴びるかのように、雷の直撃を受けた。この辺りは光源氏という人間の心の未熟さが、天の怒りによって叩き直されようとしていると私は感じる。

それではこの場面を読む。

朗読①光源氏が大雷雨の直撃を受けている様子を描く。

かくしつつ世は尽きぬべきにやと思さるるに、そのまたの日の暁より風いみじう吹き、潮高う満ちて、浪の音高きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。(かみ)の鳴りひらめくさらに言はむ方なくて、落ちかかりぬとおぼゆるに、あるかぎりさかしき人なし御社(みやしろ)の方に向きてさまざまの願を立て、また海の中の竜王、よろづの神たちに願を立てさせたまふに、いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。(ほのほ)燃え上がりて廊は焼けぬ。心魂(こころたましい)なくてあるかぎりまどふ。

背後(うしろ)の方なる大炊殿(おおいどの)と思しき屋に移したてまつりて、上下(かみしも)となく立ちこみていとらうがはしく泣きとよむ声、(いかづち)にもおとちらず。空は墨をすりたるやうにて日も暮れにけり。

 解説

途中省略した部分がある。この辺りは叙事的というか説明的というか、予想外の出来事が次々と起きて、人間たちは翻弄されている一方である。

かくしつつ世は尽きぬべきにやと思さるるに、そのまたの日の暁より風いみじう吹き、潮高う満ちて、浪の音高きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。

光る君はこのような大雨が続くようであれば、この世界は滅びてしまうのではないかとまで心配する。その翌日の夜明け近くになっても風が激しく吹き続いて、高潮が押し寄せてきて波の音がごうごうと響いてくる。どんなに固い岩やどんなに高い山であっても風雨で粉々になり、波に押し流されて地上から跡形もなく消えてしまいそうな勢いである。それに加えて雷が鳴り響き、稲妻がきらめく様子は更に言いようのない激しさである。あっ雷が落ちた。しかも自分の真上だと思われので、従者たちも皆 死の恐怖を感じている。後は短く原文を区切って説明する。

御社(みやしろ)の方に向きてさまざまの願を立て、また海の中の竜王、よろづの神たちに願を立てさせたまふに、

御社(みやしろ)の方 は、住吉大社の方角である。光源氏は摂津国の一宮である住吉大社の方角に向かって、この大災害を無事に乗り越えられたならば、沢山の寄進をしますと願をかけた。また海の世界を支配している竜王や八百万の神々にも願をかけた。

いよいよ鳴りとどろきて、おはしますに続きたる廊に落ちかかりぬ。(ほのほ)燃え上がりて廊は焼けぬ。

光る君が住んでいる建物の渡り廊下に当たる部分を雷が直撃した。パッと炎が上がり、あっという間に焼け落ちた。

心魂(こころたましい)なくてあるかぎりまどふ。

光る君も従者たちも分別もなくうろたえている。

背後(うしろ)の方なる大炊殿(おおいどの)と思しき屋に移したてまつりて、上下(かみしも)となく立ちこみていとらうがはしく泣きとよむ声、(いかづち)にもおとちらず。

大炊殿(おおいどの) は、台所の事である。上下(かみしも)となく とあるのは近隣の住民たちが、光源氏の屋敷を避難場所として逃げ込んできたからである。神殿の後ろの方には人々の食事の調理をしたり食事をしたりする建物があったが、そこに光る君は避難した。身分の高い人がいる所は、どんな危険が迫ってきても安全だと信じている民衆が、大挙して建物に避難してきているので身分の上下も隔てもなく、とにかく人々が密集していた。その人々が当てにしている貴人である光る君の建物にさえ雷が直撃したので、気も動転して泣きだして大騒ぎしてしまう。その大声は響き渡る雷鳴にも劣らない位に大きい。

空は墨をすりたるやうにて日も暮れにけり。

空は墨を摺って流したかのように真っ黒だった。漢詩では 雲墨色なり とか、雲墨に似たり などと表現されているが、まさにその世界が出現している。そして夜となり、漆黒の闇に包まれた。

 

雷の直撃が印象的であった。この部分は光源氏が死に直接近づいた場面である。光源氏本人には罪の自覚は無いが、天は光源氏を厳しく罰していると感じる。

光源氏も罪の自覚はなくとも罰を受けている自覚はあったであろう。この命の瀬戸際で光源氏は自分がまだ生きていたいと切望した。そこから彼の新しい人生、蘇りが始まるのである。この日の夜、夢の中で亡き父である桐壺院が姿を現した。桐壺院は光源氏を暖かく励ます。つまり光源氏は父から許されたのである。光源氏はかつて父である桐壺院を裏切り、その女御である藤壺と密通し、その結果として生まれてきた子供を東宮つまり次期天皇とした。その罪は襲い掛かる雷光によって消えたのだろうか。光源氏の贖罪、罪の償いは完了したのであろうか。これを充分だと認識するか、不十分と思うかの判断は読者に委ねられている。私は不十分だと思う。だからこそ光源氏は40歳を越えてから厳しい人生の真実と向き合うことになったのだと思う。

 

それでは桐壺院が夢に現れる場面を読む。雷雨は収まったが従者たちの困難は収まらない。近隣の庶民たちも、今度は神様の助けが無かったなら、命が危なかったなどと話していた。それを聞いた光源氏はその言葉に共感して歌を詠んだ。その場面から読む。

朗読② 光源氏は疲れてウトウトしていると、亡き父 桐壺院が夢の中に現れ、この浦を去れと励ましてくれた。

  海にます 神のたすけに かからずは 潮のやほあひに さすらへなまし

終日(ひねもす)いりもみつる雷の騒ぎに、さこそいへ、いたう(こう)じたまひせければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。かたじけなき御座所(おましどころ)なれば、ただ寄りゐたまへるに、故院ただおはしまししさまながら立ちたまひて、「などかくあやしき所にはものするぞ」とて、御手を取りて引き立てたまふ。「住吉の神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りね」とのたまはす。いとうれしくて、「かしこき御影に別れたてまつりにしこなた、さまざま悲しきことのみ多くばべれば、今はこの渚に身をや棄てはべりなまし」と聞こえたまへば、「いとあるまじきこと。これはただいささかなる物の報いなり。我は位に在りし時、過つことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を()ふるほど暇なくて、この世をかへりみざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るにたへがたくて、海に入り、渚に上り、いたく(こう)じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて立ち去りたまひぬ。

 解説

  海にます 神のたすけに かからずは 潮のやほあひに さすらへなまし     

  まず光源氏が読んだ歌である。

海の神である住吉明神にも、海の世界を支配している海竜王にも、私を助けて下さいと祈った。その効果はあった様である。もしも神が守ってくれなかったら高潮にさらわれて今頃は、沢山の汐の流れが一つになるという深い海の底に沈んでいたかもしれない。

終日(ひねもす)いりもみつる雷の騒ぎに、さこそいへ、いたう(こう)じたまひせければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。

海辺でお祓いをした日から丸一日激しく吹いた風による大騒動で、光源氏は冷静沈着に神に祈っていたが、さすがにくたびれ果てた。思わずウトウトとまどろんだ。「湖月抄」は いりもみつる を急なる様、つまり烈しい様子と解釈している。本居宣長は語源にまで溯り解説している。風がいりもみつる というのは、後の野分の巻にも見られる表現である。

物を炒る、火で熱する如く風が吹くという事であるというのである。

かたじけなき御座所(おましどころ)なれば、ただ寄りゐたまへるに

非常事態なので光源氏は食事を作っている建物に緊急避難している。むさくるしい部屋なので柱に寄りかかった姿勢しか取れないので熟睡できない。ここから光源氏の見た夢の内容になる。

故院ただおはしまししさまながら立ちたまひて、

その夢の中に亡き桐壺院が現われる。生きておられる時と全く変わらない姿であった。

「などかくあやしき所にはものするぞ」とて、御手を取りて引き立てたまふ。

桐壺院の霊魂は光る君の目の前に立って、「そなたは何故このような見苦しい場所にいるのか」と言いながら光る君の手を取って立ち上がらせた。早くここから立ち去るようにという仕草であろう。

「住吉の神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りね」とのたまはす。

のたまはす は言う の最高敬語である。桐壺院は住吉神社の導きに従うが良い。舟に乗ってこの須磨の浦を早く立ち去るが良いと仰った。後から考えるとこの言葉は、光源氏が播磨国の明石へと移ることの前兆なのであった。

いとうれしくて、「かしこき御影に別れたてまつりにしこなた、さまざま悲しきことのみ多くばべれば、今はこの渚に身をや棄てはべりなまし」と聞こえたまへば

光る君は夢と知りつつ嬉しくて堪らない。「父上もったいない程に私を守って下さいました。父上とお別れしてからは、悲しい事ばかりが続いて、今はこの須磨へと流れてきました。この渚で私の運勢も命も尽き果てようとしています。」と訴えられる。それに対する桐壺院の返事である。

「いとあるまじきこと。これはただいささかなる物の報いなり。

これに答えて桐壺院は、「この浦でそなたの命が尽きることなどあってはならないことだ。そなたがこうして悲しい思いをしているのは、ただ一寸した報いを受けているからなのだ」と仰る。これは光源氏と藤壺の密通の報いだと言っている様に、それ以外の過ちを指しているとも取れる。

我は位に在りし時、過つことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を()ふるほど暇なくて、この世をかへりみざりつれど、

また桐壺院は自らの現在の境遇についての言及をなさる。私は天皇の位に在った時に、為政者として過失はなかった。但し天下の政の最高責任者としてやむを得ない成り行きで責めを負う事態があったのは事実である。その罪を償う為に死んだあとは、地獄で苦しい思いを続けてきたので、そなたたち生きている者たちの事を見てやるだけの余裕がなかった。だから苦しんでいるそなたたちを救ってあげられなかった。それにしても天皇であった時に犯した罪とは何だったであろうか。「湖月抄」は次の様に解説する。これは桐壺院桐壺帝の準拠・モデルが醍醐天皇であることと深く関っている

言葉である。醍醐天皇は宇多天皇の信認が厚かった右大臣菅原道真を失脚させ、大宰府に左遷した。大宰府に流された道真は醍醐天皇を恨んだという。日蔵という上人が地獄めぐりをしたところ、道真を苦しめた醍醐天皇の姿がそこにあったという。菅原道真を失脚させたことが醍醐天皇の犯した罪だったのである。

いみじき愁へに沈むを見るにたへがたくて、海に入り、渚に上り、いたく(こう)じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」とて立ち去りたまひぬ。

桐壺院の霊魂は、夢を見ている光る君になおも語り続けた。但し最近になってあの世からそなたを見ていると、ひどく苦しんでいるのを知った。そうすると黙って見ているのが我慢できくなり、あの世から海を潜り渚から陸に上がり、私自身ひどく疲れてしまったけれど、こうしてそなたと会えたし話も出来た。そのついでと言っては何だけど、都の内裏にいる今上帝・朱雀帝にぜひ申し上げたいことがある。だからもう少しそなたと話をしていたいが、ここで切り上げる。こけから都へ戻るつもりだ。そう言い残して院は光る君の前から去ってしまった。この後のストーリ-展開から考えると、桐壺院は光源氏を都に呼び戻すよう朱雀帝に告げたかったのだと推測される。

 

それでは今の続きを読む。

朗読③光る君は桐壺院にお伴をしますと言ったが姿は消えた。夢である。

飽かず悲しくて、御供に参りなんと泣き入りたまひて、見上げたまへれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢の心地もせず、御けはひとまれる心地して、空の雲あはれにたなびけり。年ごろ夢の中にも見たてまつらで、恋しうおぼつかなき御さまを、ほのかなれどさだかに見たてまつるのみ面影におぼえたまひて、われかく悲しびをきはめ、命尽きなんとしつるを助けに(かけ)りたまへるとあはれに思すに、よくぞかかる騒ぎもありけると、なごり頼もしううれしうおぼえぬまふこと限りなし。

 解説

飽かず悲しくて、

もっと見ていたいというニュアンスである。光源氏はもっと父君の顔を見ていたがったしい、お声も聞いていたかったが、さって行かれるので心の中は物足りなく感じる。

御供に参りなんと泣き入りたまひて、見上げたまへれば、人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢の心地もせず、御けはひとまれる心地して、空の雲あはれにたなびけり。

「父上、都に行かれるのでしたらお供をさせて下さい」と光る君は泣きじゃくりながら、さっきまで桐壺院が立っておられた場所を見上げる。ここで光る君はハッと目が覚めた。桐壺院がおられた場所には誰もいない。桐壺院の懐かしい顔ではなく、ただ月の顔だけが光りつつ空に掛っていた。けれども光る君には亡き桐壺院と言葉を交わしたことが、何から何まで夢だったとは思えない。姿は見えないけれども、辺り一面には亡き桐壺院の気配が濃厚に漂っていた。空の雲も名残惜し気に漂っていた。これは「高唐賦(こうとうふ)という漢詩を踏まえている。男の夢に現れて、契った巫山(ふざん)という山の女神が別れに際して、朝には雲となり夕べには雨とならんと言ったという内容の漢詩である。「源氏物語」では何度も引用されている。また月の顔の部分に「湖月抄」は杜甫の漢詩の影響を指摘している。杜甫の「李白を夢む」という詩に 落月滿屋梁 猶疑照顏色

  (らく)(げつ)(おく)(りょう)に満ち、()疑う 顔色を照らすかと

屋根の上に残っている月は懐かしい人の顔の様に見えるという内容である。杜甫が親友の李白の夢を見て詠んだと伝えられる漢詩である。

年ごろ夢の中にも見たてまつらで、恋しうおぼつかなき御さまを、ほのかなれどさだかに見たてまつるのみ面影におぼえたまひて、

桐壺院が崩御されたのは4年前、たった4年しか経っていないのに、凡てが変わってしまった。これまで光源氏は夢の中でも桐壺院とお会いできない心もとなさをずっと感じていたのだが、かすかではあるがはっきりと夢の中で再会し尊顔を拝することが出来た。今も桐壺院の面影がはっきりと焼き付いている。

われかく悲しびをきはめ、命尽きなんとしつるを助けに(かけ)りたまへるとあはれに思すに、

私はこのように悲しみのどん底にあって、命の危険に直面したからこそ、桐壺院は私を救うためにこの世まで空を()けて現れて下さったのだと光る君は心から感謝する

よくぞかかる騒ぎもありけると、なごり頼もしううれしうおぼえぬまふこと限りなし。

これも光源氏の心である。先ず「湖月抄」の解釈である。右大臣と弘徽殿の大后(だいきさき)一派に迫害されて、須磨まで左遷されたからこそ、桐壺院とお会いできたのだ。私はここまで追い詰められたことが悲しくはなくなった。むしろ嬉しいとしみじみ思う。この解釈に本居宣長は反対している。よくぞかかる騒ぎもありける とは、光源氏が左遷されたことを指すのではない。今回の大暴風雨と雷鳴の災害を指しているというのである。私は かかる騒ぎ は、「湖月抄」と本居宣長説の両方を含んでいると考える。

ともあれ、さっきまで生と死の境目に立たされていた光源氏が早くも父から許されている。夢が父の思いであるとすれば、その父から光源氏は守られているのである。桐壺院の霊魂は光源氏が都へ戻って権力の中枢へと登りつめていくことを後押ししてくれるであろう。不思議な夢は直接光源氏の人生を大きく変えた出来事である。光源氏のもとに明石入道の乗った舟が迎えにやってきたのである。

光源氏は夢のお告げと考えあわせ、須磨から明石へと移ることにした。これを 浦伝い という。須磨の浦から明石の浦へと海伝いに舟で移動するのである。

 

次の場面を読む。

朗読④明石の入道が神のお告げで、ここに舟を出せと言われて、お迎えに来ましたと言う。

()ぬる(ついたちの)()の夢に、さまことなる物の告げ知らすることはべりしかば、信じがたきことと思うたまへしかど、『十三日にあらたなるしるし見せむ。舟をよそひ設けて、かならず雨風止まばこの浦に寄せよ』とかさねて示すことのはべりしかば、試みに舟のよそひを設けて待ちはべりしに、いかめしき雨風、雷の驚かしはべりつれば、(ひと)朝廷(みかど)にも、夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを、(もち)ゐさせたまはぬまでも、このいましめの日を過ぐさず、このよしを告げ申しはべらんとて、舟い出しはべりつるに、あやしき風細う吹きて、この浦に着きはべりつること、まことに神のしるべ(たが)はずなん。ここにも、もし知ろしめすことやはべりつらんとてなむ。いと(はばか)り多くはべれど、このよし申したまへ」と言ふ。

 解説

「湖月抄」の解釈をベースとした現代語訳、即ち「湖月抄」訳で理解を深める。明石の入道はかねてより面識のある源義清を介し、光る君と連絡を取ろうとした。光る君は義清に入道の意図を尋ねさせた。すると入道の使者は次の様に語った。「それがしはさる3月の13日に不思議な夢を見ました。人間とは見えない得体のしれないものが夢の中に現れ、ある御告げをした。その内容がにわかには信じがたい事だったので、どうしたものかと悩んでいた。そうしたらまた不思議な夢を見た。13日の日にあらたかな霊験を見せてやろう。舟を用意して明石を立ち、須磨の浦へと向かい舟を寄せるが良かろうという二度目のお告げがあった。それがしは3月13日に何があるだろうと思いつつ、舟の準備をしてその日を待った。すると13日の日はこれまで見たことの無い暴風雨と雷鳴で、それがしも驚かされた。須磨には光る君が都から移って住んでいると聞いていた。その身に万一の事があれば、この国にとって取返しのつかない損失となる。それがしは二度も夢のお告げを受けたが、中国でも御告げを信じ国家の経営がうまくいったという(ためし)がいくつもあったそうである。中でも古代中国の殷の22代王 武丁(ぶてい) は夢のお陰で、傅説(ふえつ)という賢人を得て国家を繫栄させたと聞いている。

それがしは夢のお告げを信じ、行動に移しました。たとえ光る君がそれがしの申し入れをお受けにならないとしても、13日にあらたかな霊験があったという機会を逃さず、それがしの見た夢のお告げを光る君に伝えようと決心しました。そして明石から船を漕ぎ出したのである。そうすると不思議な事に荒れていた海の風が弱まり、しかも順風になって難なく この須磨の浦に到着した。神の御導きであると確信した。こちらにおいでの光る君には何かしらの夢のお告げが御有りになったのではないかと思っています。誠に畏れ多いことであるが、この由を光源氏様のお耳にお入れください と明石の入道は経緯を語った。

 

古代中国で夢を信じて国家の運営・経営がうまくいった前例として、「湖月抄」は殷の武丁(ぶてい)と、賢人とする傅説(ふえつ)の出会いを詳しく説明している。皇帝が夢を信じて(てん)(しん)を得て国家を中興させるという内容である。そういえば

「太平記」で語られる後醍醐天皇と楠木正成の出会いを連想させる。こちらも夢のお告げがあったのである。

江戸時代の「湖月抄」以前にも、傅説(ふえつ)の故事は鎌倉時代から始まった「源氏物語」の研究を通して我が国に広く知られていた。それが室町時代の「太平記」にも影響を与えたのではないか。なお本居宣長が所持していた「湖月抄」には夢の御告げの箇所に書き入れがある。「古事記」で神武天皇が高倉下(たかくらじ)という人物の故事を指摘している。神武天皇が東征の途中、熊野で危機に陥った時に、高倉下(たかくらじ)が不思議な剣を入手する夢を見た。その夢の通りに霊力のある剣が見つかって、神武天皇は危機を脱したのである。「古事記伝」の著者である本居宣長らしい記事である。かくて光源氏は明石に移り、明石の入道から丁重にもてなされる。入道は風情のある優雅な暮らしぶりであった。初夏のある夜、月を愛でる光源氏は琴を弾き、入道と語り合う場面がある。

新古今和歌集を代表する歌人であり、「源氏物語」の青表紙本と呼ばれる本文を校訂したのが藤原定家である。その定家が

  見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

と言う名歌を詠んだのはこの場面を踏まえているのである。

朗読⑤光る君は琴を弾いてしみじみとした風情を醸し出す

いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のととこほりなき海づらなるに、なかなか春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、水鶏(くいな)うちたたきたるは、()(かど)さしてとあはれにおぼゆ。

 説明

この部分全体が草子地つまり語り手の作者のナレ-ションとなっている。

いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、

さてこれからは語り手である作者自身の感想を申しあげる。私は光る君の演奏を聞いていた。そもそも美しい月という所から、それはそれほどの力量でもない人の演奏であっても、それなりに優れて聞こえるものである。

はるばると物のととこほりなき海づらなるに

ずっと見渡す限りの滑らかな海の様子という所からも加わり、まして光る君の演奏なので本当に素晴らしいものであった。

なかなか春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、

ここに 花紅葉 とある。今は初夏の4月である。春の花盛りでも秋の紅葉の見頃でもない。けれども若葉や青葉になり始めた初夏の木々の優美さは却って花や紅葉の季節よりも優れていると感じられる。

水鶏(くいな)うちたたきたるは、()(かど)さしてとあはれにおぼゆ。

どこかから水鶏の鳴き声が聞こえてくる。水鶏の声は男が女の家の戸口を叩く音に例えられる。

  まだ宵に うち来て叩く水鶏かな 誰が(かど)さして 入れぬなるらむ という歌がある。

初夏の宵はまさに恋の情緒も漂わせている。鳥や獣ですら折にふれては恋の情趣を搔き立てるものだから、この初夏の爽やかな季節は、音楽に心を動かすには最高の季節なのである。

 

「源氏物語」明石の巻は、春の桜の花や秋の華やかさには無い、夏の爽やかな美しさを讃えていた。

一方藤原定家が

  見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

と詠んだのは、秋の夕暮れのわびしさがテーマである。夏の情緒は感じられない。定家は明石の巻の季節を一変させることで、中世の新しい美学を作り上げたのである。明石の巻は秋には無い夏の美しさを讃えたのであるが、定家は秋は秋でも紅葉の絢爛とした美しさではなく、華やかなものは何一つない存在しない虚無の美学をつくりあげたと言えるであろう。

王朝の「源氏物語」が中世の新しいわびさびの美術を生み出したのである。

 

「コメント」

 

最悪の須磨での生活に、亡き桐壺院の霊魂と夢の中で再会し勇気づけられ、またお告げによって明石の入道が現れ、新しい展開が始まる。