230211 ㊹「恭仁京時代と安積王挽歌」

前回は家持の他氏族の女性たちとの恋の歌のやり取り、そして妾と死別して作った挽歌を読んだ。それらは正妻になる坂上大嬢と結婚した後、一旦離別していた時期の歌々である。妾が亡くなった後、坂上大嬢との仲が復活しやがて正妻となる。家持21歳。天平10年までには、内舎人という名門の子弟が官人となっていく前の見習いのような官についていた。

 この頃の政情 藤原氏と長屋王の確執 光明子の立后 基王の死 長屋王の変 藤原四氏

 の疫病での死 橘 諸兄の台頭 藤原広嗣の乱 聖武天皇の遷都

しかしこのころから政界は、さらに激しい動乱期に入っていく。簡単に経緯を見ておくと、神亀元年724年に即位した

聖武天皇には男子はなく、神亀4年閏9月 藤原光明子が基王と呼ばれる男子を産むと、僅か生後2ヵ月で皇太子にした。所が生まれて一年に満たない、翌年4月に亡くなる。聖武天皇は深く悲しみ、三日間政務をしなかったと続日本紀は伝えている。藤原氏も外戚となるための、頼みの綱を失ったのである。一方その年には、縣犬養広刀自という女性との間に、安積(あさか)皇子という男子が生まれた。そこで藤原氏が取った方策は、皇太子の母だったという理由で、光明子を皇后にすることであった。これから光明子が男子を産めば、その子をまた皇太子にすることが出来る。そのために邪魔になるのが、左大臣長屋王であった。皇后は天皇の代行をしたり、そのまま即位として女帝になったりするので、皇族でなくてはならないのが原則である。臣下出身の女性が皇后になったのは、例の仁徳天皇の磐之媛皇后以外にない。

長屋王は基王に拝礼しておらず、赤子を皇太子にすることにも反対であった。当然光明子の立后にも反対である。それを見越して長屋王を抹殺したのが、神亀62月の長屋王の変であった。左道・邪な呪術を学び国家を傾けようとしたという理由で、直接には基王を呪い殺したということであろう。聖武天皇も藤原不比等の娘 宮子 を母としており、藤原氏を身内と考えていたようである。また皇太子格であった高市皇子と、天智天皇の娘 御名部(みなべ)皇女との間に生まれた長屋王、また長屋王と文武天皇の娘 吉備内親王 との間の男子たちは、血の貴さの上で自分を脅かす存在である。
聖武天皇黙認の下、長屋王と吉備内親王、男児たちは自殺を強要された。そして瑞祥によって天平と改元されたうえで、
光明子は皇后となった。しかし結局、光明子には男子は生まれなかった。

それどころか天平8年には天然痘の流行で、権力を握っていた藤原四氏が全員亡くなるという事態となった。天平10長屋王の左道を密告した者の一人が、長屋王の恩顧を受けた者に殺害されるという事件があり、続日本紀には殺された密告者を 誣告(ぶこく)せし人 偽りの報告をした人 と呼んでいる。公式に長屋王の罪が冤罪だったことが認められた訳である。長屋王の名誉回復は、疫病がその祟りと考えられたためだろうと推測される。藤原四氏が没すると、政権は橘諸兄の手に移る。橘諸兄は、元 葛城王という皇族であったが、母が縣犬養三千代という、後宮で力を奮った女官だった為に、敢えて臣籍降下し母が賜った橘という姓を継いで勢力を持った。

しかも三千代は諸兄の父と別れ、藤原不比等と再婚して光明子を産んだので、橘諸兄は皇后と異父兄妹の関係にあった。橘諸兄政権の下、天平101月光明子が基王より先に産んでいた女子 安部内親王が皇太子となった。

孝謙、称徳天皇で一応聖武天皇の次は決まった。しかし女性天皇が子を産んで跡継ぎをするわけにはいかないので、皇位継承問題は根本的には解決しないままに火種として残った。

藤原広嗣の乱 聖武天皇の東国巡行

四氏の没後、勢力の復活を余儀なくされた藤原氏は、次第に不満を高めていく。大宰府に左遷されていた式家 宇合の長男 藤原広嗣(ひろつぐ)は、天平128月、当時の政治を批判し重用されていた僧 玄昉 と、吉備真備を排除するよう上表文を出した。次いで9月には九州で挙兵する。朝廷は兵を出して鎮圧に当たったが、その最中の1029日に聖武天皇は、なんと、平城京から伊勢方面に行幸に出てしまう。なぜそうした行動に出たかは分かっていない。戦況は有利という報告が届いており、

実際出発した時点に既に広嗣は逮捕されており、都から避難するような状況にない。しかし宣旨に「朕は思う所あって東に向かう。その時期でないのは分かっているが、やむを得ない。将軍たちよ、驚き怪しまないでくれ」と言い置いているので、広嗣の乱が起こる前から計画された行幸ではなさそうである。通過したのが伊賀、伊勢、近江で、天武天皇が吉野を脱出して、壬申の乱を戦った時に辿ったコースと一致するので、内乱に当たって自分の皇統の始祖である天武天皇に倣ったのだとする見方がある。疫病の惨禍の後も異変が続いているのは、広嗣の上表文にもあった通りで、聖武天皇自身も何らかの験直しが必要だと考えていたのかもしれない。家持は皇族の傍近く仕える内舎人だから、聖武天皇と一緒に行動する。

 伊勢巡行に随行した時の歌

この東国巡行の時の歌は、広嗣の謀反で軍を発するによって、伊勢の国に行幸した時の歌として巻6に8首が残されている。最初の三首読む。

6-1029 大伴家持 伊勢の河口の行宮(かりみや) 津市白山町 で作った歌

原文 河口之 野邊尓廬而 夜之歴者 妹之手本師 所念鴨

訓読 河口の 野辺に廬(いほ)りて 夜の経()れば 妹が手本(たもと)し 思ほゆるかも

 

6-1030 聖武天皇 

原文 妹尓恋 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡 

訓読 妹に恋ひ 吾(あが)の松原 見渡者 潮干の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る

 

6-1031 丹比屋主(たじひのやぬし)

原文 後尓之 人乎思不久 四泥能埼 木綿取之泥而 好往跡其念

訓読 (おく)れにし 人を思はく 思泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取り垂()でて 幸(さき)くとぞ思ふ

 

1029 河口の 野辺に廬(いほ)りて 夜の経()れば 妹が手本(たもと)し 思ほゆるかも 家持

「河口の野辺の廬で夜を過ごすと、愛しい人の袖の袂が思われるなあ」

1030 妹に恋ひ (あが)の松原 見渡者 潮干の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る 聖武天皇

「妻を恋しく思って私が待つという名の、吾(あが)の松原から見渡すと、潮の引いた後の干潟に鶴が鳴き渡っている」

叙景の歌であるが、地名を表す序詞に家持の歌同様の、妻恋しさが漂っている。この歌は聖武天皇の御製である。ただし注には、この歌は河口で作ったと伝えられているが、吾(あが)の松原 は河口から遠いので、もっと海に近い行宮あたりで作られたのではないか述べている。

1031 (おく)れにし 人を思はく 思泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取り垂()でて 幸(さき)くとぞ思ふ

 丹比屋主(たじひのやぬし)

「京に残してきた妻を偲んで思うことは、死出の旅ではないが木綿(ゆう)を取り出しては、無事を祈っている」

神に祈って残してきた家族を思う歌である。これは丹比屋主(たじひのやぬし)という人の歌であるが、やはり注に丹比屋主など五位の官人たちは、河口から平城京に戻っているので、思泥(しで)の埼 の歌を歌う筈はない、これはこの行幸の時の歌ではないのではと疑いが記されている。思泥(しで)の埼 は、今の四日市市の海岸で、確かに河口からは遠い。

ただし聖武天皇の叙景の歌はともかく、丹比屋主(たじひのやぬし)の歌のように地名を詠み込むだけなら、別にその土地にいなくても歌う可能性はあるので、この行幸の時の歌ではないと考える必要もないだろう。

真偽ははっきりしないが、歌の記録者と巻の編集者との間に記録のズレがある面白い例であろう。

   恭仁京への遷都

さて見たように東国巡行の歌には、家を恋い慕う作が多かったが、結局聖武天皇は平城京には戻らなかった。橘諸兄を先に派遣して山城国南部 木津川沿いの小盆地に都を作らせ、12月15日そこに落ち着いた。そこが恭仁京で、それから三年余りの間、都となった。しかし山の中の都は狭くて不便であり、天平13年3月に五位以上の官人が平城京に住むことを禁じ、その他の者も恭仁京に移ることを促しているのは、人々が恭仁京に移りたがらなかったことを表している。

平城京にいる書持と恭仁京の家持との間に、ホトトギスをめぐる応答が交わされたのは、その年の4月初めである。

前々回見たように恭仁京での生活は、ホトトギスの声ばかりを聞く退屈なものであった。恭仁京時代の家持の歌をもう少し読む。

6-1037 大伴家持 15年の秋8月16日に内舎人家持恭仁の都をほめて作る歌一首

原文 今造 久爾乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之

訓読 今造る 久迩の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし

 

8-1602 大伴家持 家持が鹿鳴の歌 二首 1/2 右二首 天平15年の秋8月15日に作る

原文 妣姑乃 相響左右 妻恋尓 鹿鳴山邊尓 独耳為手

訓読 山彦の 相響(とよ)むまで 妻恋ひに 鹿鳴く山邊に 独りのみして

 

8-1603 大伴家持 家持が鹿鳴の歌 二首 2/2 右二首 天平15年の秋8月15日に作る

原文 頃者之 麻開尓聞者 足日木鹿 山呼令響 狭尾壮鹿鳴哭

訓読 このころの 朝明(あさけ)に聞けば あしひきの 山呼び響(とよ)め さを鹿鳴くも

1037 今造る 久迩の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし

恭仁京に対する讃歌

「今建設中の都は山や川がさわやかであるのを見ると、成程ここで政治を取られるのはもっともである」

1602 山彦の 相響(とよ)むまで 妻恋ひに 鹿鳴く山邊に 独りのみして

「山彦が聞こえる程に妻を恋しがって鹿が鳴く山邊に、たった一人だけでいて」しかし次の歌では、都にいるのに鹿の声が響き渡る所に一人だと歌っている。

1603 このころの 朝明(あさけ)に聞けば あしひきの 山呼び響(とよ)め さを鹿鳴くも

「この頃の明け方に聞くと、山をとどろかせて牡鹿が鳴いているよ」静かすぎる恭仁京を歌っている。

そして最初の歌が天平15年8月16日、次の二首が8月15日 僅か一日違いである。山や川が美しいというのは、鹿の声ばかり聞こえて人々の集まり騒ぐ都らしさとは、程遠いということの裏返しである。この様に見合わせて見ると最初の歌の今造る 久迩の都 が遷都以来2年半以上経って、まだ今造る と言っていることにも気付く。

  恭仁京から難波宮への遷都

実は聖武天皇は遷都した恭仁京にも満足しなかったのである。天平14年の末から度々甲賀の信楽に行幸するようになる。15年10月にはそこで大仏造立の詔を発する。信楽にも宮を作ることになり、この年をもって恭仁京の建設は停止された。家持は先ほどの三首は聖武天皇不在の中で歌われたのであり、今造る と歌いながら、実際には恭仁京は中途半端なままに放置されたのである。家持の讃歌はこれから先も、裏腹な現実を背景に歌われることが度々ある。

天平16年になると、難波京への行幸が計画され、さらに恭仁京と難波のどちらを都としたらよいかとのアンケ-トが官人たちに行われた。結果的には恭仁京を都とすべきとする意見がわずかに多く、いつの人々に調査しても恭仁京を望む人が圧倒的であった。流石に4年で遷都は勘弁してほしいとの思いであった。それにも関わらず、うるう年正月11日難波宮に行幸した。難波宮は大化改新の時の宮だったのが、686年に全焼してしまっていたが、神亀3年 726年に再建されていた。それは唐の長安に対する洛陽のような副都と、位置づけられたもので聖武天皇はそこに遷都しようとしたものであった。

  遷都途中での安積皇子の死去

その出発したまさにその日、安積皇子が足の病で途中、恭仁京に引き返すことになった。そして2日後の天平16年うるう正月13日に17歳で亡くなる。安積皇子は皇太子でこそないが、聖武天皇の残る唯一の男子だったので、皇太子安部内親王の次の天皇として嘱望されていた。また母が縣犬養広刀自で、橘諸兄の母・縣犬養三千代の同族であったので、橘諸兄の政権の支えであった。光明皇后が安部皇太子と血がつながる藤原氏に対抗する旧来の氏族の者たちにとっても、安積皇子の存在は唯一無二の希望であった。その安積皇子が亡くなってしまった、家持は二組の長歌でその早すぎる死を悼んでいる。

3-475 大友家持 長歌 大友家持 大友家持 16年春2月 安積皇子薨じた時作った歌6

原文 省略

訓読 

かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子の命 万代に 見したまはまし 大日本(おおやまと 久迩の都は うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異(ひけ)に 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白楮(しろたへ)の 舎人よそひて 和束山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥()いまろび ひづち泣けども 為()むすべもなし

 

3-476 大伴家持  16年春2月 安積皇子薨じた時作った歌6首 第一反歌

原文 吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山

訓読 我が大君 天(あめ)知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山 1/2

 

3-477大伴家持 16年春2月 安積皇子薨じた時作った歌6首 第二反歌

原文 悪桧木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞

訓読 あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも 2/2

 

475 長歌の大意

「口にするのも無性に畏れ多く、言葉にするのも憚り多いことよ。我が大君、皇子の命が何年にも君臨されるはずの大日本(おおやまと)久迩の都は、春になると山辺には花が咲き乱れ、河の瀬には鮎の子が走り回り、日に日に栄えていくその時に、人惑わしの狂気の言葉が真っ白に舎人を装わせて和束山に輿を据えられ、そこで天に登られたのでのた打ちまわって泣きぬれてもどう仕様もない」

この歌の製作は天平16年2月3日、安積皇子が亡くなった21日目である。太陽暦では3月21日。

咲きををり は、枝が垂れるほどに咲く花、木津川を走り回る小鮎、家持は美しく成長する春の自然によって、17歳の安積皇子を表している。そのまま立派になって即位し、ずっとこの恭仁京で政治を行われるだろうと思っていた。

およづれ は 意味の分からない言葉だが、いつも たはこと という狂気の言葉とともに用いるので、人を惑わす、偽りの意味と考えられる。安積皇子の死はそれくらい考えられないことであった。和束山は恭仁京から北に行った所で、安積皇子が葬られた場所である。家持は和束山で、皇子は天に召されたと歌った。もうどれだけ泣いても悲しんでも、皇子はもう帰ってこない。どうしようも無いのだ。

476 我が大君 天(あめ)知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山 第一反歌

「我が大君安積皇子が天に登られるなどとは思ってもいなかったので、ぼんやりと見ていたことだ。和束の材木の山を。和束の山の辺りはただの杣山、材木の産地だと思っていた。それがまさか皇子の墓になるなんて」平凡な山がかけがえのない地になったという発想は、亡妾悲傷歌 の 巻3-474 

昔こそ 外(そと)にも見しが 我妹子が 奥つ城()思へば はしき佐保山 を自ら踏襲するものであった。

477 あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも  第二反歌

「山までが光るほどに咲く花が、散ってしまった様なわが大君よ」長歌では恭仁京の自然によって、表されていた安積皇子の若々しい姿が、改めて ごとき という直喩の形で、春の花が一斉に散った様と結び付けられている。

 家持の長歌の特徴

家持の反歌は、長歌の叙述に対応して掘り下げる形が多いが、この長歌の場合は第一反歌で長歌後半に出てくる和束山のことを歌い、第二反歌では長歌前半に 花咲きををり と歌われたのを歌い直しているのが、長歌を遡るように反芻していることになる。この長歌は家持作品のご多分に漏れず、先行作品の表現が見られることによって、低く評価されてきた。一番大きく踏まえられているのは、柿本人麻呂の 高市皇子挽歌 である。出だしの かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも は、すぐに かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き という高市皇子挽歌の出だしを
思わせる。いや日異(ひけ)に 栄ゆる時に という暗転の表現も、万代(よろずよ)に 然(しか)もあらむと 木綿(ゆう)花の 栄ゆる時に という高市皇子挽歌につながったと見てよい。白楮(しろたへ)の 舎人よそひて という仕えていた者の
喪服の姿も、高市皇子挽歌の歌う 白楮(しろたえ)の 麻衣着て の情景と同じである。まだ長歌製作に不慣れな為に、柿本人麻呂の挽歌の形を踏まえなければ、作れないのだという見方もある。しかしなぜ高市皇子挽歌の枠組みを借りるのかと考えると、やはりそれは必然なのである。高市皇子は天武天皇の皇子の中で年長で、持統朝では皇太子格の

太政大臣を務めていた。したがって持統天皇が先に崩御すれば、即位の可能性もあった皇子である。しかし持統10年696年高市皇子が先に亡くなり、皇太子草壁皇子の遺児・軽皇子がすぐ立太子して文武天皇となった。即位する可能性がありながら皇太子にならず、結局即位を果たさなかったという点で、高市皇子と安積皇子は重なる。皇太子に成れなかった原因は、高市皇子の母が九州の豪族の出身であったからである。安積皇子の母が縣犬養氏の娘であるという出身も共通する。しかし柿本人麻呂は高市皇子挽歌において、高市皇子を即位の可能性のある皇子としては描かなかった。やすみしし 吾が大王(おほきみ)の 天の下 (まを)し賜へば 万代(よろずよ)に 然(しか)しもあらむと と述べ、(まを) は、謙譲語で皇子が天皇に統治をお助け申し上げられたら、永久に今の様な栄光が続くだろうと言うのだから、高市皇子が即位することは考えられていない。一方家持は安積皇子を 我が大君 皇子の命 と呼んでいる。

それは柿本人麻呂が皇太子・草壁皇子の挽歌 巻2-167 に 我が大君 皇子の尊の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと・・・と歌うのに用いた言葉である。 又遺児軽皇子の阿騎野で狩りをした時の柿本人麻呂の歌にも、1-49 長歌 45の長歌の反歌四種の最後の歌 日並皇子(ひなみし)の 皇子の命の 馬並()めて 御猟(みかり) 立たせり 時は来向かふ とあった。日並皇子(ひなみし)の 皇子の命 は天皇にならぶ存在であった皇太子・草壁皇子を表す表現であった。

要するに家持は安積皇子を皇太子であった草壁皇子並みに待遇している。本来ならば安積皇子は皇太子になっているべき皇子なのだというのが家持の表現なのである。

 

二番目の長歌を見て確かめよう。

3-478 大伴家持  16年春2月 安積皇子薨じた時作った歌6

原文 省略

訓読 

かけまくも あやに畏(かしこ)し わが大君 皇子の命の もののふの 八十伴とも)の男()を 召し集(つど)

率ひたまひ 朝狩に 鹿猪(しか)踏み起し 夕狩に 鶏雉(とり)踏み立て 大御馬(おおみま)の 口抑へとめ 御心を 見し明らめし 活道山(いくぢやま 木立の茂に 咲く花も うつろひにけり 世間(よのなか)は かくのみならし ますらをの 心振り起こし 剣太刀 腰に取り佩き 梓弓 取り負ひて 天地(あめつち)と いや遠長に 万代(よろずよ)に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門の 五月蠅(さばへ)なす 騒ぐ舎人は 白楮に 衣取り着て 常なりし 笑ひ振舞ひ いや日異(ひけ)に 変らふ見れば 悲しきろかも

 

3-479 大友家持 16年春2月 安積皇子薨じた時作った歌6 第一反歌

原文 波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鶏里

訓読 はしきかも 皇子の命の あり通ひ 活道(いくぢ)の道は 荒れにけり

 

3-480 大友家持 16年春2月 安積皇子薨じた時作った歌6首 第二反歌

原文 大伴之 名負靫帯而 万代尓 憑之心 何所可将寄

訓読 大伴の 名に負う(ゆき)帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ

 

478 省略

「口にするのも無性に畏れ多い我が大君、皇子の命が宮廷に仕える多くの氏族の男たちを召し集め、お率いになって、朝の狩りには獣たちを踏み起こし、夕べには鳥たちを踏み立たせて、御馬の口を押さえ止めて、見て心を晴らされた活道山の木立の茂みに咲く花も散ってしまった。世の中はこうと決まったものらしい。立派な男としての心を振り起し、剣太刀を腰に佩き、梓弓・(ゆき)を背負って天地とともに、いよいよ遠く長く何代にもこうあって欲しいと頼みにしている、皇子の命の御殿にいる真夏の蠅のようにうるさく騒いでいた舎人たちは真っ白な服を着て、いつも絶えなかった笑顔や振る舞いが日に日に変わっていくのを見ると、何とも悲しいことだ。

この第二の長歌も かけまくも あやに畏(かしこ)し という高市皇子挽歌に倣った出だしが用いられている。ここで主題になっているのは安積皇子の狩りである。皇子は臣下の男たちを召し集め、狩りを行った。家持もその中の一人である。これまで度々出てきた狩りは、王者の営みである。朝狩り、夕狩りは、中津皇命が歌った舒明天皇の狩りの歌以来の表現で、朝狩に 鹿猪(しか)踏み起し 夕狩に 鶏雉(とり)踏み立て は、聖武天皇即位の年に山辺赤人が吉野で歌った歌の言葉そのままである。大御馬(おおみま) も本来は天皇の馬を表す言葉である。そしてこの歌でもわが大君 皇子の命 と呼ぶ。どれをとっても安積皇子を本来は皇太子であるべき人、皇位に就くはずの人と扱うのに他ならないのである。

しかし狩りの途中、皇子が馬を止めて賞味なさった活道山の花はすっかり散ってしまった。この歌の製作は3月24日、太陽暦5月10日で、立夏もすでに過ぎていた。先の歌の第二反歌に、咲く花の 散りぬるごとき 我が大君か と歌った様に、花と共に花のような若い皇子の命が失われてしまった。

世間(よのなか)は かくのみならし 不条理なようでも若い人が早く死ぬのも世の中である。自分はますらおとして、護送して皇子をお守りしようと思い、いついつまでも頼みにしていた。その皇子の身の回りにいた舎人は、若い皇子にふさわしく、いつもうるさいほどに陽気な連中であった。それが喪服を着て日に日に元気を無くしているのを見ると、悲しくて仕方がない と家持は歌う。

479 はしきかも 皇子の命の あり通ひ 活道(いくぢ)の道は 荒れにけり 第一反歌

「ああ痛ましい、皇子の命が通われご覧になった活道(いくぢ)の道は荒れてしまった」活道山は恭仁京近くにあり、長歌前半で狩りの場として出てきた。個人所縁の場所が荒れてしまうことは、挽歌に頻出する主題で、道が荒れるのも笠金村による志貴皇子挽歌に 巻2-232 御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁り荒れたる 久(ひさ)にあらなくに と歌われていた。しかし今の場合、恭仁京に近い道が荒れるのを歌うのは別の意味がある。先ほど述べた様に、恭仁京自体が天皇に見捨てられようとしていたのである。難波宮に着いた聖武天皇は高御座(たかみくら)をはじめ、様々な物を恭仁京から運び出し人々の移動を促し、2月26日に正式に遷都が宣言された。家持が先の長歌で恭仁京を安積皇子が治めるべき都と歌い、そこの自然と皇子とを重ね合わせたのも、皇子の死と時を同じくして恭仁京も死んだからであろう。

世間(よのなか)は かくのみならし は全てが虚ろいの方にあるという仏教的無常観を、家持が実感していたことの表れであろう。

480 大伴の 名に負う(ゆき)帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ 第二反歌

「大伴がその名に背負う靫(ゆき)を身に着けて、萬代にもと頼みに思っていた心を、これからどこに寄せたらよいのか」

(ゆき) は、矢の入れ物で大伴氏は アメノユゲイデ という別称を持ち、部門の氏族として知られていた。この歌は武装して安積皇子の守りに立つという長歌後半の叙述に対応し、大伴氏の一員として永久に皇室を守るという意識の表れで、この先何度も家持の歌に出てくる最初の例として注目される。

長歌に出てくるますらおも同様に、同じ舎人でも安積皇子に仕えていたうるさく騒ぐ若い舎人とは異なり、エリートの自意識が認められる。同時に万代に 頼みし心 いづくか寄せむ は、思えば大胆な発言だった。この時皇太子は安部内親王に既に決まっていた。しかし女性皇太子は先例もなく、所詮一代限りの女帝であり、その皇太子は家持が心を寄せる人ではないということが窺われるのである。皇子に対する挽歌は、柿本人麻呂が多く歌ったが奈良時代には笠金村の志貴皇子挽歌以外になく、それから30年近く例がない。安積皇子挽歌は恐らく公の場で歌われたのではない。家持は

大伴氏の次代を担うものとしての自意識と共に、自分の守る天皇になるはずだった人として、個人として安積皇子を追悼したのだろうと思う。

 

安積皇子挽歌の後の日付、天平16年4月5日に 一人奈良の旧宅において作る歌6首

が巻17に残されている。家持の歌には孤独な状況での詠であることを題詞・注に記すことが多いが、その早い例の一つである。そのうち3首を読む。

17-3917 大伴家持 一人奈良の旧宅において作る歌6首

原文 保登等藝須 夜音奈都可思 安美指者 花者須具登毛 可礼受加奈可牟

訓読 霍公鳥 夜声(よごえ)なつかし 網ささば 花は過ぐとも 離れずか鳴かむ 1/3

 

17-3919 大伴家持 一人奈良の旧宅において作る歌6首

原文 青丹余之 奈良能美夜古波 布里奴礼登 毛等保登等藝須 不鳴安良奈久尓

訓読 あをによし 奈良の都は 古りぬれど もと霍公鳥 鳴かずあらなくに 2/3

 

17-3921 大伴家持 一人奈良の旧宅において作る歌6首

原文 加吉都幡多 衣尓須里都気 麻須良雄乃 服曽比猟須流 月者伎尓家里

訓読 かきつばた 衣(はぬ)に摺り付け 大夫(ますらお)の 着襲(きそ)ひする 月は来にけり 3/3

 

もう廃都になって久しい平城京の元の家に一人でいる。

3817 霍公鳥 夜声(よごえ)なつかし 網ささば 花は過ぐとも 離れずか鳴かむ 1/3

「霍公鳥の夜鳴く声がしたらしい。網を張ったら橘の花が散っても離れずに鳴くだろうか」

以前の弟 書持と同じように霍公鳥を留めて、声を聞いていたいと歌っている。

3919 あをによし 奈良の都は 古りぬれど もと霍公鳥 鳴かずあらなくに 2/3

「奈良の都は古びてしまったが、昔なじみの霍公鳥が鳴かないわけではないのに」人々に顧みられない旧都でも霍公鳥だけは、相変わらず鳴いている」

3921 かきつばた 衣(はぬ)に摺り付け 大夫(ますらお)の 着襲(きそ)ひする 月は来にけり 3/3

「カキツバタを上着に摺り染めにして、男たちが着飾って狩りをする月がやって来た」夏になって男たちが狩りをする季節がやってきた。しかし安積皇子の喪に服する家持はその季節になっても狩りはしないだろう。落胆し弛緩した日々を古びた旧都で一人送る家持が、そこに表し出されている。

 

平城京同様に打ち捨てられた恭仁京は、橘諸兄の本拠地に近く、元々諸兄の主導で営まれていたと思われる。そして亡くなった安積皇子は、諸兄の母の一族の女性が産んだ皇子であった。諸兄は

二つながら自分の地盤を失った訳である。

諸兄は元皇族として、藤原氏に圧迫されがちな旧氏族の人たちに頼られる存在であった。家持も

諸兄と親しく盛んに歌を奉っている。この後の諸兄は太政官の最高の地位を保っていくが、実はその権力は空洞化していく。家持が本格的に官人として、活動を始める前に既に彼の周囲の政治的環境は悪化しつつあった。

 

「コメント」

 

歌だけでは知りようがない家持が示されていて実に勉強になる。いや丹念に読めば分かることであろうが。今まで歌だけ、抜き出して読んでいただけだった。まさにカルチャ-。