2311202②「雲の上の世界で」
作者が建礼門院に仕えたのは、平家一門の全盛時代であった。そして平家の公達の一人と恋愛関係になる。彼は清盛の長男である重盛の二男であった平資盛である。右京太夫が建礼門院への宮仕えを始めたのは、平家一門が都落ちする前である。その後都落ちしていく資盛と別れを交わすが、資盛は壇ノ浦の戦いで命を落とす。平家滅亡後、作者は資盛の菩提を弔っていたが、後鳥羽天皇の宮中に宮仕えする。晩年になって自分の人生を、その時々に詠んだ歌をちりばめたのが「建礼門院右京太夫集」である。略して「右京太夫集」と呼ぶ。
今日から「右京太夫集」の本文を読み始める。江戸時代後期から近代にかけて、最も読まれた「群書類従」の本文で読み進める。冒頭では、宮仕えで初めて目撃した、宮中という雲の上の世界が語られる。先ずは高倉天皇と建礼門院が、二人並んだ姿の思い出である。
朗読①
高倉の院御位のころ、承安4年などいひし年にや、正月一日、中宮の御方へ、内の上、渡られたまへりし、御引直衣の御姿、宮の御物の具召したりし御様などの、いつと申しながら、目もあやに見えさせたまひしを、物のとほりより見まゐらせて、心に思ひしこと、
雲の上に かかる月日の 光見る 身の契りさへ うれしとぞ思ふ
解説
作者は雲の上の世界に紛れ込んだ。そして天皇と中宮の輝かしい姿に、目を見張ったのであった。この場面は王朝文学の傑作清少納言「枕草子」が、一条天皇と中宮定子の仲睦まじい姿を描いている事と似ている。右京太夫が清少納言で、建礼門院が定子なのである。
高倉の院御位のころ
右京太夫の時代は、高倉天皇の御代であった。
承安4年などいひし年にや
1174年である。通説では作者の右京太夫は18才位とされ、多感な年齢である。
正月一日、中宮の御方へ、内の上、渡られたまへりし、
元日には宮中であでやかな儀式が行われる。それが終わった後、天皇が中宮の部屋を訪ねたのである。
御引直衣の御姿
天皇はすでに儀式用の正装を脱いで、楽な普段着に着換えておられた。
宮の御物の具召したりし御様などの、いつと申しながら、目もあやに見えさせたまひしを、
いつも美しいのだが、正装を身にまとった中宮はまさに輝いていた。
物のとほりより見まゐらせて、心に思ひしこと、
作者はまぶしいほどに美しい中宮を、渡り廊下から、恐らく柱の陰から憧れと共に見とれていた。中宮の横に優しい高倉天皇の姿がある。二人を見ているうちに、作者の心に歌が浮かんだ。「右京太夫集」最初の歌である。
雲の上に かかる月日の 光見る 身の契りさへ うれしとぞ思ふ
雲の上は太陽や月がかかる空という意味の他に、宮中皇居という意味もある。
かかる は、太陽や月が空にかかるという事と、この様なという意味の掛け言葉である。ここは太陽が高倉天皇、月が建礼門院である。
身の契りさへ うれしとぞ思ふ
こういう素晴らしい世界を見た自分の身は大したものである と感激しているのである。
現代語訳
私はしばし、目をつむってこれまでの人生を思い出そうとした。すると最初に思い浮かんだのは、お仕えした建礼門院の美しい姿であった。その傍らには優しかった高倉天皇の姿も見える。私が宮中で女房として出仕したのは、高倉天皇の御代で建礼門院が中宮であった。あれは承安4年の正月元旦、私は18才。高倉天皇は即位してから7年目の14歳。中宮は入内して3年目の20才であった。元旦の宮廷行事が終わった後で、天皇が中宮の部屋に来られた。二人が並んだ姿は、太陽と月のように素晴らしかった。天皇は普段着の直衣にお召変えになっていたが、中宮はまだ唐衣の正装であった。この二人はいつ見ても、素晴らしいという賞賛の気持ちが湧いてくるのだが、この時は格別に輝かしく思えた。私はそれを渡り廊下の物陰から仰ぎ見るような思いで、呼吸するのも忘れて見つめ続けた。そんな思いを詠んだ歌がある。
雲の上に かかる月日の 光見る 身の契りさへ うれしとぞ思ふ
宮中という雲の上で宮仕えする身になった私は、雲の上を照らす太陽と月を間近に拝見する機会に恵まれた。
太陽は昼、月は夜に世界を明るく照らすものだが、私が紛れ込んだ雲の上では、太陽と月が同時にならぶ奇跡が起きていた。こんな体験に恵まれた私は、どんなにか素晴らしい運命の下に生まれたのだろうと嬉しかった。
ここでは天皇が太陽で、中宮が月である。先程言ったように、「右京太夫集」には「枕草子」と対応する人間関係も一つできた。建礼門院が定子と対応しているのである。「枕草子」には定子の父親である中の関白・藤原道隆の朗らかな性格が印象的に描かれている。その道隆が平清盛と対応している。但し「右京太夫集」には、清盛が直接には登場しない。その代わりに、清盛の子供たちや孫たちが足繁く、建礼門院の御所に顔を出している。「枕草子」でも定子の兄や弟が、清少納言と楽しく語らっている。「右京太夫集」は約200年前に書かれた「枕草子」の再現でもあった。この様に雲の上の世界で、宮仕えを始めた右京太夫は、高倉天皇と建礼門院という太陽と月を見た。
作者は次に二人の女神を目撃する。
朗読②
同じ春なりしにや、建春門院内裏にしばし候はせおはしまししが、この御方へ入らせおはしまして、八条の二位殿御参りありしも御所に候はせたまひしを、御匣殿の御後ろより、おづおづと見まゐらせしかば、女院、紫のにほひの御衣、山吹の御表着、桜の御小袿、青色の御唐衣、蝶をいろいろに織りたりし召したりし、言う方泣くめでたく、若くもおはします。宮はつぼめる色の紅梅の御衣、樺桜の御表着、柳の御小袿、赤色の御唐衣、みな桜を織りたる召したりし、にほひあひて、今さらめづらしく、言う方なく見えさせたまひしに、大方の御所の御しつらひ、人々の姿、ことにかかやくばかり見えし折、心にかく覚えし。
春の花 秋の月夜を おなじ折 見る心地する 雲の上かな
解説
華やかな場面である。
建春門院
建礼門院の叔母である。建礼門院の母親は平時子であるが、その妹が建春門院なのである。建春門院は後白河法皇の女御で、高倉天皇の母親である。建春門院が建礼門院と二人で並んだ姿は、まさに二人の女神を見るようだと作者には見えた。しかもこの場には、二位の尼こと平時子も同席していた。時子も含めて三女神と言いたい所だが、右京太夫は時子をそれほどには絶賛していない。そこで二人の女神と言ったのである。
同じ春なりしにや
先ほど読んだ場面と同じで、承安4年1174年の春であったのだろうかと、作者は記憶を辿っている。恐らく彼女は宮仕えを始めて、最初に巡ってきた春だったのであろう。
建春門院内裏にしばし候はせおはしまししが、この御方へ入らせおはしまして、
高倉天皇の生母である建春門院が暫く宮中に滞在した時機があり、中宮の部屋に来られた。
八条の二位殿御参りありしも御所に候はせたまひしを、
平清盛の屋敷は、西八条殿と呼ばれる。普段はそこで暮らして居た二位の尼も宮中に参内していた。
時御匣殿の御後ろより、おづおづと見まゐらせしかば
建春門院と建礼門院そして二位の尼という三人の高貴な女性たちを、作者は御匣殿という女房の後ろから恐る恐る見ていたのである。御匣殿 は 左大臣源有仁の娘とする説と、太政大臣 藤原伊周の娘とする説がある。
女院、紫のにほひの御衣、山吹の御表着、桜の御小袿、青色の御唐衣、蝶をいろいろに織りたりし召したりし、言う方なくめでたく、若くもおはします
この日の建春門院の御召しものの説明である。これまた華やかであった。
にほひあひて、今さらめづらしく、言う方なく見えさせたまひしに、
建春門院と建礼門院二人の高貴な女性の美しさが、互いに相手の美しさを引き立てて、それが一つに溶け合っていた。それがにほひあひて である。
古典文学の にほひ は香りではなくて、目に訴える華やかさを表すことが多い。
大方の御所の御しつらひ、人々の姿、ことにかがやくばかり見えし折、心にかく覚えし。
二人の周りの部屋のインテリアも素晴らしく、二人を取り巻いている女房達が着ている衣装も華やかであった。それを見て作者の心に浮かんだ歌があった。
春の花と秋の月は美しいものの双璧である。本来ならば、春と秋は同時に存在しないが、作者が紛れ込んだ雲の上の世界では春の満開の桜の花と、秋の名月とが同時に存在していた。無論、建春門院と建礼門院の二人の事である。この豪華絢爛な場面を現代語訳する。
現代語訳
承安4年1174年の春のことだったと記憶しているが、もう一つ宮仕えを始めたばかりの私にとって、忘れられない思い出がある。高倉天皇の生母である建春門院が暫く御所に滞在していた。建春門院は平時信の娘で、滋子。後白河法皇の女御で、この時33歳。建礼門院の母である平時子は、建春門院の姉に当たる二位の尼である。
二位の尼・時子もこの時、御所に来ていた。この時49歳。高貴な女性三人の姿を御匣殿 という女房の後ろから、私は恐る恐るほんの少しばかり拝見した。建春門院は後白河法皇に寵愛されている美貌の人である。濃い紫と薄い紫とを重ねて着ている。以下 衣装の説明 略。着こなしが誠に素晴らしく、言葉には説明できない位である。33歳とは思えないほどの美しさである。中宮の徳子は20才。衣装の説明 略。中宮の素晴らしい衣装が、建春門院の衣装と互いに溶け合って、この世のものとも思えない程であった。二人の女院の御召し物の素晴らしさと、二人がいらっしゃる御所の部屋のインテリアの素晴らしさ、更には建春門院の姉として、中宮徳子の母君として、二人を見守っている二位の尼の姿。この高貴な女性三人の周囲を取り巻いている女房達のお正月の晴れ姿。それらが輝かしい時間として、私の心に深く刻印されている。
春の花 秋の月夜を おなじ折 見る心地する 雲の上かな
太陽と月を同時に眺めることは普通出来ないが、私が宮仕えをしていた頃の宮中では奇跡が起きていた。太陽の様な高倉天皇と、月の様な中宮が並び立っていた。同じ様に人間の世界では、春の桜と秋の名月を同時に愛でることは出来ない。けれども私が紛れ込んだ雲の上の別世界では、春の花のように美しい中宮と、秋の名月のように美しい建春門院とを同時に賞美することが出来た。
春と秋が同時に並び立っている。これは光源氏が造営した六条院で、春を司る紫の上と、秋を司る秋好中宮とが並び立っている。なお建春門院に仕える女房に藤原俊成の娘・藤原俊成女がいた。彼女が書いた日記「たまきはる」に、建春門院が登場する。この日記は「建春門院中納言日記」とか「健寿御院日記」とも呼ばれる。
次には高倉天皇が笛を吹く場面を読む。右京太夫が宮仕えをして身近に接した高倉天皇は、優しい心の持ち主であった。
朗読③
いつの年にか、月明かりし夜、上の、御笛吹かせおはしましじが、ことにおもしろく聞こえしを、めでまゐらすれば、「かたくなほしきほどなる」と、この御方に渡らせおはしましてのちに、語りまゐらせさせたまひたりけるを、「それは空事を申すぞ」と仰せ事あるとありしかば、
さもこそは 数ならざらめ 一筋に 心をさへも なきになすかな
とつぶやくを、大納言の君と申すは、三条内大臣の御女とぞ聞こえし、その人「かく申す」と申させたまへば、笑はせおはしまして、御扇の端に書き付けさせたまひたりし、
笛竹の うきねをこそは 思ひ知れ 人の心を なきにやはなす
解説
高倉天皇と建礼門院、そして作者が横笛を巡って楽しいやり取りをしている。
いつの年にか、月明かりし夜
いつの年だったかは明記されていない。月が明るかったとあるので、季節は秋であったか。
上の、御笛吹かせおはしまししが、ことにおもしろく聞こえしを
高倉天皇は笛の名手であった。
めでまゐらすれば
作者は天皇の笛を聞いて素晴らしいと思ったので、率直に口にした。作者の母親は音楽を職業とする家の出身である。母方の祖父は笛の名手で、母親も筝・十三弦の琴の名手であった。作者には良い音を聞き分ける力があった。
「かたくなほしきほどなる」と、この御方に渡らせおはしましてのちに、語りまゐらせさせたまひたりけるを、
笛を吹き終わった天皇が、中宮の部屋においでになった時に、中宮は女房である右京太夫が素晴らしい笛だと絶賛していた、聞いていて褒め過ぎではないかと思う位であったと天皇に仰った。
「それは空事を申すぞ」と仰せ事あるとありしかば
中宮から右京太夫が絶賛していたと聞いた天皇は、右京太夫の褒め言葉は、本心ではなかろうと謙遜をした。
作者は天皇や中宮から少し離れた場所に控えているので、天皇や中宮の御言葉は、上級女房から漏れ聞いたのである。
作者は思わず歌を口ずさんだ。
さもこそは 数ならざらめ 一筋に 心をさへも なきになすかな とつぶやくを、
なきになすかな は、無視するとか頭から信用しないなどの意味である。
自分は本心から天皇の笛を絶賛したのに、嘘だと決めつけられるのは悲しいという歌である。この歌は作者が何気なく口にしただけだったのである。
大納言の君と申すは、三条内大臣の御女とぞ聞こえし、
その人「かく申す」と申させたまへば、
大納言の君 は直接に対話が出来る立場である。右京太夫がこのような歌を口ずさんでおりましたと言った。
さもこそは 数ならざらめ 一筋に 心をさへも なきになすかな という歌を天皇にご注進した。
笑はせおはしまして、御扇の端に書き付けさせたまひたりし、
天皇は朗らかに笑って、手に持っていた扇の端に歌を書いて右京太夫に渡した。
高倉天皇が右京太夫を相手として詠んだ歌である。
私は自分の笛がうまくないのは分かっているよ。
人の心を なきにやはなす
お前の心を無視したわけではないのだよ。
現代語訳
あれはいつの年だったか正確には覚えていないが、月が明るく空にかかっていたので季節は秋だったのではないか。高倉天皇が一心に笛を吹いておられたことがあった。私の母方の祖父は大神基政といって、横笛を専門とする楽人であった。「龍鳴抄」という笛の専門書を残している。そういう環境で育ったので、私にも演奏の優劣を聞き分ける耳はあると思っている。私の耳に天皇のお吹きになる横笛の音は、格別に素晴らしく、澄み切った空の上までも攻め上がっていくかと思われる程であった。思わず天皇の笛は素晴らしいと口にしてしまった。それも何度も繰り返して。笛を吹き終わった天皇は、中宮の部屋にお出ましになった時に、中宮は遠くに控えている私の方をチラッとご覧になって、「あちらに控えている右京太夫は、自分には笛の音色を聞き分ける耳があると言い張っています。先程の上様のお吹きになった横笛を感に堪えていたように聞いていましたが、こちらがうるさいと感じる程に褒めちぎっていました」 と仰るではないか。突然の成り行きに私がびっくりしていると、
上様は「右京太夫は本心にないお世辞を口にしたのであろう。私には楽人の家に生まれたものが感心するほどの技量は、備わっていない」と仰った。それを漏れ聞いた私は、お二人の遠くにいたのだが、そのことを教えられて思わずつぶやいた。但し小声で。
さもこそは 数ならざらめ 一筋に 心をさへも なきになすかな
いえ、私の誉め言葉は決して嘘ではありません。私の本心です。無論私など取るに足りない身分の者ですが、上様と中宮様をお慕いしている気持ちには嘘はありません。私の純粋な真心を嘘だと決めつけられるのは心外です。私は自分が口にした歌が、上様の耳に入ることはないと安心していたが大納言の君 という女房仲間がいた。
内大臣まで上がった藤原公教の娘とか聞いている。その大納言の君 が私のつぶやきを聞き取って、上様に右京太夫はこのように申しておりますとご注進に及んだ。上様は朗らかにお笑いになった。
そして手にしている扇の端にすらすらとお書きになって、それを私に賜った。見ると畏れ多くも私の歌への返歌が書き記されていた。
笛竹の うきねをこそは 思ひ知れ 人の心を なきにやはなす
「私はね、自分の吹く笛が如何にも情けない音色を立てているのかわかっているのだよ。笛は竹から作られるが、竹には根がある。人には性根というものがある。私にも性根がある。そなたにも性根がある。それを私は決して否定しているのではないよ。安心しなさい。」
「建礼門院右京太夫集」はこのように、十代後半で宮仕えした作者が体験した、宮仕えの華やかな思い出から書き始められた。作者がお仕えしている建春門院には平家一門の公達が足繫く通ってくる。その中に平維盛がいた。清盛の長男・重盛の長男なので、清盛の直系の貴公子である。作者が後に交際することになる資盛の兄である。
それでは維盛が初めて登場する場面を読む。冒頭に同じ人 とあるのは西園寺実宗という貴族である。
朗読④
同じ人の、四月御生のころ、藤壺に参りて物語せし折、権亮維盛の通りしを、呼びとめて、「このほどに、いづくにてまれ、心とけて遊ばむと思ふを、かならず申さむ」など言ひ契りて、少将はとく立たれにしが、少し立ちのきて見やらるるほどに、立たれたりし、ふたへの色濃き直衣、指貫、若楓の衣、そのころの単衣、常のことなれど、色ことに見えて、警固の姿、まことに絵物語に言ひ立てたるようにうつくしく見えしを、中将、「あれがやうなるみざまと、身を思はば、いかに命も惜しくて、なかなかよしなからむ」など言ひて
うらやまし 見と見る人の いかばかり なべてあふひを 心かくらむ
「ただ今の御心の内も、さぞあらむかし」と言はるれば、物の端に書きてさし出づ。
なかなかに 花の姿は よそに見て あふひとまでは かけじとぞ思ふ
と言ひたれば、「思しめし放つしも、深き方にて、心ぎよくやある」と笑はれしも、さることと、をかしくぞありし。
解説
葵祭の頃の思い出である。平維盛の優れた容貌が絶賛されている。この維盛がまさか熊野那智の沖で入水して死ぬことになろうとは、この時には誰も思いもよらぬことであったろう。この箇所は解説を含んで現代語訳を行う。
現代語訳
西園寺実宗にはもう一つ忘れられない思い出がある。四月に葵祭に先立って、上賀茂神社で行われる御阿礼神事の頃だった。実宗はいつものように上様のご用件を中宮にお伝えするために、お住みになっている藤壺まで参上したことがあった。用事が終わるとそのついでに、女房達と楽しい会話に時間を潰しておられたが、そこに丁度平維盛が通りかかった。維盛は小松殿(平重盛)の長男である。宮中の警備を司る右近衛府の権少将の傍らで、
中宮のお世話をする中宮職という役所の権亮 を兼任していた。
実宗は維盛を呼び止めて、近いうちにどこに行くかまだ場所は決めていないが、気を許したものだけで、楽しく遊ぼうと思っている。その時にはお誘いするから、是非ともご一緒しましょうと話しかけ、強引に維盛の承諾を得たようであった。
維盛は急ぎの用事があった様で、その場を立ち去った。ほんの少し歩いたところで立ち止まったが、
それが偶然にも私達女房達からお姿がよく観察できる場所であった。無論、私にもよく見えた。初夏に着るものとしては普通のものであるが、若楓の単衣を着ていた。今この季節としては当たり前の色であったが、所がである。着る人次第でこんなにも色が映えるのかと驚くほどに、維盛の姿は素晴らしい。
神事の前後には、宮中では特別の警固体制が取られる。右近衛府の権少将である維盛の警固の姿の、何と凛々しくなんと華麗であることか。まるで絵のついた物語に、絶世の貴公子が描かれているのを見ているかのようであった。女房達が維盛をうっとりと見惚れている様子をご覧になった実宗が口にした言葉がふるっていた。
「ああ、確かに維盛の姿は素晴らしい。あなた方が心をときめかせておられるのは尤もであるが、この私もああいう雰囲気を持って生まれて来たかったと言いたいのは山々だが、正直な所私には真っ平ごめん蒙りたい。ああいう風に生まれてしまったら、自分の命を大切にしなくてはという気持ちが強くなりすぎ、却って色々と差し障りが生まれてしまうから。私の今のような容姿や雰囲気で充分である。私は今の自分に満足している。そして実宗は歌を詠んだ。
うらやまし 見と見る人の いかばかり なべてあふひを 心かくらむ
ああ、でも本音を言えばやはり私は維盛が羨ましい。今日は賀茂の神社の神事が行われているが、賀茂の祭と言えば葵がつきもの。維盛に見とれている女性たちは、さぞかし彼と逢う日を心待ちにしている事だろう。その実宗と目線が私と合ったので、私に向かって「おお右京太夫、あなたもさぞかし心の中では、維盛の様な殿方との逢う日を願っているのだろう」と仰った。その時近くに良い紙がなかったし、実宗には気取ることもなかったので、その辺りにあった手頃な紙に歌を書いて、これが私の気持ちですと言って差し出した。
なかなかに 花の姿は よそに見て あふひとまでは かけじとぞ思ふ
あなたは美男子に生まれなくて却ってよかったと言わんばかりですが、私も又あなたと同じで却ってです。
余りにも美しすぎる維盛には、感嘆するばかりで恋人として逢うとなったら、却ってうまくいかないこともあるでしょう。ですから私は他の大勢の女房達とは違って、維盛と逢いたいとは願っていないのです。この様に返事をした所、実宗は、それそれ、そのように維盛への好意を極端に否定しようとして、懸命になっているようだが、そこに却ってあなたの維盛への深い思いが窺える。あなたは口で言う程には、維盛に関していさぎ良く、思い諦めてはいないようだとお笑いになった。
私も成る程、そういうものかも知れないなどと、自分にもわからない自分の心を、実宗に見透かされているようで何とも可笑しかった。
平家の貴公子達は、まるで「源氏物語」の光源氏にも匹敵する理想像を、右京太夫から与えられているのである。
「コメント」
宮中での平家の公達の様子と、若い女の子の様子がよく分かる。今にもどこか通じる。成り上がりの平家が、公家の真似をして遂には亡びる始まりである。そして公家たちはしぶとく残る。