240406①「はじめに~湖月抄でたどる源氏物語」
「湖月抄」とは
源氏物語に興味を持った人が、原文で読んで理解するにはかなり高いハードルがある。その為に先人たちの努力で様々な扉が用意されている。どの扉から入っても「源氏物語」は期待以上の感動を読者に与えてくれる。
現代語訳から入ってもいいだろう。入門書を参考にしてこの物語の扉を、自分で探すのも楽しい。これから一年間名場面でつづる「源氏物語」と題して、52回この物語の魅力を話す。
この古典講読が皆さんにとっての「源氏物語」への扉となれば幸いである。かくいう私自身の扉は「湖月抄」という書物と出会ったことである。抄 は注釈書とか研究書の意味である。紫式部が石山寺に籠り、琵琶湖に映る中秋の名月を見て「源氏物語」の着想を得たという伝説をタイトルにしている。「湖月抄」は長く「源氏物語」への扉としての役割を果たしてきた。中世と近代の日本文化の基礎となったのがこの「湖月抄」である。
例えば小金井喜美子という文学者がいる。近代を代表する文豪 森鴎外 の妹である。この小金井喜美子が書いた「鴎外の思い出」という本には、「書物」というエッセイが入っている。
朗読① 疎開の時
戦争の為に疎開する時、活字の本を先に出して、木版本を容れた本箱を後にしたのは、なるべく身近に置きたかったからです。お兄様が洋行をなさる時、女学校入学前の私に置土産として下すった「湖月抄」は、近年あまり使わなかったので、桐の本箱一つに具合よく納めてあったのを、そのまま出しました。預け先は親類で、鉄筋コンクリートの大きな蔵でした。衣類家具類なども一緒です。
解説
「湖月抄」は鴎外のドイツ留学の置き土産だった。喜美子は「鴎外の系族」でも「湖月抄」にふれている。系族とは一族とか係累などの意味である。
「鴎外の系族」では、兄のドイツ留学の置き土産について、更に詳しい思い出が書いてある。
森 於菟兄 という文章である。於菟 は鴎外の長男である。明治の人々が「湖月抄」をどのように読んだのかを具体的に伝えている。明治17年念願のドイツ留学が決まった鴎外は、横浜から船で出航したが、見送りに来た父親にこれを妹にやって下さいと言って、紙包みを渡した。中にはお金が入っていた。帰宅した父から紙包みを貰った喜美子が当惑していると、母親が鴎外の心を教えてくれた。「源氏物語」を買ってやりたいと言っておいでだった。お前が欲しがっていたでしょう。きっと置き土産の積りでしょうと母は笑いながら言った。喜美子は母と一緒に「源氏物語」を買いに行く。このとは喜美子は15歳であった。
朗読② 「湖月抄」を買いに行く
お兄様のお馴染みの浅草雷門前の須原屋という本屋でした。家に入ると懐かしい古本の匂いが漂っている大きな店でしたが、「湖月抄」は二種類しかありませんでした。ひとつは中の2頁ほどの裏が取れて似た色の代わりが附けてありました。もっとも発端と表紙で本文ではありません。折角お兄様に買って頂くのですから、良い方にして下さいまし。衣食には質素でも書物はいつも出し惜しみしなさらぬのを見つけておりましたから。あの大きな本を机に乗せて、読まぬ前からニコニコしておりました。それからお礼の手紙を書いてベルリンの公使館宛てに出しました。買った時の話からどの本箱に入れたとか、今はどこを読んでいるとか、大抵毎週書いて出す手紙は、ただその事ばかりでした。
解説
鴎外が妹に言った「源氏物語」を買ってやりたいという言葉は、「湖月抄」を買ってやりたいというのと同じであった。明治の人にとって「源氏物語」を読むとは、「湖月抄」を読むことであった。そして「湖月抄」があれば15歳の少女でも、「源氏物語」の本文を充分に理解できたのである。私は大学で学生たちに「源氏物語」が近代の文学者たちに影響を与えたことを講義で力説してきた。すると彼らは率直な疑問を口にする。樋口一葉が「源氏物語」の影響を受けたという話をしたが、小学校出の一葉が何故「源氏物語」を読めたのですか、私達は高等学校で文語文法をみっちり叩き込まれたが、「源氏物語」の原文には全く歯が立ちません。また別の学生が「源氏物語」の現代語訳を成し遂げた与謝野晶子は女学校出身ですね。どこで古文の勉強をして難解な「源氏物語」の原文を読みこなす、学力を身に着けたのですかと質問されたこともある。私の答えは簡単である。「湖月抄」があったから。
これは私自身の経験も踏まえている。もう半世紀前、昭和51年の4月。私は与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子たちの現代語訳の先に進もうとした。どうすれば原文で読めるようになるのかを知りたくて秋山 虔先生の演習に参加した。先生は一言で現代語訳だけ読んでいても、「源氏物語」の原文は理解できない。「湖月抄」が必要ですと答えられた。その日のうちに神田神保町の古本屋で、私が「湖月抄」の活字本を買い求めたのは言うまでもない。その後江戸時代の版本、木版本も購入した。「湖月抄」は源氏物語54帖の外に、江戸時代に総論である発端や光源氏の年齢を基準とした年表である年立、系図などの6冊が付録でついている。全部合わせると60巻である。それを一括して喜美子は買い求め愛読したのである。そして「源氏物語」の扉を潜り、豊穣な古典文学の花園に分け入った。
「湖月抄」とは
それではこの「湖月抄」とはどういう書物なのであろうか。「湖月抄」の成立時点まで遡って話をする。
「源氏物語」を原文で読むための最良の扉である「湖月抄」は、江戸時代に書かれた。室町時代、1467年の応仁の乱から始まった戦国乱世は1世紀半の長きにわたって続き、1615年の大阪夏の陣で終わった。待望久しい平和な時代が到来した。この天下泰平の世の中で北村季吟という古典学者が、1673年「湖月抄」を著した。明治時代の「源氏物語」を読む定番であり続けた「湖月抄」には、長い戦国時代に「源氏物語」を読み継いできた人たちの祈りが込められている。
それが「源氏物語」の主題は社会の平和と人間関係の調和であるという基本姿勢である。なおかつ「湖月抄」は視覚的なアイデアが斬新で優れていた。「源氏物語」の本文だけの印刷だけではなかった。鎌倉時代の藤原定家以来、営々と積み重ねられてきた研究の成果が網羅されていて、しかも分かり易く整理されている。本文は藤原定家が定めた青表紙本と呼ばれる系統の本文である。現在でも「源氏物語」の殆どは、この青表紙本である。その本文が大きな文字でゆったりと印刷されている。その行間に小さな文字の書き入れがある。「湖月抄「源氏物語」の本文の行間も一緒に読むことになる。その行間には何が書きこまれているのだろうか。紫式部が「源氏物語」を書いた平安時代と、「湖月抄」の江戸時代では、意味が違ってしまった言葉がある。それらの言葉の意味が書かれている。語釈という。本文のすぐ横に書かれているので便利である。またある動作の主語は誰なのか、会話文の発言者は誰なのかも行間に書かれている。これらは本文の横、傍らに示された註釈なので傍注という。そして本文の余白の部分に、本文で描かれている儀式等の歴史的背景、本文で引用されている和歌、漢詩句の出典の詩的等が書かれている。更に鎌倉・室町・安土桃山・江戸前期までの研究を経ても、なおかつ一つの解釈にたどり着けなかった場合には、対立する解釈が複数書かれている。それに加えて本文の読み所、鑑賞のポイントも解説されている。誠に至れり尽くせりなのである。
これらは本文の頭、上部に示された註釈なので頭注という。つまり「湖月抄」は本文・傍注・頭注の三点セットである。
鎌倉時代から江戸時代前期までの長い解釈の歴史が、見事に凝縮されレイアウトされたのだと言える。
傍注は本文を読みながら目に入るので、それほど時間を取らない。というか、傍注が無いと読書が捗らない。
それに対して頭注を読むには少しばかり時間が必要である。当然本文を読むスピ-ドは落ちる。所が、ここが「湖月抄」の優れた点なのである。「湖月抄」の頭注を少しばかり時間をかけて読んでいる内に、読者は本文に書かれている事柄にはこういう背景があったのだ、本文に書かれている登場人物の気持ちは、こういうものだったのだなどと納得できるようになる。読者と作中人物の心が一つに溶けあうのである。この時、物語世界の扉が大きく開かれるのである。「源氏物語」を原文で理解するには、文法の知識よりも歴史の理解や、人間心理の理解を深めることの方が有効なのである。そこに物語への扉がある。そして読者は開いた扉から平安時代の物語の中に招き入れられるのである。物語の中を流れている時間と、読者の生きている時間が一つになり共鳴する。今回の古典講読は「湖月抄」の本文で読み進む。
そして「湖月抄」が教えてくれる解釈を理解する所からスタートする。
先程は小金井喜美子のエピソ-ドを紹介したが、ノ-ベル文学賞を受賞した川端康成も「湖月抄」を愛読していた。
川端康成に「哀愁」というエッセイがある。戦後間もない昭和22年に書かれた。このエッセイの中で戦時中、鎌倉と東京を往復する電車の中で、川端康成は「湖月抄」本 「源氏物語」を読みふけっていたと回想している。「湖月抄」の木版本でほぼ半ば、22~23帖まで読み進んだ所で敗戦となったと書かれている。玉葛、初音の巻である。光源氏が男盛り、壮年期の絶頂期を迎え、六条院という豪邸を営み、妻や娘たちを住まわせ、春夏秋冬四季折々の雅を満喫するあたりである。古き良き日本文化を示している巻々を読んでいる時に、日本が敗戦を迎えたと言うのも歴史の皮肉である。
さて「湖月抄」が全部で60冊もある事は話した。54冊目は「源氏物語」54帖の最後に位置する 夢の浮橋の 巻である。
その 夢の浮橋 の本文が終わった所に、「湖月抄」のあとがきが漢文で書かれている。そのあとがきには「河海抄」という14世紀・室町時代に書かれた注釈書の見解が引用されている。四辻善成という人が著した。「河海抄」は「源氏物語」の主題をはっきりと明言している。「湖月抄」は「河海抄」の言う通りであるとして、「源氏物語」の本文が終わった直後に、「源氏物語」の主題を重々しく掲げたのである。ここでは「河海抄」の原文で読んでおく。
朗読③ 「河海抄」の引用 「源氏物語」の趣
まことに君臣の交わり、仁義の道、好色の仲立ち、菩提の縁に至るまで、これを載せずということなし。その趣き、荘子の寓言に同じきものなのか。
解説
「河海抄」の主張する「源氏物語」の主題である。有名な もののあわれ ではない。「源氏物語」は人間関係の全て、つまり君臣の交わり、仁義の道、好色の仲立ち、菩提の縁などが網羅されているというのである。君臣の交わりは主君と従者、為政者と非統治者、上司と部下である。仁義の道は親子関係、友人関係などと思われる。好色の仲立ちは男女関係、夫婦関係などを指している。菩提の縁は悟りに至る助けをしてくれる宗教的な師弟関係であろう。これらの人間関係の全てが「源氏物語」には書かれているというのである。周囲と正しい人間関係を結べば、人間は幸福に生きて行けるし、死んでも極楽往生できる。つまり「源氏物語」は人間がよりよく生きて、よりよく死ぬために必要な教えを読者に授けてくれる人生教訓書であるという理解なのである。「河海抄」にはその趣き、 荘子の寓言に同じきものなのか。ともあった。「源氏物語」は中国の老荘思想の書物であり、荘子に通じているというのである。荘子の寓言 は他の物事に託して、深遠な思想や教訓を語った話という意味である。それと「源氏物語」は通じているというのである。「源氏物語」は 光源氏が様々な人々と出会い別れるスト-リ-ですが、そこに人間社会を生きる知恵そして人間社会から極楽へと旅立つ知恵が、託されているという考えである。
「河海抄」と並んで「湖月抄」が参考にした注釈書に、「花鳥余情」がある。こちらは15世紀後半の成立である。即ち応仁の乱が始まったばかりの頃である。著者は一条兼良である。「源氏物語」の読みを深め、「湖月抄」がおおいに参考にした注釈書である。その序文に一条兼良の考える「源氏物語」の素晴らしさが書かれている。
朗読④ 一条兼良の「花鳥余情」の一節
東を話の器ものの上に置き、紫を万色の中に貴ぶるなどとし、源深き水は汲めども更に尽きる事なく、暗きなき玉は磨けばいよいよ光は増す。我が国の至宝は「源氏物語」に過ぎたるは無かるべし。
これによりて世々のもてあそびものとなりて、花鳥の情けをあらわす。
解説
途中で切ったが、「花鳥余情」の本文の書き出しの部分である。この文章は私の現代語訳で理解を深める。
現代語訳
楽器には色々あるが、我が国では六弦の東琴、和琴が最も格式の高いものとされている。「源氏物語」では紫の上が、和琴の名手であった。また無数の変化に富む色彩の中では、紫が最も高貴な色と尊ばれている。そのように紫式部が書いた「源氏物語」は紫の所縁の物語として珍重されてきた。「源氏物語」は読めどもつきぬ感興に満ちている。玉の男の子として生まれた光源氏の物語は、研究すればするほどその素晴らしさが増してくる。我が国には誇るべき宝は無数にあるが、その最良の物はこの「源氏物語」である。これ以上の至宝はとても思いつかない。「古今和歌集」には花鳥の使いという言葉があり、男女関係の仲立ちをする人という意味で使われている。
「源氏物語」はこの世で幸福に生きたいと願っている男と女を結び合わせる媒介として有効に機能してきた。
「源氏物語」が我が国の至宝であるという言い方は、ここから始まったのである。一条兼良は摂政関白となって政治の世界の中枢で、かじ取りを試みた政治家である。
けれども応仁の乱で庶民を幸福にする政治の道は破綻した。その無念さから「源氏物語」や「伊勢物語」などの研究に没頭し、いつの日にか人々が幸福に生きられる平和な日々の到来を願ったのである。悲願が「花鳥余情」に込められている。彼は主君と家臣、親と子、兄と弟が憎み合う戦国の乱世ではなく、人間関係が調和した平和な時代が来ることを願い続けた。その為に男と女の和合を求める「源氏物語」や「伊勢物語」を研究したのである。その祈りが「湖月抄」に流れ込む。更に室町時代の後期には、三条西実隆など三条西家の人々の「源氏物語」の研究が盛んになる。この教えも又「湖月抄」に流れ込んでいる。三條西家の「源氏物語」研究は「細流抄」という書物が代表作である。
更にもう一つ「明星抄」という書物があり「湖月抄」にも利用されている。「明星抄」は三條西実隆の息子が著した。その「明星抄」は現代人が「源氏物語」に抱く疑問疑念を問題にしている。つまりこの物語には、不義密通とか三角関係とか道徳的に良くないことが多く書かれている。それなのに「源氏物語」は、人間関係を良くする教科書であると言われても、納得できないという疑問である。「明星抄」はどのように回答したのであろうか。
朗読⑤
ここに不審をかくる人あり。この物語は事ごとに好色淫乱の風なりとて、仁義五経を備なうべきや。この道を知らざる人の一隅の管見なり。四書五経とて仁義五条を旨とする書に、殊に淫乱の悪逆を記せり。これ神に申す如く、悪をば懲らさんの義なり。この物語も好色淫風のことを載せて、この風の戒めとす。さればこそ、世のもてあそびものとはなれりけれ。淫風あるならば人の戒しむべき異なり。先験たちの至宝と称せらるる上は、まなこある書と見えたり。凡そ四書五経は人の耳に遠くてして、仁義の道に入り難し。いわんや女房の如きの為、その特益なし。
さればまず人の耳に近く、また人の好む所の淫風を書き表して善導の仲立ちとして、中庸の道に引き入れ、ついには中道実相の悟りに陥れるべき方便の権経なり。
途中省略した部分がある。仁義五条という言葉があったが、それは儒教の教えで、人間が大切にすべき仁義礼智信を指している。権経は真実の教えに導くための方便という意味である。
現代語訳
「源氏物語」には三角関係と不義密通のモチーフが氾濫している。それなのにどうして、人が正しく生きる道を教えることが出来るのか、疑問に思う人の為にその理由を説明しようと思う。人の道を説く儒教の四書五経にも悪逆や淫乱のエピソ-ドが書かれている。同じ様に我が国の戦国時代には、残忍な出来事が数多く起きている。「源氏物語」は好色や悪逆を載せることで、最終的にはこれでは良くないと読者に気付かせ、正しい人の道に導く媒介となっている。だからこそ優れた人たちが、この物語を我が国の至宝と認めたのである。正しい教えは深遠過ぎて人の耳に入らない。だから女性の読者にも読みやすくかつ、好奇心を刺激する好色のことを書き、その上でこれではよくないと悟らせる方便である。
「源氏物語」に書かれている出来ごとの表面ではなくて、その深い所を読まねばならない。「源氏物語」の読者は幸福に生きることが出来なかった光源氏や紫の上の失敗から、正しい人生を学ばなくてはならないし、学べるはずである。この様な読み方が戦国乱世の時代に盛んになり、やっと訪れた江戸時代の天下泰平の時代に、「湖月抄」となって結実したのである。
「源氏物語」を読みたければ「湖月抄」を読めばよいという時代になった。即ち人の正しい生き方を極めるには、「湖月抄」を読めば良くなったのである。
本居宣長
この「湖月抄」を最も詳しく読みこんだ天才が江戸時代後期に出現した。本居宣長である。
三重県伊勢市にある本居宣長記念館には膨大な書き込みを加えた「湖月抄」の実物が残っている。私はすべてを写真に撮って書斎に置き座右の書としている。本居宣長は北村季吟の「湖月抄」を精読した。ひとつひとつの解釈に目を通しては、それが正しいかどうかを検証した。自分の考えと違っていれば「湖月抄」に書き込んで訂正した。それを集めたのが名著の誉高い「玉の小櫛」という書物である。この時「源氏物語」の読み方は大きく変化した。コぺルニクス的転回ともいえる。「玉の小櫛」の櫛は髪の毛の乱れを正しく漉き直し、美しい髪を取り戻す道具である。本居宣長は自分の解釈を櫛として用い、これまでの「湖月抄」に流れ込んだ解釈の乱れを正そうとしたのである。そして「源氏物語」は人間が幸福に生まれて死ぬ、正しい生き方を教える教訓書であるという主題解釈を否定した。本居宣長は、「源氏物語」は人生教訓や政治教訓ではなく、もののあはれ を説いたものであると主張した。例えば光源氏と藤壺の密通、柏木と女三宮との不義についても、本居宣長は「湖月抄」とは正反対の理解をしている。「湖月抄」は先程の「明星抄」の説を踏襲している。
つまり不義密通は人間にとって間違った行動である。その誤りを気付かせるために、「源氏物語」は書かれたと考える。
本居宣長はそうではない、人間は例え自分が破滅したとしても、人が人を好きになる純粋な感情の爆発を抑えることは出来ない。真実の自分の願いを貫こうとする意欲は、人間の本来あるべき姿である。「源氏物語」はそのことを訴えていると賞賛するのである。
これから一年間「湖月抄」で「源氏物語」54帖の名場面をゆっくり読み進める。具体的な文章に即して「湖月抄」がどのように解釈したか、本居宣長がどのように批判したか検証していこう。「湖月抄」対本居宣長。この勝負はどちらに分があるのか、現代人に必要なのはどちらのやり方なのかを考えたい。
次回からの古典講読は、最初に「湖月抄」の本文を読む。江戸時代以降の人々は、本居宣長を含めて「湖月抄」で「源氏物語」を読んできたからである。そして北村季吟が「湖月抄」で集大成した解釈を確認する。最後に本居宣長が「湖月抄」のどこをどの様に批判したかを考える。本居宣長が唱えた もののあはれ とは何なのか。何故彼は「湖月抄」に反対したのか。誠に壮絶な戦いである。
私は必ずしも本居宣長の勝利で終わったとは考えない。
次回からは 桐壺の巻 を読む。
今回はそれに先立ち、「湖月抄」でも本居宣長の「玉の小櫛」でも、「源氏物語」の本質に迫る手段とされている 年立 について説明しておく。
「源氏物語」は全60巻からなる膨大な書物である。この60冊の内の2冊が、年立上・年立下なのである。年立 とは光源氏の年齢を基準として作られた、物語の世界の内部で起きた年表のことである。「湖月抄」の 年立 ではその年に起きた出来事が逐一箇条書きされている。そのまま、その巻の荒筋を兼ねている。「湖月抄」の 年立 の最初の部分を見てみよう。
朗読⑥ 湖月抄 年立
六条院誕生の年。桐壺の巻。六条院は桐壺の御門の皇子。母は更衣、大納言の娘なり。更衣、帝の御覚え並でなく、ときめき給ひければ、楊貴妃の例も引きいずべきなむありけむ。先の宵も多い契り深かりけむ。清らなる男の子生まれ給えり。即ち六条院の御事と言へり。二才、三才、桐壺の巻、若宮着袴のこと、源氏の君これなり。夏、母更衣御息所病養のこと、桐壺の更衣これなり。輦の宣旨を許されて内裏を退出し、すなわち卒去のこと。若宮、母のぶくによりて退出し給うこと。御息所に葬送し、御息所三位の位を贈らるること。
現代語訳
「湖月抄」の 年立 の最初の部分である。六条院誕生の年、数えの一才である。六条院は桐壺の帝の皇子である。六条院は光源氏の最後の呼び名である。母は桐壺の更衣。彼女は大納言の娘である。桐壺の更衣は、桐壺の帝に寵愛されること甚だしく、玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛して、国が乱れた前例が噂される程であった。前世からの深い宿命があったのだろう。玉のような皇子がお生まれになったとあるのが、六条院の誕生である。二才、何も記載がないので、この年の出来事は桐壺の巻では語られていない。三才 若宮着袴。夏、母の更衣病養。更衣手車の宣旨を許されて内裏を退出しすぐに卒去。若宮、母の喪に服すために内裏を出る。亡き更衣、葬送され三位を贈られる。
この後も「湖月抄」の 年立 には次々と記載がある。三才の秋、帝 靫負の命婦遣わして、更衣の母を弔問する。更衣の母、亡き更衣の形見、装束と髪上げの調度品を帝に奉る。桐壺の帝、「長恨歌」の絵を見る。帝亡き更衣を追慕する。暫くして若宮内裏に戻る。四才春、第一皇子が東宮となる。後の朱雀帝である。母が弘徽殿の女御で二条右大臣の娘。五才 この年は記載なし。六才 若宮外祖母、更衣の母と死別。七才 若宮文始め。とりあえずここまで見ておいた。
登場人物はいわゆる源氏名で呼ばれることが多い。その源氏名は、その巻に登場した時の官職と最終的な官職のどちらかで記されている。
年立 は桐壺の巻の場面構成、場面設定になっている。そして 年立 を箇条書きではなく、普通の文章に書きかえればそのままその巻の慷慨、荒筋が出来上がる。現在、書店や図書館に置かれている「源氏物語」の多くは、それぞれの巻の巻頭にその巻の当時の光源氏の年齢と、その巻の荒筋が書かれている。これは戦後になって始められた読者サービスではない。江戸時代の「湖月抄」でなされている。場面構成、場面転換に注目しながら、「源氏物語」の一つ一つの巻は読まれてきた。そしてその巻の時点で源氏が何歳であるか、必ず書き添えるのも「湖月抄」以来の約束事である。それでは次回からは 桐壺の巻 から「湖月抄」名場面を読んでいく。
「コメント」
「源氏物語」を読むという事は「湖月抄」を読むことなのだ。さてそうなると原文はどうやったら正確に引用できるのか。NETで引用できるのか。「湖月抄」を買ってこなければならないのか。