240608⑩「末摘花の巻」    

今回は末摘花の巻を読む。末摘花という女性はとても個性的である。彼女は荒れ果てた屋敷で、暮らす美しいとは言えない女性だが、笑われ役として重要な役割を果たしている。末摘花の巻の名前について、「湖月抄」には歌並びに言葉でもって巻の名とするとある。言葉つまり散文には なおかの末摘花 匂いやかに さし出でたり とあり、和歌には 懐かしき 色ともなしに 何いくも 末摘花を 袖にふれけん とある。末摘花は紅花の事である。紅花は枝の末、先の方から根元の方に向かって花が咲き続けるので、末から摘んでいく。それで末摘花というのである。「湖月抄」の年立では、光源氏が17才の春から冬まで。本居宣長の年立では、18才の春から19才の正月までとなっている。

末摘花の巻は、ひとつ前の若紫の巻と重なる。若紫の巻より以前の事と以後の事が書かれている。紫の上と末摘花は好一対というか、対照的なヒロインである。末摘花の巻は夕顔の巻の翌年から始まる。光源氏は、夕顔の様な魅力的な女性がもう一度、自分の前に現れてくれないかと願っていた。

 

末摘花の巻の冒頭を読む。

朗読 亡き夕顔への思いと、それに似た人を求める光源氏

思へどもなほあかざりし夕顔の露に後れしほどの心地を、年月()れど思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬかぎりの、気色(けしき)ばみ心深き方の御いどましさに、け近くうちとけたりし、あはれに似るものなう恋しく思ほえたまぬ

 解説

音律というか、リズムが心地よい。5757777という音数である。光源氏が心に抱えている、

夕顔への抒情的な思いがこの音律に現れている。「湖月抄」の傍注と頭注に導かれて現代語訳する。

 現代語訳

この巻は夕顔の巻が終わった翌年から始まる。光る君は夕顔という女の愛おしさを今も忘れないでいる。愛しても幾ら愛しても、それでも充分な愛し方を出来なかった夕顔という女が、露が消えてしまうように目の前で命を終えてしまった無念さ・やるせなさを、どんなに時間が経過しても忘れられないのである。とはいっても、夕顔が死んでからまだ半年しか経っていない。けれども光る君には夕顔のいない世界で、自分一人だけが長く生かされるという悲しみがある。無論、光る君の恋愛対象である女性は沢山いる。だが彼女たちは心から光る君と打ち解け、心から許すことはない。変に気取って光る君との恋愛遊戯を繰り広げることに熱中している。男と女のどちらが、より本気で相手を愛するかという戦いを挑んでくるのである。そういう意識の強い女たちとの恋愛遊戯に疲れると、光る君は彼女たちと違って、夕顔が無条件で男を受け入れる寛容性があり、かつ男の心をひきつける比類のない魅力に富んでいた事をしみじみと恋しく思うのであった。

 

本居宣長は面白い指摘をしている。去年の秋に夕顔と死別したばかりなのに、翌年の春に 年月()れど とあるのは変ではないかとある人から質問されたという。それに対して本居宣長は、「源氏物語」ではこういう書き方はよくあると答えている。例えば 胡蝶の巻 では、玉蔓が去年の冬に六条院に迎えられたのに、翌年の春に かく年経ぬる とある。「湖月抄」は末摘花の巻では、夕顔に似た女を求める気持ちが光源氏にあって、それが

末摘花の登場に繋がった。玉蔓の巻では、新築された光源氏の六条院には、夕顔が生きていたら迎えられただろうという気持ちから、夕顔の娘である玉蔓が登場したと述べている。

さて光源氏は夕顔の再来を願い、亡き常陸宮の忘れ形見である末摘花に関心を抱き、頭の中将と競い合いながらも結ばれた。所が引っ込み思案の末摘花は、一向に光源氏に心を開かない。そして雪の朝になる。末摘花と共に夜を過ごした光源氏は遂に、彼女の顔を見届けたのである。

 

「源氏物語」では、女性の顔かたちに関する具体的描写は少ないが、ここでは実に具体的である。その場面を読む。

朗読② 末摘花の描写

見ぬようにて()の方をながめたまへけれど、後目(しりめ)はただならず、いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらば、うれしからむと思すも、あながちなる御心なりや。

まづ、()(だけ)の高く、を()(なが)に見えたまふに、さればよとて、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪はづかしく白うて、さ青に、額つきこよのうはれたるに、なほ(しも)がちなる(おも)やうは、おほかたおどろおどろしく長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどは、痛げなるまで(きぬ)のうえまで見ゆ。何に残りなう見あらはしつらむと思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられたまふ。(かしら)つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、(うちぎ)の裾にたまりて引かれたふるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。

 解説

末摘花の顔を見ている光源氏の心に成りきって読み進めよう。

見ぬようにて()の方をながめたまへけれど、後目(しりめ)はただならず、

後目(しりめ) は、見たいものに顔を向けず、見ぬふりをしながらそれとなく見ることである。光る君は外の庭の方に目を向け、近付いてくる末摘花を見ない振りをしている。顔は女の方に向けずに、目だけはちらちらと末摘花の顔を見ている。

いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらば、うれしからむと思すも、あながちなる御心なりや。

この文章は草子地つまり語り手のコメントである。うちとけまさり は、実際に会ってみると予想したよりも素晴らしかったという事である。これまでは見たことはなかったけれど、女の素顔はどういうものなのだろうか、暗い所の手探りでは余り美形ではないと思われたが、近くで詳しく観察したならば思った以上に美形だったという事はないだろうか。もし少しでもよい所があれば嬉しいと光る君は思う。語り手の私が言うのも何だが、これは無理な願いというものである。この草子地は面白い。現代のアニメでもこういう作りがある。

まづ、()(だけ)の高く、を()(なが)に見えたまふに、さればよとて、胸つぶれぬ。

()(だけ) は、座っている時の肩から腰までの長さ、座高である。()(なが) は、背中の長さである。本居宣長は背中が湾曲して曲がっていることだと言うが、そういう用例はなく無理である。光源氏が最初に気付いたのは、女が座っていても顕著な身の丈の高さである。背中の長さが何とも長い。思った通り平均以下の女だったと、予想は裏切られなかったものの、予想よりもひどく悪い容姿だったので落胆した。

うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。

末摘花の鼻は、古典文学の中でも屈指の異貌(いぼう)である。背丈の高さに次いで、ここが何とも良くないと思えるのが女の鼻なのだった。光る君の目は、その鼻に吸い寄せられた。更に鼻の描写が執拗に続く。

普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。

普賢菩薩の乗物 は、象である。うたてあり は、良くないという意味である。仏像になっている普賢菩薩は、象の上に乗っているが、女の鼻を見ていると、その象の鼻が連想された。とんでもなく高い鼻が象の鼻の様に長くて、先が少し垂れ下がっている。しかもその鼻の先が少し赤く色づいているのは、全くもって見るに堪えない。

鼻以外の描写も克明である。

色は雪はづかしく白うて、さ青に、額つきこよのうはれたるに、なほ(しも)がちなる(おも)やうは、おほかたおどろおどろしく長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどは、痛げなるまで(きぬ)のうえまで見ゆ。

読んでいて末摘花が可愛そうになる。作者・紫式部は悪乗りしている様に感じる。女の肌の色は降り積もった雪も顔負けな程真っ白である。肌があまりにも白いので、青みを帯びているように見える。顔の上半分は額が広々としており、顔の下半分はいわゆる下ぶくれで上半分より長い。上半分と下半分を合わせると、この女の顔全体は恐ろしく長いのだろう。体は痩せている。ただ痩せているというのではなく、見ているものが哀れを催すほどに痩せさらばえている。肩の辺りには肉がついておらず、服を着ていてさえも可愛そうになる位に見すぼらしく見える。

何に残りなう見あらはしつらむと思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられたまふ。

光る君は女の素顔をはっきりと見てしまった事を後悔した。どうしてここまであからさまに見てしまったのだろうと思いつつも、これまで見た事もない女の顔かたちなので、もう見ないようにしようと思ってもついつい見てしまうのだった。所が末摘花には一つだけであるが、奇麗なものがあった。髪の毛である。

(かしら)つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、(うちぎ)の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。

(かしら)つき は、髪の形。かかりばしも は、髪の毛の様子という意味。一点だけ女の長所が発見できた。額の形や髪の毛の端が切り揃えてある様子が美しい。光る君が、美しい髪の女性だと思っている藤壺や葵の上と比べても、髪の毛だけは遜色はない。とても長いので、着ている裾の方にも余ってぐるぐると引き摺っている。一尺余りも余っていると見える豊かな髪である。

 

ここで紫式部の悪乗りとも言える辛辣な書き方について弁護しておきたい。それは物語の

俳諧という創作技法である。古今和歌集には俳諧歌がある。滑稽な歌という意味である。

それに対し滑稽な物語が物語の俳諧である。

「伊勢物語」で物語の俳諧とされたのは、23段「筒井筒」で高安の女が、手ずからしゃもじを持って飯を盛る場面、63段「九十九(つくも)髪」で高齢の女性が年甲斐もなく若い美男子を好きになる場面などである。「源氏物語」にもこのような物語の俳諧がある。好色な老女である源典侍(げんのないしのすけ)紅葉賀の巻、個性的な容貌の持ち主である末摘花、早口でまくし立てる 近江の君 玉蔓10帖などである。

物語の中で深刻な純愛ばかりが続くと、読者は涙を催して湿っぽくなってしまう。緩衝材・クッションとして乾いた笑いが必要とされるのである。それが物語の俳諧の役割だと私は考える。「湖月抄」の著者である北村季吟は、俳諧を大成させた松尾芭蕉の師匠でもある。

 

次に末摘花の荒れ果てた屋敷の様子を読む。光る君は末摘花の顔を見届けた後、帰途につく。その際に末摘花の屋敷の門が倒れそうになっていることや、松に積もった雪が暖かそうに見えた事などに感慨を催した。

朗読③ 末摘花の荒れはてた屋敷の様子

御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらもよろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしう荒れまどへるに、松の雪のみあたたかげに降りつめる、山里の心地してあはれなるを、かの人々の言ひし(むぐら)の門は、かやうなる所なりけむかし、げに心苦しくらうたげならん人をここにすゑて、うしろめたう恋しと思はばや、あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかしと、思ふやうなる()()にあはぬ御ありさまはとるべき方なしと思ひながら、我ならぬ人はまして見忍びてむや、わがかう見馴れけるは、故親王(みこ)のうしろめたしとたぐへおきたまひけむ魂のしるべなんめりとぞ(おぼ)さるる。

 解説

門は朽ち果て、今にも倒れ果てそうであった。

御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらもよろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしう荒れまどへるに

ゆがみよろぼひ という言葉が印象的である。中門 は、屋敷の中にある門である。光る君は末摘花の屋敷を後にする為に牛車を呼ぶ。屋敷の表門と寝殿との間には中門がある。この中門を通って表門から外へ出ようとするが、光る君の目に入った中門は老朽化しており、

ひどく歪んで今にも倒れそうでぐらついていた。昨夜寝殿に入った時には暗かったので、

これほどはっきり破損しているにも関わらず、目に入らなかった。明るくなると隠しようもなく見えてしまう。そういう不具合がこの屋敷には沢山ある。とにかく淋しく荒れ果てていて、見ていて辛く感じられる。

松の雪のみあたたかげに降りつめる、山里の心地してあはれなるを

面白い表現である。「湖月抄」の解説を加えて訳す。

それなのに松の葉に厚く降り積もった雪だけは、いかにも暖かそうに見える。ここは都の中だけれども、山里の雰囲気が漂う。暖かく感じるのは、白い雪がなんとなく綿に見えるからかもしれないし、松が雪や霜などにも緑を保っていられるのは、松の木自体に暖かさが内在しているからかも知れない。

ここから光源氏は帚木の巻の 雨夜の品定め へと記憶が遡っていく。

かの人々の言ひし(むぐら)の門は、かやうなる所なりけむかし、げに心苦しくらうたげならん人をここにすゑて、うしろめたう恋しと思はばや、あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかしと

光る君は末摘花の屋敷が醸し出す山里の雰囲気を見て、いくつもの連想を持った。帚木の巻の 雨夜の品定め で 左馬頭(ひだりうまのかみ)・藤式部丞(とうしきぶのじょう)が、まさかこんな所にこんな素敵な女性が、こんな淋しく荒れ果てた家で暮らして居たのかと驚く様な事があれば、男の心は強く引き付けられるものであると語っていたが、屋敷だけだったら、この末摘花の屋敷には理想の女がいてもおかしくはない。悲しい境遇を生きていて自分が守ってあげたいと男に思わせる女を、この様に淋し気な屋敷に住まわせて、自分が通ってこられない時に女はどうしているのだろうと心配しながら、恋しく思うという恋愛をしたいものだ。今の私は藤壺との許されない恋に苦しんでいるが、そういう悩みも紛れるかも知れないなどと思われる。

思ふやうなる()()にあはぬ御ありさまはとるべき方なしと思ひながら、

荒れはてた屋敷は理想的だけど、実際に住んでいるのが全く理想の女とは似ても似つかない末摘花では、話にならないと光る君は思う。

我ならぬ人はまして見忍びてむや、わがかう見馴れけるは、故親王(みこ)うしろめたしとたぐへおきたまひけむ魂のしるべなんめりとぞ(おぼ)さるる。

うしろめたし は、後に残る者が心配だというニュアンスである。末摘花の容貌があのようであるから、私の様に心掛けの立派な男であれば長く関係を続けられるが、他の男ならば末摘花には我慢が出来ないであろう。私がこの様に曲がりなりにも、末摘花との関係を続けていられるのは何故だろうか。彼女の亡き父宮の魂が、自分の屋敷に一人残された娘の未来を心配してこの屋敷に留まり娘を守り続け、私という信用の出来る男を見付けてこの屋敷の中へと導いてくれたからだろうと、光る君は思うのであった。

所で「源氏物語」を「湖月抄」で熟読したのが、森鷗外であった。森鷗外の「文づかい」は、ドイツ三部作の第二作である。その中に印象的な言葉が見られる。

森鷗外の「文づかい」の一節を朗読する。

一月中旬に入りて昇進任命などにあえる士官などとともに、奥のおん目見えをゆるされ、

正服着て宮に参り、人々と輪なりに一間に立ちて臨御を待つほどに、ゆがみよろぼいたる

式部管に案内せられて、妃出でたまい、式部官に名をいわせて、ひとりひとりにことばを

かけ、手袋はずしたる手の甲に接吻せしめたもう。

ここに ゆがみよろぼいたる とある。ゆがむ という動詞、よろぼう という動詞はしばしば目にする。所が ゆがみよろぼう という複合動詞は先ずお目にかからない。ただ

一つ、「源氏物語」の末摘花の巻を除いては。
という事は森鷗外は「湖月抄」で読んでいたのである。そして 
ゆがみよろぼう という

言葉を、記憶に刻印したのであろう。

また松の雪が暖かそうに見えるという末摘花の巻の表現も、後世の文学者に影響を与えている。松の雪が暖かそうだという和歌は沢山ある。

 

さて光源氏が二条院で大切に育てている紫の上は、()(くろ)めをして眉毛を抜きいよいよ美しさを際立たせ始めた。末摘花とは対照的である。光源氏は早春のある日、紫の上と絵を描いて遊び戯れる。この場面を朗読する。

朗読④ 光源氏は紫の上と絵を描いて遊ぶ

絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、(かた)に描きても見まうきさましたり。わが御影の鏡台のにうつれるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの赤花を描きつけにほほしてみたまふに、かくよき顔だに、さてまじらむは見苦しかるべかりけり。姫君見て、いみじく笑ひたまふ。「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、「うたてこそあらめ」とて、さもや()みつかむとあやふく思ひたまへり。そら(のご)ひをして、「さらにこそ白まね。用なきすさびなりや。内裏(うち)にいかにのたまはむとすらむ」といとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて(のご)ひたまへば、「平中(へいじゅう)がように色どり添へたまふな、赤からむはあへなむ」と戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。

 解説

末摘花の登場するいささか辛辣な物語の俳諧だとすれば、紫の上の登場する場面はほほえましい物語の俳諧という印象がある。この場面は 平中(へいじゅう) という箇所が分かりにくいが、「湖月抄」を参考にして訳す。

末摘花の屋敷で複雑な思いをした光る君は二条院に戻ってきて、紫の上と楽しいひと時を過ごす。紫の上は画を描き色を付けて遊ぶ。あれやこれやと様々な物を、興に任せて描き散らしては遊んでいる。なかなか上手である。

見ていた光る君は末摘花の顔を心に浮かべ、目の前の紙に髪の毛のとても長い女を描く。

そしてその女の顔の真ん中にある鼻に紅をつけて真っ赤に色づけた。そして書き終えた絵をつくづく見る。末摘花は実際に会っても、絵に描いても余り見ていたくない顔つきであった。光る君はふと部屋の中にある鏡台が目に入った。そこにはいつ見ても美しく、気高い自分の顔が映っている。光る君はふと紅を自分の顔に塗り付け、赤く彩ってから鏡を見る。

すると自分の様に美しい顔ですら、鼻一つを赤く塗っただけで、顔全体の調和が崩れ、端の者が見ていられない顔に一変してしまう。まして元々が美しくない末摘花の赤い鼻は全く持って見てはいられない。光る君の顔を紫の上が見て、ひどく面白がって笑う。光る君は「ねえ、私の顔がこんな風にみっともなくなったらどうしようかな」という。紫の上は「困ってしまう」と返事するが、光る君が戯れに鼻に塗った紅が、肌に染みついて消えなくなったら困ると心配する。光る君は更に悪乗りして、鼻に塗った紅を拭う振りをするが、実際には拭っていないので鼻は赤いままである。「おや困ったな、全く紅が拭えず元の白い肌には戻れません。さっき鼻に紅を塗ったのは大失敗でした。この赤い鼻で宮中に参内したら、私の顔を見て帝はどう仰せられるでしょうか」と真顔で言う。紫の上は心底可哀想に思われて、光る君の近くに寄ってきて、鼻に塗ってある紅を拭い取ろうとする。光る君は紫の上をからかおうと、更に冗談を口にする。あなたは 平中(へいじゅう) こと 平定文の話を知っていますか。

彼は在原業平と並び称される色好みであったが、ある女の所に出掛けた時に泣く真似をして、懐に入れておいた硯の水で目を濡らしていたのである。それを見抜いた女は黒い墨を摺って、水の中に入れた。何も知らない平中が硯の水を目に塗った所、顔が真っ黒になってしまったという話である。あなたもその女の様に、私の顔に墨を塗りつけてはいけませんよ。赤い鼻の上に墨が混じったならば、もうそのままにしておくしかないから と戯れを言う。この物語の語り手である私は二人のやり取りを傍で拝聴しているが、とてもお似合いの兄妹いや夫婦に見えた。

光る君が紫の上に 色どり添へたまふな、赤からむはあへなむ と冗談を言う場面があった。あへなむ は「湖月抄」に従って、そのままあるべし そのまま 赤からむ という意味で訳した。

けれども現代では我慢できる という意味で解釈されている。赤だけだったらまだ我慢できるが、赤と黒が混じったらとても我慢できないという意味になる。

 

次に末摘花の巻の最後の場面を読む。

朗読⑤

日のいとうららかなるに、いつしかと(かす)みわたれる(こずえ)どもの、心もとなき中にも、(むめ)気色(けしき)ばみほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。階隠(はしがくし)のもとの紅梅、いととく咲く花にて色づきにけり。

紅の 花ぞあやなく うとまるる 梅の立ち()は なつかしけれど いでや」と相なくうちうめかれたまふ。かかる人々の末々(すゑずゑ)いかなりけむ

 解説

この場面は難しい言葉は使われていないが、「湖月抄」の傍注と頭注を包み込んで現代語訳する。

今は早春、お日様はうらうらと照っている。春霞も立ち込めている。その霞の中の木々の梢はまだ芽吹いておらず、いつになったら花が咲くのだろうかと人々の心をやきもきさせる。所がその中にあって梅の花だけは早くも赤い莟を赤く膨らませ、ほころび始めた花も見受けられる。花が咲くことを微笑むというが、将に美しい女性がニッコリ笑っている様に思われ、格別の風情である。

  匂わねど ほほ笑む梅の 花をこそ 我もおかしと 折りてながむれ 曽祢(そね)好忠(よしただ)

という和歌があり、杜甫には 梅の笑みを求める という漢詩文がある。二条院の戒壇には(はし)隠しという屋根がある。これは牛車や輿を寄せるためである。この(はし)隠しの近くに植えてある紅梅は早咲きで、ほんのり赤く色づき始めている。それを見て光る君は歌を口ずさむ。

  紅の 花ぞあやなく うとまるる 梅の立ち()は なつかしけれど

梅の枝が高く咲いているのには、早く赤い花が咲いて欲しいと待たれるが、その逆で背丈のひょろ長い末摘花の鼻は全く持って見たくない。光る君は「ああ、もう全く」とうまくいかない末摘花との関係に困って溜息をつく。

さてこの末摘花の巻もここで終わる。語り手から読者の皆さんに一言ご挨拶をする。

これまで話してきたが、光る君と関わった末摘花、紫の上、さらにはその他の女達はこの後どうなったのだろうか。続きの巻々をどうぞお楽しみに。

 

この場面について本居宣長の弟子である鈴木(あきら)は、本居宣長の「源氏物語」の注釈書である「玉の小櫛補遺(ほい)」の中で、面白い見解を述べている。

光源氏は夕顔の様な女と出会うことを求めていて、末摘花と出合った。もしも末摘花が夕顔と同じ様に妖艶な女だったら、単なる繰り返しに過ぎず、何の面白味もなかっただろう。

夕顔とは全く別のタイプの女を登場させたのが、優れた創作手法であるという。鈴木(あきら)は、塩梅(あんばい)という言葉を用いている。塩梅はものごとの配列がうまくいっているという意味である。紫式部はものがたりを創作する塩梅を熟知していたので、「源氏物語」は人生の真実を映し出せたり読者を感動させるものだと、鈴木(あきら)は述べている。全くその通りだと思う

 

「コメント」

平安時代は相手の顔も見ずに、真っ暗闇でのデートなので、後でお互いびっくりなんてことの頻発だったのか。男は女の顔もろくに見ていないで。なぜこんな風習になったのか。このやり方は貴族だけだろうけど。庶民はもっと大らかだったろう。