240120⑨「二人の男性のはざま」
右京太夫は資盛という平家の貴公子と、藤原隆信という芸術家タイプの二人の男性と、同時に交際するようになった。
二股をかける三角関係という点で思い出されるのは、「伊勢物語」の第12段である。都に愛する女性を残して武蔵国にまで下ってきた男が、旅先の武蔵国で別の女性と交際するようになったという内容である。右京太夫の置かれている苦しい立場を考えるうえで、参考になるので読んでおく。
朗読① 「伊勢物語」13段
昔、武蔵なる男、京なる女のもとに、聞ゆれば、恥し、聞ねば苦し、と書きて、上書に武蔵鐙と書きて、おこせてのち、おともせずなりにければ、京より女、武蔵鐙をさすがにかけて頼むには、問はぬもつらし、問ふにもうるさし とあるを見てなむ、堪へがたき心地しける。問へば言ふ、問はねば恨む武蔵鐙かかる折にや人は死ぬらむ。
解説
鐙は馬に乗る際に両足を書けるための馬具である。二股愛のシンボルである。男は都に残っている女に、武蔵国で新しい女が出来た事を、良心の呵責に耐えきれず正直に伝えた。都の女からは歌が帰って来た。
私は薄情なあなたを愛しているが、あなたから手紙が来ないのは、私を忘れたからだろうと恨めしいし、手紙が着いたら別の女が出来たという内容だったので、不愉快である という内容であった。
さすが は 鐙に付随する金具である。さすがに という副詞との掛詞である。男は進退窮まった。男の歌は、手紙を出して正直に書いたら不満を言ってくるし、手紙を書かなかったら忘れたのかと恨まれる。こういう時に世の中の男は困り果てて死んでしまうだろう という歌を詠んだ。
この「伊勢物語」13段を右京太夫も踏まえている。「建礼門院右京太夫集」の中から、武蔵鐙という言葉が用いられている場面を読む。
朗読②
雲の上も掛け離れ、そののちもなほおとづれし人をも、頼むとしはなけれど、さすがに武蔵鐙とかやにて過ぐるに、なかなかあぢきなきことのみまされば、あらぬ世の心地して、「心みむ」とて、他へまかるに、反故ども取り認むるに、いかならむ世までもたゆむまじきよし、かへすがへす言ひたる言の葉の端に書き付けし、
流れてと 頼めしかども 水茎の かき絶えぬべき 跡のかなしき
解説
雲の上も掛け離れ、
宮仕えを辞めたので、資盛との仲は途絶え勝ちである。
そののちもなほおとづれし人をも、
新たに恋人となった隆信の事である。
頼むとしはなけれど
作者は隆信一人を信じる決心はつかない。
さすがに武蔵鐙とかやにて過ぐるに、
けれども作者の二股愛は続き、隆信との関係も続いた。
なかなかあぢきなきことのみまされば、
苦しく面白くない事ばかりが続いた。
あらぬ世の心地して、
作者は自分の生きている世界から、疎外されたように感じるようになった。
「心みむ」とて、他へまかるに、
住んでいる場所を変えれば、心境に変化があるのかと思って、別の場所に移る決心をした。
反故ども取り認むるに、いかならむ世までもたゆむまじきよし、かへすがへす言ひたる言の葉の端に書き付けし、
隆信から届いた古い手紙を整理していた所、彼が永遠の愛を誓った手紙が出てきた。その手紙に作者は自分の歌を書き付けた。
流れてと 頼めしかども 水茎の かき絶えぬべき 跡のかなしき
水茎は手紙、筆、筆跡。隆信の手紙に書かれている言葉が、今では信じられないという内容である。それではこの場面の行間に込められた作者の心を読み取る。
現代語訳
私は建礼門院様の宮仕えを辞め、華やかな宮廷から遠ざかった。それと連動するように、中宮の一族である資盛様との関係も間遠になっていった。その頃からもう一人私のもとを、隆信殿が訪れていたが、その人との関係もはっきりとはせず、隆信殿を自分の生涯の恋人として信じてついていこうという気持ちにもなれなかった。「伊勢物語」13段に、東国に下った男が、都に残っている女と東国で新たに知り合った女との間で、二股をかけてしまうエピソ-ドがある。「伊勢物語」では男性が二人の女性の間で悩んでいる。所がこの私は女なのに二人の男性と間に、引き裂かれているのである。
鐙は馬具の一種で両足を掛けることから、二股のシンボルである。こういう状況は兎に角苦しい。恋をしていても喜びはなく、却って面白くない事ばかりが起きる。しかも不愉快に感じる回数が多くなる。私には自分が生きている世界が、これまで自分が生きていた世界とは、別のものだとさえ思い始めた。自分の居場所を変えて、生きる意味を再確認したい。
あの人も私がいなくなると、私という存在の大切さに気付き、本気で愛してくれるようになるかも知れない などと思いつき、住処を変える決心をした。出かける前に隆信殿から届いた手紙を整理したり処分したりしていると、この世だけでなく来世まであなただけを愛し通しますなどと、今となっては信じられない誓いの言葉を繰り返し書き綴っていて笑止であった。その手紙の端に、私は思わず歌を書き添えた。
流れてと 頼めしかども 水茎の かき絶えぬべき 跡のかなしき
この人はどんなに時間が経過したとしても、例えこの世の寿命が尽きたとしても、私を永遠に愛し続けるから と言い続け、私を信じさせようとした。けれども早くもあの人からの手紙も途絶えている。かつて愛の永遠を説き聞かせていた、
あの人の手紙の文字を今見ると、心が籠っていなかったことが明らかで悲しい。
武蔵鐙という言葉が三角関係の苦しさを象徴していた。なお右京太夫の新しい恋人となった隆信の歌集に、武蔵鐙を巡って隆信と右京太夫が歌をやり取りする場面がある。隆信が別の女性と二股をかけているのではないかと右京太夫が疑い、それに対して隆信が弁解している。右京太夫は隆信と武蔵鐙のやり取りをしたことで、武蔵鐙という言葉が心に残り、二人の男性を同時に愛してしまったと
いう自覚に繋がったのであろう。
それでは「建礼門院右京太夫集」に戻る。
武蔵鐙のエピソ-ドの前にも、作者と隆信との関係が書かれている。夢を巡るやり取りである。
朗読③ 右京太夫の夢に隆信が現れたという話
夢にいつもいつも見えしは、「心の通ふにはあらじを、あやしうこそ」と申したる返り事に、
通ひける 心のほどは夜を重ね 見ゆらむ夢に 思ひ合せよ
返し
げにもその 心のほどや 見えつらむ 夢にもつらき けしきなりつる
現代語訳
何度も不思議な夢を見た。私の夢の中に隆信殿の姿が現れるのである。恋人の事を強く思っていると、恋人の見る夢の中にその人が現れるという俗信がある事は私も知っている。但し変だな、私を愛してなどいないあの人の思いが、私のもとまで通ってくるはずはないのだがと不思議だった。それを
隆信殿に伝えた所、届けた歌を返してきた図太さには呆れた。
通ひける 心のほどは夜を重ね 見ゆらむ夢に 思ひ合せよ
あなたの夢の中にまで毎晩のように通い詰めている私の愛情の深さは、あなたの夢に私が現れた回数に比例している。あなたは私の愛を疑ってはいけません。それに対して私も言い返した。
げにもその 心のほどや 見えつらむ 夢にもつらき けしきなりつる
仰る通りです。私の夢に現れるあなたの姿は、あなたの私への愛情の深さをはっきりと示しています。というのは夢の中のあなたは私に向けて、笑顔などみせず、私を切なくさせる冷たい素振りでしたから。
作者は隆信の返事に呆れる一方で、隆信が漂わせている大人の男の魅力にひきつけられている。
それを振りほどけないのである。
所で勅撰集「玉葉和歌集」では 通ひける 心のほどは夜を重ね 見ゆらむ夢に 思ひ合せよ の作者を隆信ではなく、何と資盛と表記している。これは前回読んだ箇所でも同じ現象が起きていた。「玉葉和歌集」の選者は京極為兼である。
彼が「建礼門院右京太夫集」を読み誤ったのであろうか。私は「建礼門院右京太夫集」には作者が
二人の男性を同時に愛したことが書かれているが、彼女の最愛の恋人は平資盛である。だから「建礼門院右京太夫集」を短い時間で通読すれば、作者と資盛の二人だけの愛の物語だと読めてしまうのである。
「建礼門院右京太夫集」を読み続ける。右京太夫は二人の男性の狭間で悩む。
朗読④
詮なきことをのみ思ふころ、「いかでかかからずもがな」と思へどかひなき、心憂くて、
解説
恋の山 という言葉が印象的である。「新古今和歌集」源重之
つくば山 端山繁山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり
を踏まえている。端山 は低い山、繁山 は草木が生い茂った山である。人を好きになればどんな山にも、分け入っていくという情熱がテ-マである。又恋をすればどんな聖人君子でも、道を踏み外してしまうという意味の諺もある。
恋の山には孔子の倒れ 「源氏物語」胡蝶の巻にも出てくる諺である。
現代語訳
私はいつの間にかどうしようもない恋の道に深入りして、悩み苦しんでいた。資盛様と隆信殿の二人の男性との関係がどうにもならなくなったのである。進むことも戻る事も出来ない。この恋の道ばかりは理性で幾ら考えても、根本的な解決策は見つからなかった。だから中国の聖人である孔子も、恋の山には孔子の倒れ という不名誉な諺の中に登場しているのだろう。私はどうにかして恋の山の迷路から抜け出したいと焦るのだが、どう仕様もない。それがとても辛かった。
思ひかへす 道を知らばや 恋の山 端山繁山 分け入りし身に
「源氏物語」にも引用されているが、源重之の つくば山 端山繁山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり という歌がある。恋の山には誰でも希望を持って万難を排して登り始める。しかしいざ引き返そうとしても、道筋が全く見えないのである。恋ゆえの失敗は男性の方が多いが、女性である右京太夫の愚かな恋心を表現している。
三角関係で悩む作者は、恋愛の苦しさから自由になる為にいっそ、出家しようとまで思い詰める。
朗読⑤
いづかたにか経の声ほのかに聞こえたるも、いたく世の中しみじみともの悲しく覚えて、
迷ひ入りし 恋路くやしき 折にしも 勧めがほなる 法の声かな
解説
恋路 は、恋の道と 泥沼という 泥沼 との掛詞である。恋の山も苦しいが、恋の泥沼も苦しいのである。男性二人との恋愛で苦しんでいる作者であるが、どこからか聞こえてきたお経の声が一筋の希望を与えた。
現代語訳
私の心は二人の男性との間で引き裂かれてしまった。恋ゆえの苦しみで、私の心は闇のように暗い状態が続いている。
ふと気づくとどこかでお経を読む声が微かに聞こえてきた。その声を聞いている内に、私の心の闇に一条の光がさしているように思えた。全く別の生き方があるように教えられたように思った。
迷ひ入りし 恋路くやしき 折にしも 勧めがほなる 法の声かな
私はどうして恋の道に引き摺りこまれたのだろう。そのような私を救う一条の光が見えた。それは
信仰の道だ。
恋路と泥沼の掛詞と言えば、六条御息所の
袖ぬるる こひじ(泥)とかつは 知りながら 下り立つ田子の みずからぞ憂き
という歌が連想される。
私は右京太夫が浮舟だとすれば、資盛が薫で隆信が匂宮であろうと思う。或いは男女を逆転させると、作者は光源氏の様な立場に置かれている。光源氏には藤壺という永遠の憧れの女性がいる。その姪に当たる紫上も、光源氏の憧れの対象である。中でも最も肉感的、官能的だったのは夕顔である。形而上学的な憧れの対象、肉感的官能の対象、更には社会的な地位の上昇をもたらす相手との関係など、光源氏はいくつもの恋に引き裂かれた。右京太夫も同じだったのではないだろうか。
「建礼門院右京太夫集」に戻る。隆信との関係を断ち切れない作者の耳に、心から憧れている資盛の噂が聞こえてくる。
その場面を読む。
朗読⑥ 資盛が熊野から帰っても音沙汰なし
父大臣の御供に、熊野へ参ると聞きしを、帰りてもしばし音なければ
と思ふも、いと人わろし。ひととせ難波の潟より帰りては、やがておとづれたりしものをなど覚えて
沖つ波 かへれば音は せしものを いかなる袖の 浦に寄るらむ
現代語訳
治承3年1179年3月。資盛様の名前を耳にした。世間の噂では、内大臣の重盛様のお供で熊野詣をして、もう都に帰ったらしい。所が暫く経っても、資盛様から私への連絡が一向にない。恨めしい
気持ちがこんな歌になった。
解説
地名の み熊野 と、 いかが みる の掛詞である。又 浦の浜木綿 恨み重ねむ は、私がつれない資盛様を恨むことと、浜木綿 の花が裏返ること、さらには熊野の浦、海岸をみることが掛詞になっている。柿本人麻呂に
み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも という歌がある。
→み熊野の浦の浜木綿のように、幾重にも心で思っているのに、直接に逢えない事よ。
み熊野には浜木綿の花が咲いていて恋の象徴として歌に詠まれている。
忘るなよ 忘ると聞かば み熊野の 浦の浜木綿 恨み重ねむ
という歌もその一つである。浜木綿の花が幾重にも重なって咲くように、私の事を忘れたら、あなたを何倍も恨みますよという意味である。
けれども私には資盛様が私を忘れても、恨むことはないだろう。恨むだけの気力が、今の私には残っていないのである。
ただしこの歌で、忘れても恨まないと歌ったのは強がりで、心の奥底では忘れないで欲しい、恨まないから今からでも私の事を思い出して欲しいと思っているのかも知れない。この歌は他人には見せられない。無論資盛様には届けていない。私は色々なことを思い出す。資盛様は重盛様の御供で住吉に詣でられたことがあった。あの時は難波から都に戻ってきてすぐに、私に忘れ草をつけた歌を送ってきてくれたのになどと、愛されていた頃の記憶が蘇ってきて切なくなる。
沖つ波 かへれば音は せしものを いかなる袖の 浦に寄るらむ
この歌でも 沖つ波 かへれば と資盛様が都に帰ることを掛詞にした。沖から海岸に打ち寄せてきた波は、やがて音を立てながら沖に帰っていく。あの人は旅先から都に帰ってくると直ぐに、私のもとを訪ねて来て土産話をするが、手に入れたものを歌と共に届けてくれた。それなのに今は全く訪れてもくれない。今頃はどんな女性のもとに帰ってきて、旅の土産話をしているのだろうか。
さて恋で悩む作者を心配してくれる友人もいた。
朗読⑦
宮に候ふ人の常に言ひ交すが、「さてもその人はこのごろはいかに」と言ひたりし返事のついでに、
雲の上を よそになりにし 憂き身には 吹きかふ風の 音も聞こえず
解説
ここは短い文章であるが、作者の迷いが込められている。直訳すれば、中宮様にお仕えしている女房で私といつも手紙をやり取りしていたその女房が という意味である。その女房が作者に 「さてもその人はこのごろはいかに」 と質問した。
その人とは資盛を指している。その質問に作者は和歌で返事した。
雲の上を よそになりにし 憂き身には 吹きかふ風の 音も聞こえず
私は既に建礼門院様への宮仕えを辞した身であるが、中宮様にお仕えしていた頃の人間関係は今でも継続している。中でも同僚だった女房仲間の一人とは、何かにつけて手紙をやり取りしている。その彼女から便りがあった。あなたにも色々あったと思いますが、あのお方との交際は今でも続いているのですか と言ってきた。無論同僚であった頃に、関係が始まった資盛様との現状を尋ねてきたのである。その返事の中に歌で、私の心を伝えておいた。
雲の上の世界である宮中での宮仕えを辞めてからというもの、雲の上を吹き返っている風の音は、
こちらには全く聞こえてこない。資盛様からはお手紙も連絡もないのです。
「古今和歌集」に
玉かづら 今は絶ゆとや 吹く風の 音にも人の 聞こえざるらむ よみ人知らず
という歌がある。恋人からの便りがないだけでなく、その人に関する風聞、噂さえも聞こえてこないという内容である。
右京太夫はこの歌を踏まえているのだろう。
所で武蔵鐙に象徴される三角関係はえてして悲劇に終わる。二人の男性から愛されて三角関係に陥った女性は、宇治十帖の浮舟のように自ら死を選ぶことがある。「建礼門院右京太夫集」は、ここで自ら海に身を投げて死んだ女性のエピソ-ドを語る。「平家物語」にも載る。
朗読⑧
治承などのころなりしにや、豊の明りのころ、上西門院女房、物見に二車ばかりにて参られたりし、
とりどりに見えし中に、小宰相殿といひしひとの、鬢額のかかりまで、ことに目とまりしを、年ごろ心にかけて言ひける人の、通盛の朝臣に取られて、嘆くと聞きし、げに思ふもことわりと覚えしかば、その人のもとへ、
さこそげに 君嘆くらめ 心そめし 山のもみぢを 人に折られて
返し
なにかげに 人の折りける もみぢ葉を 心移して 思ひそめけむ
など申しし折は、ただあだごととこそ思ひしを、それゆゑ底の藻屑とまでなりしを、あはれの例なさは、よそにて嘆きし人に折られなましかば、さはあらざらまし。かへすがへす例なかりける契の深さも、言はむ方なし。
解説
豊の明り 11月の新嘗祭の頃に行われる行事である。五節の舞姫が舞を披露する華やかな儀式である。
上西門院 鳥羽天皇の皇女で、弟である後白河天皇の準母・母に準ずる位となり、皇后に任じられた。その上西門院に仕えていた女房が、豊の明り の節会を見物する場所にやってきた。
とりどりに見えし中に、小宰相殿といひしひとの、鬢額のかかりまで、ことに目とまりし
その女房達の中で、際立って美貌の女房がいた。それが 小宰相殿 であった。彼女に言い寄る男たちがいた。
年ごろ心にかけて言ひける人の、通盛の朝臣に取られて、嘆くと聞きし、
ずっと 小宰相 に言い寄っていた男がいたが、 小宰相 の恋人には 平通盛が定まったので、
その男は失恋してしまった。通盛 は清盛の甥である。
げに思ふもことわりと覚えしかば、その人のもとへ、
右京太夫は 小宰相 の美貌を知っているので、彼女に失恋した男の悔しさが理解できた。それで慰めの歌を送った。
この失恋した男こそ八坂本 「平家物語」によれば、作者の恋人である資盛だったのである。
作者と資盛との和歌の贈答については、現代語訳に譲る。
ただあだごととこそ思ひしを、それゆゑ底の藻屑とまでなりしを、あはれの例なさは
右京太夫は 小宰相 を巡る争奪戦で勝利者になった通盛は、本気の恋ではあるまいと思っていたのである。所が 通盛 と 小宰相 は、真の愛で結ばれていた。後に 通盛 は一の谷で戦死する。その直後、平家の女性たちは、生き残った男たちと舟に乗って四国の屋島に下って行った。その
途中、 小宰相は舟から海に身を投げて死んでしまった。
よそにて嘆きし人に折られなましかば、さはあらざらまし。
小宰相 は、本気で愛してくれた 通盛 と結婚したから、通盛 の 死を悲しんで自分も後を追ったのである。
遊びの資盛と結ばれて居たら、そんな男の後追いをしないであろう。小宰相 は死ななくても済んだのではないかと、
右京太夫は感慨に耽ったのであった。
かへすがへす例なかりける契の深さも、言はむ方なし。
通盛 との愛の深さも、小宰相 の運命の儚さも、共に契りの無いものであった。
現代語訳
私が宮仕えをしていた頃の資盛様とは、今も涙なしでは思い出せない思い出である。
あれは治承の頃であった。新嘗祭の豊の明かりの節会を見物する為に、上西門院 にお仕えする女房達が、牛車二台に乗って参内したことがあった。女房達はいづれも美形揃いであったが、中でも目立ったのは 小宰相 という女房であった。まことに美しく同性の私の目にもとまった。その 小宰相 は殿上人たちの争奪戦の対象になっていた。
私が耳にした噂では、 小宰相 には何人もの殿上人が言い寄っていたが、通盛様が相思相愛の
相手として定まったので、彼らは悲しんでいるという事であった。その失恋した殿方というのが、何と私の恋人である資盛様なのだった。私から見るとかなんとも情けない話だが、豊の明かりの時に私が見た 小宰相 はまことに美しく、資盛様はじめ多くの人が心を焦がすのも道理だと納得できた。それで豊の明かりが終わった後で、私は資盛様に歌を送って皮肉った。無論私には嫉妬とまでは言えないが、面白くない感情があったのは事実である。
さこそげに 君嘆くらめ 心そめし 山のもみぢを 人に折られて
あなたが心を燃やしておられたもみぢの様にうつくしい 小宰相 は別の男性と、しかも平家一門の 通盛様 と深い仲になった様ですね。あなたが心の底から嘆いていらっしゃるのは至極尤もなことだと思います。
それに対する資盛様の返しは、意外と素直なものであった。
なにかげに 人の折りける もみぢ葉を 心移して 思ひそめけむ
本当にあなたが言う通りです。他の男性が、自分のものとして折り取った美しいもみぢの枝を、私はどうして本命のあなたという女性がいながら、一時的なメンツとはいえ恋心をひかれたのでしょうか。自分で自分の心が分かりません。
私と資盛様はこんなやり取りをしている時には、 小宰相と 通盛様 の関係を、私はただの遊びである位にしか思っていなかった。所がその後に、平家一門を未曽有の悲劇が襲った。小宰相は、都落ちする道盛様と共に、都を離れた。
通盛様が一の谷で戦死した、その知らせを受けた小宰相 は通盛様の子を身籠っていたけれど、
悲嘆と絶望の余り、四国の屋島に向かう舟から身を投げて亡き夫に殉じた。通盛様と小宰相の愛は、限りなく強く、又無情であった。
右京太夫も二人の男性に引き裂かれた悲劇的な死に方をする危険性もあった。けれども結果的に、海に身を投じて死んだのは、資盛であったのは歴史の皮肉である。
「コメント」
一生懸命悲劇のヒロインに扮してみようとしたり、或いは物書き・歌人として背伸びしている様な感がある。しかし平家の末期の様子が窺われて興味深い。