230826③「和歌と日本文化を守る為に鎌倉へ②」
十六夜日記は東海道を下る旅の記録が中心である。けれども旅立ちの理由や全体の組み立てを考えると、この作品は鎌倉時代中期の最高の文化人であった阿仏尼が渾身の力で書き綴った文化論、文明批評であったことが分かる。
阿仏尼の主張
前回読んだ部分では和歌の起源は神々の時代にあるとされていた。人間の時代になっても人間関係の対立を和らげ、人と人とを結びつけ、社会全体を調和させる力を発揮してきた。和歌は政事(まつりごと)を正しく行おうとする人間にとって、大切な心掛けを教えてくれる。所がその和歌の本質に深く関る自分が、政事に携わっている人々から不当に扱われ、亡き夫の残した財産である播磨国細川庄も奪われようとしている。それに対する憤りが、阿仏尼をつき動かして鎌倉へと向かわせる。今回も
阿仏尼は自分の存念を述べる
朗読① 歌人の自覚と鎌倉へ出発の決意
さても又、集を撰ぶ人は多かれども、二度(ふたたび)勅を受けて、代々に聞こえ上げたる家は、類なほありがたくやありけむ。その跡にしもたづさわりて、三人(みたり)の男子(おのこ)ども、百千(ももせ)の歌の古反故(ふるほご)どもを、如何なる縁にかありけむ。あづかり持たる事あれど、「道を助けよ、子を育め、後の世をとへ」とて、深き契(ちぎり)結びおかれし細河の流れも、ゆゑなくせきとどめられしかば、跡とふ法の灯も、道を守り家を助けむ親子の命も、もろともに消えをあらそふ年月を経て、あやふく心細きながら、何としてつれなく今日までながらふらむ。
解説
集 は古今和歌集の事。醍醐天皇が紀貫之を撰者に任命して、905年に成立した。それ以来歴代の天皇や上皇がその時代を代表する歌人を選者に任命して、数々の勅撰和歌集を作らせた。
二度(ふたたび)勅を受けて、代々に聞こえ上げたる家は、類なほありがたくやありけむ。
勅撰集の選者となる歌人は、その時代の最高の文化人として天皇から認められたので、最高の名誉なのである。その中で生涯に二度も選者に任命されたのは、その頃までに二人しかいない。一人は藤原定家、もう一人は阿仏尼の夫 藤原為家である。
その跡にしもたづさわりて、三人(みたり)の男子(おのこ)ども、百千(ももせ)の歌の古反故(ふるほご)どもを、如何なる縁にかありけむ。あづかり持たる事あれど
阿仏尼は為家との間に生まれた三人の男の子と、数百数千の由緒正しい本を預かる立場となった。如何なる縁にかありけむ→自分は不思議な運命をもって生まれてきた。和歌の最高権威である為家と結ばれ、和歌の道を次の世代に手渡すという使命を与えられた。けれどもそれは困難な道だった と回想しているのだ。
「道を助けよ、子を育め、後の世をとへ」とて、深き契(ちぎり)結びおかれし細河の流れも、ゆゑなくせきとどめられしかば、
ここには為家の残した遺言が三つ書かれている。
・和歌の道を守り伝えなさい
・子供たちを立派な後継者に育てなさい
・私の菩提を弔いなさい
つまり自分が安心して成仏出来るように、自分が阿仏尼との間に設けた子供を和歌の第一人者に成長させなさいということである。その為に為家は播磨国細川庄という大きな荘園を阿仏尼の子供に譲ることにした。それがせき止められたとあるのは、為家の長男で阿仏尼を快く思わない為氏に横領され、荘園からの収入が途絶えたということである。ゆゑなく
とあるので、為氏の主張には根拠がなく自分たちの側に正義があると主張している。
跡とふ法の灯も、道を守り家を助けむ親子の命も、もろともに消えをあらそふ年月を経て、
為家が残した三つの遺言を実現するためには毎年ある程度の収入が必要である。それが途絶えたので、阿仏尼と子供たちは命の危機に直面した。
あやふく心細きながら、何としてつれなく今日までながらふらむ。
これまでどの様にして、生きてこられたのか自分でもよく覚えていないというのである。
現代語訳
さてその上に、勅撰集を撰ぶ人はその例も多いことだが、一人で二度も勅命を受け、二代の帝に集を奉るという栄誉を蒙った家は、やはり類まれなのではなかろうか。私とはその名誉の家に関わりを持って、三人の息子と多数の歌の古い資料類を、どういう縁があったものか、預かり管理することになったのだが、亡き夫が「歌道を盛り立てよ、子を良く育てよ、自分の後世を弔え」といって、固く相続を約束しておいた遺産である播磨国細川庄も、理由もなしに横領されてしまったので、亡父の供養の為に蓄えも、歌道を守り家を継承する親子の生計も、いつ果てるかもわからない歳月を過ごしてきて、危うく心細い暮らしの中に、どうしてまあ厚かましくも今日まで生きてきたことだろう。
阿仏尼には「夜の鶴」という和歌の評論書がある。別名「阿仏尼口伝」 和歌の詠み方を初心者にもよく分かるように、かみ砕いて述べている。その「夜の鶴」から、古今和歌集から 八代集の第六に当たる詞花和歌集までを読む。
朗読②「夜の鶴」 阿仏尼の歌論書
ただ、歌の本体には、古今の歌を見おぼえて、本歌にもすべし。三大集、いづれもおなじことなれど、後選にはやさしき歌多く又、みだりがはしき歌も多くまじりたり。梨壺の五人、心々やかわりけむ。拾遺の歌は、また拾遺抄によき歌はみな選りいでられたり。
後拾遺、また、歌よみ多くつどひたるころには、おもしろき歌も多げに候ふを、難後拾遺というものにぞ、「みぎはもえいづる」などいふ歌をはじめて、さまざまそしりたる事もさぶらふやらむ。
金葉・詞花などは、歌のすがたかはりて、一ふしをかしきところある歌のみ多く侍る。今めきたる事がちに候ふやらむ。それより後の集どもも、選者の心え見えて、さまざますてがたく見え候ふめり。
現代語訳
和歌の本質を習得するには、最初の勅撰集である①古今和歌集の和歌を暗記して、本歌取りできるまで学ぶのが良い。二番目と三番目の②後撰和歌集と③拾遺和歌集は、古今和歌集とあわせて三代集といわれて重要である。ただし後撰和歌集には優美なる歌だけではなく、みだりがましい歌も混じっている。選者が梨壺の五人もいて彼らの個性が様々だったからであろう。拾遺和歌集はよく似た名前の拾遺和歌抄という歌集があり、こちらに学ぶべき歌が沢山入っている。4番目の④後拾遺和歌集は、和泉式部など有名な歌人の歌が満載である。但しこの歌集の作風を批判した書物もある。
五番目と六番目の⑤金葉集と⑥詞花集 には、これまでと異なる新奇な作品が目立つ。古典的というよりは現代的である。その後の勅撰集は、それぞれの文学観を反映してそれぞれに面白味がある。
七番目の⑦千載和歌集には触れていないが、阿仏尼の亡き夫の祖父の俊成が選者である。
それでは八番目の勅撰集である⑧「新古今和歌集」から後を、阿仏尼はどの様に、評価しているのであろうか。
朗読③「夜の鶴」の続きを読む。
新古今、むかしの歌のやさしき姿に立ちかへりて、「折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむとする玉笹の上のあられ」などと申すへきや、あまりたはれすごして、歌のさま、またあしざまになりぬべしとて、新勅撰は、思ふところありて、まことある歌を選ばれたり、などうれたまはりし。
その後、続後撰、たちかへり道をしめす御代にあひて、常盤井の太政大臣をはじめ奉り、衣笠の内大臣、信実、知家など、道に堪へたる人、家の風吹きたえぬひ飛びと多く、君も臣も、身をあはせ、時を得たりける撰集なれば、さすが見ところも候ふらん。それにも時による作者多しなど、うちかたぶく人もありけるを、ましてそののちの事は、いかが候ふらん。心もおよぶまじければ、おしこめぬ。
現代語訳
八番目の新古今和歌集は、最初の古今和歌集の頃の優美な作風に戻った。画期的な勅撰集である。但し洒落た雰囲気や人目に立つ表現などの弊害もあった。新古今和歌集の選者の一人だった定家は、単独で選者を務めた九番目の⑨新勅撰和歌集では、考える所があって平明で真実味のある歌を評価したと、私は亡き夫為家から聞いた。十番目の⑩続後撰和歌集 は、わが夫為家が単独選者を務めたが、定家が目指した新勅撰和歌集の歌風を継承し、時の帝の正しい政事を支える歌の道を更に深めた。この続後撰和歌集には有力な歌人がひしめいており、学ぶべき歌が多い。但しその時々に権力をもっている政治家に甘くて、彼らの良くない歌も混じっているという批判もある。この
傾向はその後の十一番目以降の勅撰和歌集では更に顕著になっている。
原文の中には定家や為家の名前は出ていないが、現代語訳では名前を出して主語をはっきりさせた。興味深いのは定家は新古今和歌集の代表的歌人であるが、その余りにも芸術的で美的な作風に危惧を抱き、新勅撰和歌集では真実味のある作風に転換した。
これは為家の継承した和歌の本質であり、阿仏尼もそう信じている点である。いわば花よりも実を、真を重視する文学観である。これは定家が選んだ小倉百人一首でも同じであろう。中世には小倉百人一首の研究書が沢山書かれた。この百首には華麗で奇抜な表現はなくて、真実味のある落ち着いた歌が選ばれている。そこを学びなさいという立場が強調されている。現代歌人に中には、小倉百人一首の歌には、平凡な歌が多いという不満がある。但し定家は意識して、真実味のある歌ばかりを
選んだのである。それは阿仏尼の求める和歌でもあった。
「十六夜日記」に戻る。
朗読④十六夜日記 名前を付けるならば「和歌の道を守る為に、いざ鎌倉へ」
惜しからむ身一つは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇は、なほしのびがたく、道をかへりみる恨みはやらむ方なくて、「さてもなほ、東の亀の鏡にうつさば、曇らぬ影もやあらはるる」 と、せめて思ひ余りて、万(よろず)の憚りを忘れ、身を要なきものになしはてて、ゆくりもなく、いさよふ月に誘はれ出でなむとぞ思ひなりぬる。
解釈
惜しからむ身一つは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇は、なほしのびがたく
自分だけの問題ならばどんなことでも我慢するし簡単であろう。けれども亡き夫から託された子供たちの未来を思うと、播磨国細川庄を巡る問題はどうにも我慢できない。
子を思ふ心の闇 は、和歌を踏まえている。
後撰和歌集 藤原兼輔 紫式部の曽祖父
この歌は源氏物語に何度も引用されている。子を思う親の心は闇だというのである。十六夜日記は、母が子を思う苦しさが根底にある作品である。
道をかへりみる恨みはやらむ方なくて
子供の未来に加えて、和歌の道も守りたい。和歌の道を受け継ぐ人間として、為家は阿仏尼との間に生まれた為相を考えていた。阿仏尼にとって子供を守ることは、和歌の道を守る事であった。けれども前回話したが、阿仏尼は都で起こした裁判では敗訴した。そこで一大決心したのである。
「さてもなほ、東の亀の鏡にうつさば、曇らぬ影もやあらはるる」
都での裁判がそういう結果であるならば、裁判を最終的に決着させるためには、鎌倉幕府の本拠地まで乗り込み、幕府の中枢に訴えるしかない。東の亀の鏡にうつさば、曇らぬ影もやあらはるる これは面白い表現である。東 は鎌倉幕府。
亀の鏡 は、漢字熟語で 亀鑑(きかん) という言葉がある。行動する場合の基準という意味である。
現在の政治を司っている鎌倉幕府に為家の残した自筆の書付を提示して、判断して貰えば自分たちの方が正しいという結論がはっきりするであろう。鏡には真実が映るだろう。
と、せめて思ひ余りて、万(よろず)の憚りを忘れ、身を要なきものになしはてて、ゆくりもなく、いさよふ月に誘はれ出でなむとぞ思ひなりぬる。
身を要なきものになしはてて には伊勢物語の東下りが踏まえられている。在原業平が 我が身を要なきもの →
都では必要でない人間だと思って、東に下った話である。阿仏尼も又、在原業平の様に東下りの旅に出る覚悟を固めたのである。いさよふ月に誘はれ出でなむ 旅立ったのは10月16日 十六夜であった。
現代語訳
取るに足りない私のような人間は、どうなっても良いと達観している。けれども歌の家の名門である為家との間に生まれ、為家から歌の家の継承された息子たちの願いを思うと、私の心は不安で満たされる。後撰和歌集の歌で、源氏物語に何度も引用されている古い歌があるが、私が関わった御子左家は名家であるだけでなく、源氏学の家でもある。
人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな この歌のテーマは 子ゆえの闇 。この闇に今も私が惑っている以上に、亡くなった為家の苦しみがある。何としても為相に、御子左家が守り続けてきた歌の家を継いで欲しいと願っておられたからである。
私も為家の心を思うと、泣き寝入りは出来ない。今の我が国の法の基準となっているのは鎌倉幕府である。都で追い詰められた私は、鎌倉のしかるべき門注所で裁判して貰えば、為家の遺志が私たちの側にあるということをはっきりと認めてもらえるのではないか。そうなるとその思いの強さと責任の重さが私を苦しめ、もはや若くない私であるが、万難を排して鎌倉に下ると決心した。かって伊勢物語の在原業平は、身を要なきもの この世に必要でないものと思い定めて、東下りの旅に出た。私も又、亡き夫や未来ある子供たちと比べれば、要ないものである。だから鎌倉に下るのである。
例え何年掛かっても、もしかすると私の生前に解決しなかったとしても、私達の側に正義があることを必ず証明しなければならない。この旅立ちの日は16日、十六夜であった。
東の亀の鏡 という表現は、漢字熟語の亀鑑を大和言葉に和らげたものであった。そういえば十六夜日記の冒頭は中国の儒教の教えから書き始められていた。阿仏尼たちが担った中世の日本文化は、日本と中国、更にはインド起源の仏教を取り込み、調和させるものであった。それが言葉の面でも実践されていて、亀鑑を 亀の鏡 と表現しているのだ。
和歌の道の危機を正すのは、政事に携わる為政者の義務である。細川庄の帰属問題は、鎌倉幕府が真の意味での亀鑑、規準になり得るのかという問題提起なのである。阿仏尼はとても強気である。和歌の道と政事の道は一体であり、自分は和歌の側の頂点にある。だから政事の側も私に味方するに違いない。いや味方すべきだという自信があるのだ。
次を読む。
朗読⑤十六夜日記
さりとて文屋(ふんや)の康秀が誘ふにもあらず、住むべき国求むるにもあらず。頃は三冬立つはじめの空なれば、降りみ降らずみ時雨も絶えず、嵐にきほふ木の葉さへ、涙とともに乱れ散りつつ、事にふれて心細く悲しけれど、人やりならぬ道なれば、いきうしとてとどまるべきにもあらで、何となく急ぎ立ちぬ。
解釈
さりとて文屋の康秀が誘ふにもあらず
文屋(ふんや)の康秀は小野小町を三河の国に誘った人物である。阿仏尼の若い日の著作である「うたたね」にも出ていた。
住むべき国求むるにもあらず
これは在原業平が都に居づらくなって東下りした伊勢物語の記述を踏まえている。先程は身を要なきもの で、業平のようだとあった。ここでは業平とは違うと言っている。何故だろうか。小野小町は文屋(ふんや)康秀に同行しないかと誘われた。業平が東下りに出たのは清和天皇の后との恋が行き詰まったからである。つまり阿仏尼は鎌倉への下向は、小町や業平のような恋ではなく、子供への愛と文化を守る責任感からからだと言いたいのである。
頃は三冬立つはじめの空なれば
三冬は二つの解釈が分かれている。一つは冬の上に接頭語の み が付いたと見る。晴れたみ空に靴が鳴る の み である。もう一つは数字の三で、冬を三つに分けた場合の最初、つまり10月ということである。私は 三冬 という漢字熟語を大和言葉に和らげて、三冬(みふゆ)と言ったと思う。
降りみ降らずみ時雨も絶えず
降ったり降らなかったりして、時雨が降っている。ここにも古典和歌が踏まえられている。
神無月 降りみ降らずみ 定めなき 時雨ぞ冬の 初めなりけり 後撰集 読み人知らず
この歌の冬のはじめという言葉は、十六夜日記の頃は三冬立つはじめの空なれば という部分とも響きあっている。
嵐にきほふ木の葉さへ、涙とともに乱れ散りつつ、事にふれて心細く悲しけれど、人やりならぬ道なれば、いきうしとてとどまるべきにもあらで、何となく急ぎ立ちぬ。
人やり は他人のせいということである。他の人から旅に出なさいと命じられて旅立つことである。ここでは人やりならぬ だがら、自分自身の自発的決心で旅に出るという意味となる。だから子供たちと別れて遠くに行くのが辛いと思っても、出かけるしかありません となる。
現代語訳
この様にして私は東海道を下る旅を決意したのである。とはいっても小野小町が文屋康秀に わびぬれば 身をうき草のの根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ と詠んだ様に、男から三河の国に一緒に行こうと誘われた訳ではない。又伊勢物語で業平が都での生活を断念し、東のどこかに住むべき国を求めて東下りをしたような訳ではない。小町の場合は恋があるし、業平も清和天皇の妃との悲恋が旅立ちの原因であった。
けれども私の旅は歌の道を守る為と、為家の子供たちを守る為である。
冬の始まる神無月に旅立つことになった。
神無月 降りみ降らずみ 定めなき 時雨ぞ冬の 初めなりけり 後撰集 詠読み人知らず という古歌の様に、冬の初めの空は降ったりやんだりしながら、冷たい時雨が絶え間なく降り続いていた。嵐が吹くと枝に残った木の葉が先を競ってはらはらと散っていく。それと同じ様に、私の袖にも涙がこぼれ散る。何かと不安と悲哀が先に立つけれども、この旅は自分の強い覚悟から思い立ったものである。誰かに強制されて旅立つのではなくて、自らの遺志で思い立ったからには、旅に出るのが辛いとか悲しいとの口実で旅立ちを中止することは出来ない。何かと私の心は揺れ動くがすでに旅の流れは出来上がっている。この流れに思い切って身を任せ、慌ただしく旅立つことにした。
最後の部分は源氏物語の橋姫の巻 で薫が宇治を訪れる場面と表現が重なっている。阿仏尼が源氏物語を読み込んでいたことは うたたね で確認した。恐らく阿仏尼は源氏物語の文を殆ど暗記していたのであろう。だから源氏物語のボキャブラリ-を使うのであろう。それでは 橋姫の巻 の朗読をする。
朗読⑥ 源氏物語 橋姫の巻
入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ繁木(しげき)の中を分け給ふに、いと荒ましき風のきほひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉のつゆ散りかかるも、いと冷やかに、人やりならずいたく濡れ給ひぬ。かかるありきなども、をさをさならひ給はぬ心地に、心細くをかしく思(おぼ)されけり。
十六夜日記の表現と言葉が重なっている。十六夜日記ではこう書いてあった。
嵐にきほふ木の葉さへ、涙とともに乱れ散りつつ、事にふれて心細く悲しけれど、人やりならぬ道なれば、いきうしとてとどまるべきにもあらで、何となく急ぎ立ちぬ。
橋姫の巻と言葉がかなり重なっている。特に人やりならず という言葉が両者で一致している点に注目しよう。阿仏尼の鎌倉への旅立ちは、人やりならぬ 自らの強い意志に基づいている。
薫も宇治に隠棲している八宮と仏の道について語りあうという自発的な動機であった。業平の東下りは、恋の破綻から逃れるための消極的な動機であった。光源氏の須磨退去もお大尽と弘徽殿女御一派に圧迫されてのやむを得ない決断であった。それらと比べれば阿仏尼の積極性と能動性が際立つ。阿仏尼は戦う意味を強くもっている。
護らなければならないものがある。それを語るのが第一部なのであった。
「コメント」
どうしても疑念が払しょくできない。講師が必死になって大義名分を作り上げている感。それも知識と倉庫中の資料を使って。でもお勉強です