240615⑪「紅葉賀の巻と花宴の巻」

今回は紅葉賀の巻と宴の巻である。秋の宴と春の宴である。先ず紅葉賀の巻の宴である。神無月の紅葉の陰で上皇のお祝いが行われた。上皇40才とも50才のお祝いともされる。桐壺帝の準拠・モデルである醍醐天皇が、自分の前の天皇である宇多天皇をお祝いした史実を踏まえている。「湖月抄」の年立によると17歳の10月から18才の7月まで。本居宣長の説では18才から19才である。

 

この巻には二つの山場がある。一つは紅葉賀の巻の際に、光源氏と頭中将が2人で見事な青海波を舞ったこと。もう一つは藤壺が桐壺帝の子供、実は光源氏の子供を出産したことである。

それでは青海波の場面から読む。

朗読①

源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将、容貌(かたち)用意人にはことなるを、立ち並びてしは、なほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日影さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏面持、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、これや仏の御迦陵頻伽(かりょうびんが)の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなるに、帝涙のごひたまふ。上達部(かんだちめ)親王(みこ)たちもみな泣きたまひぬ。詠はてて袖うちなおしたまへるに、待ちとのたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ

 解説

源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。

帝、妃、殿上人など大勢が見守る中で、源氏の中将が青海波の舞を披露した。二人で演じる舞である。

片手には大殿の頭中将、容貌(かたち)用意人にはことなるを、立ち並びてしは、なほ花のかたはらの深山木なり。

左大臣家の長男である頭中将が、光る君の相手役を務めた。頭中将も美貌の貴公子であり、所作も優雅なので抜きん出ている。けれども光る君と並んで見ると、美しさは桜の場の深山木にしか見えない。山里に生えているので誰からも誉めて貰えない木が深山木である。但し奥山の常緑樹は奇麗な花と並んでも、それなりの味わいがある。

「湖月抄」は頭中将もそれなりに素晴らしいと言っている。けれども本居宣長は反対している。頭中将は源氏の君と比べたら、お話にならない。人々は光る君だけを見ていて、頭中将には目移りもしない と述べている。

入り方の日影さやかにさしたるに、

折から入り際の夕日が、ぱあっと明るく射してきた。夕日を浴びて輝くことを夕映えという。「源氏物語」は夕映えの美学を重視している。

楽の声まさり、もののおもしろきほどに、

二人の舞に合わせて奏でられる楽の響きは荘厳さを増し、見ている者たちに心の底から感動が湧き上がってくる。

同じ舞の足踏面持、世に見えぬさまなり。

青海波の舞の足の踏み方や顔の表情などは、誰が演じても同じ所作なのである。けれども光源氏が演じると、比類なく素晴らしいのである。

詠などしたまへるは、これや仏の御迦陵頻伽(かりょうびんが)の声ならむと聞こゆ。

青海波の総額が一時的に止んだ。その時間を利用して舞を務める人物が漢詩句を朗誦する。これを  という。

青海波の  は小野篁(おののたかむら)の作である。響き渡る光る君の声を聞いている人々は、これが極楽世界で妙なる声で鳴いている 迦陵頻伽(かりょうびんが) という鳥の声なのではなかろうかと感じた。

おもしろくあはれなるに、帝涙のごひたまふ。上達部(かんだちめ)親王(みこ)たちもみな泣きたまひぬ。

舞 といい、詠 といい光源氏の余りの素晴らしさに感動した帝はハラハラと落涙された。居並ぶ公卿たちや親王たちも一人残らず涙を流す。

詠はてて袖うちなおしたまへるに、待ちとのたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ。

光る君の漢詩句の朗唱が終わり、袖を返すとそれを待ち受けていた音楽が再び始まった。華やかな奏楽の響きと青海波の曲に没入して、神懸った舞を披露する光る君の紅潮した顔色とが相乗効果となって、普段から光る君と呼ばれているその光が更に一層、輝いている様に見える。

 

この後に光る源氏を見守る弘徽殿の女御と、藤壺の心が描かれる。この場面は「湖月抄」に基づいた現代語訳する。

現代語訳

東宮の母君である弘徽殿の女御は、卓絶した光る君が(ねた)ましくてならない。我が子があまりにも平凡だからである。そこで神様が空からご覧になったら、ああなんて美しいことだ、彼の命を奪ってここに連れてきたいと思われるのではないか、ああ不吉な事。でもできるなら光る君の命を奪って欲しいものだ などと仰る。この言葉を耳にした若い女房達は、何とも情けないお言葉だと思いながら聞き留めていた。一方、藤壺はこの舞と詠を披露した光る君に、私への愛という大それた心が無かったならば、どんなにか素直に賞賛できた事だろうと、自分たちが犯した取り返しのつかない過ちを思い出すのであった。光る君との密通も、罪の子を宿しているわが身も、夢の中を漂っている様に感じる。

 

光源氏を見守る藤壺は複雑な心境であった。そして藤壺は罪の子を出産した。後の冷泉帝である。系図の上では桐壺帝の十番目の息子である。それでは罪の子を出産した直後の場面を読む。

朗読② 藤壺の産んだ子との場面。

四月(うづき)に内裏に参りたまふ。ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起きかへりなどしたまふ。あさましきまで紛れどころなき御顔つきを、(おぼ)しよらぬことにしあれば、また並びなきどちはげに通ひたまへるにこそはと思ほしけり。いみじう思ほしかしづくこと限りなし。

例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、(いだ)き出でたてまつらせたまひて、「皇子たちあまたあれど、そこをのみなむかかるほどより明け暮れ見し。されば思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、みなかくのみあるわざにやあらむ」とていみじう美しと思ひきこえさせたまへり。中将の君、(おもて)の色かはる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがたうつろふ心地して、涙落ちぬべし。物語などして、うち笑みたまへるがいとゆゆしううつくしきに、わが身ながらこれに似たらむは、いみじういたはしうおぼえたまふぞあながちなるや。宮は、わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける。中将は、なかなかなる心地のかき乱るようなれば、まかでたまひぬ。

 解説      途中省略の部分がある。

四月(うづき)に内裏に参りたまふ。ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起きかへりなどしたまふ。

およすけ は、成長する、大きくなる という意味である。四月になって若宮、後の冷泉帝は宮中に参内した。二月に誕生してまだ三月目であるが、それにしては大きく育ち、少しずつではあるが起き返りしている。

あさましきまで紛れどころなき御顔つきを、(おぼ)しよらぬことにしあれば、また並びなきどちはげに通ひたまへるにこそはと思ほしけり。いみじう思ほしかしづくこと限りなし。

どち は、似た者同士の事である。それにしても光る君と若宮の顔つきは呆れるほどそっくりである。帝はまさか若宮の本当の父が光る君であるとは思いもよらない。それで光源氏と若宮の顔が似ている理由を、他の者たちよりも格段に優れている同志の顔は、似てくるのだろうと推測されている。帝はそれほど若宮を可愛がっておられる。

例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、

光る君はこの日もいつもの様に、藤壺の部屋に顔を出して、音楽の遊びに加わっていた。

(いだ)き出でたてまつらせたまひて、「皇子たちあまたあれど、そこをのみなむかかるほどより明け暮れ見し。されば思ひわたさるるにやあらむ。いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、みなかくのみあるわざにやあらむ」とていみじう美しと思ひきこえさせたまへり。ここは訳しておく。

そこへ帝が若宮を抱きながらお見えになる。そして仰るには「私は沢山の子供に恵まれている。この若宮は十番目の男の子である。けれども生まれた直後から、明けても暮れてもずっと顔を見続けたいと願ったのは、あなた光る君位のものだった。だからこうやって若宮を抱いていても、生まれたばかりのあなたの事を思いだすのだろう。あの頃とあなたと今の若宮が誠に良く似ているのだ。そもそも生まれたばかりの子供は、皆そっくりなのだろうか。」こう仰って、若宮を心から愛しいと思っておられる。

この後、光る君の心の動きが語られる。

中将の君、(おもて)の色かはる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがたうつろふ心地して、涙落ちぬべし。

この うつろふ を「湖月抄」は、心の中の思いが顔に映じ、映し出され、外に現れる と解釈している。この場面の湖月訳は次の様になる。

それを聞くと光る君は自分の顔色がサッと変わったのがわかった様に思われた。赤面するという言葉があるが、まさに光る君の心は恥じ入るばかりだった。何故ならば、似ているのも道理で生まれたばかりの若宮は自分の子供であるからだ。この秘密は絶対に帝に知られてはならない。そう思うと光る君の心は、最初に恐ろしいという気持ちで一杯だった。次にもったいないお言葉だと思われ、次には初めて若宮・我が子の顔を見て、嬉しさがこみあげてきた。その次にはここまでお喜びになっている帝に対して、いたわしいという思いが湧いてきた。そのような赤面する気持ちが、顔色にも表れてしまいそうで、涙がこぼれ落ちそうになる。

 

これに対して本居宣長は真っ向から反対している。うつろふ を「湖月抄」が、心の色が顔色に表れると解釈したのは、誤りも甚だしい。ここは光源氏の心の中で、恐ろし、かたじけなし、嬉し、あわれなどの様々な思いが交錯し、移り変わっているのだと言っている。確かに本居宣長の読みの方が深い。けれども徒然草 序段の 心に移りゆく よしなしごと の 移りゆく の 心の中に映じる という意味と、様々な思いが変化していくという意味の両方があると考えられる。本居宣長説と「湖月抄」を重ね合わせるのが妥当であろう。

物語などして、うち笑みたまへるがいとゆゆしううつくしきに、わが身ながらこれに似たらむは、いみじういたはしうおぼえたまふぞあながちなるや。

物語 は、赤ちゃんが意味の通じない、言葉らしきものを口にすることである。光源氏は、この時初めて若宮の顔を見た。

生まれたばかりなので、何か訳の分からない声を出して笑っている。神様に愛でられて若死をしてしまいそうなほどに可愛らしい。帝が仰ったように、自分と若宮が似ているのであれば、成る程若宮が可愛らしいのは当然だろうと、光源氏が思っているのは、あまりにも自己評価が高すぎるというものである。これは語り部が読者に語り掛けているのである。

宮は、わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける。

宮 は 藤壺である。藤壺は、帝が罪の子を可愛がっておられるのを目にして、辛くいたたまれない気持ちである。全身びっしょり、冷や汗をかいている。

中将は、なかなかなる心地のかき乱るようなれば、まかでたまひぬ。

なかなか は 却ってという意味である。「湖月抄」は次の様に解釈する。

光る君は、帝から自分の幼い日の美貌を誉められたので、もっと喜ぶべきだったが、却って心が乱されてしまい、早々に宮中を退出した。

本居宣長はここでも「湖月抄」に反対している。この なかなか は、若宮の顔をやっと見られたのは嬉しいが、会ったが為に却って良心の呵責で心が乱れたと解釈している。これは明らかに本居宣長説が妥当である。

 

それでは次の 花の宴の巻 に入る。この巻のタイトルは 花の宴 とあるが、本文では 桜の宴 とある。「湖月抄」では光源氏は19歳で昇格して宰相中将である。桐壺帝は醍醐天皇が準拠・モデルであるが、醍醐天皇の御代に花の宴は二度催されている。この巻では桐壺帝の退位が近いので、後の方の 延長4年 926年の花の宴が、紫式部に意識されていたのであろう。2月20日過ぎ、宮中の()殿(でん) 即ち 紫宸殿の左近の桜を愛でる宴が催された。光源氏は見事な漢詩を創作し、春鶯囀(しゅんのうてん) 春のうぐいすが(さえず)る という舞を見事に披露し、人々から絶賛を受けた。

 

その夜、藤壺と逢うことを断念した光源氏は弘徽殿の里居に入り込み、若い女性と契った。それが朧月夜である。

その部分を読む。

朗読③ 弘徽殿で 朧月夜との出会い

夜いと更けてなむ事ははてける。上達部おのおのあかれ、后、春宮か減らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君酔ひ心地に、見すぐしがたくおぼえたまひければ、上の人々もうちやすみて、かように思ひかけぬほどに、もしさりぬべき(ひま)もやあると、藤壺わたりをわりなう忍びて歩けど、語らふべき戸口ね()してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿(こきでん)(ほそ)殿(どの)に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。女御は、上の御局(みつぼね)にやがて(まう)(のぼり)りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の(くるる)()も開きて人音もせず。かやうにて世の中の過ちはするぞかしと思ひて、やをら上りてのぞきたまふ。人はみな寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、「朧月夜に似るものぞなき」とうち()して、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へる気色にて、「あなむくつけ。こは誰そ」とのたまへど、「何かうとましき。とて、

  深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろげならぬ 契りとぞ思ふ

とて、やをら抱き降ろして、戸を押したてつ。

 解説

「湖月抄」に導かれつつ読みすすめるが、「湖月抄」の解釈には同感できない読者も多いかも知れない。

夜いと更けてなむ事ははてける。 

華やかな花の宴の行事が終わったのは、夜がかなり更けてからであった。

上達部おのおのあかれ、后、春宮か減らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに

「湖月抄」は あがれ と読んでいるが、普通は あかれ と読む。別れる散り散りになる

という意味である。

儀式に参列した公卿たちは、三々五々退出したし、藤壺中宮も東宮・後の朱雀帝も戻ってい

った。

月いと明うさし出でてをかしきを、

宮中はまさに宴の後の高揚感を残しつつも、静かな情緒が漂い始めている。表の宴の主役だった光源氏には、

まだ心の中に熱気が残っている。今は二月の二十日過ぎなので、月の出は遅くやっと月の光

が宮中を照らし始めた。

源氏の君酔ひ心地に、見すぐしがたくおぼえたまひければ、

月の情緒を一人楽しんでいた光る君は、酒の酔いもあったのか、誰かと一緒にこの月の美し

さを語り合おうという思いを抑えきれなかった。そこで大胆な行動に出る。

上の人々もうちやすみて、かように思ひかけぬほどに、もしさりぬべき(ひま)もやあると、藤壺

わたりをわりなう忍びて歩けど、語らふべき戸口も()してければ、

常にお仕えしている者たちも寝静まったことであろう。こういう思いもかけぬ時に、もしか

したら千載一遇の機会があって、藤壺と逢えるかもしれない。光源氏はそのように期待して

忍び歩き回った。無論手引きしてくれる王命婦をあてにしているのである。けれどもしっか

り錠がさしてあって入れなかった。入り込むスキはなかった。

うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿(こきでん)(ほそ)殿(どの)に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。

なほあらじ は、このままでは済まされない という意味である。思わずため息をついた光

る君は、昼間の宴の高揚感、月の光に催された美的好奇心、藤壺への愛などで心に火がつい

ている。このままでは終われないと、青春の情熱の向かう相手を求める。藤壺の建物のすぐ

東側の筋向いにあるのが、弘徽殿である。その弘徽殿の様子を光源氏は伺う。すると渡り廊

下の三の口、北から三番目で最も南側の戸が開いている。弘徽殿の女主人の弘徽殿の女御

は、光源氏は憎悪している女性である。

女御は、上の御局(みつぼね)にやがて(まう)(のぼり)りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の(くるる)()も開き

て人音もせず

弘徽殿の女御は花の宴が終わった後そのまま天皇が、お休みになる清涼殿の上の御局に上られ帝

と夜を共にしている。

お付きの女房達も同行しているので、いかにも人少なに感じられる。部屋の奥の方に通じる戸も開い

たままである。人の気配もない。

かやうにて世の中の過ちはするぞかしと思ひて、やをら上りてのぞきたまふ。

やをら  そッと。この文章は解説が分かれている。まず「湖月抄」の解釈である。光る

君は部屋の中に踏み入りながらそういうわが身を顧みて、こういう風にして世の中の男は過

ちを犯すのだろうなと思われる。だがここで引き返すことはなく、過ちの中に巻き込まれて

いく、そっと上がりこみながら、弘徽殿の中を覗き込む。

つまり光源氏は自分が足を踏み入れながら、他の男たちもこんな風にして男女の過ちを犯す

のだと気付いたというのである。これに対して本居宣長は反対する。「湖月抄」は男の側が

こういう風にして過ちを犯すと解釈しているが、男女の把握が逆である。ここは女たちが

こういう風に戸締りをしないのが、男の侵入を防げず、過ちに巻き込まれてしまうのだと、

光る君は女の不用心さに気付いたというのである。男の側の過ち、女の側の過ちなのか、ど

ちらとも解釈できるのである。教訓読みを嫌悪している本居宣長でさえ、鍵をかけていなか

った女の側

に落ち度があると解釈している。本居宣長もまた、男中心の読みをしているのである。

人はみな寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、「朧月夜に似るものぞなき」とうち()して、こなたざまには来るものか。   この文は訳しておく。

女房達は皆寝静まっているようだった。そこへとても若々しい美しい声が聞こえてきた。女

房などではなく姫君であろうと思われる気品のある声である。その女性は後に、朧月夜の内

侍と呼ばれることになる。その女は、朧月夜に見る者は無き と口ずさんでいるようであ

る。大江千里の 照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の 朧月

夜に しくものぞなき という歌の下の句である。しく は男性の好む漢語調なので、大和

言葉の 見える の方が女性が口ずさむには相応しい。その声が何と、光る君の方に近づい

てくるではないか。女は光る君と同じ様に月をめでたがっているのだろう。

いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へる気色にて、「あなむくつけ。

こは()そ」とのたまへど、「何かうとましき。とて、

男は嬉しさの余りとっさに女の袖を出で握り捕らえた。女は恐ろしさを感じているような声

で、「誰がこんなこと」と口にしたが、男は女を安心させる様な優しい声で、「私はあなた

からそんなに嫌がられるような男ではありません」と言いながら和歌を詠んだ。

  深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろげならぬ 契りとぞ思ふ

おぼろげならぬ は、ぼんやりしていない、はっきりしている という意味である。私は誰

も見る人もいない月を愛でで散歩していた時に、偶然に私と同じ様に月を愛でておられるあ

なたと出合いました。春の夜の月は朧でも、山の端に沈むときにはさやかになる。あなたと

私は月の美しさを知る者同士として、決して おぼろけ 普通ではない、強い必然性で巡り

合ったのです。前世から決まっていた宿命だったのだろう。

とて、やをら抱き降ろして、戸を押したてつ。

この様に詠って男は女をそっと抱き降ろして、別の部屋に連れて行き戸を閉めた。

 

官能的な雰囲気が漂っている。この官能性が朧月夜の本質なのだろう。そして光源氏が朧月

夜と契りを結ぶ場面となる。

朗読④ 光る君は女の名を聞く

わびし思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじと思へり。酔ひ心地や例ならざりけ

ん。ゆるさむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし、らうたし

と見たまふに、ほどせなく明けゆけば、心あわたたし。女は、まして、さまざまに思ひ乱れ

たる気色なり。「なほ名のりしたまへ。いかでか聞こゆべき。

かうてでやみなむとは、さりとも思されじ」とのたまへば、

  うき身世に やがて消えなば 尋ねても 草の原をば 問はじとや思ふ

と言ふさま、艶になまめきたり。「ことわりや。聞こえ()へたるもしかな」とて

  いづれぞと 露のやどりを わかむまに 小篠(こざさ)が原に 風もこそ吹け

わづらはしう思すことならずは、何かつつまむ。もし、すかいたまふか」とも言ひあへず、

人々起き騒ぎ、上の(つぼね)に参りちがふ気色どもしげく迷へば、いとわりなくて、扇ばかりを

しるしに取り変えて出でたまひぬ

  この場面は「湖月抄」に基づく現代語訳をする。

男君から突然に接近された女はどうしたらよいか分からないと辛がる一方で、恐らく光る君

であろう男君に恋愛の情趣を理解しない、不愛想で強情な女だと思われたくはなかった。

この時女は既に男君に、心が靡いていたのである。光る君もまた弘徽殿に足を踏み入れた時

もそうであったが、花の宴の酔い心地がこれまでになく強かったのであろう。目の前の女と

何事もなくて、朝になってしまうのが残念なのである。女もまだ若くてなよなよとしている

ので、心を強く持って男を拒み通すことは出来そうにない。 という訳で、二人の間には実

事が交わされた。男が女の気持ちがいじらしいと思っている内に、あっという間に短い春の

夜は明けてきたので、何かと落ち着かない。女の方はこういう実事には疎かったので、心の

中で思い悩むことが沢山あり、男にもはっきりわかる程に悩んでいる。

男はこれまでに何度も女の名前を尋ねていたので、もう一度名前を教えていただけません

か。名前が分からないままお別れしたら、この後どうすればあなたと連絡が取れるのです

か。これっきりの関係で、私たちの関係を終わりにしようとはあなたも思っていないでしょ

う などと言う。すると女は和歌で返事をした。

  うき身世に やがて消えなば 尋ねても 草の原をば 問はじとや思ふ

あなたとこんなことになって辛い思いをした私は、生きているのに耐えられずにこのまま死

んでしまうでしょう。

そして草の原の中の墓に葬られることになるでしょう。そうなってもあなたは私の名前が分

からないからと言って、お墓まで来て下さらないのですか。愛さえあれは私の名前など簡単に突き止めて、会いに来て下さるはずで

す。こう歌う女の様子は幽遠、妖艶ですらある。光る君が成る程もっともだ、先程の私の言

葉はいかにも言葉足らずでした。その理由はかくかくしかじかですと言って、自分の和歌で

弁明する。

  いづれぞと 露のやどりを わかむまに 小篠(こざさ)が原に 風もこそ吹け

あなたの名前と住まいが正確に分からないと、あなたとの連絡を取ることが出来ません。

どうも右大臣家のお方のようですが、私と右大臣との間はうまくいってないので、余計な邪

魔が入ってきはしないかと心配しています。

そして私との関係を面倒だと思わないのであれば、どうしてお名前を教えてくれないのです

か。私に気のある素振りをして私をだまし、もう二度と逢わない積りではないでしょうね 

と仰る。この説得の言葉も終わらない内に、弘徽殿の方で慌ただしい動きが始まった。

昨夜、清涼殿にある上の局にお泊りになった弘徽殿の女房のもとに向かう女房と、上の御局

から戻ってくる女房とが頻繁に行きかっている。どうしようもなくなった光る君は女と、扇

だけを今回の逢瀬の記しそして次に会う時の記しとして、お互いの持ち物を交換しあった。

そして光る君は弘徽殿を後にした。

 

「湖月抄の解釈で訳した。この中で本居宣長が批判した部分がある。

「ことわりや。聞こえ()へたるもしかな

「湖月抄」は、先程私が言った事では、「いかにも言葉足らずでした。その理由はかくかく

しかじかです」と解釈する。しかな は、しかなり かくかくしかじか という意味だとい

う。本居宣長は斬新なアイデアで解釈を変更した。本文に濁点を打ったのである。聞こえ

()へたるもしかな ではなく、聞こえ()へたる文字かな

とした。文字 は言葉という意味であり、私の言い間違いでした という新解釈打ち出した

のである。現在は本居宣長説を採用している。紫式部が「源氏物語」を書いて800年後に

やっと正しい解釈が為されたという珍しい例である。なお朧月夜の歌の中で、草の原 とい

う言葉が使われていた。お墓という意味である。

藤原俊成は 草の原 という言葉が、「源氏物語」花の宴の巻に由来する言葉だと知らない

人は、歌人とは言えないと断言した。「源氏 見ざる歌よみは遺恨のことなり」紫式部より

200年後の事である。これより「源氏物語」は古典となり、歌人が学ぶべき必読書と

なった。

 

「コメント」

大急ぎで二つの巻を読んだが、実はほんの少しの部分でしかない。講義の取り上げてい

ない部分を読むのに忙しい。それにしてもよくもこれだけの物語の展開力がある物だと

感心する。