240224⑭「建礼門院を大原に訪ねる」

今回は右京太夫の主人である建礼門院を、大原に訪ねる場面が中心となる。又生き残った平家一門に対する過酷な処罰もなされた。

朗読① 自分の悲惨さを嘆いている

ただ同じことをのみ、晴るる世もなく思ひつつ、絶えぬ命はさすがにありふるに、憂きことのみ聞き重ねぬるさま、言ふ方なし。

  定めなき 世とはいへども かくばかり 憂きためしこそ またなかりけれ

 解説

ただ同じことをのみ、晴るる世もなく思ひつつ、

資盛が亡くなった悲しい知らせを耳にしてから、作者は同じことばかり考え続けている。悲しい、辛い、資盛の後を追いたいということである。この悲しみは永遠に晴れない。資盛が生きて再び、作者の前に現れることがないからである。

絶えぬ命はさすがにありふるに、

ありふる は、この世に生き続けるという意味である。死ぬほどまでに嘆き悲しんでいても、不思議な事に自分はまだ生きている。生きて資盛の菩提を弔うのが作者に与えられた使命なのだ。

憂きことのみ聞き重ねぬるさま、言ふ方なし。

憂きこと 耳にするのが辛いこと。生きていると嫌な事ばかり耳に入ってくる。平家の関係者で、生き永らえた人々を襲った過酷な処分である。壇ノ浦の戦いの後で、多くの人が処刑された。それらの噂を聞く作者の心は、激しく痛む。

  定めなき 世とはいへども かくばかり 憂きためしこそ またなかりけれ

定めなき 世 は、世の中の無情を意味している。人の命も権力も永遠ではなく、いつか必ず失われてしまう。

憂きためし  ためし は前例という意味である。この歌は次のようになる。

世の中が無情であるのは事実だとしても、私という人間ほど悲しい定めに泣いた女は、この世にいないのではないだろうか。そしてあれほど栄耀栄華を極めた平家一門が、これほどまでに悲惨な滅亡を遂げるとは、これまでの歴史にかつて無かったことではあるまいか。

 

作者が体験した悲しい恋も、恋人である資盛が体験した平家滅亡という歴史の悲劇も、空前絶後、

前代未聞の出来事であった。そのことが女性として空前の悲劇を体験した建礼門院ともつながり、

次の大原の場面を呼び込んでくる。

建礼門院徳子は平清盛の娘として生まれ、高倉天皇の中宮となり安徳天皇の生母となった。女性として最高の幸福に恵まれたのである。所がその絶頂から転落し、一門と共に都落ちする。各地を転々と流離った挙句、安徳天皇は壇ノ浦で入水して亡くなる。建礼門院は助けられ、出家し尼となり洛北の大原の寂光院に身を寄せている。それでは作者が、大原に建礼門院を尋ねる場面を読む。長いので二つに区切る。

朗読② 大原に建礼門院を訪ねる 前半

女院大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは参るべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくて尋ねまゐるに、やうやう近づくままに、山道のけしきより、まづ涙は先立ちて、言う方なき、御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず。昔の御有様見まゐらせざらむだに、大方のことがら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつとも言ふ方なし。秋深き山おろし、近き梢に響きあひて、懸樋の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、例なき悲しさなり。都で春の錦を裁ち重ねて候ひし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染の姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、我も人も言ひ出でたりし。

 解説

女院大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、

これは女院が尼になって、大原の寂光院におられるという世間の噂である。その噂は作者の耳にも入ってくる。なお建礼門院を得度させたのは、右京太夫とも親しかった阿証房印西上人である。

さるべき人に知られでは参るべきやうもなかりしを、

これは様々に解釈できる文章である。作者が誰にも知られずに大原に行くことは不可能なので、という意味にもとれる。けれども私はしっかり連絡を取ってくれる仲介者が誰もいないと、とても会いには行けないという意味で解釈したい。

深き心をしるべにて、わりなくて尋ねまゐるに

懐かしい建礼門院に会いたいという真心を道案内人として、作者は都から遠い大原を訪ねたのである。もう一度お目にかかりたいという気持ちが強かったことの誇張表現である。

やうやう近づくままに、山道のけしきより、まづ涙は先立ちて

先立ちて は連用形であるが、ここで意味が切れる。涙が溢れてきた。この涙は作者の道を妨害する役目ではなく、作者が建礼門院に会いたいと思う深い心を表すのである。今の季節は秋である。都から離れるにつれて、秋山の雰囲気が深くなり、ただでさえ感受性の強くなる季節なので、建礼門院の境遇を思うと作者の涙は留めようが無かった。

言う方なき、御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず。

「平家物語」灌頂の巻には、後白河法皇が大原に建礼門院を訪ねる場面がある。後白河法皇の目に映った建礼門院の草庵は、誠に淋しいものであった。軒には蔦や朝顔が絡み、忍ぶ草や葎が生い茂り、まさにあばら家と言う感じだったと書いてある。屋根も疎らで月の光がもれ入ってくるだけでなく、時雨や冬も凌げそうにはなかった。右京太夫の目に映った建礼門院の庵もまさにこのようなものであったろう。

昔の御有様見まゐらせざらむだに、大方のことがら、いかがこともなのめならむ

建礼門院はかつて宮中で、華やかな日々を過ごした。高倉天皇が太陽で、建礼門院が月に例えられた。作者は宮仕えをして、その素晴らしさを実際に自分の目で見届けている。但しかつての宮中での、建礼門院の華やかな日々を知らない一般人であっても、現在の大原の淋しい庵を見れば、いたわしく思うに違いない。
まして、夢うつつとも言ふ方なし。

今の建礼門院の暮らしが夢なのか、現実なのか、一瞬分からなくなってしまう。

秋深き山おろし、近き梢に響きあひて、懸樋の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、例なき悲しさなり。

秋は例え、都の中であっても、物寂しいものである。ましてや大原で、山おろしの音、(けん)(がい)を伝う水の音、鹿や虫の鳴き声などを聞くと、作者は心の底から淋しくなる。

都で春の錦を裁ち重ねて候ひし人々、六十余人ありしかど、

「古今和歌集」の

   見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける 素性(そせい)法師

という歌を踏まえている。かつては絢爛豪華な衣服を身にまとった女房達が、60人以上もお仕えして建礼門院を取り巻いていた。けれども春はあっという間に過ぎ去り、今は淋しい秋である。

見忘るるさまに衰へはてたる墨染の姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる。

今では地味で黒い墨染の衣を着た34人だけ建礼門院にお仕えしているだけである。

その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、我も人も言ひ出でたりし。

作者は旧知の中である彼女たちと対面した。どちらも言葉が出てこない。それにしてもまあ、などという言葉しか口から出てこない。

 

それでは右京太夫が大原に建礼門院尋ねる場面の後半を読む。

朗読③ 大原に建礼門院を訪ねる 後半

むせぶ涙におぼほほれて、すべて言も続けられず、

  今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき

  仰ぎ見し昔の雲の 上の月 かかる深山の 影ぞかなしき

花のにほひ 、月の光に たとへとも 一方には飽かざりし御面影、あらぬかとのみたどらるるに、

かかる御事を見ながら、何の思ひ出なき都へとて、されど何とて帰るらむと、うとましく心憂し。

  山深く とどめおきつる わが心 やがて住むべき しるべとを知れ

 解説

和歌が三首詠まれている。一方建礼門院の歌も、建礼門院に仕える尼達の歌もここには記されていない。 

むせぶ涙におぼほほれて、すべて言も続けられず、

言も続けられず、 は、言葉も途切れがちであった。訪ねた側も訪ねられた側も、涙の海に溺れてしまうのである。

作者の歌一首目  今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき

      二首目  仰ぎ見し昔の雲の 上の月 かかる深山の 影ぞかなしき

かつて宮中に時めいていた建礼門院は、輝かしい月の様な存在であった。それなのに今は、こんなに淋しい深山で見る淋しい月になってしまわれた。かかる深山の 影ぞかなしき 月が空に掛ることと、かかる深山 こんな奥山の掛詞である。

花のにほひ 、月の光に たとへとも 一方には飽かざりし御面影、あらぬかとのみたどらるるに、

かつて春の花や明るい月に比べても、不十分だと思われる程に素晴らしかった建礼門院の御姿と、今作者の目の前においでになる尼姿の建礼門院の御姿が、別人ではないかと作者には思われた。それほどの落差だったのである。別人のように見えたのは、今がみすぼらしいという意味であろうか。それとも嘗ての華やかな日々の方が幻で、今の淋しい暮らしの方が人間としての生き方であるという意味なのであろうか。

かかる御事を見ながら、何の思ひ出なき都へとて、されど何とて帰るらむと、うとましく心憂し。

これほどお変わりになった建礼門院様は、おそらく新しい生き方を始めておられる。自分と言えば、資盛様が亡くなった後、立ち直れないで新しい人生へのスタ-トを踏み出せない。今このまま自分が都に戻ると、また絶望的な毎日が待ち受けているだけだ。戻っていいのだろうか。この様に作者は悩んだのである。そして三首目の歌になる。

     三首目  山深く とどめおきつる わが心 やがて住むべき しるべとを知れ

住むべき  住む は、暮らすという意味と、心が清くなる、悟りの境地の意味での 澄む の掛詞である。

自分は今から都に戻るけれども、この大原に留めおく心がいつの日か、私を悟りに導いて欲しいという思いを歌っている。

 現代語訳

世間では建礼門院様は尼になって大原にいらっしゃるという専らの噂である。私にとっては、輝かしい永遠の宮様です。
宮様は壇ノ浦で入水したものの助けられてしまった。元暦2年三月のことである。宮さまは5月に都に戻り、出家して尼となり、大原の寂光院に移られた。宮様は壇ノ浦で沈んだ安徳天皇や平家一門の人々の鎮魂の為に、余生を捧げている。かくいう私も又資盛様の菩提を弔い続けている。宮様にご挨拶したいのは、山々であるが、実際にお会いするとなると、しかるべきつてが必要である。現在の宮様のお近くにいて、宮様の信認を得ている人の、紹介と承諾がなければとてもお会いすることは出来ないけれども、私は初めて宮仕えに上がって以来、宮様に憧れ宮様を崇拝し、お慕いしてきた。その気持ちは宮様の一門の人々がみないなくなり、宮様が大原の山里で淋しく暮らしていらっしゃる今でも変わらない。私は宮様を実際に深くお慕い申しあげる心を胸に、大原の山奥へと向かった。少しずつ大原に近づくにつれて、山道の気配が濃くなってくる。まして気付いたのだが、私の目からは早くも涙が落ちていた。この涙、正確には私に涙をこぼさせる心こそが、真実の道しるべだったのだろう。

大原の庵は信じられない位に質素な作りだった。宮様がお住まいになっているお部屋の様子や、普段使っておられる調度品などは質素である。宮さまが上様高倉天皇と、雲の上の世界で仲睦まじく暮らして居らっしゃった華やかな日々を知らない人が見ても、今の実際の宮様のお暮らしがどうして普通であると思えるだろうか。まして昔を知る私であるから、今のお暮らしぶりには衝撃を受けた。昔の華やかな日々が夢で、今の暮らしが現実とは悪い夢であるように思える。

大原は人の声のしない世界である。自然界の音や声ばかりが聞こえてくる。秋も深まっているので、山から吹き下ろす風は、庵の近くの木々をしなわせている。庵まで水を引いてくる懸樋の水が流れる淋しい音、奥山で牝鹿を求めて亡いている牡鹿の鳴き声。庵の草むらから聞こえてくる虫の鳴き声、これらは秋の山奥では、ごくありふれたものだが、宮様お住まいの庵と聞くと、悲しみがこみあげてくる。かつて雲の上でお暮らしだったころは、宮様の周囲には60人以上の女房達がお仕えしていた。宮様にお仕えする女房達は、色鮮やかな錦を身にまとい、宮様を取り巻いていた。かくいう私も錦こそ着ていなかったが、その60人余りの女房達の一人だった。ところが今この庵で皆様にお仕えしているのは、僅か34人。しかも墨染の地味な尼衣である。彼女たちの顔を見知っている私の目からも、衰え果てて、誰なのかすぐには思い出せない。その人たちと私とは顔を見合わせるばかり、会話もできない。「まあさてさて、それにしても」などが互いの口をついて出てくるだけである。胸が詰まってしまい、涙の海に溺れてばかりで、長い会話も出来ない。

 一首目 今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき

在原業平は、この大原の近くに出家した(これ)(たか)親王(文武天皇の皇子)を訪ね、次の歌を詠んだ。

  忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏み分けて 君を見むとは 古今和歌集 伊勢物語 

  小野の雪

今が夢であるならば、昔も夢であろう。私の頭は混乱して、うつし心を失っているが、どう考えても、今私が目にしているのが現実とは到底信じられないのである。

 二首目 仰ぎ見し昔の雲の 上の月 かかる深山の 影ぞかなしき

かつて華やかな宮中で私は宮様にお仕えした。宮様は雲の上で月に例えられるお方だった。その宮様を比叡山の西の麓である大原の山里で、尼姿で拝見することになろうとは、悲しい人間社会の運命である。大原の山に掛っている月は、昔平家一門が全盛であった頃の、月の光と同じなのに。かつて私が仰ぎ見た宮様の素晴らしさは、満開の桜の花が放つ、圧倒的な艶やかさと、秋の名月の放つ澄み切った光のどちらか一つでは形容できなかった。圧倒的な美貌を誇った宮様はいくら見ても見飽きない華やかさを持っておられた。所が、私が大原に訪ねて行ってお会い出来た宮様は、
もしかしたら別人ではあるまいかと疑問に思う程に、昔の宮様から変貌しておられた。おおいなる悲劇が、宮様の光と輝きを奪い取ったのだろうか。それとも亡き安徳天皇と平家一門の人々を弔う新しい生き方、自分の本当の生き方だと、見定められたのだろうか。この様に新しい生き方を発見され、実践しておられる宮様とこの大原でお別れし、私は何の生きがいもない都へ引き返そうとしている。ここで宮様と共に暮らす決心も出来ず、私は都に戻る。これからの人生にまだ何を期待しているのだろうか。そういう弱い自分が情けない。私には出家して尼となり、宮様と共に大原に過ごす覚悟が定まっていなかった。恥ずかしい限りである。

 三首目 山深く とどめおきつる わが心 やがて住むべき しるべとを知れ

私の体は心ならずも、宮様とお別れをして都に戻っていく。ただ私の心は、この大原の山里の宮様のおそばに残しておく積りだ。その心がいつの日にか、私が尼になり宮様と共にこの庵で澄み切った心境で暮らす道を探し出して欲しい。

 

「平家物語」の大原御行 と重ね合わせて詠むと、一段とあはれ深く感じられる。大原でお会いした建礼門院の御言葉や、彼女が詠んだ和歌を書き記さないのが、右京太夫の流儀であり、礼儀であった。

 

さて大原で建礼門院にお目に掛った右京太夫には心の変化があった。作者は新しい生き方を見付けようと、都を離れる決心をした。

朗読4 旅に出ようとして思う事 都落ちした資盛の気持ち

慰むことは、いかにしてかあらむなれば、あらぬ所尋ねがてら、遠く思ひ立つことありにも、まづ思ひ出づるところありて、

  帰るべき 道は心に まかせても 旅立つほどは なほあはれなり

  都をば いとひてもまた またなごり あるをましてと ものを思ひ出でつる

 解説

作者の心の変化を読み取ろう

慰むことは、いかにしてかあらむなれば、

大原で宮様とお会いしたので、右京太夫は自分の心はいつまで経っても、このままでは慰められることはないであろうという事実にやっと気付いた。そこで住み慣れた都での生活に区切りをつけることにした。

あらぬ所尋ねがてら、遠く思ひ立つことありにも、

都ではない、どこか遠くへ旅立とうと決心して気付いた。

まづ思ひ出づるところありて、

自分は今、都を離れようとしている。そういえば、資盛様は都落ちに際して、こういう心境だったのだな、そして壇ノ浦で海の中に身を投げる瞬間も、こういう心境だったのだなと、今は亡き資盛様の心が、自分自身の心として共感できたのである。

そして歌を二首詠んだ。

一首目 帰るべき 道は心に まかせても 旅立つほどは なほあはれなり

資盛様はもう二度と都へは戻れないと覚悟を決めて、都を離れて行った。私はいつでも都に戻れると思いながら、かりそめの旅に出る。それでも都を離れるのは辛いことだ。資盛様はどれ程の心残りを胸に、西の国に旅立っていかれた事だろうか。

二首目 都をば いとひてもまた またなごりあるを ましてとものを 思ひ出でつる

私は都での絶望的な暮らしを諦めて、旅立とうとしている。それでも都での暮らしに大きな未練を感じる。まして資盛様は都での生活の前途に、多いなる希望を抱いていたので、都落ちに際して落胆は大きかったろう。

 

ここから先は作者の、資盛への鎮魂の旅が始まる。亡き資盛は西の各地を流離い続けた。作者は琵琶湖の西岸の比叡坂本で鎮魂の日々を過ごすことにした。作者は生まれ変わろうとしている。

朗読⑤ 比叡山坂本の宿での出来事

心ざしの所は、比叡坂本のわたりなり。雪はかき暗し降りたるに、都は遥かに隔たりぬる心地して、「何の思ひ出でにか」と心細し。夜更くるほどに、雁の一列、二列、このゐたる上を過ぐる音のするも、まづあはれとのみ聞きて、すずろにしほしほとぞ泣かるる。

  憂きことは 所がちかと のがるれど いづくもかりの 宿と聞こゆる

 解説

心ざしの所は、比叡坂本のわたりなり。

作者が都を離れて暫く旅をしようとしている。比叡山の東の麓の坂本。

雪はかき暗し降りたるに、都は遥かに隔たりぬる心地して、

雪は真っ暗に閉ざして降っている。自分は都から遠く来たという実感が、作者にはあった。

「何の思ひ出でにか」と心細し。

いざ旅に出て見ると、不安になって、都のことが懐かしく思い出される。都には作者の人生のなにが起こっているのだろうか。

夜更くるほどに、雁の一列、二列、このゐたる上を過ぐる音のするも、

夜が更けてくると、右京大夫が滞在している宿の上空を、飛びすぎる雁の列の羽音や鳴き声が聞こえてきた。琵琶湖の西岸なので、秋になると雁の群れが飛来するのである。

まづあはれとのみ聞きて、すずろにしおしおとぞ泣かるる。

それらの音を聞くと、最初にああと胸が締め付けられるような感情に襲われる。その後で訳もなく涙が流れて来て、しおしおと泣いてしまうのだった。

  憂きことは 所がちかと のがるれど いづくもかりの 宿と聞こゆる

かりの 宿 は、かりそめ という意味のかりと、鳥の雁の掛詞。私が辛くてならないのは、世知辛い都に住んでいる為だろうかとおもって、都を離れる決心をした。でも坂本までやってきたものの、ここでも雁が鳴き渡って、どこに住もうが辛い人生から自由になる事は出来ない。この世界はどこもかしこも、仮の世なのだからと教えてくれる。ならば旅の宿りも 仮 の物だろう。

 

この比叡坂本で雪が降った。すると作者は亡き資盛様の思い出が蘇ってきたのである。

 

朗読⑥宿に雪が積もったのを見て、亡き資盛との思い出が蘇る

つくづく行ひて、ただ一筋に見し人の後の世とのみ祈らるるにも、なほかひなきことのみ、思ぱじとても、また゜いかがは、外面(そとも)を立ち出でて見れば、橘の木に、雪深く積もりたるを見るにも、いつの年ぞ、大内にて雪のいと高く積もりたりしあとた、宿直姿のないばめる直衣にて、この木に降りかかりたりし雪を、さながら折りて持ちたりしを、「など、それをしも折られけるにか」と申ししかば、「わが立ちならす方の木ならば、契りなつかしくて」と、言ひし折、ただ今と覚えて、悲しきことぞ言ふ方なき。

  たちなれし 御垣(みかき)の内の たちばなも 雪と消えにし 人や恋ふらむ

と、まづ思ひやらるる。この見る木は、葉のみ茂りて色味さびし。

  言問はむ さつきならでも たちばなに 昔の袖の 香は残るやと

 現代語訳

私はここでは心を集中させて、お務めに励んだ。一つは資盛様が極楽往生出来ますようにとだけ念じて、仏様にお仕えするのだった。煩悩や執着を絶てと仏様は説いておられるが、もう資盛様のことは思い出すまいと思っても、どうしても思い出さないではいられようか。こういう心でお祈りしても、お務めは無駄なことになり、功徳は得られないかも知れない。気分転換の為に宿の部屋から外に出て、周囲の様子を眺めていたら、橘の木に雪が高く積もっているのが目に入った。その瞬間、私の意識は一気に過去へと遡っていた。私の目は資盛様の姿を幻視し、私の耳は資盛様の声を幻聴していた。

あれは何年前になるだろうか。場所は内裏。平家一門の全盛期であった。登場人物は資盛様と私。その日の朝、私が目を覚まして宮様から賜った局から外に出て見ると、雪が高く積もっていた。そこへ、昨夜から宿直を務めていた資盛様が局の前にやってこられた。その手に橘の木を折り取った枝を持っておられたが、その枝の上には降り積もった雪が落ちずにそのまま残っていた。内裏にはほかにも木は沢山あるのに、何故、橘の木を選んで折ったのですかと聞いた私に対する資盛様の返事が、今でも忘れられない。私の官職は右近衛少将だから、いつも大切な儀式の時には、右近の橘の近くに立ち並ぶ。いつも慣れ親しんでいる木なので、橘が好きなのだ。その言葉を聞いたのが、

今この瞬間と錯覚された。でもそれは幻に過ぎない。何という悲しさ。

  たちなれし 御垣(みかき)の内の たちばなも 雪と消えにし 人や恋ふらむ
菅原道真を慕った飛び梅の様に、木には心があり、自分を愛してくれる人には好意を持っていると言われる。亡き資盛様は内裏に植えてある右近の橘を愛した。ならば橘の木の方でも、いつも自分の近くに立っていた資盛様のことを恋慕っているのだろうか。かつて資盛様が橘の木に積もった雪を落とさずに、折り取って私に見せてくれた。その資盛様は、雪が儚く消えてしまうようにあっけなく命を落とされた。とこのように昔の事が思い出される。今、私が比叡坂本で見ている橘の木は、葉だけで茂っていて花も実もない。緑の葉、白い花、黄金色の実、この三色の鮮烈な対比は望むべくもない。

  言問はむ さつきならでも たちばなに 昔の袖の 香は残るやと

「古今和歌集」「伊勢物語」に以下の歌がある。

  五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする 詠み人知らず

今は五月ではなく冬、冬も橘の木には昔交際していた恋人資盛様の袖の残り香が漂っているだろうか。橘の木よ、知っているなら教えて欲しい。

 

比叡坂本の橘の木に積もった雪から、作者は紫宸殿の右近の橘の木と、橘を愛した資盛とを連想したのである。

 

「コメント」

どうだろうね。昔の主人で、息子の安徳天皇、母親、多くの一門の人々を失くして一人生き残った建礼門院。

こういう人に恋人を失くしたというだけの人が、訪ねて行くべきか。おおいなる疑問。