2311114⑭「神に祈る長歌と反歌」
十六夜日記の末尾には、阿仏尼が鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮に奉納した、長歌と反歌が置かれている。阿仏尼が鎌倉に到着してから、早くも4年目になった。弘安5年1282年。
前の年には二度目の元寇があった。細川庄を巡る裁判は捗らない。そこで阿仏尼は、思いの全てを長歌に詠みこみ、鎌倉幕府に長く尊崇されている鶴ヶ丘八幡宮に奉納した。長歌は575を何度も繰り返し、最後は77で結ぶ形式である。長歌の後には57577という短歌形式の反歌が置かれる。阿仏尼は鎌倉幕府滞在中、有力御家人たちに和歌を指導していたと考えられる。
この長歌は、全体を14に区切るのが良いと考えているが、ここでは説明の都合上五つに区切る。
最初の部分の朗読。
敷島や 大和の国は 天地の 開け初めし 昔より 岩戸をあけて 面白き 神楽の言葉 歌ときく されば畏き ためしとて 聖の御代の 道しるく 人の心を 種として 万のわざを 言の葉に 鬼神までも なびくなり 八洲の他に 四つの海 波も静かに をさまりて 空吹く風も やはらかに 枝も鳴らさず 降る雨も 時定まれば 君々の 御言のままに 従ひて 和歌の浦路の 藻塩草 かき集めたる あと多し
解説
まず歌の起源から歌い始められる。
敷島や 大和の国は 天地の 開け初めし 昔より 岩戸をあけて 面白き 神楽の言葉 歌ときく
神の世界で神々が歌い興じる言葉こそが、和歌の言葉である。神様に訴える調子で以下訳した。
敷島の大和の悠久の歴史は、倭歌・和歌の長い歴史そのものである。天地開闢から間もない遥かな昔、神代の時代には、太陽の女神である天照大神が天の岩戸にお隠れになり、世界が闇に包まれたことがあった。その時岩戸の前で、神々は神楽を奏し、神楽歌を歌った。その歌をお聞きになった天照大神が、心を動かし岩戸からお出ましになったので、世界は再び光に満ち溢れ神々の顔面は白く照らされた。
そして何と面白いことだと神々は興じあった。これが和歌の起源であり、神楽の言葉が和歌となったと私は聞いています。
阿仏尼は次に人間の世界での和歌の歴史に触れる。
されば畏きためしとて 聖の御代の 道しるく 人の心を 種として 万のわざを 言の葉に
この様に神代の昔から和歌の力は絶大であったから、人間の時代になっても和歌は大切にされてきた。延喜・天暦の治(平安時代の醍醐天皇・村上天皇)と称えられる、良い政治を帝たちが行われた時もそうであった。延喜の御代には醍醐天皇が、古今和歌集の選集を命じられた。最初の勅撰和歌集の仮名序は、歌聖である紀貫之が書いた。そこには
やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、
心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
と宣言されています。
これは和歌の本質を見事に表現した至言と申せましょう。和歌は人間にとって最も大切な心の中から生まれ、様々な機会に様々な言葉となって溢れだし、喜怒哀楽を精妙に表現してきたのです。
次に阿仏尼は古今和歌集の序文にもある、和歌の力について確認する。
鬼神までも なびくなり 八洲の他に四つの海 波も静かに をさまりて 空吹く風も やはらかに 枝も鳴らさず 降る雨も 時定まれば
又「古今和歌集」の仮名序では、和歌の力を
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
と説明している。
優れた和歌には、天の神や地の神が感動して歌人の願いを叶えて下さいます。恐ろしい鬼神ですら、和歌を聞くと感動し悪事をしなくなる。男と女を取り持ち結びつける。物のあわれを知らないような勇猛な武士たちすら、心を開きます。
これが和歌の力です。ですから、大和の外の国々まで我が国の威光に靡き、外敵の来襲もなくなります。東西南北の四海の波も健やかです。空から吹き下ろす風も優しく、そっと吹くのです。木々の枝も暴風でしなる事はありません。雨も降るべき時に降り、降って欲しくない時には降らない。平和な日々がこの国には続いている。
長歌の表現とは裏腹に、元寇をはじめ内外共に多難な時代にあって、細川庄の所有権をめぐる裁判が遅延したのは当然の事だった。阿仏尼は勅撰和歌集の編纂に再度触れる。
君々の 御言のままに 従ひて 和歌の浦路の 藻塩草 かき集めたる あと多し
「古今和歌集」と「後撰和歌集」以来、文化を愛する歴代の天皇の仰せに従って、沢山の勅撰和歌集が編纂された。紀州にはその名も、和歌の浦 という風光明媚な名所があり、そこには和歌の神様の一人である 玉津明神・外織姫を祀る玉津島神社がある。和歌の浦では、海人達が海草をかき集めているが、勅撰和歌集の編纂を命じられた選者達は、沢山の名歌をかき集めて歴代の帝に奏上してきたのである。そのことで我が国の文化と平和が守られてきた。
この長歌が詠まれた1282年までには、12番目の勅撰和歌集・「続拾遺和歌集」 1278年 までが選ばれている。それでは大きく、五つに区切った二つ目に進む。
それが中にも 名をとめて 三代まで継ぎし 人の子の 親の取りわき 譲りてし そのまことさへ ありながら 思へばいやし 信濃なる その帚木の 園原に 種をまきたる とがとてや 世にも仕へよ 生ける世の 身を助けよと 契りおく 須磨と明石の 続きなる 細川山の 谷川の わづかに命 かけひとて 伝ひし水の 水上も せきとめられて 今はただ 陸に上れる 魚のごと 楫緒絶えたる 舟に似て よる方もなく わび果つる
解説
阿仏尼はまず冷泉家こそが、為家の正当な継承者であるというということを神に訴える。
それが中にも 名をとめて 三代まで継ぎし 人の子の 親の取りわき 譲りてし そのまことさへ ありながら
数ある勅撰和歌集ですが、祖父・父親・本人と三代に亘って、選者を務める名誉は滅多にない。わが亡き夫である為家は、祖父の俊成卿の「千載和歌集」、父親の定家卿の「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」の後を継ぎ、「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の選者を務めた。これほどの和歌の家は、長い和歌の歴史の中でも稀有の事である。この歌の道の名門を御子左家と申します。その為家が自分の子である為相に、即ち私の生んだ息子に深い愛情を注ぎ、御子左家が収集してきた貴重な和歌の書物と細川庄を、遺産として譲るという文面の譲り状を残された。これが真実の証拠なのです。
それなのにです。
阿仏尼は時には泣き落としで、神々の同情を買うこともある。それがその次の
思へばいやし 信濃なる その帚木の 園原に 種をまきたる とがとてや である。
帚木 という木は、信濃国の 園原 に生えている。帚木 の 帚 は、母親の母が掛詞になっている。又園原 という地名も、母親のお腹を意味する その腹 の掛詞である。冷泉為相と為守の母親は、卑しかったことを、阿仏尼は卑下して謙遜している。その部分を、言葉を補って訳しておく。
→為家は私と結ばれる前に、前の妻との間に為氏をもうけていた。為氏は為相が和歌の書物や細川庄を相続することに強い反対をし、それを横領しようとしていた。これは一つには、為氏の母親が鎌倉武士の名門である、宇都宮氏の出身であるのに対し、私の様な取るに足りない出自の母親を持ってしまったのが、為相の不幸の原因なのかも知れない。
悪いのは生まれの卑しい母親である私であって、私の腹から生まれた為相ではない。為相は俊成・定家に繋がる和歌の名門・為家の血を受け継いでいる。信濃国の 園原 には、帚木 という不思議な木が生えている。遠くから見えるけれども、近付いたらどこにあるのか見えなくなってしまうそうである。私などは為家の妻だと自分では思っていても、世間や立派な母親を持った為氏たちの目から見たら、正式の妻がいない、まるで帚木 のような存在なのです。
次に阿仏尼は自分が為氏の横暴に苦しんでいることを強調する。
世にも仕へよ 生ける世の 身を助けよと 契りおく 須磨と明石の 続きなる 細川山の 谷川の わづかに命 かけひとて
阿仏尼の心をくみ取って訳す。
亡き夫の為家は、私が生んだ為相や為守の未来を心配して、自分の没後は最小限の遺産を残すから、それによって生計を立てなさい。そして立身するがよい。固く遺言して細川庄を譲るという文章を残した。この細川庄は摂津国の須磨や播磨の明石の、すぐ近くにある荘園である。細川庄は私達親子命の源だから心のよりどころであり、故郷の様な場所である。故郷の山から清冽な水が流れだし、谷川の流れとなるように、私たち親子は細川庄から得られる収入を命の命を繋ぐ糧としてきました。細川山 の水を筧で家の敷地に引き込んで生活するように、細川庄の収入に私達親子の命が掛かっている。その命の水が、為氏たちの陰謀により堰き止められ、私たちの手元に入ってこなくなった。細川庄の所有権を為氏が不当に主張して横領したのである。須磨と明石は「源氏物語」の巻の名前である。その近くにある細川庄は御子左家にとっては経済的にも文化的にも重要な荘園であった。阿仏尼は改めて、自分達が直面している窮地を神に訴える。
今はただ 陸に上れる 魚のごと 楫緒絶えたる 舟に似て よる方もなく わび果つる
こうなっては水の中でしか生きるしかない魚が、突然陸 に上がって、呼吸できなくなるようなものです。或いは海人が自分の乗った舟を操るのに不可欠な 楫緒 縄が切れて、舟を全く操縦できなくなるような状態にも例えられるでしょう。
楫緒 を失った舟が、どの港にも立ち寄ることが出来ないように、私たち親子は生活の基盤を失ったのです。
荘子の話
古代中国の荘子に面白い話が載っている。車の通った跡に出来る轍の僅かな水の中に、取り残された鮒が命に危機に陥っている。その救済は緊急を要するというエピソ-ドである。阿仏尼も又進退窮まったのである。それでは長歌の3/5のパーツに進む。
朗読③ 長歌の3/5番目
子を思ふとて 夜の鶴 なくなく都 出でしかど 身は数ならず 鎌倉の 世のまつりごと 繁ければ 聞え上げてし 言の葉も 枝にこもりて 梅の花 四年の春に なりにけり 行方も知らぬ 中空の 風にまかする 故郷は 軒端も荒れて ささがにの いかさまにかは なりぬらん 世々の跡ある 玉章も さて朽ち果てば 足柄の 道もすたれて いかならん これを思へば わたくしの 嘆きのみかは 世のためも 辛き試しと なりぬべし
解説
まず訴訟の為に阿仏尼は鎌倉に下ったことが語られる。
子を思ふとて 夜の鶴 なくなく都 出でしかど
夜の鶴 という言葉は、為家の姉との往復書簡の中にも使われていた。以下訳しておく。
この窮地を打開したいと、我が子為相と為守の未来を思う一心で、私は住み慣れた都を後にして、鎌倉に向かい、正しい裁判をして貰おうと決めた。夜の鶴 が我が子を思って、悲しい声をあげるように、私は子供たちの事を思って、泣きながら東下りをして鎌倉までやってきた。それが今から3年前の事である。鎌倉に到着してからあっという間に時間が経過した。
身は数ならず 鎌倉の 世のまつりごと 繁ければ 聞え上げてし 言の葉も 枝にこもりて 梅の花 四年の春に なりにけり
私は鎌倉に到着後に直ちに細川庄を巡る裁判を起こし、公平な裁きを幕府にお願いした。けれど私の願いはなかなかお取り上げにはならず進捗しなかった。一つには訴えた私が、取るに足りない身分のものだからでしょう。もう一つには、元寇をはじめとして内外共に多難な時期なので、幕府の方々も緊急に対処しなければならない重大な難問が多く、私の訴えに費やす時間がなかったからでしょう。木の葉が枝に隠れて見えないように、私が心を込めて書き上げた訴訟の言葉は、公に取り上げられませんでした。裁判での勝訴は待ち望んだ 開花に譬えられるでしょうが、まだ莟は難く閉じたままです。私の裁判は膠着状態ですが、自然界では時間は着実に進行していて、今年も梅の花が咲いた。私が梅の花を見たものは、これで3回目です。つまり私が鎌倉に到着した年から数えると、今年は4年目になります。
行方も知らぬ 中空の 風にまかする 故郷は 軒端も荒れて ささがにの いかさまにかは なりぬらん 世々の跡ある 玉章も さて朽ち果てば 足柄の 道もすたれて いかならん これを思へば わたくしの 嘆きのみかは 世のためも 辛き試しと なりぬべし
空の上でもなく地上でもない中空には、風が吹いている。風は上へも下にも東へも西にも北へも定まらず吹く。自分が何処から来て、どこへ行くのか、風自身も分かっていない。私は都から来ました。勝訴の暁には再び都へ戻りますが、一体いつになるのか想像もできない。それまで私も風のようにいや風任せの日々を送りつづけるしかないでしょう。
都に残してきた家の手入れをする人も無く、荒れ放題で、軒端もあちこちが腐ったり崩れ落ちたりしているでしょう。蜘蛛の巣だらけになっている事でしょう。こんな状態があと何年も続きましたら、都の屋敷はどうなってしまうのかと心配でならない。けれども私が本当に心配しているのは、私の屋敷が荒れることではありません。
俊成・定家・為家と三代に亘って集めてこられた貴重な書物群が、破損したり消滅したりする恐れがある事です。もしもそのような事態になりましたら、この葦原の国、大和の国を支えてきた文化的支柱である和歌の道が損なわれてしまいます。考えただけでも戦慄を禁じえません。御子左家は和歌の故郷でもあります。この故郷を今は荒れるに任せているのです。
ここまで申し上げたので、細川庄の相続権や和歌の書物の所有権を巡って、私の提起した訴訟が私利私欲の為でないことを、神にも分って頂けたと存じます。この国の政事が正しく治まるように、世の中の秩序が保たれるようにという、公の憤りが私に訴訟を決意させたのです。いや歌の道の行く末を不安に思う為家の霊魂が、妻である私に乗り移って、今回は訴訟を起こさせたとも言えるのです。
阿仏尼の怒りが伝わってきます。それでは次のパーツに進む
行く先すけて さまざまに 書き残されし 筆の跡 返す返すも いつわりと 言う人あれば ことわりを 糺す社の 木綿四手に やよや聊か かけて問へ
阿仏尼の感情のボルテ-ジが最も高まった部分です。
為家は生前にはよくよく思案して、事細かく文章で書き記しておかれました。そこには為家の直筆で、細川庄や歌書類の所有権について、我が子為相に譲ると明記しておられます。前の妻の子である為氏がどういう行動に出るか、為家は余程心配なさったものか、繰り返し指示された。こういう私の主張を偽りだと思う方もいるでしょう。それならばお願いがあります。糺の森に鎮座まします下賀茂神社の糺の神は、理非を糺す力があるとされます。その神にお聞きになって、私の発言が正しいか間違っているかを究明しては如何でしょうか。
糺の森や糺の神は、「枕草子」や「源氏物語」にも登場する。
それでは五つの最後のパ-ツに進む。
朗読⑤ 長歌の5/5番目
みだりがましき 末の世に 麻は跡なく なりぬとか 諫めおきしを 忘れずは 故ある事を 又誰か 弾き直すべき とばかりに 身を顧みず 頼むぞよ その世を聞けば さてもさは 残る蓬と かこちてし 人の情けも かかりける 同じ播磨の さかひにて 一つ流れを 汲みしかば 野中のしみず 淀むとも もとの心に まかせつつ 滞りなき 水茎の 跡さへあらば いとど又 鶴が岡辺の 朝日影 八千代の光 さしそへて 明らけき世の なほも栄えん
解説
まず前半から説明する。
麻は跡なく なりぬとか
この部分は、北条泰時のエピソ-ドが盛り込まれている。
残る蓬と かこちてし
この部分は、北条泰時に和歌で訴えた藤原俊成の養女である俊成卿女の歌を踏まえている。解説を加えて現代語訳をする。
それにしても乱れ切った世の中です。そんな時代ですから、正直で誠実な人間は殆どいません。けれどもそれを糺すのが政治の使命です。かつて鎌倉幕府の三代執権であった北条泰時は、
世の中に 麻は跡なく なりにけり 心のままの 蓬のみして
と詠まれ、この歌を、大いに評価した俊成卿は、「新勅撰和歌集」の中に選ばれました。曲がり曲がった 蓬 の様な悪人を矯正して、麻 の様にまっすぐな人間に正すのが為政者の役割であると、泰時は幕府の後継者に和歌で諭したのである。この歌は 荀子 という書物を踏まえている。泰時が和歌で示した教えを、鎌倉幕府の支配者たちは今やお忘れではないでしょうね。世の中に横行している不正と不義を、本来のあるべき姿に戻すのは、幕府の為政者の使命です。私は幕府の政治を信じています。世の中に 麻は跡なく なりにけり 心のままの 蓬のみして と詠まれた北条泰時の事蹟を、私は調べてみました。そうすると面白い事実が判明しました。曲がり曲がった蓬 に苦しめられた人が、私の近い所にもいたのです。その人の名は 俊成卿女 俊成の孫娘であったが、故あって俊成の娘として育てられた。
彼女は播磨国に荘園を持っていた。細川庄の近くである。彼女は地頭の横暴が目に余ったので、執権である北条泰時に和歌を送って訴えた。それが
君一人 あとなき麻の 数知らば 残る蓬が 数をことわれ
という歌である。為政者である執権のあなた一人が、麻・善人を意識しても、あなたの部下たちが誰もかれも蓬・悪人であれば世の中はどう仕様もありません。あなたには為政者の頂点として、蔓延る悪徳役人を厳しく処罰して頂きたいのです と俊成卿女 は訴えた。すると泰時は、心に深く感じる所があり、俊成卿女に対して温情溢れる対処をなされたのである。
和歌の力は時の為政者の心をも動かす。阿仏尼はその再現を心から祈っている。阿仏尼の長歌は次のように詠い収められる。
同じ播磨の さかひにて 一つ流れを 汲みしかば 野中のしみず 淀むとも もとの心に まかせつつ 滞りなき 水茎の 跡さへあらば いとど又 鶴が岡辺の 朝日影 八千代の光 さしそへて 明らけき世の なほも栄えん
阿仏尼の心をくみ取って以下のように訳した。
俊成卿女は執権であった北条泰時の厚情で、播磨国にある荘園の所有権と管轄権を取り戻した。今私が所有権と管轄権を取り戻したいと幕府に訴えている細川庄も、同じ播磨にあり近い所です。更に言えば俊成卿女は、俊成の孫娘にして養女。私は俊成の直系の孫である為家の妻です。俊成卿女と私は御子左家という歌の家の流れに繋がっています。俊成卿女は和歌の力で荘園を回復し、私はこの歌の力で細川庄を回復したいと念願しています。
所で播磨国には野中のしみず という歌枕があります。
いにしえの 野中のしみず ぬるけれど もとの心を 知る人ぞ汲む 古今和歌集 よみ人知らず
今では 野中のしみず の水量は減り、本来の清冽な泉ではないものの、昔の姿を知っている人は今でも水を汲みにきてくれるという意味である。細川庄は現在、為氏が不当に所有権を主張しているが、本来我が息子の為相が相続すべきであり、亡き為家もそれを強く望んでいた。そのことを明記した文章も残っている。ですから為氏の横暴によって、野中のしみず が淀み、水が流れなくなっているとしても、為家の譲り状が証拠となって、正しい裁きにより私どもの所有権が回復されましたならば、野中のしみず も再び滞りなく流れ始める事でしょう。そして正しい裁きが実現したならば、今私がこの長歌を奉納している、鎌倉の守り神である鶴ヶ丘八幡宮に立ち上る朝日はいつまでも耀き、正義を守る政を行う鎌倉幕府は更に栄えるでしょう。そのような理想の世の中に、私や私の子孫は住みたいものです。
政と文化、政治と和歌がかみ合えば、理想の世の仲が実現することを、阿仏尼は訴えているのです。
それでは長歌の後に置かれている 反歌 を読む。
朗読⑥反歌
大和言葉の力と和歌の力、それを信じる事、それが阿仏尼の人生の全てでした。
なお反歌の第五句 今日ぞのべつる の つる は、鶴ヶ丘八幡宮の 鶴 を掛詞にしている。現代語訳する。
私は朝な夕なに鶴ヶ丘八幡宮に詣出ては、悠久の歴史を持つ和歌の道の庇護者である朝廷と、その委託をうけて政を取り仕切る幕府への感謝を祈り続けてきました。そしてあふれ出てくる思いを、和歌の言葉で掬い取り長歌を歌いました。
和歌の言葉には、神秘的な力があります。この長歌が鶴ヶ丘八幡宮の神さまの御心に叶い、古今和歌集の仮名序にありますように、天 地 を動かしますように、さらには二度にわたる蒙古の襲来を撃退した、猛き武士である幕府の為政者の心にも届きますように。
今日は「十六夜日記」の最後を飾る長歌と反歌を読んだ。「十六夜日記」のテーマと阿仏尼の人生の全てが、ここには
凝縮されていた。
「コメント」
将に長歌は訴状そのものである。でもこれをだれが読んでくれたのか。各所に配布したのであろう。そしてこれとは全く別の正式な訴状がある。それを読んでみたいもの。