230902④「都に残る人々との別れ①」
十六夜日記は阿仏尼の戦いの記録である。俊成・定家の直系の子孫として和歌の本質を受け継いだ為家の教えを守る為と、自分の子供たちの未来を守る為に、阿仏尼は鎌倉で訴訟を起こすことにした。これが十六夜日記の第二部になる。私はこの部分を 惜別の賦 と名づける。この惜別の賦は別れに対して単なる挨拶ではない。阿仏尼は自分が子供達と交わした別れの歌を、十六夜日記に書き示す事によって、別れの歌はこういう風に詠めば感動が高まるという手本を示している。十六夜日記は和歌の教科書である。その和歌は日本文化の根幹なので、十六夜日記は日本文化のあるべき姿を示した教科書でもある。まず亡き夫との別れが語られる。
朗読① 十六夜日記本文1
目離れせざりつる程だに荒れまさりつる庭も籬も、ましてと見まはされて、慕はしげなる人々の袖のしづくも、なぐさめかねたる中にも、侍従、大夫などの、あながちにうち屈(くむ)じたるさま、いと心苦しければ、さまざま言ひこしらへ、閨のうちを見やれば、昔の枕のさながら変わらぬを見るも、今更悲しくて、傍らに書きつく。
解説
目離れせざりつる程だに荒れまさりつる庭も籬も、ましてと見まはされて
自分はこの屋敷でずっと暮らして居たので、いつでもこの庭の草木や垣根の手入れは出来たのに、これから長く留守にすることになって、改めて眺め渡すと、庭も垣根も荒れ果てていた。これから自分がいなくなると更に荒れる一方だろうと阿仏尼は心配になった。
この荒れまさりつる庭も籬も、ましてと見まはされて
この部分には俊成の和歌の影響がある。俊成は阿仏尼の夫の祖父である。俊成に
荒れわたる 秋の庭こそ あはれなれ まして消えなん 露の夕暮れ 新古今和歌集
まして という言葉が十六夜日記と共通しているし、荒れまさり も似ている。興味深いことに俊成の歌は、源氏物語 須磨の巻を意識して詠まれたという説がある。光源氏は紫上を都に残して須磨に旅立つ際に、家のあちこちの傷みを見ながらこれからのこの屋敷も紫上もどうなるのだろうかと嘆いた。須磨の巻の本文には 見る程だにかかり。ましていかに荒れゆかむ とある。須磨の巻の まして が俊成の歌に影響を与え更に十六夜日記に波及していたのである。
紫上と別れて須磨に向かう光源氏の心境は、子供たちを残して鎌倉に向かう阿仏尼の心境と重なる。
慕はしげなる人々の袖のしづくも、なぐさめかねたる中にも
旅立つ自分を慕っているのが態度に現れている子供たちの涙も、阿仏尼の心配の種である。侍従や大夫などの
侍従、大夫などの、あながちにうち屈(くむ)じたるさま、いと心苦しければ、さまざま言ひこしらへ、
侍従は兄の為相で17歳、大夫は弟の為盛で15歳。兄の為相は9歳の時に侍従になっている。弟は従五位の下。阿仏尼は二人の子供たちに旅立ちの必要性を話して説得した。
閨のうちを見やれば、昔の枕のさながら変わらぬを見るも、今更悲しくて、傍らに書きつく。
これが阿仏尼の別れの歌の最初である。いまは亡き夫の為家の魂に向かって語り掛ける。昔の枕 は為家が生前使っていた枕である。
留めおく 古き枕の塵をだに 我たち去らば 誰か払はむ
夫の枕は旅に持参出来ない。後に残す枕の上に積もるであろう塵を、だれが払ってくれるのだろうか。
この 古き枕 は、白楽天の「長恨歌」(ちょうごんか)で使われていた言葉である。
朗読②長恨歌の一節
鴛鴦(えんおう)の瓦冷やかにして霜華(そうか)重く古き枕、故(ふる)き衾(ふすま)、誰と共にかせん
夫婦仲の良いことで知られる鴛鴦(おしどり)を形どった瓦には、冷たく真っ白に霜が降りている。かつて夫婦で一緒に寝た枕も蒲団も今となってはひとりで寝るしかない。
この長恨歌の本文は源氏物語の葵の巻で引用されて、その後の日本文学に大きな影響を与えた。光源氏が亡き葵の上の49日が明けるまで、彼女の父親である左大臣の屋敷に留まり、喪に服した。喪が明け、光源氏は自分の屋敷に戻る。その後左大臣が光源氏がいた部屋を覗くと、光源氏が書き記していた文字を見つけた。葵の巻の朗読をする。
朗読③ 源氏物語 葵の巻
あはれなる古言(ふること)ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさなに書き混ぜたまへり。「かしこの御手や」と、空を仰ぎて眺め給ふ。よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきなるべし。「古き枕古き衾、誰と共にか」とある所に、
なき魂ぞ いとど悲しき 寝し床の あくがれがたき 心ならひに
解説
光源氏はなき人を偲ぶ和歌や漢詩を沢山書き散らしていた。その筆跡は草書体も楷書体も見事であった。左大臣はこれまで光源氏を娘婿として大切にしてきたが、娘が亡くなった今、光源氏が赤の他人になったことを残念に思う。さて光源氏が手すさびで、長恨歌の古き枕古き衾、誰と共にか という部分を書いた後に、自分が詠んだ和歌を記していた。その歌は亡き葵の上を偲んでいる夫の私も悲しいけれど、一番悲しいのは夫や両親や生まれたばかりの子供を残して、自分だけが死ななければならない葵の上本人ではないかという意味である。光源氏は亡き葵の上の無念さをかみしめている。
この場面の古き枕という言葉が、十六夜日記にも引用されたのである。阿仏尼は亡き夫為家の無念を強調し、彼が望んだような遺産相続を何としても実現させたいと決意したのである。
現代語訳 本文
私は都の屋敷を留守にすることなく、ここで暮らしてきた。長い旅に出ていた人が数年後に久し振りに我が家に帰ってみると、庭が荒れ果てて見えることが土佐日記などに書かれている。けれども私は毎日この家に暮らし、庭を眺め手入れをしてきた。それなのにこれから旅に出るので、暫くは見られないであろう。もしかしたらこれが今生の見納めになるかも知れないなどと思って、しみじみと庭を眺めていると、早くもかなり荒れ果てた事実に気付き愕然とした。籬(まがき)、垣根も今も荒れ果てているのだから、私が鎌倉に長く滞在することになればどれ程荒れ放題になる事かと心配になる。亡き夫の為家の祖父である俊成には
荒れわたる 秋の庭こそ あはれなれ まして消えなん 露の夕暮れ 新古今和歌集
という和歌がある。もしも自分の命が失われたら、この荒れた庭はどうなるのかという嘆きである。
源氏物語の光源氏もまだ18歳の葵の上を都に残して須磨に旅立つ際に、屋敷を見ながらこれからこの家も葵の上もどうなってしまうのだろうと嘆いたと書かれている。源氏見ざる歌よみは遺恨事也 と喝破した俊成は、
この須磨の巻を意識して、荒れわたる 秋の庭こそ あはれなれ まして消えなん 露の夕暮れ 新古今和歌集 という歌を詠んだのであろう。私にも都に残しておくのが心配な愛する者たちがいる。でも悲しいのは私だけではない。
後に残るのも辛いはずだ。彼らはいつ都に戻ってこられるか分からない私との、別れを悲しんで涙で袖を濡らしている。
それを慰める言葉もない。中でも侍従 為相、大夫 為盛達がここまで絶望するかと心配になるほど、落ち込んでいる様子には母親としては切ない。この子供を守る為に私は旅立つ。別れは必然であり大いなる喜びの序章である。このことを彼らに理解できる言葉で言い知らせる。その後に私の寝室に戻ると亡き為家が使っていた枕が置かれていた。源氏物語の葵の巻が思い出される。そこには亡き妻である葵の上を偲び光源氏が、古き枕古き衾、誰と共にか と書き記す場面がある。それは白楽天の長恨歌の玄宗皇帝が亡き楊貴妃を偲ぶ場面である。私の場合には長恨歌とは逆で、亡くなった夫を生き残った妻が枕を見ながら偲んでいる。
亡き人の形見の品程、見るに悲しいものはない。光源氏に倣って私もなき人を偲ぶ歌を書きつけた。私が旅に
出た後も、残った子供たちは父親の枕と母親の残した歌を見て、両親を思い出してくれるだろう。私の歌
留めおく 古き枕の塵をだに 我たち去らば 誰か払はむ
私が亡き夫の使っていた枕をどんなに慕っていても、旅にこの枕を持って行くわけにはいかない。これまでは枕の上に積もった塵は、私が払って奇麗にしてきた。これからは誰がやってくれるのだろう。それが心残りである。為家が歌の道の未来を託した我が子たちよ、枕の塵を払いながら孝ひたすら歌の道に精進してほしい。
別れの歌の最初に阿仏尼は長恨歌や源氏物語を踏まえて、亡き為家への語り掛けを据えたのである。十六夜日記はここまで旅に伴う別離に際して、読むべき別れの歌の見本書、カタログ帳になる。自分が身近な人たちと詠み交わした歌を後世の離別歌の手本とするのである。この様に実際の旅立ちの前に、別れを惜しむ和歌の贈答を書き記すのは、源氏物語の須磨の巻を踏襲している。前回読んだ十六夜日記には、生きうしとてとどまるべきにもあらで、何となく急ぎ立ちぬ。
急ぎ立ちぬ とあるが阿仏尼はすぐには旅立たない。旅立ちまでには、都に残る家族たちと別れの歌を交わし続けるのである。須磨退去を前に光源氏は、延8か所で離別の悲しみを訴えた。順番にあげてみる。
1、 左大臣
亡き葵の上の父親。この時生まれたばかりの光源氏の長男夕霧の乳母や、葵の上の兄妹の頭の中将、
そして葵の上の母親の大宮との別れを惜しんでいる
2、 葵の上
3、 花散る里
4、 朧月夜
5、 藤壺
6、 亡き桐壺帝の墓
7、 東宮 後の冷泉帝
8、 再び 葵の上
これらの面を念頭に置きながら十六夜日記は惜別の賦を紡ぎあげて行った。
息子たちとの別れの歌の交換
十六夜日記はここから息子たちとの別れになる。まず為家の後継者で、後に冷泉家の初代となった為相との別れのである。最初に母の阿仏尼の歌が2首、次に為相の歌が2首。
朗読④十六夜日記本文2
代々(よよ)に書きおかれたる歌の草子どもの、奥書などして仇ならぬ限りを、選りしたためて、侍従の方へ送るとて、書きそへたる歌、
和歌の浦に かきとどめたる 藻塩草 これを昔の かたみとは見よ
あなかしこ 横波かくな 浜千鳥 ひとかたならぬ 跡を思はば
これを見て、侍従の返事(かへりごと)いととくあり。
つひによも あだにはならじ 藻塩草 形見を 三代(みよ)の跡に残さば
迷はまし 教へざりしば 浜千鳥 ひとかたならぬ 跡をそれとも
この返事、いとおとなしければ、心安くあはれなるにも、昔の人に聞かせ奉りたくて、又うちしほれぬ。
解説
代々(よよ)に書きおかれたる歌
俊成・定家・為家と三代にわたって蓄積されてきた御子左家の大切な書物の中から、特に重要だと阿仏尼が判断した貴重な書籍を選り分けて為相に送り届けた。奥書というのは写本の最後に書かれた、その本の由緒、来歴の事である。
誰が所有していた本を、誰が書き写したかが記されている。これら和歌の書を読みながら、自分の留守中も和歌の勉強に励みなさいというのが阿仏尼の歌の意味である。
和歌の浦に かきとどめたる 藻塩草 これを昔の かたみとは見よ 阿仏尼の一首目
和歌の浦 は紀州の和歌の浦にある歌枕で、玉津島神社には和歌の女神である衣通姫(そとおりひめ)が祀られている。
藻塩草 は、海人がかき集めで海水を濯ぎ、塩を作る海草の事である。それと文学者が作る書物とを重ねた表現である。
あなかしこ 横波かくな 浜千鳥 ひとかたならぬ 跡を思はば 阿仏尼の二首目
横波 は為氏の横やりを入れて、播磨細川庄を横取りしたことを指している。
これを見て、侍従の返事(かへりごと)いととくあり。
為相は亡き夫の為家が自分の後継者にしようと思ったほどの才能の持ち主である。たちどころに返歌をした。
つひによも あだにはならじ 藻塩草 形見を三代(みよ)の跡に残さば 為相の第一首
形見を三代(みよ)の跡 は、俊成、定家、為家の三代という事と書物群を先祖の形見と思って見るという意思が巧みに重ねられている。
迷はまし 教へざりしば 浜千鳥 ひとかたならぬ 跡をそれとも 為相の第二首
私には母の教えが必要ですと母に甘えている。
この返事、いとおとなしければ、心安くあはれなるにも、昔の人に聞かせ奉りたくて、又うちしほれぬ。
為相の返事は歌を詠んだスピ-ドが早かっただけではなく、掛詞を使うなど大人びた表現を用いており、厳しい阿仏尼の目から見ても合格点である。
それにつけてもこの為相の歌を亡き夫の為家に見て欲しかった。為相の成長をどれ程喜んだことだろうか。涙がこぼれる阿仏尼であった。
現代語訳
亡き為家が残した和歌に関する蔵書群は、祖父の俊成、父の定家以来の三代にわたる和歌の道の真理を追い求めてきた成果である。それらの蔵書の中で、巻末に書き記されている奥書から、来歴が由緒正しいと考えられる写本類を厳選して、為相に送ることにした。これらの歌書、歌の書籍が、これからの為相が起こす歌の家の礎となるであろう。送り届ける際に、私が書き添えた歌が2首ある。
阿仏尼の一番目
和歌の浦に かきとどめたる 藻塩草 これを昔の かたみとは見よ
紀国の和歌の浦は、海人達が藻塩草をかき集めて塩を作り生計を立てている。その和歌の浦には和歌の神様である玉津島明神 衣通姫が鎮座し、悠久の和歌の道を守っている。海人達がかき集めるのは草であるが、和歌に関する書物をお前たちは偉大な先祖である俊成、定家、父親の為家はひたすら集めてきた。これからの和歌の道の発展の基礎となる貴重な書物群である。お前たちはこれらの書物を、血の繋がった偉大な祖先が残してくれた貴重な家宝だと思い、父祖の恩を噛みしめながら学びなさい。私が為相に送った歌の
阿仏尼の2首目
あなかしこ 横波かくな 浜千鳥 ひとかたならぬ 跡を思はば
これらの貴重な書物を手に取ると、ああ有難いと感謝の気持ちが湧いてくる。今まで私たち親子は、為氏から非道な横やりが入って苦しい立場に置かれている。和歌の浦の浜辺では、横波が押し寄せると浜辺についた浜千鳥の足跡が、全て洗い流されて消えてしまう。けれども俊成以来の和歌の道の先達が子孫の為に、並々ならぬ思いを込めて書き残した書物への感謝の気持ちを持てば、なんとしてもこれらの書物に書かれている和歌の道を消してはならない。是が非でも受け継がねばならないという決意が、強くなるであろう。横波に負けてはならない。
この私の2首に対して、為相も2首返してきた。私の歌の趣向を理解できているし、時間もかけずにすぐ歌を返したので母としては安心した。
為相の1首目
つひによも あだにはならじ 藻塩草 形見を三代(みよ)の 跡に残さば
母上ご安心ください。俊成、定家、父の三代で築き上げた御子左家の和歌の道は、これから私たち兄弟がしっかりと受け継ぐ覚悟である。母上がこれらの書物を見なさいと送ってくれた、偉大な先祖が書き残した和歌の書物を、その方々の形見だと思い、心して拝読し歌の道に精進します。母上は鎌倉まで下って為氏の横波から私達を守って下さる気持ちを裏切ることはありません。和歌の浦の干潟についている浜千鳥の足跡を、横暴な波で消滅させることはありません。
為相は かたみとは見よ の箇所で 見る という言葉を掛詞として含ませているのは、さすが為家と私の間に生まれた子だと思う
為相の2首目
迷はまし 教へざりしば 浜千鳥 ひとかたならぬ 跡をそれとも
浜千鳥はあちこち、道を迷ったかの様に干潟を歩くと聞いている。私と為盛は母上の教えがなければ、俊成から始まる三代の和歌の家を守ることは出来ない。どれ程父祖の業績が偉大であっても、徳がどれほど優れておられたのか、この度母上から送って貰った書物を絶えず紐解きながら学び続けます。迷わず歌の道に精進します。
私の歌の詞を巧みに取り入れながら、ひとかどの歌人の様に大人びて詠んでいる。これなら都に残しても大丈夫だろうと安堵した。よくぞここまで成長してくれたと胸が一杯になるにつけても、今は亡き為家に、まだ17歳なのにこれほどの歌が詠めるようになったと伝えたい。
和歌の贈答は相手を意識してのやり取りなので、話し言葉で訳した。それに対して相手を意識せず自分だけの思いを詠む独詠歌は~なのである を基本とする。なお私(講師)は十六夜日記を扶桑拾葉集というアンソロジ-に収められている本文で読んでいるので、他の写本と表現が微妙に違っている。十六夜日記は下の子である為守との別れの歌を書き記す。
朗読⑤十六夜日記本文3
大夫の、傍ら去らず馴れ来つるを、ふり捨てられなむ名残、あながちに思ひ知りて、手習したるを見れば、
はるばると 行く先遠く 慕われて いかに其方(そなた)の 空をながむる
と書きつけたる、物よりことにあはれにて、同じ紙に書きそへつつ。
つくづくと 空なそながめそ 恋しくは 道遠くとも はや帰りこむ
とぞなぐさめる。
解説
母子二人は向かい合って別れの歌を披露したのではなくて、為守が手習いの様にして書き記した歌を見た阿仏尼が
返事をしたのである。
大夫の、傍ら去らず馴れ来つるを
末っ子の為守は14歳だが生まれてからずっと母と一緒に過ごしてきた。
ふり捨てられなむ名残、あながちに思ひ知りて
それなのに今、母は自分を残して旅に出ようとしている。母の旅立ちは、自分たち兄弟を守る為と理解していても、母との別れが悲しくてならない。
手習したるを見れば、
為守は誰に見せるともなく、自分の思いを歌にして紙に書きつけていた。それを母は見つけて読んだのである。
為守の歌
はるばると 行く先遠く 慕われて いかに其方(そなた)の 空をながむる
素直な歌である。
慕われて の れ は自発の助動詞である。母上の事が慕われてなりません。慕われて は、古今和歌集などで用いられている。為守は古今和歌集をかなり読み込んでいる様である。
自分はこれから東の空を眺めて母を偲ぼうというストレ-トな歌である。
物よりことにあはれにて、同じ紙に書きそへつつ
それを見た阿仏尼はこれまでにないほどに感動した。別れを前にした滅多にない状況なので、歌に込められた為守の愛情表現に感動したのである。それで為守が手習いをした紙の横に、それへの返歌として自分が詠んだ歌を書き加えた。これで贈答歌が完成した。
阿仏尼の歌
つくづくと 空なそながめそ 道遠くとも はや帰りこむ 早く帰ってきましょうという意味である。
次の.小倉百人一首 中納言行平 の歌を連想させる。
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
阿仏尼も 今帰り来む と歌いたいのはやまやまだが、長い滞在になるのは確実なので、今 とは言えず はや と歌うのが精一杯息子への慰めである。
現代語訳
為守はまだ14歳。兄の為相は既に独立して別の家で暮らして居るが、為守はずっと母である私と一緒に暮らして居る。今回初めて分かれて生活することになる。しかも私がいつ都に戻って来られるかはっきりとは分からない。数年は先になるだろう。生きている内に戻ってこれない事もある。だから為守は私から見捨てられた淋しさを感じるかも知れない。彼の
部屋を覘いて見ると、紙に和歌が書かれていた。自分の今の思いを誰に告げるという訳ではなく、手習いのような形で率直に吐露したのであろう。
はるばると 行く先遠く 慕われて いかに其方(そなた)の 空をながむる 為守の歌
母上が向かう鎌倉は遠い東の方と聞いている。旅の途中は今頃はどこの空の下にいらっしゃるだろうか、鎌倉到着後は今頃は何をしているだろうかといつも母のこと思いながら、東の空を眺めることにしよう。
この歌はどこか恋歌の趣がある。そこまで私を慕ってくれているのかと思うと、一人にしておくことが可愛そうでならない。為守が手習いの歌を書きつけていた横に、私からの返歌を添え書きしておいた。
つくづくと 空なそながめそ 恋しくは 道遠くとも はや帰りこむ 阿仏尼の歌
いつまでも空を眺めては駄目ですよ。和泉式部という王朝の歌人に
つれづれと 空ぞ見らるる 思う人 天降りくむ ものならなくに 玉葉和歌集 という歌がある。
どんなに空を眺めていても、待っている人が東から降りてきて、目の前に姿を現す事はない。貴方が母の私を恋しいと思っているのは分かっているので、私もなるべく早く戻って来られるように努力する。それまでは歌の勉強をしながら、待っていなさい。こう書いて幼い為守を慰めたのであった。
為守は自分の体は都に留まるが、自分の心は母と一緒に鎌倉まで同行したいと思っている。切実な母恋いの歌である。
慕われて という言葉を用いた為家の歌がある との話が続くが、検索できないので省略。
「コメント」
小学館の「中世日記紀行集」を参考にしながら書いているが、講師の現代語訳は十六夜日記への思いいれが多く、本の現代語訳と違い過ぎる。講師の訳は行間を読みすぎ。かなり疲れる。