230930⑧「東海道の旅の記録③」

今回は旅の9日目から11日目までを読む。

朗読① 小夜の中山越え 菊川の宿

廿四日、昼になりて、小夜の中山越ゆ。ことのままといふ社の程、紅葉いと面白し。山陰にて、嵐も及ばぬなめり。深く入るままに、遠近(おちこち)の峰続き、異山(ことやま)に似ず、心細くあはれなり。麓の里、菊川といふ所にとどまる。

  越えくらす 麓の里の 夕闇に 松風おくる 小夜の中山

暁、起きて見れば月も出でにけり。

  雲かかる小夜の中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月

川音いとすごし。

  渡らむと 思ひやかけし 東路(あづまぢ)に ありとばかりは きく川の水

 解説

この日の眼目は東海道の難所として知られる小夜の中山を越えたことである。そして菊川の宿に泊まったことの二つである。阿仏尼の目と心で見ていこう。

廿四日、昼になりて、小夜の中山越ゆ。

1024日旅の9日目である。朝早く見附を立ち旅を続けた。この日の昼頃に古今和歌集以来の歌枕である小夜の中山 に差し掛かる。ここを越えるのは一日掛りである。

ことのままといふ社の程、紅葉いと面白し。山陰にて、嵐も及ばぬなめり。

ことのまま 事任 という珍しい名前の神社があった。ここが 小夜の中山 の登り口である。枕草子の中に ことのまま明神いとたのもし と名前が出る由緒ある神社である。事任神社は清和源氏の頭領 源頼義 が石清水八幡宮をこの地に勧請したのが始まりとされる。これから鎌倉幕府の公平な裁判を願う阿仏尼にとって源氏所縁の事任神社は参詣する十分な理由がある。この神社の付近の道はまだ紅葉が見られたのでとても風趣に富んでいた。この社の辺りは山の陰になっているので、嵐が強くは吹かずその為に紅葉が今まで散らずに残っていたのであろう。

深く入るままに、遠近(おちこち)の峰続き、異山(ことやま)に似ず、心細くあはれなり。

その社から深く山に入っていくと、遠くにも近くにも峰が続いていた。これが 小夜の中山 である。中世の古今和歌集の注釈書では、小夜の中山 小夜の長山 と書かれている。峰がいくつも連続している。これまで通ってきた山の景色とは違っているように感じられた。このために不安になった。

麓の里、菊川といふ所にとどまる。

やっとのことで 小夜の中山 を越えた。その夜は小夜の中山の東側の麓にある菊川という所で宿を取った。宿に落ち着いた阿仏尼はほっとして和歌を詠んだ。

  越えくらす 麓の里の 夕闇に 松風おくる 小夜の中山 

丸一日かけてやっと 小夜の中山 を越えてきた。麓にある菊川の里に宿を取ったけれども、暗闇の中に松風の音が聞こえている。越えてきた 小夜の中山 のほうから秋風が吹き送られてくるのだろう。

暁、起きて見れば月も出でにけり。

明け方になって目が覚めると月が出ていた。その月を見るにつけても都の事が思い出される。

  雲かかる小夜の中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月

東海道の難所の一つである 小夜の中山 は中腹に雲が掛かる程の高い山である。空に掛かる有明の月よ、険しい小夜の中山 を私が無事に超えたということを都に残した人々に伝えて欲しい。素直な歌である。

川音いとすごし。

菊川の流れの音を聞いている内に、感傷的になり心淋しくなった。というのは菊川で承久の乱に関わった人物が、鎌倉に護送される途中で切られているからである。

  渡らむと 思ひやかけし 東路(あづまぢ)に ありとばかりは きく川の水

この菊川は承久の乱に敗れた藤原宗行が切られたと伝えられることは、私も聞いていたので、東路のどこかに菊川という場所があることは知っていた。けれどもこの自分自身が、菊川をわたることがあろうとは夢にも思わなかった。私は何としても生きて鎌倉に着き、目的を果たしたい。藤原宗行は鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽院の側近であった。幕府の勝利に終わった後、後鳥羽院は隠岐の島に流された。藤原→葉室

古今和歌集によると藤原宗行は漢詩で辞世を残している。中国の菊慈童(きくじどう)は菊の露を飲んで、不老不死を得たが、自分は菊川の宿で命を失うという内容である。

昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命

昔は南陽県の菊水 下流を汲んで年を延ぶ 今は東海道菊河の 西岸に宿して命を失う

御殿場市の藍沢五卿神社は承久の乱で処刑された五卿を祀っている。

 

朗読② 大井川

廿日五日、菊川を出でて、今日は大井河といふ川を渡る。水いとあせて、聞きしには違(たが)ひて、わづらひなし。川原幾里とかや、いと遥かなり。水の出でたらむ面影、おしはからる。

  思ひ出づる 都のことは おほ井河 いく瀬の石の 数もおよはじ

宇津の山越ゆる程にしも、阿闍梨の見知りたる山伏、行きあひたり。「ゆめにも人を」など、昔をわざとまねびたらむ心地していと珍かに、をかしくも、優しくも見ゆ。「急ぐ道なり」と言へば、文もあまたえ書かず、ただやむごとなき所一つにぞおとづれ聞ゆる。

  わが心 うつつともなし 宇津の山 夢路も遠き 都恋ふとて

  蔦楓 時雨れぬひまも 宇津の山 涙に袖の 色ぞこがるる

今夜は手越といふ所にとどまる。(なにがし)の僧正とかやの上りとて、いと人しげし。宿りかねたりつれど、さすがにひとのなき宿もありけり。

 解説

10月25日、旅の10日目である。この日の眼目は大井川を渡ったことと、宇津の山で「伊勢物語」第九段とそっくりの体験をしたことの二つである。

廿日五日、菊川を出でて、今日は大井河といふ川を渡る。

大井川は水量が多くて旅人を苦しめることで有名である。遠江国と三河国の境を流れている。

水いとあせて、聞きしには違(たが)ひて、わづらひなし。

意外にも大井川の水量は減っていた。あせて のあせる は水が減って底が浅くなるということである。渡るのが大変ですと聞くので心配していたが、何のことはなく渡り終えた。

川原幾里とかや、いと遥かなり。水の出でたらむ面影、おしはからる。

この大井川の河原は一体何里続いているのか分からない程、先まで続いている。もしもここが今の10月下旬の様な渇水期でなくて、大雨が降って氾濫する時期ならどのような光景になるのだろうか。この危険な光景が阿仏尼にもありありと想像できた。

  思ひ出づる 都のことは おほ井河 いく瀬の石の 数もおよはじ

地名の大井川と多い少ないの 多い の掛詞である。私はいよいよ駿河国に足を入れる。都から遠くまで来た。恋しい都での出来事を数えきれない程思い出す。その思い出の数は、この広大な大井川の幾筋もの浅い流れに転がっている、石の数よりはるかに多い。そして阿仏尼はまた東海道の難所の一つで 宇津の山 に差し掛かる。ここは「伊勢物語」
東下りを踏まえているので、まず「伊勢物語」の第九段を読む。

 

朗読③ 「伊勢物語」第九段の引用

ゆきゆきて、駿河国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らんとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく、すゞろなるめを見ることゝ思ふに、修行者あひたり。かゝる道はいかでかいまする、といふを見れば見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きつく。

  駿河なる 宇津の山辺の うつゝにも 夢にも人にも あはぬなりけり

 解説

在原業平は宇津の山の山道の暗さと細さに、命の不安を感じた。時は初夏、山には つたかへで が生い茂っている。

すると在原業平に語り掛けた人物がいた。一人の修験者だったが何と知り合いであった。在原業平はこれから都に向かう修験者に恋して女性への手紙を託す。その歌は

  駿河なる 宇津の山辺の うつゝにも 夢にも人にも あはぬなりけり

宇津の山 という地名に、現実という 現(うつつ)を掛けたものである。この有名な場面を踏まえて、「十六夜日記」は書かれた。

 

「十六夜日記」に戻る。

宇津の山越ゆる程にしも、阿闍梨の見知りたる山伏、行きあひたり。

阿仏尼の息子で同行している阿闍梨と、山伏とは知り合いであった。偶然にしては良く出来過ぎている。母親を驚かそうとする阿闍梨の演出かも知れない。「伊勢物語」の昔を今、阿仏尼の目の前で忠実に再現しているのである。奇跡的である。滅多にない場面を面白く、悲しく、雅なことに思ったのである。そこで在原業平と同じ様に都への手紙を託すのである。

「急ぐ道なり」と言へば、文もあまたえ書かず

阿仏尼は何人もの人達に手紙を書きたいが、山伏は先を急ぐと言うので沢山は書けなかった。

ただやむごとなき所一つにぞおとづれ聞ゆる。

ただ一通子供たちの中で、最も高貴な立場にいる後深草院の姫宮の母となった娘にだけ歌を送った二首。

  わが心 うつつともなし 宇津の山 夢路も遠き 都恋ふとて

在原業平の歌を踏まえて、宇津の山 と 憂し という言葉が使われている。こうして旅をしていても、貴方たちと一緒に都で楽しく暮らしていた昔が恋しくてならない。旅に出てたった10日しか経っていないのに、楽しかった昔の事は夢の中で見ることも難しく、我が身は都から遠ざかる一方である。

  蔦楓 時雨れぬひまも 宇津の山 涙に袖の 色ぞこがるる

「伊勢物語」で、つたかえでは茂る とあったことを踏まえている。かつて在原業平がこの道を通ったのは初夏の事であったので、つたかえで は青葉であったことだろう。今私は初冬の季節に旅をして、その細道に差し掛かった。時折、空から降る時雨が、つたかえで を赤く染めている。今この瞬間、時雨は降っていないが、都に残っているあなたたちの事を思うと、私の心は塗炭の苦しみで火傷しそうになり、涙がこぼれて私の袖を茶褐色に染めてしまう。この歌の返事を受け取るのは、鎌倉に到着した後になる。


今夜は手越といふ所にとどまる。

この頃の 手越 の宿は、藁科川の右岸、東側の岸辺にあったとされる。所が「十六夜日記」では、翌日の記録は藁科川を渡ったと書いてある。阿仏尼が翌日に渡った藁科川は、藁科川と合流した安倍川のことであろう。
(なにがし)の僧正とかやの上りとて、いと人しげし。宿りかねたりつれど、さすがにひとのなき宿もありけり。

偶々その日はさる僧正が都に上る為に、当地に滞在していて人が多くいた。その為に宿がなかなか見つからなかった。全部満室ということはなくて阿仏尼一行は宿を見付けた。補足しておく。阿仏尼は大井川で詠んだ歌は、井原西鶴の「一目玉鉾」に引用されている。詳細略。

これに「十六夜日記」が引用されているのは、江戸時代に広く読まれていたことを示している。

 

朗読③興津の浜と清見潟

廿日六日、藁科川とかや渡りて、興津の浜に打ち出づ。「なくなく出でし後の月影」など、先ず思ひ出でらる。昼、立ち入りたる所に、あやしき黄楊(つげ)の小枕あり。いと苦しければ打ち臥したるに、硯も見ゆれば、枕の障子に、臥しながら書きつけつ。

  なほざりに 見る夢ばかり 仮枕 結びおきつと 人に語るな

暮れかかる程、清見が関を過ぐ。岩越す波の、白き衣(きぬ)を打ち着するように見ゆるもをかし。

  清見潟 年経る岩に こととはん 波のぬれぎぬ 幾重ね着つ

程なく暮れて、そのわたりの海近き里にとどまりぬ。浦人のしわざにや、となりよりゆりかかる煙のいとむづかしき匂ひなれば、「夜の宿腥(なまぐさ)し」と言ひける人の言葉も思ひ出でらる。夜もすがら風いと荒れて、波ただ枕に立ちさわぐ。

  ならはずよ よそに聞きこし 清見潟 荒磯波の かかる寝覚は

 解説

まず 藁科川 を渡る。そして興津の浜に出た。但し都から東に向かう順序としては、清見潟が先で 興津 が後になる。

「なくなく出でしあとの月影」など、先ず思ひ出でらる。

亡き夫である為家の父は、藤原定家である。その定家に

  こと問へよ 思ひおきつの 浜千鳥 なくなく出でし あとの月影

という歌がある。定家の歌は興津という地名と、思いおきつ とが掛詞になっている。なくなく は浜千鳥が鳴くと、旅人が泣くことの掛詞である。阿仏尼は涙と共に旅立った都の事を思い出して、しんみりとしたのである。

昼、立ち入りたる所に、あやしき黄楊(つげ)の小枕あり。いと苦しければ打ち臥したるに、硯も見ゆれば、枕の障子に、臥しながら書きつけつ。

立ち寄って休憩した家に、黄楊の木で作られた小さな枕があった。疲れていたのでそのまくらで横になった。傍らに硯が見えたので、枕元の障子に横になったままで歌を書きつけた。黄楊の枕は心の中を人に告げるものと言う前提で、和歌によく用いられる。
  
なほざりに 見る夢ばかり 仮枕 結びおきつと 人に語るな

興津 という地名と 結びおき の掛詞は、定家の歌に倣ったものである。

私がほんの少しの間、懐かしい都の夢を見るために借りた小さな枕よ、お前は黄楊で出来ているから、私の事を人に告げる習性があるのではないか。間違っても私がこの 興津 で横になって、誰か別の男性と契りを結んだと、いい加減な嘘を言いふらしてはいけないよ。

暮れかかる程、清見が関を過ぐ。岩越す波の、白き衣(きぬ)を打ち着するように見ゆるもをかし。

暗くなり始めた頃に 清見潟 を通り過ぎた。岩に高く舞い上がり、岩を越えていく白い波しぶきが見える。まるで岩の表面に白い衣を掛けているように見える。

  清見潟 年経る岩に こととはん 波のぬれぎぬ 幾重ね着つ

清見潟 には昔からここにあったと思われる古い岩がある。お前にぜひとも尋ねたいことがある。波が押し寄せてくると白い濡れ衣を着せられる。昔からお前は一体何枚の濡れ衣を着せられて、あらぬ噂に苦しめられたことがあるのか。

日が暮れたので 清見潟 の近くの海辺の里に宿を取った。

浦人のしわざにや、となりよりゆりかかる煙のいとむづかしき匂ひなれば、「夜の宿腥(なまぐさ)し」と言ひける人の言葉も思ひ出でらる。

海人達が魚を焼いているのだろうか、生臭い煙が隣家から漂ってきた。その煙の臭いに生理的嫌悪感を感じた。

面白いことにその匂いは、白楽天の漢詩を連想させたのである。異民族に捕らわれの身となった男の苦悩に満ちた一生を歌っている。「源氏物語」玉葛の巻にも、この白楽天のこの詩の別の部分が引用されている。玉鬘は都と九州を流離ったのである。阿仏尼も都から鎌倉へと向かっている。阿仏尼は「源氏物語」を研究する過程で、玉鬘の巻を理解するために白楽天の詩を読んだのであろう。そして鎌倉へ向かう自分と、玉鬘の運命が似ていることに気付き、玉鬘の巻で引用されている白楽天の詩を、海辺の宿で連想したのであろう。異民族の匂いが耐えられないという部分に、隣の家から漂ってくる魚を焼く匂いを重ねている。

夜もすがら風いと荒れて、波ただ枕に立ちさわぐ。

夜通し風が激しく吹いて、波音も高く波がすぐ枕の上まで押し寄せるように響きを立てていた。「源氏物語」の須磨の巻で光源氏が、波ただここもとに立ち来る心地して と感じたのもこういう波音だったのであろうと阿仏尼は思った。阿仏尼は流離う自分を、玉鬘・光源氏とに重ねているのである。

  ならはずよ よそに聞きこし 清見潟 荒磯波の かかる寝覚は

これまで都にいる時には、清見潟には都から遠くにある、眺めの美しい場所というイメージがしかなかったが、実際に来てみると荒磯から聞こえてくる、耳慣れない波の音が高くて、枕にかかるかと思う位で目が覚めてしまう。荒磯波は世間の辛さ、人生の逆風を象徴しているのである。10月26日の後半に進む。

 

朗読④

富士の山を見れば、煙立たず。昔、父の朝臣に誘われて、「いかに鳴海の浦なれば」など詠みし頃、遠江国までは見しかば、富士の煙の末も、朝夕たしかに見えしものを、「いつの年よりか絶えし」と問へば、さだかに答ふる人だになし。

  誰か方に なびき果ててか 富士のねの  煙の末の 見えずなるらむ

古今の序の言葉とて、思ひ出でられて

  いつの世の 麓の塵が 富士のねの 雪さへ高き 山とむなしけむ

  朽ちはてし 長柄の橋を 作らばや 富士の煙も 立たずなりなば

今夜は波の上といふ所に宿りて、荒れたる音、更に目も合はじ。

 解説

これは10月26日の夜の事なのだろうか。それとも別の時に書き記していた文章が、ここに入り込んだのだろうか。

今は波風の音で夜も眠れなかった阿仏尼が、かねて考えていたことが書かれていると考えておく。

富士の山を見れば、煙立たず。

眠れない阿仏尼が駿河路の旅を思い出している。富士山には何と噴煙が見えなかったのである。

昔、父の朝臣に誘われて、「いかに鳴海の浦なれば」など詠みし頃、遠江国までは見しかば、富士の煙の末も、朝夕たしかに見えしものを

昔、若かった頃に恋に破れて、養父の平の度繁(のりしげ)の誘いで、遠江国の浜松まで下ってきて、一月ばかり滞在したしたことがあった。「うたたね」に書かれている。その中でいかに鳴海の浦なれば などという歌を詠んだ。そして為家が選者を務めた新古今和歌集に選ばれている。その時は遠江までの旅だったので、駿河国には行っていない。けれども遠江の浜松からでも富士山の煙ははっきりと見えた。朝な夕なに阿仏尼は富士山の煙を見ながら過ごしたのである。

富士の煙は阿仏尼の確かな記憶の中に今も残っていた。ところが35年振りに東下りをしてみたら、富士の頂からは煙が全く上がっていない。これはどうしたことであろうか。

「いつの年よりか絶えし」と問へば、さだかに答ふる人だになし。

地元の人にいつから煙が立たなくなったと尋ねても、はっきりと答える人はいなかった。阿仏尼の様に数十年振りに富士の山を見れば、大きな変化に気付くけれども、毎日見ている人は大きな変化でも気づかないのである。その不思議を歌に詠んだ。

  誰か方に なびき果ててか 富士のねの  煙の末の 見えずなるらむ

和歌の聖典である古今和歌集の仮名序には、富士の煙に寄せて人をその恋う とある。その富士の煙が現在は絶えている。富士の峰は自らの恋心の全てを恋人に捧げ尽くし、恋心を燃やし尽くしてしまったのか。恋人とは誰だったのか。

古今和歌集の仮名序は別の箇所でも、富士の煙が登場する。そのことを阿仏尼は歌に詠んだ。

  いつの世の 麓の塵が 富士のねの 雪さへ高き 山となしけむ

いつどのような昔から塵が少しずつ積もっていけば、富士の嶺のあれ程までに高い山にすることが出来たのだろうか。雪まであんなに高い所にうずたかく積もっている事よ。

俊成、定家、為家と代々に渡って積み上げてきた崇高な歌の道を、私は何としても為相達子孫に伝えなければならない。更に古今和歌集の仮名序に

今は富士の山の煙も立たずなり。長柄の橋も作るなりと人は、歌にのぞみ心をば慰めける。

長柄の橋 は摂津の国の歌枕である。人柱を立てる程に困難だった工事の末に建てられたが、流された。流されたのちは長く再建されなかった。そのことを阿仏尼が詠んだ歌である。

  朽ちはてし 長柄の橋を 作らばや 富士の煙も 立たずなりなば

富士の噴火は自然の摂理であるから、人間の自由にはならない。煙が立つか立つたないかは天の任せるしかない。

でも摂津国の長柄の橋は人間の手で作り直せるから、例え朽ち果てたとしても立派に立て替えたいものだ。人間の出来ることには全力を尽くすべきである。私も歌の道に精進したい。

今夜は波の上といふ所に宿りて、荒れたる音、更に目も合はじ。

波の上 という地名だが何処か分かっていない。今夜は 清見潟 近くの浜辺の里で宿を取ったのが、地元の人はそこを波の上 と言ったのであろう。その地名通り海の荒れた音が聞こえ続け、阿仏尼も富士の煙が消えていたことや、和歌の道の行く末を考え続け、一睡もできなかった。10月26日の記述を前半と後半に分けて読んだ。毎日の旅の行程を明確に書き記した「十六夜日記」であるが、この日に限って記述のスタイルが混乱している。旅の部分は沢山地名が出てくる。それらの場所でこれまで先人たちが詠んできた歌、そしてそれらを踏まえて阿仏尼が詠んだ歌、まさに盛り沢山である。昔の人が詠んだ歌を心に浮かべて旅をするのは、芭蕉の「奥の細道」まで続く紀行文学の伝統である。

 

「コメント」

 

「源氏物語」「伊勢物語」がお手本であるのだ。それをすっかり真似している。そして漢詩。当時の女性の教養人で、強い行動派。「源氏物語」を読まなければ古典は始まらない を強く認識した。古典教養、日本人の教養の原点。わかったのが如何にも遅すぎた。