230923⑦「東海道旅の記録②」10月20日~23日

今回は尾張の一宮から遠江の見附までを取り上げる。2週間に及ぶ旅の間の5日目から8日目までである。阿仏尼は若かりし日の旅で訪ねた宿場浜松にも滞在する。5日目 1020日の旅の記録を読む。

朗読①5日目 

廿日(はつか)、尾張国、下戸(おりと)の駅(うまや)を出でて行く。避きぬ道なれば熱田の宮に詣(まひ)りて、硯取り出でて書きつけ奉る歌、五つ。

  祈るぞよ 我が思ふこと なるみがた かたひく潮も 神のまにまに

  鳴海潟 和歌の浦風 隔てずは 同じ心に 神もうくらむ

  満つ潮の さしてぞ来つる 鳴海潟 神やあはれと 見る目たづねて

  雨風も 神の心に まかすらむ 我が行く先の さはりあらすな

潮干の程なれば、障りなく干潟を行く。折しも浜千鳥多く先立ちて行くも、しるべがほなる心地して

  浜千鳥 鳴きてぞ誘う 世の中に 跡とめしとは 思はざりしも

隅田川のわたりにこそありと聞きしかど、都鳥といふ鳥の、嘴(はし)と脚と赤きは、この浦にもありけり。

  言問はむ 嘴と脚とは あかざりし 我が来し方の 都鳥かと

二村山を越えて行く。山も野もいと遠くて、日も暮れはてぬ。

  はるばると 二村山を 行きすぎて なほ末たどる 野辺の夕闇

「八橋にとどまらむ」と人々言ふ。暗さに橋も見えずなりぬ。

  ささがにの 蜘蛛手あやふき 八橋を 夕暮かけて 渡りかねつる

 解説

廿日(はつか)、尾張国、下戸(おりと)の駅(うまや)を出でて行く。

一宮を出発して下戸(おりと)という宿場を過ぎた。

避きぬ道   避けられない道筋という意味である。旅人は熱田神宮の前を通る。熱田神宮は三種の神器の一つ、草薙の剣がご神体である。

硯取り出でて書きつけ奉る歌、五つ。

そこで阿仏尼は荷物の中から硯を取り出して、五首の和歌を紙に書付け奉納した。

  祈るぞよ 我が思ふこと なるみがた かたひく潮も 神のまにまに   一首目

鳴海潟 という地名と、思う事が成るという→念願が叶う という意味の掛詞となっている。かたひく潮 遠浅の潟の海水が引いていくことと、神様が人間の内の片方だけを贔屓するという意味の片引くの掛詞である。

なるみがた 鳴海潟 熱田神宮の近くにある有名な歌枕である。現在は地形が変わって、干潟は無くなった。嘗ては鳴海潟が干上がった時に旅人が急いで通り過ぎる道があった。この歌の意味は、次のようになる。

熱田神宮に鎮座まします神様に心からお祈りします。神社の近くには鳴海潟があるが、その 鳴る という言葉は願い事が成る 成就するという縁起の良い言葉と同じ発音である。鳴海潟の潮の干満は大きくて、全て熱田の神の思し召し通りだと聞いている。その絶大な思し召しを私の家にも注いで、私が鎌倉で起こす訴訟を勝利に導いて下さい。

  鳴海潟 和歌の浦風 隔てずは 同じ心に 神もうくらむ  二首目

和歌浦は紀州にある玉津島神社には、和歌の神の玉津島明神 衣通姫 が祀られている。阿仏尼は和歌の道の伝統を守る為に、鎌倉での裁判を決意した。熱田神宮の神様と和歌の浦の神様は神様同志だから、阿仏尼は一緒にお願いしているのである。意味は次の様になる。

鳴海潟には心地よい風が吹いている。私達は和歌の道を守る為に、紀州の和歌の浦の玉津島明神を信仰している。

和歌の浦に吹く風と、ここ鳴海潟の風はどちらも同じ様に優しく感じられる。熱田神宮においても和歌の道に寄せる私の祈りを受け入れ、願いをお助け下さい。

  満つ潮の さしてぞ来つる 鳴海潟 神やあはれと 見る目たづねて

満つ潮の さしてぞ来つる 満潮がヒタヒタとさして来ることと阿仏尼が熱田神宮を目指して旅をしたことの掛詞である。見る目 は、神様が阿仏尼をご覧になる目と、海草の海松布(みるめ)の掛詞である。この歌も鎌倉での裁判の勝利を祈っている。要約すると

満ちてくる潮は海の彼方から鳴海潟を目指してひたひたと押し寄せてくる。私も遠い都から、この鳴海潟の一つにある熱田神宮を目指して旅をして来た。潮の流れを沢山の海松布(みるめ)を打ち寄せる。私は熱田神宮の神様が哀れとご覧になって下さるであろうこと、つまり神の見る目を求めてここまで来たのである。私の願いをご照覧になって、救いの手を差し伸べて下さい。

  雨風も 神の心に まかすらむ 我が行く先の さはりあらすな  四首目  素直に自分の心を歌っている。

意味は次のようになる。

和歌には不思議な力がある。どんなに旱魃が続いていても、歌人が名歌を詠むと神が感動して雨を降らせてくれたり、大風が吹いても名歌を詠むと風を止ませてくれる。つまり雨も風も神の心次第なのである。そして神に和歌でお祈りをする歌人の心掛け次第なのである。私はこれから歌の道をどこまでも突き進む。熱田神宮の神よ、どうか鎌倉への旅の無事と、訴訟を見守り、悪しき障害物を取り除いてください。その為にこうして和歌を奉納しています。

 

多くの写本では、奉る歌、五つ。 と書いてあるが、熱田神宮に奉納した歌を4首しか記していない。5首載せているのもあるが。その歌は

  契りあれや 昔も夢に みしめ縄 心にかけて めぐりあひぬる

→私が生まれる前からここ熱田神宮にお詣りすることは、運命で決まっていたのだろう。これまで若い頃に一度だけ参拝出来てそれ以降、もう一度この神様にお詣りしたいと熱望していたのだが、やっと2度目の参拝を果たすことが出来た。

この歌にある 昔 は、「うたたね」の旅をした当時を指している。但し「うたたね」には、熱田神宮の事には言及していない。「十六夜日記」では熱田神宮の次に、鳴海潟の都鳥が書かれている。
潮干の程なれば、障りなく干潟を行く。折しも浜千鳥多く先立ちて行くも、しるべがほなる心地して

→その時鳴海潟は潮が引いて、通り易くなっていた。阿仏尼が奉納した歌に早速神が応えてくれたのかもしれない。阿仏尼たちは何の問題もなく、鳴海潟を西から東へ通り抜けた。沢山の浜千鳥が鳴きかわし飛び交っていたが、阿仏尼が向かう東の方に向かっているので、まるで阿仏尼の道案内をしているようであった。そこで歌を詠んだ。

  浜千鳥 鳴きてぞ誘う 世の中に 跡とめしとは 思はざりしも

跡 とは浜千鳥の足跡という意味と、阿仏尼がこの世に生きた足跡という意味の掛詞である。歌の意味は次の様である。

→私の耳には浜千鳥の鳴き声が、お前が奉納した歌は神である私の心に叶ったぞ。これから歌の道に精進せよ。裁判に勝てるように見守ってやろう と聞こえた。浜千鳥は干潟を歩くと足跡が残る。私も俊成・定家・為家と続く歌の道に為家の妻として、為相の母として、後の世に残る足跡を記すことが出来るだろうか。後の自分にその様な運命があろうとは、若い頃には思ってもいなかった。

隅田川のわたりにこそありと聞きしかど、都鳥といふ鳥の、嘴(はし)と脚と赤きは、この浦にもありけり。

阿仏尼はこの鳴海潟で嘴(くちばし)と足が赤い鳥を見た。これは「伊勢物語」第九段、「古今集」に登場する歌の都鳥、ユリカモメである。阿仏尼は在原業平詠んだ 

  名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 思ふ人は ありやなしやと

という歌を踏まえて一首詠んだ。

  言問はむ 嘴と脚とは あかざりし 我が来し方の 都鳥かと

あかざりし は、いつまで見ていても飽きなかったという意味であるが、ここの嘴と足の色が赤いという意味が重なる。

この歌の意味は

鳥よ 嘴と足が赤い色をしているので、お前たちは都鳥と思われる。ならば在原業平に倣って私達も尋ねよう。私は住み慣れた都を離れて旅をしていて、都に残してきた愛する人々を飽かずに思っている。みんなが元気でいるかどうか尋ねよう。

 

そして尾張国と三河国の境の二村山に差し掛かった。二村山は夏には杜鵑、秋には紅葉の名所。

けれども今は冬なので、杜鵑も鳴いていないし、紅葉も残っていない。

山も野もいと遠くて、日も暮れはてぬ。

夕暮れの野原が果てしなく続いていた。やっとのことで二村山越えても、又遠くの山々が見える。鎌倉までは前途遼遠である。まして日も暮れたので心細いこと、この上ない。そこで一首。

  はるばると 二村山を 行きすぎて なほ末たどる 野辺の夕闇  

夕闇の道は無性に心細いものである。阿闍梨をはじめ同行の者たちは口を揃えて、今宵は八橋に宿を取ろうと言う。

けれども辺りはとっぷりと日が暮れているので、橋が何処にあるのか見えない。

  ささがにの 蜘蛛手あやふき 八橋を 夕暮かけて 渡りかねつる

蜘蛛手 は、蜘蛛の足が八本あるように、八つの橋が四方八方に掛かっている様子を指している。橋があちこちに掛かっているので、渡るのが昼間でも危険である。その危うい橋を夕暮れの闇が覆っているので、恐る恐る渡ったという不安感がこの歌のテ-マである。八橋もまた伊勢物語第九段東下りの一節である。先程は同じ伊勢物語の第九段都鳥が踏まえられていた。東国へ旅する旅人は在原業平になりきって、歌を詠むことが大切なのである。

それでは10月21日、旅の6日目を読む。

 

朗読②10月21日 6日目

廿一日(はつか余り一日)、八橋を出でて行く。日いとよく晴れたり。山もと遠き原野を分け行く。昼つかたになりて、紅葉いと多き山に向ひて行く。風につれなき紅、ところどころ朽葉に染めかへしてける。常盤木どもも立ちまじりて、青地の錦を見る心地して、人に問へば宮路の山ととぞ言ふ。

  時雨れけり 染むる千入(ちしほ)の はては又 紅葉の錦 色かへるまで

この山までは、昔見し心地する。頃さへ変らねば、

  待ちけりな 昔も越えし 宮路山 同じ時雨の めぐりあふ世を

山の裾野に竹ある所に、萱屋(かやや)ただ一つ見ゆる。いかにして、何のたよりに、かくて住むらんと見ゆ。

  主や誰 山の裾野に 宿しめて あたりさびしき 竹の一むら

日は入りはてて、なほ物のあやめわかるる程、渡津(わたうど)とかやいふ所にとどまりぬ。

 解説

旅する阿仏尼の目と心に寄り添う。

廿一日(はつか余り一日)、八橋を出でて行く。日いとよく晴れたり。山もと遠き原野を分け行く。

10月日は快晴。阿仏尼は気持ちも晴れ晴れと旅を続ける。

山もと遠き原野を分け行く。

山の麓は行けども行けども野原が続いている。

昼つかたになりて、紅葉いと多き山に向ひて行く。

昼頃に目の前に山が見えてきた。紅葉の跡が山襞を覆っている。その紅葉の赤い山に向かって阿仏尼達は進んでいく。

風につれなき紅、ところどころ朽葉に染めかへしてける。常盤木どもも立ちまじりて、青地の錦を見る心地して、人に問へば宮路の山ととぞ言ふ。

紅葉の奇麗な山は宮路山であった。今では冬の初めなので紅葉を散らす風が吹いているが、風の誘いを断り紅葉が枝に残っている。これが風につれなきである。紅葉の一部は紅色から褐色に移ろっていた。赤と褐色に加えて、山には常緑樹の緑もある。その濃い青が色彩効果を高めている。阿仏尼は青い地に赤や褐色を織りなした青地の錦と見ているように感じた。阿仏尼の歌である。

  時雨れけり 染むる千入(ちしほ)の はては又 紅葉の錦 色かへるまで

千入(ちしほ) は、一千回色を染めること。→山の紅葉は時雨や露が、美しい色に染め上げると言われている。この宮路山でも時雨に濡れる度に、何度も木の葉は染色されたのであろう。しまいには赤の色を増すだけでなく褐色に変わって、常緑樹の緑と映えるまでになっているのは自然の摂理である。
この山までは、昔見し心地する。頃さへ変らねば、

この宮路山は、
昔阿仏尼がまだ若かった頃に「うたたね」の旅をした時にも、通った記憶がある。

待ちけりな 昔も越えし 宮路山 同じ時雨の めぐりあふ世を

宮路山を擬人化して詠んでいる。宮路山は作者が一度やってくるのを待っているというのである。歌の意味。

時雨が降る場所を少しずつ変えるのを めぐり という。宮路山は私が数十年ぶりの同じ季節にこの山を越える、つまり山と私がめぐりあうのをくる年もくる年も待ち続けていたのだな。紅葉が一番美しい季節に、私が宮路山と再会出来たのは山の方で私が来るのを待ち受けていたからなのだろう。

山の裾野に竹ある所に、萱屋(かやや)ただ一つ見ゆる。

阿仏尼は不思議な庵に目を留めた。こんな所で隠遁生活をしている人物に興味が湧いたのである。

  主や誰 山の裾野に 宿しめて あたりさびしき 竹の一むら

あんな淋しい家にどんな人物が住んでいるのだろうか。この山の麓を自分の終の棲家とする決心をしたのはどんな理由からだろう。それにしてもこの辺り一帯は荒涼とした竹林で、人が住むのに適しているとは見えない。

日は入りはてて、なほ物のあやめわかるる程、渡津(わたうど)とかやいふ所にとどまりぬ。

そうこうする内に、日は完全に暮れた。何が何処にあるかも見分けられなく成る頃、渡津(わたうど)という所に今宵の宿を取った。渡津(わたうど)という地名は現在の豊川の渡津(わたうど)とされる。旅は続く。明くる日は10月22日。旅の7日目。作者の思い出の地である。引馬(ひきま)に到着した。

 

朗読③

廿二日(はつかあまりふつか)の暁、夜深き有明の影に出でていく。いつよりも、物いと悲し。

  住みわびて 月の都は 出でしかど 憂き身はなれぬ 有明の影

とぞ思ひ続くる。供なる人、「有明の月さへ笠着たり」と言ふを聞きて、

  旅人の 同じみちにや 出でつらん 笠うち着たる 有明の月

高師の山も越えつ。海見ゆる程、いと面白し。浦風荒れて、松の響きすごく、波いと荒し。

  わがためや 風も高師の 浜ならむ 袖のみなとの 波はやすまじ

いと白き洲崎に黒き鳥の群れ居たるは、鵜といふ鳥なりけり。

  白浜に 墨の色なる 島つ鳥 筆も及ばば 絵にかきてまし

浜名の橋より見渡せば、鴎といふ鳥、いと多く飛びちがひて、水の底へも入る、岩の上にも居たり。

  鴎ゐたる 洲崎の岩も よそならず 波のかずこそ 袖にみなれて

今宵は引馬(ひきま)の宿といふ所にとどまる。この所の大方の名は浜松とぞ言ひし。親しと言ひしばかりの人々なども住む所なり。住み来し人の面影も、さまざま思ひ出でられて、又めぐりあひて見つる命の程も返す返すあはれなり。

  浜松の かはらぬ陰を 尋ね来て 見し人なみに 昔をぞとふ

その世に見し人の子、孫など呼び出でてあひしらふ。

解説

この日の記録には有明の月、高師の山、浜松の宿、引馬という四つの内容が書かれていて盛り沢山である。

 現代語訳

1022日。旅の7日目。今日は遠江に入る予定である。暁のまだ暗い時間に出発した。月の下旬なので空には細い有明の月が掛かっている。それを見ると無性に物悲しくなる。今朝出発に際して歌を詠んだ。

  住みわびて 月の都は出でしかど 憂き身はなれぬ 有明の影

これは月に手向けた歌である。「源氏物語」の須磨の巻にも月の都という言葉が用いられている。須磨に滞在中の光源氏が都に残して来た人々を思う場面である。月の都は平安京の事であろう。お月様は旅先でも都でも同じ顔を人に見せている。光源氏は都に留まっていても、意地悪な右大臣や弘徽殿(こきでん)の女房達に圧迫されるばかりなので、思い切って旅に出た。私も又為氏との争いを抱えているが、都にいても状況の好転は望めないので、思い切って都を離れて鎌倉に向かっている。すると都から私を慕って追いかけてきた者が、有明の月が空に掛かって心配そうに私の事を眺めているという。又お月様の目には余程辛そうに見えているのだろう。私がこんなことを考えていると声が聞こえる。お伴として鎌倉への旅に同行してくれている阿闍梨の声のようだ。おや、今朝の有明の月はぼんやり霞んで笠を被っている。お月様も人間みたいに笠を被るということがあるのだなと口にしているのが耳に入った。面白い言葉だったので更に一首。

  旅人の 同じみちにや 出でつらん 笠うち着たる 有明の月

旅人の私が通っている同じ道を月も通っているのだろうか。いかにも旅支度の様に笠を被っている有明の月を見ると、そう思われてならない。高師の山を越えた。山の頂から海の方を見ると、青い海がとても美しい。だが海辺の高師の浜まで下ると印象が違った。海風がひどく強く吹いているので、松風が鳴り響いている。風にあおられて高い波が押し寄せている。

    わがためや 風も高師の 浜ならむ 袖のみなとの 波はやすまじ

その名の通り、波が高く押し寄せているのは、誰のせいでもなくこの私のせいである。私の心の中は大きな悩みの為に波立っている。又悲しみの余りこぼれる涙がびっしょりと袖を濡らしている。「伊勢物語」に思ほえず 袖にみなとの さわぐかな もろこしぶねの よりしばかりに という歌があるが、私の袖は港の様にびっしょりで止まることはなく、新な涙の波が押し寄せてきた。高師の浜は砂が真っ白で美しい。その白い砂の上に黒い鳥が群れを成している。それは鵜というとりなのだ。白と黒の色彩の対照が目に鮮やかだったので歌に詠んだ。

  白浜に 墨の色なる 島つ鳥 筆も及ばば 絵にかきてまし

真っ白な砂の上に、墨のように真っ黒な鳥が群れている。水墨画でよく見る情景である。もしもこの私に画才があれば、この素晴らしい姿を書き留めたいものだ。あの黒い鳥の名前は、鵜であり、憂し という言葉を連想させる。私を苦しめている辛さも、この白い砂の力で清められたいものだ。更に進んで浜名の橋を渡った。ここは鵜ではなくて、鴎(かもめ)という鳥が数えきれないほど飛んでいた。

  鴎ゐる 洲崎の岩も よそならず 波のかずこそ 袖にみなれて

鴎には自分の羽を休める自由がある。海の上にも波の上にも水の底にも、そして岩の上にもいる。その中で私の目には洲崎の岩の上にいる鴎に注がれた。彼らが羽を休めている岩は、他ならぬ私の袖の様に濡れている、岩には波が押し寄せて激しく打ち当たった。そしてしぶきは岩を通り越していく。あの岩も水に濡れるのに慣れている。この私も自分の袖が涙にぬれている光景を見慣れている。この日の夜は引馬(ひくま)の宿 であった。この辺り一帯は浜松という。その浜松には私の親類が住んでいる。遠江国に所領のあった養父 平 度繁(のりしげ)の誘いでこの浜名湖に二ケ月ほど滞在したことがあった。その養父や親類縁者の面影が目に浮かぶ。様々な記憶が蘇ってきて切ない。それにつけても数十年振りにこの浜松を訪れることになった、私の運命を考えれば考えるほど不思議な気がする。

  浜松の かはらぬ陰を 尋ね来て 見し人なみに 昔をぞとふ

海辺の松林は昔と変わらぬ姿を見せているが、かつてお世話になった養父は既にこの世にいない。松の木の根元に打寄せる波が、養父の思い出を語りあう仲間であるのは淋しい。「うたたね」の頃にお世話になった人々も、すでにこの世の人ではない。

その子供たちを呼び寄せては何かと語り合った。浜松は「うたたね」で訪ねた懐かしい土地なのである。

 

朗読④

廿三日(はつかあまりみか)。天中(てんちう)の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔も思ひ出でられて心細し。組み合わせたる舟ただ一つにて、多くの人の往来(ゆきき)に、さしかへる、ひまもなし。

  水の泡の うき世を渡る 程を見よ 早瀬の瀬々に 棹も休めず

今夜は遠江、見附の国府(こふ)といふ所にとどまる。里荒れて物恐ろし。傍らに水の江あり。

  誰か来て 見附の里と 聞くからに いとど旅寝ぞ 空おそろしき

 解説

天中(てんちう) は天竜川の古称。この渡し場には西行法師のエピソ-ドがある。西行は陸奥(みちのく)を目指して旅をしていた。ここの渡し場で乱暴な武士から、この船を下りるように命じられる。でも動かなかった所、鞭で激しく打たれた。西行は一切抵抗せず黙って船を下りた。同行していた者がそれを見て泣き悲しんだ所、西行はこれ位の忍耐が出来なくて、どうしてこれから長い修養の旅が出来るかと言い、都に戻れと命じた。女性である阿仏尼に対してそんなに意地悪な振舞いをする人はいないだろうが、様々な階層の人が集まる渡し場は何が起きるか予想もつかないのである。

組み合わせたる舟ただ一つにて、多くの人の往来(ゆきき)に、さしかへる、ひまもなし。

この渡し場には何艘かの舟を一つに組み合わせたのが、一つしかなかった。この舟が何度も川を往復していた。

  水の泡の うき世を渡る 程を見よ 早瀬の瀬々に 棹も休めず

儚いものの代名詞である  水の泡 が結んだかと思うとすぐ消えてしまう。そんな泡がほんの短い間に結んでいるのが水の上である。人も短い寿命の間だけ、辛い浮世をせわしなく生きている。ほら、あの小舟は流れの早い天竜川に浮かんで、休みなく行ったり来たりしている。その姿はまるで私たちの人生の姿の様ではないか。

今夜は遠江、見附の国府(こふ)といふ所にとどまる。里荒れて物恐ろし。傍らに水の江あり。

今夜は遠江の国府である見附の宿に泊まった。国府というからどんなに賑やかな所だろうと思ったが予想は外れた。

里は荒廃していて恐ろしく感じられた。宿の傍には、水の江 という入江があった。

  誰か来て 見附の里と 聞くからに いとど旅寝ぞ 空おそろしき

人間がどんなに隠れていても、何者かがやってきて見付けるという意味の 見附 の事で、夜を明かすのが無性に恐ろしい。

水の泡の人生論からの続きで生きることの恐さにもリアリティがある。

 

「コメント」

 

島内教授作の 十六夜日記 である。もっと淡々と、書いてあることを解説してほしいが、ここまで感情移入して周辺描写すると、別の作品になってしまう。どこにそんなことが書いてあるの の気分。