231007⑨「東海道の旅の記録④」鎌倉到着 富士川、国府(三島)、箱根、湯坂、早川、酒匂
今回は阿仏尼が鎌倉に到着するまでを読む。二週間にわたる旅の最後の三日間である。
朗読①
廿日七日、明け離れて後、富士河を渡る。朝川いと寒し。数ふれば十五瀬を渡りぬる。
さへわびぬ 雪よりおろす 富士河の 川風氷る 冬の衣手(ころもて)
今日は、日いとうららかにて、田子の浦に打ち出づ。海人どもの漁(いさり)するを見ても
心から 下り立つ田子の あま衣 干さぬ恨みも 人にかこつな
とぞ言はまほしき。
伊豆の国府(こう)といふ所にとどまる。いまだ夕日残る程、三島の明神へ詣るとて、詠みて奉る。
あはれとや 三島の神の 宮柱 ただここにしも めぐり来にけり
おのづから 伝へし跡も あるものを 神は知るらむ 敷島の道
たづねきて 我が越えかかる 箱根路に 山のかひある しるべをぞとふ
解説
阿仏尼は山と川、そして神社で和歌を詠んでいる。
廿日七日、明け離れて後、富士河を渡る。朝川いと寒し。数ふれば十五瀬を渡りぬる。
10月27日、旅の12日目である。富士川は平安時代に菅原孝標の女の「更級日記」でも、この川の伝説が記されている。富士山と共に、東海道の紀行文学ではお馴染みの名所である。明け離れて後 とあるように、この日は暗いうちの出発ではなく、かなり明るくなってから宿を出発した。暗いうちに河を渡るのは危険だったのであろう。
朝の川は寒い。朝川 は朝のうちに渡ることである。万葉集にもその例がある。但馬皇女が異母兄妹の穂積皇子に会いに行く時に詠んだ歌。
人言(ひとごと)を しげみ言痛(こちた)み 生ける世に いまだ渡らむ 朝川を渡る 万2-116
人の噂が辛くても、、あの人に会う為に、生まれて初めて、冷たい朝に川を渡ります。
阿仏尼はいくつもの浅い川が連なっていたので、数えてみたら15の浅瀬を渡っていた。
さへわびぬ 雪よりおろす 富士河の 川風氷る 冬の衣手(ころもて)
阿仏尼が詠んだ歌は、冬の朝、川の寒さが眼目である。風がひどくてどうしようもなく困った。川原には、雪が高く積もった富士山から、吹き下りてくる冷たい風をまともに受け、私の袖も寒さの余りに凍り付いている程である。この川は富士山から流れてくるのではないが、雪を白く被った富士山が目の前に見えるので、この川は富士山と一体だと歌に詠まれるのである。その内、日が高くなるにつれて気温が上昇していく。
今日は、日いとうららかにて、田子の浦に打ち出づ。
今日はうらうらとしているので、舟に乗って田子の浦に漕ぎだした。阿仏尼の亡き夫、為家の父が選んだ小倉百人一首には、山辺赤人が田子の浦を詠んだ歌がある。
田子の浦に 打ち出で見ると 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
将にこの歌の通りの絶景が、阿仏尼の前に浮かんでいた。
海人どもの漁(いさり)するを見ても
漁師たちが着ている服を濡らしながら、漁をしているのが見えた。阿仏尼は歌心が湧いてきた。
心から 下り立つ田子の あま衣 干さぬ恨みも 人にかこつな
この歌の、下り立つ田子 という言葉続きは、「源氏物語」を本歌取りしている。葵の巻で六条御息所が詠んだ歌である。
袖ぬるる 恋路とかつは 知りながら 下り立つ田子の みづからぞうき
「源氏物語」でも屈指の名歌とされる。恋路 恋の道と こひぢ(泥)、みづから と 水 が掛詞。ぬるる、こひじ(どろ)、田子、水 は縁語。更には みづから には、自分が進んでという みず と、田子の農夫が下り立つ水田の水が掛詞になっている。六条御息所は光源氏との恋愛で、泥沼に足を踏み入れた様な苦しみを抱いたのであった。阿仏尼の歌は田子の浦で魚を取っている海人を歌っているが、場所は田子の浦なので六条御息所の歌にある 田子 と重なるのである。
阿仏尼の歌は漁師たちが袖を濡らしながら、仕事をしている姿を詠んでいる。私の目の前では、海人達が田子の浦で袖を濡らしながら漁にいそしむことが展開している。お前たちは自分の意志で水に濡れて、生計を立てているのだから、濡れた あま衣 の袖がいつまでも乾かないなどと、他人に不平を言ってはいけないよ。出家した尼である私は旅に出るに際して尼衣を新調したが、この田子の浦で波に濡れても誰にも不平をいったりはしません。阿仏尼は出家した尼である自分と、苦しい労働をしている海人を重ね合わせているのである。
六条御息所は光源氏との苦しい恋に悩んだ結果、斎宮となった娘と一緒に伊勢に下る。義理の息子である為氏との相続争いで苦しみ、鎌倉へと下っていく阿仏尼は、自分と六条御息所を重ね合わせているのであろう。
阿仏尼は田子の浦の海人達に、あなたたちも苦しいでしょうが私も苦しいと呼びかけているのだ。阿仏尼はこの日、伊豆国に入る。
伊豆の国府(こう)といふ所にとどまる。
国府(こう) は、国府の訛った言い方である。三島市である。
いまだ夕日残る程、三島の明神へ詣るとて、詠みて奉る。
国府 には三島の明神(三島神社)がある。ここは源頼朝が源氏再興を祈願した神社である。阿仏尼も又俊成・定家・為家と続いた歌の家が我が子の為相達に受け継がれ、更に発展していくようにと祈願した。和歌を奉納している。
あはれとや 三島の神の 宮柱 ただここにしも めぐり来にけり
三島 の み には、見る 、神様が阿仏尼を哀れに見るという掛詞である。宮柱 で、めぐり あうというのは、イザナミとイザナキが天の御柱の周りを回って、まぐわって夫婦の契りを結んだという神話を重ねている。「源氏物語」明石の巻には、朱雀帝が
宮柱 めぐりあひける 時しあれば 別れし春の うらみのこすな
宮柱 と めぐりあひける という故事が、一首の歌で同時に用いられているには、神話のまぐわいを踏まえているからとされる。「十六夜日記」も又神話を踏まえているのだろう。
阿仏尼の歌の意味。三島の神はきっと都から東国まで足を運んでお祈りをしている私を、殊勝であるとお感じになるであろう。嘗て神話の時代にはイザナキとイザナミの二人の神が、天の御柱の周りを巡って契りを結んだそうである。私もここまで巡ってきて、三島の神に巡りあえたことを嬉しく思う。
おのづから 伝へし跡も あるものを 神は知るらむ 敷島の道
我が家には伝えるべき歌の道が形作られてきた。そして歌の道を守るべき手段として、為家が細川庄を為相に譲ると明記された文書も手元にある。それなのに為氏の横暴で、細川庄の所有権も歌の道の基盤である図書類の所有権も危うくなっている。三島の神様はそのことをご承知でしょうから、和歌の道・敷島の道を必ず守って下さるであろう。
たづねきて 我が越えかかる 箱根路に 山のかひある しるべとぞおもふ
明日の旅の無事を祈っている。ここも又東海道の難所の一つである。山のかひ の かひ は、強国という意味と、生き甲斐 の 甲斐 の掛詞である。掛詞を用いる事で和歌の質を高め、神に祈る心の切実さを伝えている。
はるばると東国まで旅をしてきて、明日そこを通る箱根路には、かひ 強国 が沢山あると聞いている。その場所を越える為の道しるべを三島の神がなさって下さると期待している。又私が鎌倉までやってきた甲斐あって、裁判に勝つ手助けをなさることを確信している。阿仏尼は神を味方に付けようと、これまで身に付けてきた和歌の技法を駆使している。そしてそれを息子たちに読ませること、和歌の伝統を受け継がせようとしている。
次に10月28日の旅の記録を読む。
朗読②箱根路
廿日八日、伊豆の国府を出でて箱根路にかかる。いまだ夜深かりければ、
玉くしげ 箱根の山を 急げども なほ明けがたき 横雲の空
ゆかしさよ そなたの雲を そばだてて よそになしづる 足柄の山
いと険しき山を下る。人の足もとどまりがたし。湯坂とぞいふなる。辛うじて越え果てたれば、麓に早川といふ川あり。まことにいと早し。木の多く流るるを、「いかに」と問へば、「海人の藻塩木(もしほぎ)を海に出ださむとて流すなり」と言ふ。
湯坂より浦に出でて、日暮れかかるに、なほ泊るべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるる海面(うみづら)を、「いづことが言ふ」と問へば、知りたる人もなし。海人の家のみぞある。
海人の住む その里の名も 白波の 寄する渚に 宿やからまし
鞠子川といふ川を、いと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂といふ所にとどまる。「明日は鎌倉へ入るべし」と言ふなり。
解説
いよいよ東海道の最後の難所である、箱根の山を越える場面である。
廿日八日、伊豆の国府を出でて箱根路にかかる
10月28日、旅の13日目である。朝に伊豆国の国府を立って、箱根路に差し掛かった。箱根の山を越えれば、いよいよ鎌倉のある相模国に入る。
いまだ夜深かりければ、
今日は厳しい山道が続くため、朝早く暗いうちに旅立った。暗い時間に出発して、箱根路に向かう気持ちを和歌に詠んでいる。
玉くしげ は、枕詞で箱・ふた、開く、などに掛かる。ここでは箱という言葉を打ち出している。箱は開けたり閉じたりするので、なほ明けがたき の開ける、世が明けて朝になるという言葉を呼び込んでいる。一つの言葉が別の言葉を呼び出し、その言葉が更に別の言葉を呼び出してくるのである。これが古典和歌の技法である。
この歌の意味は、玉くしげ は、箱にかかる枕詞である。浦島太郎が、玉くしげ、玉手箱を開けた伝説もあるが箱根の山の箱を開けたら、暗い夜が明るい昼になるのだろうか。私にも明るい未来が訪れるかも知れない。
そういう期待を胸に箱根の山を登るのだが、まだ時間がある。この歌は為家の父である定家の歌を連想させる。
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空 新古今和歌集
定家の代表作の一つである。阿仏尼は冬の世が長いので、なかなか明るくならないことを残念に思っている。
足柄山は道遠しとて、箱根路にかかるなりけり。
なりけり は、そうそう、そうであったという発見・気付きを表す語法である。ここでは読者に向かって、前もって説明しておくべきことを気付いて表す技法である。そうそう書き忘れていたというニュアンスがある。
東へと向かう道筋は二つあった。一つは箱根山を越える道、もう一つは足柄山を越える道である。「更級日記」では足柄山を越える道である。「更級日記」では三人の遊女と出会った経験が幻想的に書かれている。江戸時代以前はこの足柄山を通るルートの方が、本道だとされていた。箱根を越えるルートよりも少し道が平坦なのである。
阿仏尼は50代なので、足柄の方が楽なはずである。それが今回、箱根を越えるルートを選んだのは、距離が近いとして同行している阿闍梨の強い意向である。鎌倉到着を急いでいたのである。
足柄山は道遠しとて、箱根路にかかるなりけり。
しかし阿仏尼は足柄ル-トを通らなかったことを残念に思っている。その気持ちが歌になった。
ゆかしさよ そなたの雲を そばだてて よそになしづる 足柄の山
ゆかし という語句は、ゆく という動詞から派生した。ゆかし は、見たい・聞きたい・知りたいという好奇心を表す。語法的にはそこへ行きたいという意味である。この歌で阿仏尼は、自分は実際には箱根路を通るが、足柄にも行って見たかったと願っているので、ゆかし の語源の 行くが生きてくる。
よそになしづる 足柄の山
の 足 には、良い・悪いの 悪し、良くないというという意味の掛詞になっている。
そなたの雲を そばだてて
というのも面白い表現である。雲が高く立ち込めていて、足柄山が見えないというという情景である。意味を取ってみる。足柄山の姿は雲に遮られて見えない。今回はそちらの道筋を通らなかったけれど、いつかは足柄山を越えてみたいものだ。足柄は古来、和歌に詠まれた歌枕なので、今回通らなかったのは悪しき、よくない事であった。「十六夜日記」の面白い所は、下り道のきつさを強調している点である。登りは夢中だったので意識しなかったのであろう。下りになって山道の険しさが実感できたのである。
いと険しき山を下る。人の足もとどまりがたし。
この下り道は傾斜が厳しく感じられた。しっかり地面を踏みしめることが出来ずに、ともすれば滑り落ちそうになる。一歩ずつ進むことが出来ず、はやい速度で山道を下ることになる。つまづきそうになる。
湯坂とぞいふなる。
元箱根から湯坂への尾根道を通って、湯本に至る険しい坂道である。とぞいふなる の なる は、伝聞を表している。地元の人に、坂の名前を聞いたのである。
辛うじて越え果てたれば、麓に早川といふ川あり。
やっとのことで、箱根を越え切った。麓を 早川 という川が流れていた。流れの早い川であった。早川 は、芦ノ湖の北から流れ始め、強羅を経て湯本に至り、相模灘に注ぐ。
木の多く流るるを、「いかに」と問へば、「海人の藻塩木(もしほぎ)を海に出ださむとて流すなり」と言ふ。
流すなり の なり は、断定の助動詞である。早川の急流を沢山の木が流れ落ちていた。阿仏尼があれは何ですかと尋ねた所、あれは上流で伐採した木を河口まで流しているのだ。海人が藻を焚いて海水を煮詰めて、塩を作る為の燃料とするので、藻塩木という返事であった。そこで一首。
東路の 湯坂を越へて 見渡せば 塩木流るる 早川の水
この歌には掛詞はない。自分の見聞をストレ-トに詠っている。東国の箱根路で湯坂を越えて、やっと人心地がついた。周りを見る余裕も出てきたので、見渡した。すると早川という川を沢山の藻塩木が勢いよく流れているのが見えた。
湯坂より浦に出でて、日暮れかかるに、なほ泊るべき所遠し。
湯坂を下りきって浜辺に出た。早くも日は暮れ始めていたが、今夜の宿泊予定地はまだ遠い先にある。
伊豆の大島まで見渡さるる海面(うみづら)を、「いづことが言ふ」と問へば、知りたる人もなし。海人の家のみぞある。
阿仏尼は自分が今通っている場所の地名を尋ねているが、それは正確な紀行文をかく為に必要である。相模灘に沿って東に進んでいる。海の方には伊豆の大島も見渡せた。阿仏尼は今、通っているこの海岸をなんという地名なのかと尋ねたが、知っている人はいなかった。ただ海人の家が散在しているだけであった。阿仏尼は名前も分からない海岸を旅する不安を歌に詠んだ。
海人の住む その里の名も 白波の 寄する渚に 宿やからまし
白波の の部分に、知らず・知らないという意味が掛詞になっている。しかも有名な和歌の本歌取りである。
白波の寄する渚に 世を過ぐす 海人の子なれば 宿も定めず 新古今和歌集 詠み人知らず
この歌は勅撰和歌集としては、鎌倉時代初めの新古今和歌集に入っているが、平安時代の和漢朗詠集にも入っている。何よりも「源氏物語」夕顔の巻で、夕顔が自分の素性を光源氏から尋ねられて、名乗るべき身分の者ではないと答えた時に用いた歌として有名である。阿仏尼はこの歌を踏まえ、自分が今通り過ぎつつある、この名前を知らない白波が打ち寄せる渚で、宿を借りたいと思っていると歌っているのである。
鞠子川といふ川を、いと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂といふ所にとどまる。
とっぷり日が暮れてから、鞠子川 という川を注意して渡る。その夜は 酒匂 という所に宿を取った。鞠子川 は、現在の酒匂川の事である。阿仏尼一行が宿を取った 酒匂 は、酒匂川の河口にある宿場で、現在の小田原市にある。
「明日は鎌倉へ入るべし」と言ふなり。
この なり は、伝聞の助動詞である。早めに部屋に入り、寛ぐ阿仏尼の耳に、供の者たちが話し合っている声が聞こえた。人々はいよいよ明日は鎌倉入りですと言い合っているようである。
さていよいよ、旅の最終日である。
朗読③ 旅の最終日
廿九日、酒匂を出でて、旅路をはるばると行く。明けはなるる海の上を、いと細き月出でたる。
渚に寄せ返る波の上に、霧立ちて、あまた見えつる釣舟も見えずなりぬ。
あま小舟 漕ぎ行く方を 見せじとや 波に立ちそふ 浦の朝霧
都の遠く隔たり果てぬるも、なほ夢の心地して、
立ち別れ よも憂き波は かけもせじ 昔の人の 同じ世ならば
解説
鎌倉までの直前の事が述べられている。心憎い旅の終わりである。
廿九日、酒匂を出でて、旅路をはるばると行く
明けて10月29日。この月の16日、十六夜の日に都を立ってから、2週間である。旅の最終日を迎えて、阿仏尼は感無量であった。
明けはなるる海の上を、いと細き月出でたる。
海辺の宿を出てからは、海辺の道をひたすら東へと歩み続けた。空が明るくなって、視界が良くなると、細い月が空に上がっているのが見えた。さて阿仏尼は細い月を見ながら詠んだ歌である。
浦路行く 心細さを 波間より 出でて知らする 有明の月
有明の月 は、月の下旬に空に掛かる月なので、細い形をしている。それが心細さを一層かきたてるのである。
歌の意味。
浜辺の道を浜伝いに、はるばると進んでいくのは、何とも心細いことだ。東の海の波間からは、有明の月が上がってきている。その何という細さ。細い月を見ると、自分が今、心細さに苦しんでいるのを実感させてくれる。
月の方でも心細い気持ちを私と共有し、私を慰め励ましているのだろう。
渚に寄せ返る波の上に、霧立ちて、あまた見えつる釣舟も見えずなりぬ。
渚には沖から波が寄せて返っている。その海の上には沢山の釣り舟が見えているが、少しずつ霧が出て来て釣り舟の姿が見えなくなった。ここで柿本人麻呂が詠んだとされる歌を思い出す。
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れゆく 舟をしぞ思ふ 万葉集409
朝霧に消えていく舟が詠まれている。そして阿仏尼も、朝霧の歌を詠った。
あま小舟 漕ぎ行く方を 見せじとや 波に立ちそふ 浦の朝霧
海人達が乗っている舟は、これからどこへ行くのだろうか。興味深く見ていると、波が立つのと同時に海岸には意地悪な朝霧が立って来て、私の目からは舟の姿を隠してしまった。そして「十六夜日記」の旅の日録は、次の文章と和歌で閉じられた。
都の遠く隔たり果てぬるも、なほ夢の心地して、
それにしてもよくぞ思い立って、都から遠く離れたここまで来たものだ。阿仏尼は今、鎌倉を目前にしている。けれどもそれが現実ではなくて、夢の様にも思われた。彼女はそういう感覚に旅の途中で何度もかられていたが、その度もいよいよ今日で終わりとなったのである。
旅の最後の歌である。掛詞が使われている。憂き波 の 憂き には浮いた波と 憂し が掛詞になっている。
この歌の意味。亡き夫の為家がもし今、健在であれば、遺産相続の争いも起らず、私は都を離れて鎌倉まで袖を涙で濡らしながら旅をして、訴訟を起こす必要などなかったことであろう。為家には為相達が大きくなるまで生きておいて欲しかった。「十六夜日記」の旅の記録はここで終わるが、当然無事に鎌倉に到着したということが省略されている。阿仏尼は二週間の旅を終えて、鎌倉の人となったのである。「十六夜日記」の大きな山場である路の記が終わった。寄稿文はこういう風に書くものだという規範を、御子左家の伝統を受け継ぐべき我が子たちに示したのである。「十六夜日記」の記述はここでひとまず完結したと言えないこともない。その証拠には写本の中には、安嘉門院四条 法名 阿仏 作という様に、「十六夜日記」の作者名を書き記すものがある。そして中院大納言つまり為家の歌を二首書き加えた写本もある。中院は定家の小倉山荘のあった場所である。為家を経て冷泉家が小倉山荘を相続した。それでは為家の二首を読む。
いとわるる 長き命の つれなくて なほながらへば 子はいかにせん
子はいかにせん は、これはどうしたらよいだろうかと、子供の事はどうしたらよいだろうかの掛詞である。
為家は阿仏尼との間に生まれた子供たちの行く末を心配していたのである。
古里に きよもとまでは 思わずと ともの命を 問う人もがな
「伊勢物語」84段目では、在原業平が年老いた母親と贈答している。母親が自分の命はいつ死ぬかも知れないから、もう一度息子のお前と会っておきたいと言うと、在原業平は母親を愛する息子の為に、母親の命が永遠に続いて欲しいと答えた。この場面を踏まえて、為家は自分も子供たちとの死別を悲しんでいるのである。
為家が自分の死んだ後の子供たちを心配していることを、阿仏尼は汲み取り、亡き夫の遺志に応えて和歌の家を守るべく鎌倉へ下ったのである。さて阿仏尼は構想を新たにして、「十六夜日記」の新たなテーマで往復書簡集を書き始める。次回からはそれを読む。
「コメント」
厳しい旅の毎日、紀行文を書き、歌を2~3首詠む。それも古歌、歌枕を踏まえているのでこれは大変。
よくやったことである。次回以降も楽しみ。講師の長い話も段々苦にならなくなった。