230107 ㊴「遣新羅使人歌群」
前回
前回は万葉集の中でも一番、多くの歌を残している女性歌人大伴坂上郎女について話した。万葉集の編者は恐らく、大伴家持であるために、坂上郎女については、当時の女性としては例外的に経歴がよく分かっている。
叔母であり義理の母である坂上郎女は、後の回にお話しするように、大伴家持の歌の指導もした様である。
前回は大伴家の主婦となった経緯と、その最も重要な仕事が、一族の結束を固める事であり自分がそうしたように、大伴氏内での結婚を進めることだったという事を中心に話した。氏族内部での事柄が多かったが、母石川郎女が宮中に仕えた経験を持っていたためか、坂上郎女自身穂積皇子の妃だったためか、当時の聖武天皇とも面識があって、何首も天皇に贈る歌も作っている。氏族の外交の役割も担っていたのである。
さて今回は巻15の前半に置かれている 遣新羅使たちの歌 を読む。巻15は部立てのない巻で、前半と後半に大きく分かれ、前半が天平8年 736年に新羅に遣わされた人たちの歌約150首、後半が次回話す中臣宅守と狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)という引き裂かれた夫婦の歌60数首が時間順に並んでいる。それぞれ実在の人達なので、実録ものである。
当時の新羅と日本の関係
当時の日本と新羅の関係について述べておかねばならない。万葉集の歴史が始まった7世紀前半の朝鮮半島は、まだ北の高句麗、西南の百済、東南の新羅三国に分かれていた。中国に隋と言う統一王朝が出来ると、東アジアの諸国は一斉に中央集権化を進め、互いに軋轢を強めていく。隋は高句麗を攻撃し、却って国内が混乱し滅亡してしまったが、変って起こった唐も高句麗を攻め滅ぼそうとする。しかし高句麗は頑強に抵抗し、半島内では百済と結んで新羅を攻撃した。そこで新羅は唐と同盟して百済を攻めることにした。それが成功して百済が滅亡したのが660年。
白村江の大敗
大和も又中央集権化の過程にあったが、この争いに介入して百済復興を図り、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍大敗したことは以前話した。それが663年。百済が滅亡すると、後ろ盾を失った高句麗も又、唐新羅の連合軍に敗れ668年に滅亡。しかし唐が百済、高句麗の占領地を自領にしようとすると、今度は新羅が抵抗し、衝突を繰り返した結果、678年には唐の勢力を半島から駆逐することに成功する。
新羅による半島統一 大和は新羅に対して高圧的態度
新羅による半島の統一が実現したのである。大和国家は、白村江の敗戦後は、防人を置く・狼煙で急を知らせるシステムを作り、各地に砦を築くなどと言った防衛に専念せざるを得なかったが、新羅に対しては、高圧的な態度を取り続けた。大和は隋や唐の臣下として認めて貰う事を止めて、独自の天下を持つことにしたので、自国の支配に従う属国を必要としたのである。
新羅の朝貢と 遣新羅使の派遣
新羅も又、唐と敵対関係になった以上は、大和と争う事は二面に敵を持つことになる。大和の要求に従わざるを得なかった。天武朝では毎年、持統朝では2年に一度くらいの割合で、新羅から使節が来て、天皇に対する挨拶と貢物を捧げている。一方大和からの遣新羅使も天武朝から奈良時代初期・720年くらいまでは2~3年に一回くらいのペースで送られていた。
渤海の登場による唐と新羅の関係の変化(共通の敵) →新羅の大和への態度の変化
表面的には平穏であった。所が、次第に情勢が変わって来る。698年 高句麗のあった土地に渤海と言う国が出来て、勢力を拡大すると、唐と新羅の共通の敵となって、新羅と唐の関係は融和する。すると新羅は日本に従属しなくてもよくなる。加えて、渤海は728年 日本に使節を送って接近したので、新羅と日本との関係は緊張を強める。神亀3年 726年以降、新羅の朝貢は暫らく途絶えた。神亀5年728年 大納言だった大伴旅人が帥となって、大宰府に下った時は、こうした国際情勢の変化もあったのかも知れない。旅人が中心となった集団詠が、神功皇后や大伴狭手彦(さでひこ)など、半島への外征の伝承を基にしていたのも、大宰府が対新羅の窓口であったことと関連すると思われる。
日本はこうした伝承を、新羅が古来の朝貢国であるとする根拠にしてきた。
旅人が香椎稜という神功皇后を祀る廟所に参詣した時の歌も、巻6に残っている。対新羅関係が悪化すると、きまって香椎稜にも奉幣が行われた。天平年間になると、対等を主張する新羅と、朝貢を要求する日本との間で、押し問答の様になるばかりであった。天平宝治年間、760年前後には新羅征討計画が立てられたこともあった。
こうした情勢下での遣新羅使の派遣
天平8年の遣新羅使も、そうした情勢の中で派遣されたものである。歌群は妻との別れる時の唱和から始まる。
最初の6首を読む。
巻15-3578 題詞 新羅に派遣された使いが、別れを惜しんで贈答した歌、旅に心を痛めて思いを述べた歌、更に所々で詠んだ歌 6首
原文 武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
訓読 武庫の浦の 入り江の洲鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし 1/6
巻15-3579 題詞 新羅に派遣された使いが、別れを惜しんで贈答した歌、旅に心を痛めて思いを述べた歌、更に所々で詠んだ歌 6首
原文 大船尓 伊母能流母尓 安良麻勢婆 羽具久美母知弖 由可麻之母能乎
訓読 大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを 2/6
巻15-3580 題詞 新羅に派遣された使いが、別れを惜しんで贈答した歌、旅に心を痛めて思いを述べた歌、更に所々で詠んだ歌 6首
原文 君之由久 海邊之夜杼尓 奇里多々婆 安我多知奈気久 伊伎等乃理麻勢
訓読 君が行く 海辺の宿に 霧立たば わが立ち嘆く 息と知りませ 3/6
巻15-3581 題詞 新羅に派遣された使いが、別れを惜しんで贈答した歌、旅に心を痛めて思いを述べた歌、更に所々で詠んだ歌 6首
原文 秋佐良婆 安比見牟毛能乎 奈尓之可母 奇里尓多都
訓読 秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ 4/6
巻15-3582 題詞 新羅に派遣された使いが、別れを惜しんで贈答した歌、旅に心を痛めて思いを述べた歌、更に所々で詠んだ歌 6首
原文 大船乎 安流美尓伊太之 伊麻須君 都追牟許等奈久 波也可敝里麻勢
訓読 大船を 荒海(あるみ)に出だし います君 障(つつむ)ことなく 早帰りませ 5/6
巻15-3583 題詞 新羅に派遣された使いが、別れを惜しんで贈答した歌、旅に心を痛めて思いを述べた歌、更に所々で詠んだ歌 6首
原文 真幸而 伊毛我伊波伴伐 於伎都奈美 知敝尓多都等母 佐波里安良米也母
訓読 ま幸(さき)くて 妹が斎(いわ)はば 沖つ波 千重(ちへ)に立つとも 障りあらめやも 6/6
いずれも送る側の妻から歌い出し、夫が応える形となっている。
3578 武庫の浦の 入り江の洲鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし 1/6
「武庫の浦の入江の中州にいる鳥ではないが、羽でくるんでくれる貴方から離れては、恋しくて死んで
しまいそうです」
新羅に行く船は、難波津から出港したので、妻もそこまで送りに来たのだろう。武庫の浦は、今の
尼崎市の武庫川河口付近。難波津から遠望できる。その中州にいる鳥は、羽毛で暖かそうだ。
思えば私はその羽毛に包まるように、貴方の庇護のもとにいた。これからどうしたらいいのだろう
というのである。
3579 大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを 2/6
「海原に出る大きな船に君を乗せて行けるのだったら、羽にくるんで持っていきたいものだ」と答える。
次に妻の歌。
3580 君が行く 海辺の宿に 霧立たば わが立ち嘆く 息と知りませ 3/6
「あなたが行く海辺の宿に霧が立ったら、私が立ったまま、嘆くため息と思ってください」
憶良の 日本挽歌 に、巻5-799 大野山 霧立ち渡る 我が嘆く 息嘯(おきそ)の風に
霧立ちわたる があった。
又 坂上郎女が尼僧 理願 の挽歌で、有馬温泉にいる母 石川郎女 に対して送った、
嘆きつつ 我が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや 巻3-460 と歌っている。自分のため
息や涙が、霧や雨となって現れるという思想があった。
夫はこれに対して
3581 秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ 4/6
「秋になったらまた会えるだろうに。何で霧が立つほどに嘆く必要があろうか」と答える。
この時の遣新羅使は、2月に大使が任命され4月に天皇に挨拶している。夏の間に出発したと考えら
れるが、歌の内容は既に秋めいている。秋さらば 相見むものを は、最初から無理なことであった。
三首目の妻の歌は
3582 大船を 荒海(あるみ)に出だし います君 障(つつむ)ことなく 早帰りませ 5/6
「大船を荒れた海に漕ぎ出す貴方様は、妨げられることなく早くお帰り下さい」
夫の答えは
3583 ま幸(さき)くて 妹が斎(いわ)はば 沖つ波 千重(ちへ)に立つとも 障りあらめやも 6/6
「無事でいる様にと、あなたが祈ってくれたならば、沖の波が八重に立っても障害になる事はあろう
か」互いの無事を祈りながら分かれる訳である。
これらの歌は作者名が無いので、同一の妻或いは夫が歌っているのか、それぞれ別なのかは分から
ない。しかし何れも言葉を共有して息の合った唱和となっている。しかし旅立ちの時はやって来る。
その時を歌う三首を読む。
原文 妹等安里之 時者安礼杼毛 和可礼弖波 許呂母弖佐牟伎 母能尓曽安里家流
訓読 妹とありし 時はあれども 別れては 衣手寒き ものにぞありる 1/3
巻15-3592 遣新羅使ら、別れを悲しんで歌を贈答した
原文 海原尓 宇伎祢世武夜者 於伎都風 伊多久奈布吉曽 妹毛安良奈久尓
訓読 海原に 浮寝せむ夜は 沖つ風 いたくな吹きそ 妹もあらになくに 2/3
巻15-3593 遣新羅使ら、別れを悲しんで歌を贈答した
原文 大伴能 美津尓布奈能里 許藝出而者 伊都礼乃思麻尓 伊保里世武和礼
訓読 大伴の 御津に船乗り 漕ぎ出(で)ては いづれの島に 廬(いおり)せむ我 3/3
3591 妹とありし 時はあれども 別れては 衣手寒き ものにぞありる 1/3
「妻と一緒の時は良かったのだが、別れてみると衣の袖がひとしお寒く感じられる」 一人になると
寒さが身に染みる。
3592 海原に 浮寝せむ夜は 沖つ風 いたくな吹きそ 妹もあらになくに 2/3
「海原で浮いたまま寝る夜は、、沖の風よ強く吹いてくれるな、共寝する妻もいないのに」
3593 大伴の 御津に船乗り 漕ぎ出(で)ては いづれの島に 廬(いおり)せむ我 3/3
「大伴の御津で船に乗って漕ぎ出したら、何処の島に廬するのだろう、自分たちは」
大伴御津は難波津の事である。大きな港を漕ぎだして、小さな島の仮小屋に泊まる。そうした
これからの航海に対する不安が滲み出ている。その後は瀬戸内海を下る旅が続く。備後の国御調郡
長井浦(広島県三原市)、安芸國長門島(呉市倉橋島)。又周防国麻里布浦(山口県岩国市)の歌など
が並んでいる。そこまでは順調であった。しかし周防国佐波(さば) 山口県防府市 の沖合まで来た
時に、周防灘を一晩漂流する事に成り、やっと風を得て、豊前国下毛郡分間(わけま)の浦(大分県
中津市)に停泊することが出来た。
漸く安堵をして、苦労を振り返った歌が8首ある。最初の4首を詠んでみよう。
巻15-3644 雪宅麻呂 題詞 佐婆の海中で逆風にあい、波に漂流した。幸いに順風を得て豊前国下毛郡の分間浦に到着した。ここに艱難を追いて心を傷みて作る歌 8首
原文 於保伎美能 美許等可之故美 於保夫祢能 由伎能麻尓未尓 夜杼里須流可母
訓読 大君の 命(みこと)畏み 大船の 行きのまにまに 宿りするかも 1/4
巻15-3645 雪宅麻呂 題詞 佐婆の海中で逆風にあい、波に漂流した。幸いに順風を得て豊前国下毛郡の分間浦に到着した。ここに艱難を追いて心を傷みて作る歌 8首
原文 和伎毛故波 伴也母許奴可登 麻都良牟乎 於伎尓須麻牟 伊敝都可受之弖
訓読 吾妹子は 早(はや)も来ぬかと 待つらむを 沖にや住まむ 家つかずして 2/4
巻15-3646 雪宅麻呂 題詞 佐婆の海中で逆風にあい、波に漂流した。幸いに順風を得て豊前国下毛郡の分間浦に到着した。ここに艱難を追いて心を傷みて作る歌 8首
原文 宇良未欲里 許藝許之布祢乎 風波夜美 於伎都美宇良尓 夜杼里須流可毛
訓読 浦廻(うらみ)より 漕ぎ来し船を 風早み 沖つみ浦に 宿りするかも 3/4
巻15-3647 雪宅麻呂 題詞 佐婆の海中で逆風にあい、波に漂流した。幸いに順風を得て豊前国下毛郡の分間浦に到着した。ここに艱難を追いて心を傷みて作る歌 8首
原文 和伎毛故我 伊可尓於毛倍可 奴婆多末能 比登欲毛於知受 伊米尓美由流
訓読 吾妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜もおちず 夢(いめ)にし見ゆる 4/4
3644 大君の 命(みこと)畏み 大船の 行きのまにまに 宿りするかも 1/4
「大君の御命令を畏れ多いこととして、大船が行く儘に宿りをすることだ」大君の 命(みこと)畏み
は、奈良時代に多くなる表現である。天皇の命令は絶対で自分にとっては辛いことだが、それを
敢えて遂行すると歌う。今は逆風にあって、操船もままならなくて、やっとの想いで、穏やかな入り江に
辿りついたことを、大船の 行きのまにまに 宿りするかも と、表現している。この一首だけ、雪宅
麻呂という歌い手の名前が記されているが、これは後になって意味を持って来る。
雪は 振る雪の 雪と言う字が書かれているが、長崎県の壱岐島と関連する氏の名で、その島に
渡ってきた帰化人の氏族と思われる。
3645 吾妹子は 早(はや)も来ぬかと 待つらむを 沖にや住まむ 家つかずして 2/4
「残してきた愛しい人は、私が早く戻ってこないかと待っているだろうに。海の沖にずっと居つかなけれ
ばならないのか。家に近付くこともなく。」一行は漂流してあらぬ方に行き、時間を浪費したのである。
しかも漂流した分間浦は、予定の場所ではないために、上陸もままならず船の中で過ごさなければ
ならなかった。家での安楽な生活を一刻も早くと待っている妻を思い出すばかりなのである。
3646 浦廻(うらみ)より 漕ぎ来し船を 風早み 沖つみ浦に 宿りするかも 3/4
「入江沿いに漕いできた船が、風が強くて沖の海上で仮宿りをすることよ」巻3-274高市黒人の旅の
歌に わが船は 比良の湊に 漕ぎ泊てむ 沖さへ離(さか)りて 夜更けにけり とあったように、
やはり岸が近くにあることは船人に安心感を与えるのであろう。遣新羅使の船はずっと瀬戸内海の
岸近くを漕いできたのである。しかし内海を出て、周防灘に掛かったたら沖へと流された。夏から秋の
事なので、台風にあったのかも知れない。そして今は入り江にいるのだが、やはり停泊しなければ
ならない。浦廻(うらみ) の み は、畏れ多いものにつける接頭語で、天皇や公のもの、又自然
の地形や地名に対しても、みさき み吉野 などと言う。
3647 吾妹子が いかに思へか ぬばたまの 一夜もおちず 夢(いめ)にし見ゆる 4/4
「愛しい人がどう思っているのか、一晩も欠かさず夢に見える」
夢は恋歌によく用いられる素材で、強く思うと相手の夢に出る人が出来るとも歌うし、逆に強く思うと
相手が夢に出て来るというのもあって、結局離れている同士が会える回路が夢なのである。ここで
は、妻があの人は無事かしら、早く戻ってきてくれないかとか、私の事を強く思っているから、毎晩
夢に見るのだという表現なのであるが、実際には自分が妻恋しさに、夢に見ているのだろう。当時
送り出す側は潔斎し、斎瓮(いはひべ)という呪物を飾り、旅人の無事を祈る。その旅人と家との共感
関係によって、旅人の安全が守られるという信仰があり、歌にもよく歌われるのであった。危機に
あった後の歌に、この様な家や妻を思う作が目立つのも、そうした共感関係を確かめ直す意義が
あるのであろう。
船はその後筑紫の館に到着する。そこは外国使節の接待や宿泊、又日本使節団の宿泊にも使われ
た場所で、平安時代には鴻臚館と呼ばれた。今の福岡県中央区、かって平和台球場があった跡
から、その跡が発掘されている。ここで一行は暫らく滞在したらしく、多くの歌が歌われている。まず
そこで故郷の方を遠望し、悲しんで作ったという4首を読む。
巻15-3652 題詞 筑紫の館に着いて、遥かに故郷を望み、悲しんで作った歌 4首
原文 之賀能安麻能 一日毛於知受 也久之保能 可良伎孤悲尓母 安礼波須流香母
訓読 志賀の海人(あま)の 一日(ひとひ)もおちず 焼く塩の からき恋をも 我はするかも 1/4
巻15-3653 題詞 筑紫の館に着いて、遥かに故郷を望み、悲しんで作った歌 4首
原文 思可能宇良尓 伊射里須流安麻 伊敝妣等能 麻知古布良牟尓 安可思都流宇乎
訓読 志賀の浦に 漁りする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明かし釣る魚(うを) 2/4
巻15-3654 題詞 筑紫の館に着いて、遥かに故郷を望み、悲しんで作った歌 4首
原文 可之布江尓 多豆奈吉和多流 之可能宇良尓 於枳都之良奈美 多知之久良思母
訓読 可之布江(かしふえ)に 鶴(たづ)鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも 3/4
巻15-3655 題詞 筑紫の館に着いて、遥かに故郷を望み、悲しんで作った歌 4首
原文 伊麻欲理波 安伎豆吉奴良之 安思比奇能 夜麻末都可気尓 日具良之奈具奴
訓読 今よりは 秋づきぬらし あしびきの 山松蔭に ひぐらし鳴きぬ 4/4
3652 志賀の海人(あま)の 一日(ひとひ)もおちず 焼く塩の からき恋をも 我はするかも 1/4
「志賀島の海人が一日も欠かさず焼く塩の様に、そんな辛い恋を自分はすることだ」
志賀の海人は博多湾入り口の志賀島を本拠とした海人。志賀島は今、海の中道と言う砂州で、九州と繋がっているが、当時は島であった。漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)という金印が出土したことでも知られる。
海水に浸した海草を焼いて製塩するのは、海人の仕事で、出来た塩を序詞として故郷に対する辛い思いの譬喩としている。一日(ひとひ)もおちず 焼く塩の には、自分の故郷への思いが一日も止む事がないことを示している。
3653 志賀の浦に 漁りする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明かし釣る魚(うを) 2/4
「志賀の浦で漁をする海人が、家族が待ち焦がれているだろうに、一夜を明かして魚を釣っているよ」海人にも自分の様に家で待つ家族がいるだろう、早く帰ればいいのに、夜通し釣りをしているというのである。いつでも家に帰れる海人に対して、これから更に遠方に行かなければならない我が身が暗示されている歌である。
3654 可之布江(かしふえ)に 鶴(たづ)鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも 3/4
「可之布江(かしふえ)に鶴が鳴き渡っていく。志賀の浦に沖の白波が立ってきたらしい」可之布江(かしふえ)は、志賀島と筑紫の館との間にある香椎の海で、志賀島の方からそこへ鳴きながら飛んでいく鶴を見て、志賀の海では波が立ったのだろうと推測している。これは旅先の叙景歌であるが、そうした歌は多くの場合、家を恋しく思う歌と表裏するように置かれている。
3655 今よりは 秋づきぬらし あしびきの 山松蔭に ひぐらし鳴きぬ 4/4
「今から秋になったらしい。山の松の蔭でひぐらしが鳴いている」ひぐらしは涼しくなると鳴きだす蝉で、それによって秋の到来を知ったのである。これも叙景の歌のようであるが、秋は家の妻に、その頃には戻って来るよ と言い置いた季節であった。まだ目的地にも着いていないのに秋になってしまったのだ。
そうして一行は筑紫舘で7月7日を迎える。太陽暦で8月17日。立秋もとうに過ぎている。天の川を見て、その感慨を歌ったのが3656~3658である。
巻15-3656 阿倍継麻呂 七夕を仰ぎ見て作る歌三首 左注 右一首 大使
原文 安伎波疑尓 尓保敝流和我母 奴礼奴等母 伎美我美布祢能 都奈之等理弖婆
訓読 秋萩に にほえる我が裳 濡れぬとも 君が御船の 綱し取りてば 1/3
巻15-3657 阿倍継麻呂 七夕を仰ぎ見て作る歌三首
原文 等之尓安里弖 比等欲伊母尓安布 比古保思母 和礼尓麻佐里弖 於毛布良米也母
訓読 年にありて 一夜妹に逢ふ 彦星も 我にまさりて 思ふらめやも 2/3
巻15-3658 阿倍継麻呂 七夕を仰ぎ見て作る歌三首
原文 由布豆久欲 可気多知与里安比 安麻能我波 許具布奈妣等乎 見流我等母之佐
訓読 夕月夜 影立ち寄り合ひ 天の川 漕ぐ船人を 見るが羨(とも)しさ 3/3
3656 秋萩に にほえる我が裳 濡れぬとも 君が御船の 綱し取りてば 1/3
「秋萩に色づく私のスカ-トが濡れても、貴方の船の綱を取ることが出来たらかまいません」という織女の立場の歌である。七夕歌は牽牛が船で、天の川を一刻も早く岸に付けるように、綱を取ろうと川に立ちこもうとしている。それは船旅をする自分たちと家で待つ妻とを、牽牛と織女に重ね合わせているのである。遣新羅大使 阿倍継麻呂の作とされる。
3657 年にありて 一夜妹に逢ふ 彦星も 我にまさりて 思ふらめやも 2/3
「一年を過ごして一晩だけ妻に逢う彦星も、私に勝る物思いをするであろうか」年に一回の逢瀬を宿命づけられた彦星だって、嬬に逢えることは逢える。遭難しかけた私はもう一度、妻に逢えるかどうか分からない。長旅の中、妻を切に思う心を七夕伝説を引き合いに出して歌っているのである。奈良時代以降、七夕歌はそうした伝説に託して自分の境遇や心情を歌う作品が多くなるが、これもその一つであろう。
3658 夕月夜 影立ち寄り合ひ 天の川 漕ぐ船人を 見るが羨(とも)しさ 3/3
「夕方の月の中、影をより合わせて天の川を漕ぐ船人を見るのが羨ましいことだ」やはり伝説に寄せて、自分の感情を歌う歌である。七夕は夕方、半月の照らす晩である。その中で天の川を漕ぐ舟に寄り添う船人の影が見える。これは牽牛と織女の二人そのものであろう。それを想像し妻と別れて旅をする身の上では、夫婦で船に乗れるのは羨ましいというのである。
雪宅麻呂の死と挽歌
この旅の中では、様々な歌が歌われており、中には古歌を唱詠することもあった。柿本人麻呂の瀬戸内海の旅の歌が、少々形を変えた上で歌われたことが記録されている。中には古挽歌として妻を失った旅人らしき者の長反歌も載せられている。旅の憂いはそうした悲しい歌も、思い起こさないではいられなかったのであろう。しかしいよいよ新羅に向けて漕ぎ出していくと、自分たちで挽歌を作らなくてはならない事態となった。筑前国志摩郡唐泊(福岡市西区宮浦)、次いで肥前国松浦(佐賀県唐津市の沖合の栢島)を辿り、玄界灘を壱岐の島に着いた時、雪宅麻呂が突然疫病に罹って亡くなった。周防灘で遭難しかけた時に歌を作った人である。三首の長歌による挽歌が作られた。
巻15-3694 作者 六人部鯖麻呂(むさばまろ) 長歌
原文 略
訓読
わたつみの 畏き道を 安けくもなく 悩み来て 今だにも 喪なく行かむと 壱岐の海人の ほつての占部を 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路に 別れする君
巻15-3695 作者 六人部鯖麻呂(むさばまろ) 第一反歌
原文 牟可之欲里 伊比祁流許等乃 可良久尓能 可良久己許尓 和可礼須留可聞
訓読 昔より 言ひけることの 韓国(からくに)の からくもここに 別れするかも
巻15-3696 作者 六人部鯖麻呂(むさばまろ) 第二反歌
原文 新羅奇敝可 伊敝尓加反流 由吉能之麻 由加牟多登伎毛 於毛比可祢都母
訓読 新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつる
3694 わたつみの 畏き道を 安けくもなく 悩み来て 今だにも 喪なく行かむと 壱岐の海人の ほつての占部を 肩焼きて 行かむとするに 夢のごと 道の空路に 別れする君
わたつみの 畏き道を 安けくもなく 悩み来て は、「海の神の支配する恐ろしい海の道を、安らぐ間もなく難渋してやってきて」という事。逆風にあった苦難を回想している。続いて今だにも 喪なく行かむと 壱岐の海人の ほつての占部を 肩焼きて 行かむとするに は、「せめて今からでも、不幸なく行こうと壱岐の海人の優れた占いの判断で行こうとする時に」と述べている。この占いは、亀の甲羅を焼いてひび割れた形で吉凶を占うものだったので、占部を肩焼き と言う。
肩は即ち占いの結果を表すものである。最後、夢のごと 道の空路に 別れする君 とは、空は 空虚で不安な事を言い、道の空路 は、「旅の不安な道行き」という事である。全体では「まるで悪い夢の様に、この不安な旅先で突然の別れをする君よ」と嘆いている。
3695 第一反歌 昔より 言ひけることの 韓国(からくに)の からくもここに 別れするかも
「昔から韓の国と言い伝えてきた言葉通り、辛く辛くもここで別れをすることよ」韓は元々朝鮮半島南部の地域を表していたが、そこは日本列島に一番近いことから、外国の代表の様になり、半島や大陸の国々にも大雑把にはカラと呼ぶようになった。それで外国の事をカラの国と呼んで来た。その言葉を序詞に同音のカラ=辛いという言葉を起こしている。
勿論、是から自分たちが行く所、雪宅麻呂も行くはずだった所が、新羅 広く読めばカラなので、この様な表現をしているのである。
3596 新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつる
「新羅の方に行こうか、家に帰ろうか。壱岐の島ではないが方策が思いつかないことだ」初めの二句 新羅へか 家にか帰る を、宅麻呂の魂とする解釈もあるが、下の句の行かむたどきも 思ひかねつる の主語は、自分たちなので、上の句も自分たちの事と解しておく。「苦労しながら来た上、この先大海を渡るのに、仲間を病で失い、もう家に帰りたいという気持ちも浮かんで、この先行こうにも手立てが無いというのである。ここでは今いる壱岐が行きの島と呼ばれ、動詞 行く を導く序詞となっている。行きは、雪宅麻呂の姓 雪宅麻呂でもある。宅麻呂は都の人であるが、自分の氏族の根拠地にしていた土地で亡くなったのである。宅麻呂に対する別の挽歌に 垂乳根の母 がくり返し歌われていたので、まだ若い人だったようである。その人が突然病気で亡くなったのは、この地で流行していた天然痘の為だったと推測される。
遣新羅使の帰国
前年、天平7年の冬から、大宰府管内で流行したと伝えられ、一旦収まったものの、天平9年には藤原四氏がこれで亡くなり、全国的に3人に1人が死亡するほどの大惨事となった。天平9年正月26日、遣新羅使の三等官大判官 壬生宇太麿、商判官大蔵麻呂らが都に戻ったが、大使だった阿部継麻呂は帰国途中、対馬でなくなり、副使だった大伴三中も病の為、都に入れなかったと続日本紀には記されている。
巻15の遣新羅使の歌群は、その後往路の対馬での作がかなりの数あるが、新羅滞在中、又復路の歌がずっと欠けている。最後に筑紫を巡り瀬戸内海に戻ってきて、播磨国家島(姫路市飾磨沖合)の群島で作られた歌5首が置かれている。最初の3首を読む。
巻15-3718 作者不詳 筑紫に帰ってきて播磨国家島に着いた時作った歌
原文 伊敝之麻波 奈尓許曽安里家礼 宇奈波良乎 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久尓
訓読 家島は 名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに 1/3
巻15-3719 作者不詳 筑紫に帰ってきて播磨国家島に着いた時作った歌
原文 久左麻久良 多婢尓比左之久 安良米也等 伊毛尓伊比之乎 等之能倍奴良久
訓読 草枕 旅にひさしく あらめやと 妹に言ひしを 年の経ぬらく 2/3
巻15-3720 作者不詳 筑紫に帰ってきて播磨国家島に着いた時作った歌
原文 和伎毛故乎 由伎弖波也美武 安波治之麻 久毛為尓見延奴 伊敝都久良之母
訓読 我妹子を 行きて早見む 淡路島 雲居に見えぬ 家つくらしも 3/3
3718 家島は 名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに 1/3
「家島と言ってもただの地名だな。海原を越えてやってきたのに。その島に妻もいないのに」
家を思わせる地名でも、そこに妻がいる訳ではない。却ってその地名が妻を思いながら来た長かった旅路を思い出させている。
3719 草枕 旅にひさしく あらめやと 妹に言ひしを 年の経ぬらく 2/3
「旅とは言え、そんなに長いことではないと妻に言ったのに、年を越してしまった事よ」という嘆きである。旅立ちの冒頭で、秋には帰ると言ったのに、それどころか冬も過ぎて年が明けてしまったと、やはり長かった旅の日々を振り返っている。
3720 我妹子を 行きて早見む 淡路島 雲居に見えぬ 家つくらしも 3/3
「私がいとしい妻の所に行って早く顔を見たい。淡路島が雲の彼方に見えるようになってきた。家が近づいたらしい。」
淡路島の突端、明石海峡を通過すれば畿内。万葉人たちが自分たちの本拠とする地域なのであり、懐かしい故郷のシンボルなのである。帰心矢の如し。最後は家へと妻へと逸る心が歌われている。
帰国は遣新羅使にとって大きな喜びであったろう。しかし報告は、新羅の国は常の礼を欠いて、使いの言うことをきかなかったというものであった。朝貢を要求しに行って、門前払いされたのであった。この事態に五位以上の官人たちと、六位以下の官人45人の意見が聴取され、又官庁毎の意見もまとめられた。もう一度使いを派遣して理由を問い質せ、軍隊を派遣して征伐せよ等の意見があったと続日本紀に記されている。
4月には伊勢神宮、大神神社、筑紫の住之江、八幡の二社、そして香椎稜に奉幣して、神々に新羅は無礼であると報告がなされた。天平8年の遣新羅使は、多くの犠牲を払いながらほぼ無駄足だったという意味で、悲劇の使節団であったと言えるであろう。副使大伴三中は、ようやく天平9年3月に病癒えて都に帰る。道中での歌々は大伴三中から、同族の家持に伝えられて、万葉集に載せられたと推測されている。
「コメント」
当時の大陸、半島、日本の外交情勢が良く分かった。万葉集が歴史の書であることを実感した。この問題は今も大問題として続いている。