240727⑰「須磨の巻2

今回は須磨の巻の後半を読む。光源氏は都を離れて摂津国の須磨でわび住いをしている。8月15夜は須磨の空にも中秋の名月が上がってきた。紫式部は石山寺に籠っている時、琵琶湖に映る中秋の名月を見て、須磨の場面を思い浮かべ、「源氏物語」に着手したという伝説がある。北村季吟の「湖月抄」というタイトルの由来である。

 

名場面を読む。

朗読① 光源氏は中秋の名月を見てもの思う

月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋しく、所どころながめたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。「()千里外(せんりほか)故人心(こじんのこころ)」と()じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧やヘだつる」とのたまはせしほど言はむ方なく恋しく、をりこのこと思ひ出でたまふに、よよと泣かれたまふ。「夜更けはべりぬ。」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。

  見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはん 月の都は遥かなれども

その夜、上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも恋しく思ひ出きこえたまひて、「恩賜の御()は今(ここ)に在り」と()じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身はなたず、かたはらに置きたまへり。

  うしとのみ ひとへにものは 思ほえで ひだりみぎにも ぬるる袖かな

 解説

月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋しく

空に顔を出した月が華やかに光輝いている。それを御覧になった光る君は、そうかすっかり忘れていたけれども、今日は8月15夜だったなあ、まだ都にいるのであれば必ず宮中では名月を愛でながら、詩歌管弦の遊びが催されるであろうから忘れることはあり得ない。須磨で淋しく暮らして居るから忘れていたのだろう と思う。

15夜である事に気付いてみると、かつて華やかな宮邸で繰り広げられていた詩歌管弦の宴に自分も参加して華やかであった日々が恋しくてならない。

所どころながめたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。

まもる は、見守る。じっと見続けるという意味である。宮中の人間だけでなく、都に残っている恋人もどういう思いでこの名月を眺めているのだろうかなどと考えると光る君は、澄み切った名月から目が離せない。

()千里外(せんりほか)故人心(こじんのこころ)」と()じたまへる、例の涙もとどめられず。

光る君は白楽天の漢詩を思い出し、口誦する。「三五夜中新月色、二千里外故人心」三五(さんご)夜中(やちゅう) 新月(しんげつ)の色、()千里の(ほか) 故人の心 三五夜 は3×5 =15 で15夜のこと。空に出たばかりの満月を見ると、遠くにいる親友の事が懐かしく偲ばれるという意味である。

白楽天はこの詩を宮中で詠んだけれども、光る君は須磨の地から、はるかな宮中を偲んでいる。光る君の悲しみの方が、白楽天よりも格段に深くあわれも勝っている。光る君の口誦を聞いて従者たちは例によって涙を禁じ得ない。

入道の宮の、「霧やヘだつる」とのたまはせしほど言はむ方なく恋しく、をりをりのこと思ひ出でたまふに、よよと泣かれたまふ。

入道の宮 は藤壺である。光る君は藤壺が出家する直前に、

  九重に 霧や隔つる 雲の上の 月をはるかに 思ひやるかな

と詠んだことを恋しく思い出す。また様々な思いが脳裏をよぎる。心の優しい朱雀帝が自分と対面することを隔てている霧がある。その霧は悪い政を行っている右大臣や弘徽殿の大后たちのシンボルである。その悪政によって自分は須磨をさまよっている。光る君は声を立てて激しく泣いた。

夜更けはべりぬ。」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。

従者たちは余り長時間、月を御覧になっていると悲しい思い出が蘇ってきて、心が苦しくなるのでもうおやすみになりませんかと、慰めの言葉を掛けるけれども、光る君は部屋に戻らず月を見続けたままである。

  見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはん 月の都は遥かなれども

光源氏の歌である。いや私は月を見ていると心が慰められるのだ。あの月の世界には物思いの無い都があるらしいが、私にとって都というのは京の都だけである。遠く離れた都に私が戻れるのはいつになるのやら。

その夜、上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも恋しく思ひ出きこえたまひて、

上 は、朱雀帝である。ある夜、朱雀帝が光る君と昔の思い出を語りあったこともあった。その時の帝の顔は、亡き桐壺院とそっくりだった。様々な事が懐かしく思い出される。

「恩賜の御()は今(ここ)に在り」と()じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身はなたず、かたはらに置きたまへり。

光源氏は昔、菅原道真が大宰府で詠んだ漢詩を口ずさんだ。「去年の今夜、清涼殿で醍醐院から御衣を賜った。

大宰府にも持参して毎日その衣を見て、その香りを嗅いでいる」という意味である。光る君は朱雀帝への思いを菅原道真が左遷された大宰府の地で詠んだ漢詩に託して朗唱する。その漢詩を朗誦しながら部屋に入って行く。光る君もまた、朱雀帝から御衣を賜わった事がある。その衣を光る君は須磨まで大切に持ってきていて、この漢詩の言葉通りに毎日拝んでいるのだった。

  うしとのみ ひとへにものは 思ほえで ひだりみぎにも ぬるる袖かな 

光源氏の歌である。

今の私は須磨で暮らしながら辛いとばかり思い続けている訳ではない。朱雀帝から賜わった御衣を手にすると、懐かしく恋しい気持ちになる。私の左右の袖は、辛さ故の涙と恋しさ故の涙と二種類の涙で濡れている。

この歌について「湖月抄」は別の解釈も出来ると言っている。

朱雀帝を恨む気持ちはない積りだが、時として恨めしく思う時もある という説である。本居宣長はこの説は誤りで、辛さと恋しさが入り混じっている説が良いと述べている。光源氏が朱雀帝から御衣を授かる場面は物語には書かれていない。この場面で初めて書かれた。

 

さて冬になった。光源氏の孤独は一段と高まる

朗読② 冬の夜に琴を弾いたり、歌を作ったりする。

冬になりて雪降り荒れころ、空の景色もことにすごくながめたまひて、(きん)を弾きすさびたまひて、(よし)(きよ)に歌うたはせ、大輔(たいふ)横笛吹きて遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、こと物の声共はやめて、涙を(のご)ひあへり。昔胡の国に遣はしけむ女を思しやりて、ましていかなりけん、この世に我が思ひきこゆる人などをさように放ちやりたらむことなど思ふも、あらむことのやうにゆゆしうて、「霜の後の夢」と()じたまふ。

月いと(みあか)うさし入りて、はかなき旅の御在所(おましどころ)は奥まで隈なし。床の上に、夜ふかき空も見ゆ。入り方の月影すごく見ゆるに、「ただ是れ西に行くなり」と独りごちたまひて、

  いづかたの (くも)()にわれも まよひなむ 月の見るらむ こともはづかし

と独りごちたまひて、例のまどろまれぬ暁のそらに千鳥いとあはれに鳴く。

  友千鳥 もろ声に鳴く あかつきの ひとり寝ざめの 床もたのもし

 解説

ここにも漢詩が踏まえられている。憂いや孤独を表すには漢詩がピッタリである。

冬になりて雪降り荒れころ、空の景色もことにすごくながめたまひて

雪がひどく降り乱れ、空の景色もひどく殺風景に感じられた。

(きん)を弾きすさびたまひて、(よし)(きよ)に歌うたはせ、大輔(たいふ)横笛吹きて遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、こと物の声共はやめて、涙を(のご)ひあへり

気をとり直そうと光る君は七絃の琴を気ままに爪弾く。付き添っている義清に歌を歌わせ、惟光には横笛を吹かせ遊ぶ。光る君は熱心に秘術を尽くして弾く。皆は感動の余り自分達の楽器を演奏するのも忘れ、ただ感にたえて聞き入り感動の涙を流している。

昔湖の国に遣はしけむ女を思しやりて、ましていかなりけん、この世に我が思ひきこゆる人などをさように放ちやりたらむことなど思ふも、あらむことのやうにゆゆしうて、「霜の後の夢」と()じたまふ。

この部分は王昭君のエピソ-ドが踏まえられている。光る君は琵琶の琴、四弦の琴を()(きん)ということから、ふと胡の国・中国北方の国を連想した。かつて漢の都から北の辺境の地へと遣わされた王昭君の故事である。漢の皇帝が王昭君の様な美女を遠い国に遣わされた時の心境は苦しいものだっただろうが、王昭君本人の心も如何ばかりの悲しみであったことか。私自身も愛する紫の上と遠く離れて暮らして居るので、恋しい人と離れる悲しみがよく理解できると思った。すると愛する人を遠くへ放ちやる悲劇が今にもわが身に降りかかりそうで、忌々しく感じるのであった。

大江朝綱が王昭君を詠んだ漢詩を光る君は朗誦する。

胡角一声霜後夢 ()(かく)一声(いっせい)霜後(そうご)の夢
漢宮萬里月前腸 漢宮(かんきゅう)萬里(ばんり)月前(げつぜん)(はらわた)

この 胡角 も胡の国の楽器である。

月いと(みあか)うさし入りて、はかなき旅の御在所(おましどころ)は奥まで隈なし。床の上に、夜ふかき空も見ゆ。

冬の月がまことに明るく射してきた。質素な作りである須磨の住まいは軒先が長くはない。その為月の光が部屋の奥まで隈なく照らし出す。また床の上からも夜の空が見えている。

入り方の月すごく見ゆるに、「ただ是れ西に行くなり」と独りごちたまひて

ここには再び菅原道真の漢詩が引用されている。

東から上がってきた月が、いつの間にか西へ沈もうとしている。山の端に沈む直前の月の光は誠に凄絶である。

光る君は菅原道真の漢詩を独り言のように口にする。ただこれ西にいくなり。左遷に非ず。

太陽や月は東から西へと迷うことなく向かっていく。自分も左遷されたのではなく、そういう運命として自然に大宰府に来たのだと道真は自らを慰めた。光る君は、自分は道真公とは違う悲しみを抱いている。そして己の思いを歌に詠んだ。

  いづかたの (くも)()にわれも まよひなむ 月の見るらむ こともはづかし

私は迷いつつ都から西の須磨へと左遷されてやってきた。雲の上を迷って西へ行く月が、私の事をどう思っているか、恥ずかしくて堪らない。

と独りごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に千鳥いとあはれに鳴く。

この様に和歌を独り言のように口ずさんだ後、いつもの様に眠れない夜を過ごし暁を迎える。その暁の空には千鳥が群れを成して鳴きかわしている。そして光源氏は二首目の歌を詠んだ。

  友千鳥 もろ声に鳴く あかつきは ひとり寝ざめの 床もたのもし

友千鳥 という言葉があるように、千鳥は群れを成し仲間たちと声を合わせて鳴いている。今の私は一人で寂しく住みわびているが、いつか恋しい都の人たちと一緒になれる日が、来るかもしれないと思うと少しは未来を頼みたいと思う気持ちになる。千鳥には仲間が大勢いる様に、私には仲間が都にいると信じられるからである。

なお本居宣長はこの歌の たのもし は この 千鳥 が、光源氏の友だと思えるから自分は孤独ではないことが分かり頼もしいのであると述べている。光源氏の友は都にいる人たちではなく、須磨の千鳥なのだという解釈である。

 

さて光源氏が須磨に移ってきた年の暮れ、新春になった。

朗読③

須磨には、年かへりて日長くつれづれなるに、植えし若木の桜仄かに咲きそめて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ多かり。二月二十日あまり、()にし年、京を別れし時、心苦しかりし人々の御ありさまなどいと恋しく、南殿の桜は盛りになるぬらん一年の花の宴に、院の御気色(けしき)内裏(うち)の上のいときよらになまめいて、わが作れる句を()じたまひしも、思い出できこえたまふ。

  いつとなく 大宮人の 恋しきに 桜かざしし 今日も来にけり

 解説

ここは「湖月抄」の説を踏まえて現代語訳をする。

光る君は26歳の新年を須磨の地で淋しく迎えた。春になり木も延びたが何もすることがないので、所在なく過ごしている。昨年須磨に移ってきた当初、庭に植えた(おさ)()の桜がチラホラ咲き始めた。空の雰囲気も春うららかである。光る君は青空の下の桜の花を見ている内に、様々な事を思い出しその懐かしさに思わず涙をこぼしてしまう事が多い。220日過ぎになった。去年都を立って須磨に向かった3月の下旬だった頃、紫の上をはじめ、後に残る女君たちの事を思うと後ろ髪引かれるようで切なかったことなどが、恋しく思い出される。また、もう7年も前の事になるだろうか。宮中で催された花の宴で、舞を舞った記憶も蘇る。いまごろ南殿即ち紫宸殿の左近の桜は満開なのではないか、あの時も220日過ぎだったので丁度今頃だった。今は亡き父君桐壺院がまだ天皇に在位中で、とてもご機嫌が良かった。現在帝位についた朱雀帝はまだ東宮であったが、大層清らかで優美で、私が作った漢詩を絶賛して自ら朗詠されたものであった。その漢詩は引きあてた春という文字を韻にして作ったものであった などと懐かしく思い出される。

  いつとなく 大宮人の 恋しきに 桜かざしし 今日も来にけり

この淋しい須磨に住んでいると、去年まで過ごしていた都の春それも宮中の春の行事が懐かしくて堪らない。

  ももしきの 大宮人はいとまあれや 桜かざして 今日も暮らしつ 和漢朗詠集

といった歌があるが、今も宮中では花を愛でる宴が催されていることだろう。この私もその宮中の華やかな宴に参加したこともあるが、今は須磨で淋しく桜の花の季節を過ごしている。光源氏の青春の絶頂ともいえる花の宴の巻の世界が思い出とされている。

 

それでは今の場面の続を読む。

朗読④親友の三位の中将が、須磨に訪ねて来てくれる。

いとつれづれなるに、大殿の三位中将は今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世(ときよ)のおぼえ重くてものしたまへど、世の中あはれにあぢきなく、もののをりごとに恋しくおぼえたまへば、事の聞こえありて罪に当たるともいかがはせむと思しなして、にはかに(もう)でたまふ。うち見るより、めづらしううれしきにひとつ涙ぞこぼれける。

住まひたまへるさま、言はむ方なく唐めきたり。所のさま絵に描きたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の(はし)松の柱、おろそかなるものからめづらかにをかし。

 解説

頭の中将の友情は、後の時代の読者から高く評価されている。「湖月抄」を参考にして、頭の中将の友情の深さを理解しよう。

いとつれづれなるに、大殿の三位中将は今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世(ときよ)のおぼえ重くてものしたまへど

ものしたまへど は、そういう状況でいらっしゃるという意味である。光る君は須磨の日々の手持ち無沙汰に苦しんでいる。都でもまた一人の貴公子が手持無沙汰をかこっていた。左大臣の長男である頭の中将は三位中将を経て、現在は大将参議に昇進している。但し最初の頭の中将という呼び方が最も相応しいので、ここでも頭の中将と呼ばせてもらう。頭の中将の人柄も良いし、何といっても朱雀帝の外戚で権力を掌握している右大臣の娘婿であるので、中央政界でも重きをなしている。けれども頭の中将は光る君とはライバル関係でありながら、固い友情で結ばれた真の親友だった。

世の中あはれにあぢきなく、もののをりごとに恋しくおぼえたまへば、事の聞こえありて罪に当たるともいかがはせむと思しなして、にはかに(もう)でたまふ。

都には親友の光る君がいないので、頭の中将は悲しくてならず、都での日々がまことに面白くなく感じられる。

事あるごとに光る君のことを思い出してしまうので、もし私が須磨まで出かけて行って光る君と対面したことが世間の話題となって、罪人である光る君と心を交わしたとしてこの私まで罪を得たとしても、罪を受けようではないかと決心する。そして急遽思い立って須磨へと向かう。誠に麗しい友情の発露である。

うち見るより、めづらしううれしきにひとつ涙ぞこぼれける。

和歌を踏まえた表現である。頭の中将は光る君の顔を見た瞬間から、久し振りの再会が嬉しくて、またこれまで別れて暮らしたことが辛くて胸に込みあげてくる感情を堪えきれない。

  うれしきも 憂きも心は ひとつにて 分れぬものは 涙なりけり 後撰和歌集 よみびと知らず

という歌があるが、頭の中将はまさに嬉しい涙と悲しい涙が一つに溶け合った複雑な涙をこぼすのであった。

住まひたまへるさま、言はむ方なく唐めきたり。所のさま絵に描きたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の(はし)松の柱、おろそかなるものからめづらかにをかし。

「湖月抄」の解説を踏まえて訳す。

頭の中将の目に映った光る君の住まいは唐風・中国風の異国情緒であるという一言に尽きる。何よりも立地条件が中国の絵画に描かれているような景色であるし、竹を編んで作った垣根がぐるりと張り巡らされている。階段は石で作られているし、松の木の柱など無造作に作ってあるけれど、都人の目には新鮮で風情が感じられる。実の所、光る君は白楽天が香炉峰の麓に草房・庵を作って隠棲したというその住いを須磨の地で再現していたのである。

白楽天の漢詩によれば、彼の住まいには石の階段、松の柱、竹垣があったという。頭の中将が唐風と感じたのも当然である。なお白楽天の漢詩で、松の柱の部分を桂の柱とする写本もある。なお唐風を認めない国学者本居宣長は、「湖月抄」が 唐めく を中国風という意味と解釈した点に反発している。

本居宣長はこの 唐めく は普通の様子とは違っているという意味であって、中国風という意味ではないと主張する。けれどもここは白氏文集の白楽天の漢詩句に基づき、白楽天が香炉峰の麓に営んだ草房・庵の姿を再現しているので、中国風であることは疑えない。

「無名草子」という本がある。鎌倉時代の初頭に書かれた物語、評論書である。この「無名草子」は須磨の巻で、頭の中将が光源氏に示した友情を高く評価している。頭の中将の人間性に共感しているのだが、これを一歩進めれば教訓読みや道徳読みとなる。「湖月抄」の教訓読みや道徳読みの延線の一つがこの「無名草子」だと考えられる。

さていよいよ大暴風雨と雷の場面となる。光源氏が命の危険にさらされる緊迫した場面である。三年に及ぶ光源氏の旅のクライマックスである。3月の初めに巡ってきた()の日は五節句の一つ 上巳(じょうし)の節句である。現在では3月3日に固定されて桃の節句・雛祭となっている。この日光源氏が海辺でお祓いをしていると、突然の大暴風雨と雷に襲われた。暴風雨が吹いてくる場面は、「湖月抄」の解釈をベ-スとした現代語訳で読む。本文では

(ひじ)(かさ)(あめ)とか降りきて から始まる場面である。

上巳(じょうし)の日に海辺でお祓いをしていると雨が急に降ってきた。傘を被る時間の余裕がないので、肘笠雨 と呼ばれる雨である。その肘笠雨 が猛烈に降ってきたので、光る君も従者たちも大慌てで引き返そうとするが、本当に傘を手に取る余裕もない。それまで全く予兆などなかったのに風までが激しくなり、そこら中の物を吹き飛ばす。これまでに体験したことの無い大風である。沖からは一つ大きな波がうねりとなって押し寄せてくる。人々は足が地に着かない程にうろたえている。海の表面が絹の襖を張ったように光輝いているのは、雷が鳴り響き稲妻がきらめくので波までが白く見えるからである。雷が今にも頭上に落ちてきそうな危険を感じながら、従者たちはやっとのことで須磨の宿にたどり着いた。彼らは口々にこんなひどい雨と風そして雷にはこれまで会ったことが無いなと、そもそも強い風というのは前もって風の吹く前兆が少しくらいはあるものだ。それなのに今日の風は何の前触れもなしにとんでもなく強く吹いてきた。腰を抜かすほどに珍しいことだなどと激しく動揺している

そう話し合って間にも雷は絶えることなく鳴り轟く。雨脚はとても強く地面にうち当たるので、ばらばらと降り落ちてくる雨粒にぶっつかったものには、穴が開くのではないかと思う位である。従者たちはこれが世界の終わりというものなのだろうかと、この世界ごと自分の命も失われてしまいそうな不安に駆られている。所が光る君といえば、自分を見失うことなく、静かに仏典・お経を唱えている。何事にも動じないのが光る君の素晴らしさである。あたりがとっぷりと暮れた頃に雷は鳴りやんだ。但し風は依然として激しく吹いている。雷鳴だけでも落ち着いてきたのは、天候が回復したならば、これこれのお礼をするなど人々が神仏にお祓いしたからだろう。それでも従者たちの心配は収まりようもない。昼間と同じ様な好天がもう少し続くならば、打ち寄せてくるや大波に巻き込まれて海に連れ去られてしまう恐れがある。高潮という恐ろしい災害があって、防ぎようもなく人が命を失うという話を聞いたことがある。それでも今回の様な大災害の話は聞いたことが無いなどと口々に言い合っている。光源氏にとって最大の試練である。

 

これに続く場面を原文で読む。

朗読⑤ 光る君は少し眠って恐ろしい夢を見る。

暁方(あかつきがた)みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、「など、宮より召しあるには参りたまはぬ。」とて、たどり歩くと見るに、おどろきて、さは海の中の竜王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけりと思すに、いとものむつかしう、この住まひたへがたく思しなりぬ。

 解説

恐ろしい夢である。

暁方(あかつきがた)みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、

明け方近くになってさすがに従者たちは疲れが出て仮眠をとっている。光る君も少しばかりおやすみになった。すると不思議な夢を見る。以下その夢の内容である。

そのさまとも見えぬ人来て、「など、宮より召しあるには参りたまはぬ。」とて、たどり歩くと見るに、

その夢は人間の顔をしているのではない得体のしれないものがやってきて、「そなたは竜宮から来るようにと言われているのに何故おいでにならないのか」と言いながら、光る君の在処(ありか)を探してどこかへ連れて行こうとしているという内容であった。

おどろきて、  びっくりした光る君は眠りから覚めた。

さは海の中の竜王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけりと思すに

光源氏が今見たばかりの夢を解釈している場面である。さては海の底に住んでいる竜王が、私の美貌を愛でて連れ去ろうとしているのだろうかと思う。

いとものむつかしう、この住まひたへがたく思しなりぬ。

光る君は自分が海の底の世界に引き込まれようとしていると直感し、生理的な不気味さを感じた。この須磨には1年近く住んできたがそろそろ住みにくくなってきたなと思う。

 

ここで須磨の巻は終わる。この続きはどうなるのか。続きは明石の巻に書かれている。読者は夢中になって明石の巻を読み、気付いたら「源氏物語」を通読する際の最大の難所とされる須磨の巻を読み終えているのである。さて「湖月抄」によればこの夢は「日本書紀」を踏まえているとされる。我が国で「古事記」が読まれるようになったのは、本居宣長から後である。それまでは「日本書紀」が読まれてきた。「日本書紀」に(ひこ)()()()()(みこと)という人物が登場する。山幸彦の事である。兄の釣り針を失くして海の神の宮殿へと旅立つ。そして竜神の娘である豊玉姫と結婚する。竜神が明石入道、(ひこ)()()()()(みこと)が光る君、そして豊玉姫が明石の君にそれぞれ対応すると「湖月抄」は言うのである。所で「紫式部日記」によれば「源氏物語」を読んだ一条天皇は、作者には「日本紀」の知識があると仰った。その為紫式部は日本紀の御局というあだ名がついた。一条天皇が「源氏物語」を読んで、「日本書紀」の影響を感じたのは、或いはこの場面であったのかも知れない。光源氏は暴風雨に雷、そして竜神からの招きによって、命の瀬戸際に立たされている。これからどのように試練を切り抜けるのだろうか。光源氏は竜神と戦い、竜神を退治するのだろうか。それとも親切な竜神にもてなされるのだろうか。

 

「コメント」

将に千変万化。作者の創造力にはいよいよ感心する。当時の読者の興奮が伝わってくる。