240706⑬「(さか)()の巻(2)

今回は賢木の巻の後半を読む。光源氏が藤壺に接近し、それが原因で藤壺が出家する。また光源氏は政治的に敵対している右大臣の娘・朧月夜と密会していたが、それが露見してしまう。まず光源氏が藤壺に接近する場面を読む。光源氏は王命婦の手引きではなく、計略で藤壺の寝所に入り込む。藤壺は余りの衝撃で体調を崩す。このために二人の間には実事はなかった。次の日、光源氏は塗籠の中に潜んで夜になるのを待つ。その事を藤壺は知らない。塗籠は寝殿作りの母屋の中に、周囲を壁で塗りこめて作った部屋である。物置として使う。

 

朗読① 光源氏が藤壺の寝所の塗籠の部屋に潜んで夜を待つ場面

君は塗籠の戸の細めに開きたるを、やおら押し開けて、御屏風の葉様に伝ひ入りたまひぬ。めづらしくうれしきにも、涙落ちて見たてまつりたまふ。「なほ、いと苦しうこそあれ。世や尽きぬらむ」とて、外の方を見出だしたまへるかたはら目、言ひ知らずなまめかしう見ゆ。御くだものをだにとて、まゐりすゑたり。箱の蓋などにも、なつかしきさまにてあれど、見入れたまはず。世の中をいたう思しなやめる景色にて、のどかにながめ入りたまへる、いみじうろうたげなり。髪ざし、(かしら)つき、御髪(みぐし)のかかりたるさま、かぎりなきにほはしなど、ただかの対の姫君に(たが)うところなし。年ごろすこし思ひ忘れたまへりつるを、あさましきまでおぼえたまへるかなと見たまはふままに、すこしもの思ひのはるけどころある心地したまふ。

気高うは恥づかしげなるさまも、更にこと人とも思ひわきがたきを、なほ、限りなく昔より思ひしめ聞こえてし心の思ひなしにや、さまことにいみじうねびまさりたまひにけるかなとたぐひなくおぼえたまふに、心まどひして、やをら()(ちょう)の内にかかづらひ入りて、御()の褄をひき鳴らしたまふ。

 解説

光源氏の心には激しい感情が湧き上がっていた。これに共感するか嫌悪するかは、読者が光源氏という人間を好きになるか嫌いになるかの分かれ目である。

君は塗籠の戸の細めに開きたるを、やおら押し開けて、御屏風の葉様に伝ひ入りたまひぬ。

光る君は昼間中、ずっと籠っていた塗籠の妻戸・両開きの戸が細く開いているのをすっと押し明けて、藤壺の部屋に入り込む。

めづらしくうれしきにも、涙落ちて見たてまつりたまふ。

光る君の目の前に藤壺がいる。そう思うと涙が溢れてくる。この男は前にいる女が桐壺帝に入内してきた時、10歳の少年であった。今は「湖月抄」の年立てでは23才である。13年もこの男はひたすら藤壺に憧れてきた。本居宣長は、昨夜接近した時には暗くて、彼女の顔を見ておらず、今夜はっきり見届けて嬉しかったのだと説明している。若紫の巻の、もののまぎれ で藤壺が懐妊したのは6年前の事であった。6年振りなので光源氏は藤壺との逢瀬を新鮮に感じたのであろう。

「なほ、いと苦しうこそあれ。世や尽きぬらむ」とて、外の方を見出だしたまへるかたはら目、言ひ知らずなまめかしう見ゆ。

女は男の自分に近づいている事実を知らない。女は小さな声でやはり気分が悪いようです。苦しくて堪りません。もう自分の命が尽きるのではないかと言いながら、部屋の外をぼんやり眺めている。女の顔が男の目には誠に優美に見える。

御くだものをだにとて、まゐりすゑたり。箱の蓋などにも、なつかしきさまにてあれど、見入れたまはず。

体調を崩した女は食欲不振である。女房達はせめてお菓子位は召しあがって下さいと軽食を持ってきた。

それが虚しく女の前に置かれたままである。箱の蓋にも美味しそうに盛り付けてあるが、女は見向きもしない。

世の中をいたう思しなやめる景色にて、のどかにながめ入りたまへる、いみじうろうたげなり。

女は男との関係をひどく思い詰めて悩んでいる。けれども女は取り乱してはいない。誠に気高い姿である。

(かしら)つき、御髪(みぐし)のかかりたるさま、かぎりなきにほはしなど、ただかの対の姫君に(たが)うところなし。

男はふと気付いた。女の髪の生え際も頭の形も、髪の毛が背中に垂れている様子も華やかな雰囲気も、男が自分の屋敷で住まわせている姫君・紫の上と瓜二つなのである。二人は伯母と姪の関係である。藤壺は29歳、紫の上は16歳。

年ごろすこし思ひ忘れたまへりつるを、あさましきまでおぼえたまへるかなと見たまはふままに、すこしもの思ひのはるけどころある心地したまふ。

最近では紫の上によって心の傷を癒していたので、藤壺の顔の記憶がやや薄れつつあった。今久し振りに女の顔をすぐ近くから見ると、紫の上は驚くほど藤壺に似てきていると確認できたので、紫の上によって藤壺との苦しい恋を慰めることが出来るという心境にもなれる。

 

ここからは読み所なので一気に読む。

気高うは恥づかしげなるさまも、更にこと人とも思ひわきがたきを、なほ、限りなく昔より思ひしめ聞こえてし心の思ひなしにや、さまことにいみじうねびまさりたまひにけるかなとたぐひなくおぼえたまふに、心まどひして、やをら()(ちょう)の内にかかづらひ入りて、()の褄をひき鳴らしたまふ。

先ず訳す。

だが紫の上と藤壺がそっくりであるといっても、光る君は幼い時からずっと藤壺を心の底から慕い続けてきた。藤壺を愛することは光る君が生きることと同じ意味だった。藤壺に対する思いはそれほど特別な感情なのである。藤壺はやはり紫の上とは違う。それにしても美しく成熟されたことだと、今年29歳になった藤壺の美しさを

比類ないものと感じる。藤壺のへの憧れと共にずっと自分自身の人生を思い出してみると、突然心の底からこみ上げてきた激情があり、平常心も道徳心も自制心も次々と飛んでしまった。男は感情を抑えることが出来ず、藤壺がいる几帳の中に潜み入った。そうして物思いに沈んでいる、藤壺の御召し物の裾を引き動かしたので、その音が藤壺の耳に届いた。

最後の ()の褄をひき鳴らしたまふ。 という部分は、現在では光源氏が藤壺の衣の裾を引いたのではなく、光源氏が自分の着ている衣の裾を引っ張って音を立て、自分が近づいていることを藤壺に知らせたと解釈されている。ともあれ たぐひなくおぼえたまふに、心まどひして、 とある 心まどひ という言葉に読者は共感できるだろうか。ここに光源氏に対する評価の分岐点がある。私は「湖月抄」の道徳読み・教訓読みに賛同するものであるが、突然の情念の爆発にも共感する。光源氏が可哀想だと思うと同時に、これは人間の真実の姿を現していると思う。だから私は光源氏が好きである。なお今回は読まなかったが、

この場面の直前に大切な文章がある。

男は、うしつらしと思ひきこえたまふこと限りなきに、()(かた)行く末かきくらす心地して、うつし心失せにければ、明けはてにけれど出でたまはずなりぬ

この文章に関して、「湖月抄」は道徳読みを繰り広げている。好色な人間は最初は本人も自制するし人目を気にして、まさか自分が破滅することはないだろうと考えているが、恋に溺れると本心を失ってしまう。読者は「源氏物語」を読んでそのことを理解し、好色を戒めなければならない。私はこの「湖月抄」の道徳読みにも共感する。本居宣長は道徳心によっても妨げられない感情の爆発を肯定する。それが もののあわれ の本質であるという。

私は理解できる。

 

それではこれに続く場面を読む。

朗読② 寝所に入り込んだ光源氏が、藤壺をかき口説く。

けはひしるくさと匂いたるに、あさましうむくつけう思されて、やがてひれ伏したまへり。「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、ひき寄せたまへるに、御()ほすべしおきてゐざり退()きたまふに、心にもあらず、

御髪(みぐし)の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世(すくせ)のほど思し知られていみじと思したり。男も、ここら世をもてしづめたまふ御心みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く恨みきこえたまへど、まことに心づきなしと思して、(いら)へも聞こえたまはず。ただ「心地のいとなやましさを。かからぬをりもあらば聞こえてむ」とのたまへど、尽きせぬ御心のほどを言ひつづけたまふ。さすがにいみじと聞きたまふ(ふし)もまじるらん。あらざりしことにはあらねど、あらためていと口惜しう思さるれば、なつかしきものからいとようのたまひのがれて、今宵も明けゆく。

解説

けはひしるくさと匂いたるに、あさましうむくつけう思されて、やがてひれ伏したまへり。

衣の裾を引っ張られた音がして、それが自分の着ている衣の様なので、藤壺はハッと現実に引き戻された。音を立てたのは光る君だった。彼の焚きしめている薫物(たきもの)の香りが藤壺を包んだ。女は余りの事に驚くと同時に恐怖の念に駆られた。だからそのままうつ伏してしまった。

「見だに向きたまへかし」と心やましうつらうて、ひき寄せたまへるに、

男の心である。男は自分の顔を少しでもいいから見てくれないものかと思う。自分を避ける女の心が情けなく恨めしい。そこで女の着ている衣を掴み、ぐっと引き寄せる。男は分別を失くしている。

()ほすべしおきてゐざり退()きたまふに、心にもあらず、御髪(みぐし)の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世(すくせ)のほど思し知られていみじと思したり

女は着ているものを脱ぎ捨て、座ったままで男から逃れようとした。だが何とした事か、男が掴んでいる女の衣の裾と一緒に、女の長い髪の毛を掴まれてしまった。もう逃げられない。自分と男との前世から決まっていた宿命が何とも情けなく、女はひどく悲しいと思う。けれどもそういう宿命であったとしても、今度ばかりは絶対実事を持ってはならないと心を強く持った。髪の毛が男の女への接近を許したのである。だからこそ藤壺はこの髪の毛を切り、出家して尼になる決心をしたのである。

男も、ここら世をもてしづめたまふ御心みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く恨みきこえたまへど、まことに心づきなしと思して、(いら)へも聞こえたまはず。

ここら は沢山という意味である。男の方は幼い時からこの女への憧れを持ち続けてきた。二度の実事はあったが、普段はこの女への愛を自制できていた。それが今はいつもとは違う人格の持ち主となっている。男は様々な恨み言を涙をこぼしながら訴える。それを聞く女は本心からなって不愉快になって返事もしない。

どうだろうか。この男は愚かだろうか。

ただ「心地のいとなやましさを。かからぬをりもあらば聞こえてむ」とのたまへど、尽きせぬ御心のほどを言ひつづけたまふ。さすがにいみじと聞きたまふ(ふし)もまじるらん。

女の心は複雑である。女の口から出たのは明らかに嘘と分る。その場凌ぎの言葉だった。今夜はひどく気分が優れない。後日もっと元気になったら、その時はその時に会ってお話ししましょうと言う。男は自分は幼い時から今まで一途に女を慕い続けてきた心情を切々と訴え続ける。それを聞くと女は男の接近を厭いつつも、心の奥底では男を愛しているので、本当に心に響く言葉だと思いながら、聞く言葉もあったのではないか。特に二人の間に生まれた東宮・後の冷泉帝の即位を力の限り支えるという言葉などは、女には嬉しく思えただろう。最後は草子地で、語り手のコメントになる。

あらざりしことにはあらねど、あらためていと口惜しう思さるれば、なつかしきものからいとようのたまひのがれて、今宵も明けゆく。

女はこの男と実事を持ったことがこれまでにない訳ではなかったが、今夜三度目の実事を持つことは極力回避しようと思う。心の奥底には男に引き付けられる要素はありながら、それでも実事なしに朝になった。

 

この後亡き桐壺院の一周忌の法要の後に藤壺は出家した。翌年の正月、光源氏が藤壺を住いの三条院を訪ねる

場面を読む。

朗読③ 光源氏が出家した藤壺を訪ねる

客人(まろうど)も、いとものあはれなるけしきに、うち見まはしたまひて、とみにものたまはず。さま変れる御住まひに、御簾(みす)の端、御几帳(きちょう)()()にて、隙々(ひまひま)よりほの見えたる薄鈍(うすにび)梔子(くちなし)の袖口などなかなかなまめかしう奥ゆかしう思ひやられたまふ。解けわたる池の薄氷、岸の柳のけしきばかりは時を忘れぬなど、さまざまながめられたまひて、「むべも心ある」と忍びやかにうち()じたまへる、またなうなまめかし

  ながめかる あまのすみかと 見るからに まづしほるる 松が浦島

と聞こえたまへば、奥深うもあらず、みな仏に譲りきこえたまへる御座所(おましどころ)なれば、すこしは近き心地して、

  ありし世の なごりだになき 浦島に 立ち寄る浪の めづらしきかな

とのたまふもほの聞こゆれば、忍ぶれど涙ほろほろとこぼれたまひぬ。世を思ひすましたる尼君たちの見るらむも、はしたなければ、言少なにて出でたまひぬ。

 解説

この場面は「湖月抄」に基づいた現代語訳で読む。

来客である光る君は誠に淋しい雰囲気が漂う住まいを眺めながら、直ぐには藤壺に掛ける言葉も出てこない。住まいは出家する以前とは一変しており、簾も几帳の色も出家した人が用いる青桐色の青みを帯びた灰色になっている。あちこちの隙間から微かに見える袖口の薄桐(うすきり)(いろ)梔子(くちなし)(いろ)は、やはり出家した尼君たちの用いる色ではあるのだが、青桐色が混じると却って優美で奥ゆかしいと光る君は感じる。桐壺帝が崩御した後、私達には厳しい冬の試練が続いています。けれども池の薄氷は溶け始めているし、シデの柳も芽吹き始めている。自然界だけは

季節を表す春の準備をしている などと思いながら、庭の様子を眺めている。やがて 「むべも心ある」

と口ずさんだ。これは後撰和歌集の

  音に聞く 松が浦島 今日ぞ見る むべも心ある あまは住みけり 後撰和歌集 素性(そせい)法師

という歌の一節である。松が浦島 は陸奥の松島である。松が浦島 には魚を取る海士が住んでいるが、ここには心ある、尼・出家者が住んでいるという掛詞の意味である。光る君は素生(そせい)法師の歌を口ずさんことで、藤壺が心ある尼であることを称えたのである。その光る君姿もまた、心ある者の情趣を理解している比類のない優美さだった。自分の歌も詠んだが、やはり素生法師の歌を供えていた。

  ながめかる あまのすみかと 見るからに まづしほるる 松が浦島 源氏

陸奥には 松が浦島 という風光明媚な歌枕があり、海士がワカメを刈る為に袖を塩水で濡らしているようである。私は風流な尼君である藤壺の屋敷を訪れて、しみじみとした雰囲気に心を打たれ、昔を偲ぶ涙で袖を濡らしている。とこのように藤壺に言葉を掛けた。それに対して藤壺も返事を返した。これまでと違って女房が伝える藤壺の歌が、本人の声で光る君の耳に聞き分けられる。出家前は部屋の奥に藤壺の御座所があったのだが、今ではそこには仏像が安置されている。藤壺は少し手前に座っている。

  ありし世の なごりだになき 浦島に 立ち寄る浪の めづらしきかな 藤壺

松が浦島 には、波が寄せては返しているだろうが、私の住まいは華やかな昔の名残もなく、淋しくて波も寄せては来ない。まるで久し振りに故郷に戻ってきた浦島の子・浦島太郎が昔と一変した風景に驚くのと同じような事である。それでもあなたは珍しくも立ち寄ってくれたのですね。

こう言った藤壺の声を微かに耳にすると、それまで涙を堪えて光る君も我慢できなくなり泣いてしまった。藤壺に仕えている女房達も王命婦をはじめとして、何人も尼となり伝道に勤しんでいる。彼女たちの見る目もあるので、光る君は多くを語らず退出した。出家は男が男でなくなり、女が女でなくなるのである。つまり藤壺は光る君との恋愛の対象ではなくなったのである。それでも光源氏は藤壺に魅力を感じている。その事が 心ある あま という素性法年の歌の詞に示されている。尼となった藤壺は、光源氏の手の届かない所に去った。但し藤壺とそっくりな紫の上は、光源氏の傍に残っている。

 

賢木の巻の三つ目の柱に入る。朧月夜との関係である。朧月夜は(なしし)(かみ)として朱雀帝に仕えている。彼女は

(わらわ)(やみ)に罹って父親の右大臣の屋敷に戻っている。そこには朧月夜の母である弘徽殿の大后も住んでいる。そのような危険な場所で、光源氏は朧月夜と密会を繰り返す。所が突然の豪雨で帰りそびれた。困ったことにそこへ朧月夜の父親である大臣が、娘のお見舞いに現れた。この場面はダイジェストで紹介する。

原文で言えば

雷鳴りやみ、雨少しをやみぬるほどに、大臣(おとど)渡りたまひて、まづ宮の御方におはしけるを、村雨の紛れにて、え知りたまはぬに、軽やかにふと這ひ入りたまひて、御簾ひき上げたまふままに、「いかにぞ。いとうたてありつる

夜のさまに思ひやりきこえ参り来て()なむ。中将、宮の(すけ)などさぶらひつや」などのたまふけはひの舌疾(したど)にあはつけきを、大将はものの紛れにも、左大臣の御ありさま、ふと思しくらべられて、たとしへなうぞ()まれたまふ。

げに入りはてものたまへかしな。

激しかった雷が鳴りやみ、雨が小止みになった頃、右大臣が娘たちの無事を確認しようと思い立った。まず寝殿にいる弘徽殿の大后の部屋に顔を出した。その時ザッと村雨が降ってきたのでその音に消されてしまい、右大臣が近くまで来ている気配に、朧月夜は気付かなかった。そこへ突然スッと朧月夜の部屋に入ってきた、右大臣はいきなり朧月夜の寝所の御簾を引き上げたかと思うと、具合はいかがですか、いやもう全く昨夜から大変な雨と雷でしたが、あなたの様子を心配していたのですが、お見舞いすることも出来ませんでした。貴女の兄妹は顔を見せたかなどと尋ねた口調が何とも早口で軽々しい。とても大臣らしい物言いではない。光る君は自分が今、大変な窮地に直面している事も忘れて笑ってしまった。光る君の気持ちは私にも理解できる。右大臣にはせめて簾の中に体を全部入れて娘に話して欲しかった。右大臣は政治の世界では最高権力者なのだが、滑稽物語の俳優の役割を担っている。

 

それではそれに続く場面を読む。「湖月抄に導かれて味わっていく。

朗読④

()()の君いとわびしう思されて、やをらゐざり出でたまふに、(おもて)のいたう赤みたるを、なほなやましう思さるるにやと見たまひて、「など御気色(けしき)の例ならぬ。物の怪などのむつかしきを、修法(ずほう)延べさすべかり」とのたまふに、
薄二(うすに)(あい)
なる帯の御()にまつはれて引きいでられたるをみつけたまひてあやしと思すに、また畳紙(たとうがみ)の手習などしたる、御几帳のもとに落ちたりけり。これはいかなる物どもぞと御心おどろかれて、「かれは誰がぞ。けしき異なる物のさまかな。たまへ。それ取りて()がぞと見はべらむ」とのたまふにぞ、うち見返りて、我も見つけたまへる。紛らはすべき方もなければ、いかが(いら)へきこえたまはむ。我にもあらでおはするを、子ながらも恥づかしと思すらむかしとさばかりの人は思し(はばか)るべきぞかし。されどいと急に、畳紙を取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたうなよびて、つつましからず添ひ臥したる男あり。今ぞやをら顔ひき隠して、とかう紛らはす。あさましうめざましう心やましけれど、直面(ひたおもて)にはいかでかはあらはしたまはむ。目もくるる心地すれば、この畳紙を取りて、寝殿に渡りたまひぬ。()()の君は、俄かの心地して死ぬべく思さる。大将殿も、いとほしう、つひに用なきふるまひの積りて、人のもどきを負はむとすることと思せど、女君の心苦しき御気色(けしき)をとかく慰めきこえたまふ。

 解説

()()の君いとわびしう思されて、やをらゐざり出でたまふに、(おもて)のいたう赤みたるを、

()()の君 は、朧月夜の事である。光る君と一緒にいる所に突如として父親が現われたので朧月夜は困った。少しでも光る君から離れようと、そっと簾の外に座ったまま出てきた。その顔は余りの混乱の為に真っ赤だった。

なほなやましう思さるるにやと見たまひて、「など御気色(けしき)の例ならぬ。物の怪などのむつかしさを、修法(ずほう)延べさすべかり」とのたまふに、

娘の顔が上気しているのを見た父・大臣は「おや、お顔が真っ赤ですよ。お熱が下がらずまだ具合が悪いようだ。(わらわ)(やみ)が治りきるまで祈祷を続けなければならない。予定よりもお祈りの期間を延ばしましょうなどと言う。

薄二(うすに)(あい)なる帯の御()にまつはれて引きいでられたるをみつけたまひてあやしと思すに、また畳紙(たとうがみ)の手習などしたる、御几帳のもとに落ちたりけり。これはいかなる物どもぞと御心おどろかれて、「かれは誰がぞ。けしき異なる物のさまかな。たまへ。それ取りて()がぞと見はべらむ」とのたまふにぞ、うち見返りて、我も見つけたまへる。

右大臣の目に娘の部屋にあるはずのない、男物の帯が飛び込んできた。その右大臣の見馴れないものが見えた。簾の外に出てきた朧月夜の衣に、どう見ても男物である 薄二(うすに)(あい) ・青みを帯びた帯 が絡まった状態で、簾の外まで引きずられている。それを見た右大臣はおかしなことがあるものだと思う。するとおかしなものが更に見つかった。懐紙に何か歌の様な物が書いてある。それが朧月夜の几帳の中に落ちている。右大臣は男物の帯と言い、懐紙と言い、こんなものか何故ここにあるのだと仰天した。その驚きのまま、それらは一体だれのものですか。見馴れないものですが、こちらに寄越しなさい。誰の着物か調べるという。そういわれた朧月夜は後ろを振り向いて確かに男物の帯と、男が歌を書いた懐紙が落ちているのに気付いた。言い逃れする術がない朧月夜は

進退窮まった。返事も出来ず茫然自失したままである。

紛らはすべき方もなければ、いかが(いら)へきこえたまはむ。我にもあらでおはするを、子ながらも恥づかしと思すらむかしとさばかりの人は思し(はばか)るべきぞかし。されどいと急に、畳紙を取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたうなよびて、つつましからず添ひ臥したる男あり

ここは草子地・語り手のコメントである。

緊迫した場面であるが、読者は思わず笑ってしまう。僭越だが語り手の意見を述べる。右大臣の様な立場の人ならば、多分男と会っていたであろう娘の心を思いやって、我が娘ではあるかどんなに恥ずかしい思いをしていることだろうと配慮して、口にする言葉にも行動にも、親しい中だからこその配慮があって然るべきである。けれども右大臣という人は早口である事からも分かるように、短気でせっかちな性格なのであった。じっとしていられない右大臣は、娘がそれらの物を寄越さないので、自分の手で落ちていた懐紙を拾い上げながら、几帳の奥を覗き込んだ。するとそこにはとても優美な男が、あられもない姿で平然と横になっているのが見えた。

今ぞやをら顔ひき隠して、とかう紛らはす。あさましうめざましう心やましけれど、直面(ひたおもて)にはいかでかはあらはしたまはむ。目もくるる心地すれば、この畳紙を取りて、寝殿に渡りたまひぬ。()()の君は、俄かの心地して死ぬべく思さる。

光源氏・右大臣・朧月夜 三人の姿が書き分けられている。その男・光る君は右大臣に顔を見られた後になって、おもむろに顔を引き隠している。右大臣は娘が光る君と会っていた事実と、その光る君の太々(ふてぶて)しさに衝撃を受けた。光る君の態度が不愉快でそれが(しゃく)に障るのだが、いくら短気な右大臣といえども、相手が光る君であれば面と向かって暴き立て糾問することは出来ない。絶望感と怒りにかられ、光源氏の筆跡が記された懐紙を証拠品として取り上げて弘徽殿の大后の部屋に戻っていく。

大将殿も、いとほしう、つひに用なきふるまひの積りて、人のもどきを負はむとすることと思せど、女君の心苦しき御気色(けしき)をとかく慰めきこえたまふ

右大臣の前では平静を装った光る君も、月夜の胸中はいかばかりかと思うと可愛そうでならない。

このわが身の要らざる恋愛沙汰が積もり積もって、到頭世間の非難を浴びるに破目になったかと思うが、朧月夜は見ていても余りにも苦しそうなので言葉を尽くしてあれこれと慰めている。到頭光源氏と朧月夜の情事が露見した。右大臣と弘徽殿の大后は、光る君の失脚と追放を画策していく。

 

「コメント」

藤壺の所に忍び入るのは大胆過ぎるし驚き。朧月夜との密会も驚愕。そうか、こういう事で失脚し都を追放されていくのだ。こういうストーリ-を構想する作者に驚く