221217 ㊲「貧窮問答歌と山上憶良の辞世」

前回

天平2730年 大宰帥 旅人が大納言となって帰京する時、文芸によって繋がる官人集団によって見送られた事。

待望の帰京であるにも関わらず、旅人は亡き妻への思いに沈んでいたこと。そして帰京後まもなく病臥し、翌年には大伴氏の栄光の都だった飛鳥を思いながら亡くなったことを話した。その大宰府の官人集団の中心に、旅人と並んで立ったのが山上憶良である。そもそも旅人と憶良との地位を越えた友情を核として、大宰府の文学集団は形成されたのである。梅花の歌松浦河に遊ぶでは、いわば旅人のブレ-ンとなったのが憶良であった。佐用姫歌群に始まる旅人送別の歌群では、最後に敢えて 私の思いを述ぶる歌 で、都の官へと戻してくれるように、栄転する上司に頼み込むという、浅ましい男を演ずることで大宰府に残る者の本音を代表して歌ったのであろう。

憶良という歌人は多面的で何か一つに規定しようとすると、忽ち別の面が見えてくるという、なかなか厄介な対象である。

旅人が大宰府を離れた後、年が明けても残念ながら憶良は都へ帰ることは出来なかった。

 旅人と憶良の再会は無かった

天平3731613日、都へ向けて出発した使者に同行した大伴君熊凝(くまこり)という肥後の国の青年が、旅の途中で亡くなったのを悼んで、家で待つ両親を思いやり、一人で死出の旅に赴く心細さを歌う長反歌が、筑前守山上憶良の名前で作られている。同年725日に都で亡くなった旅人には二度と会うことはなかった。

しかしやがて憶良も筑前守を辞めて、都へ帰る。その後は新たな官には就かなかったようで、歌の署名に肩書が示されなくなる。

 

貧窮問答歌

日付が無いのだが、恐らく帰京後の作品と考えられるのが、 貧窮問答歌 である。その題は、貧者と窮者との問答とも、貧窮に関する問答とも取れる。長歌一首と反歌一首 巻5-892893.まず富むものが歌う長歌を読む。

5-892 作者不詳 題詞 貧窮問答歌一首 並びに短歌 左注 山上憶良謹上

訓読

風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒ししあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢え凍ゆらむ

妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地はひろしと言へど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りや玉はぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並みに 我も作るを 綿もなき 布肩衣 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は枕の方に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気(ほけ)を吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短きものを端切ると いへるがごとく しもと取る 里長(さとおさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 

来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道

 

5-893 作者不詳 題詞 貧窮問答歌一首 並びに短歌 左注 山上憶良謹上

原文 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆

訓読 世間(よのなか)を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

 

892 

「風混じりの雨が降る夜、雨に混じって雪が降る夜、どうしようもなく寒い夜、固めた塩を少しずつ食べ、湯で溶かした酒粕をすすり咳き込み、鼻をグスグスさせ、たいしてありもしない髪の毛をなでて、私みたいな人物はおるまいと誇って見る。しかし寒くてならないので、粗末な麻衾(あさふすま)を引き被り、有るだけの粗末な肩掛けなどを重ねてみる。それでも寒い夜だ。ここで自分はふと、他人の事を思う。我れよりも 貧しき人の 父母は 飢え凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

この私より貧しい人の父母は飢え、凍り付くような思いであろう。妻子たちは何かないかと泣いていることだろう。こんな時にどのようにして貴方はこの世を凌いでいるのだろう。

天地は広いと言うが、この私には狭い。太陽や月は明るいと言うが、この私には照ってはくれない。人もみんな私のようなのか。幸いに人として生まれ、人並みに私も働き生計を立てているのに、綿もない袖もない肩掛け。海草の海松(みる)のように、破れて垂れ下がったぼろ布を肩に打ちかけるのみ。地面に掘った粗末な住まいの地面に直に藁を敷き、父母は枕辺に、妻子は足側に囲むようにして寝る。明日をも知れぬ憂いに彷徨いながら。竈には火の気もなく、米を蒸す甑(こしき)には蜘蛛の巣が張り、飯を炊くことなど忘れてしまい、トラツグミのようなうめき声をあげるばかり。それなのに、

ただでさえ短い布の切れ端を切り詰めろと言う様に、更に生活を切り詰めろと、鞭をかざした里長(さとおさ)が寝ている所まで来て喚く。こんなにも辛いのだろうか、世の中を生きていくという事が。

 仏法が影響している自分の存在 輪廻

人々もみんなそうなのか、他人の事は分からない。しかし自分は人並みに働き、人並みの体があるのに自分だけがこんなに貧しいのだろうと結論付けている。ここには仏教思想が背景にあると考えられる。当時よく読まれた涅槃経に次の一節がある。 「人身は得難し 人間を始めあらゆる生物は、無限の世界と輪廻している。その中で人間として生まれるのは、奇跡的な偶然でしかない。」

しかしその人間の身を得れば、仏法に触れて解脱のチャンスを掴むことが出来る。それは極めて貴重な機会なのである。自分は偶々、人として生まれて他人と同じ様な人体を持って、その幸運という点では、人間は平等なのである。所がこの世で送る生活は全然違う。

 

綿もなき 布肩衣 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 自分の格好は綿の入ってない袖なしの、海草のような破れかけたボロばっかりを、肩に引っ掛けて。富んだものは袖なししか持っていなくても重ね着をしている。

家族はどうか、伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は枕の方に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ  伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)は、いわゆる竪穴式住居である。奈良時代でも民衆の多くは、そうした住居に住んでいた。しかし時間が経って曲がり歪んでいる。その小屋の中で、土間に藁を拡げ敷いて、父母は枕の方に妻子は足下の方に身を寄せ合って、ぼやいたり呻いたりしている。暖を取りあうために身を

寄せ合うのだ、出るのはボヤキや呻きばかりである。それは、無論食べるものもなく、極貧だからである。

かまどには 火気(ほけ)を吹き立てず ~ぬえ鳥の のどよひ居るに →かまどに火を入れる事もなく、甑は久しく使わないので蜘蛛の巣ばかり。飯の炊き方も忘れて、ぬえ鳥のように、か細い声でひいひい言っている。ぬえ鳥 は、夜悲し気な声で鳴く トラツグミという鳥で、恋の苦しみや大切な人を失った、悲しみの声を表現するのが普通であるが、この歌では空腹で力の出ない人の声の譬喩になっている。いとのきて 短きものを端切ると いへるがごとく は、特に短いものの端を切ると言っているそのままに長いものから切り取ればいいのに、わざわざ短いものから端を切る。これは当時の諺で、弱り目に祟り目 泣きっ面にハチ に当るであろう。憶良は後で触れる 沈痾自哀(ちんあじあい)の文 という漢文でも、痛き傷に塩をそそぎ、短き木の端をさらに伐る という表現で用いている。それはしもと取る 里長(さとおさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ→鞭を取る里長の声が、ここまで来て呼び立てる事であった。

里長は50戸で一つの里とした行政単位の長である。戸数や人口を管理し、人々を農耕に励ませ、犯罪を取り締まり、労役を徴発することが役目である。労役は税の一種であった。昔も税は力の弱いもの、取り易いものから取りがちである。飢えに苦しむ生活の上に、更に収奪される。かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道→それに対する感想である。「これほどどうしようもないことか。この世の道理というものは」

 

憶良の世の中への見方 仏教の影響

憶良は 世間(よのなか)の住(とどまり)り難きを哀しびたる歌 で、 嘉麻三部作の最後の歌 世の中のすべ無き事は年月が流るが如し と歌った。

又 男の子を病気で失った悲しみを歌う歌 男子(おのこ)の、名は古日(ふるひ)に恋ひたる歌三首 巻5-904 では、長歌末尾を 吾(あ)が児飛ばしつ 世間(よのなか)の道 と結んでいる。

人が忽ち老いてしまうことは勿論のこと、愛する子が先に死んでしまう事も又、人の力を越えた世の中の道理としてある。しかし人の心はそれに納得することは出来ない。それを すべ無き と、慨嘆するしかない。

貧窮の問題も、生老病死・愛別離苦と同じ様に、世の中の道理として捉えられている。厳然とした身分制社会の中で、人間の力ではどうしようもない事柄と考えられていた。貧窮問答歌の反歌に 世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 巻5-893「この世間を辛いもの恥ずかしいものと思うけれども、そこから飛んで離れることは出来ない、鳥では無いので」やさし は、今と意味が異なり「恥ずかしさに痩せるような思いだ」という事。この歌は問う者と、答える側の対立を越えた所で、歌われているのであろう。それにしても、貧しくこの世で生きることを恥ずかしいとはどういうことか。それは仏教においても、今生が恵まれているか否かは、前世の因縁によると考えられていたからであろう。

今の貧しさは前世で功徳を積まなかったためである。世間の不公平をその様な形で説明してしまう所が仏教にはある。だから人間が作り出している筈の差別や不公平も、又 すべ無し どうしようもないこととされるのである。しかしそれでも、こうした問題が俎上に乗せられるのは、貧窮問答歌 長歌 わくらばに 人とはあるを 人並(ひとなみ)みに 吾(あれ)も作(なれ)るを 仏教的世界観に裏付けられた人として生まれ、人の肉体を持っていられるのは平等だという観念があったからに違いない。そして仏教はこの世を、厭い 離れる ことを薦める。憶良は 「この世の生からは逃れられない、鳥ではないので」と歌う。憶良は 惑へる情を反さしむる歌 巻5-800801 で、家族を捨てて天に上る修行を始めた男に対して、もち鳥の かからはしもよ 早川の ゆくへ知らねば と歌った。鳥は自由の象徴であり、鳥もちに掛かった鳥は、この世に縛り付けられた人間の姿である。憶良は鳥のような自由を求める事に、半ば共感しながら「しかし人間は鳥ではないのだから、この世に生きるしかない」という。そうした矛盾と葛藤を隠そうとしないのが、憶良の作品の魅力と言えるであろう。惑へる情を反さしむる歌 は、筑前守として巡行している間に選定した作品である。

 

貧窮問答歌の作成の意図

貧窮問答歌 は、肩書が無いので、引退後の作であろうが、末尾の注に謹上とあって、誰か現職の官人に奉ったものと思われる。巡行中に知った民衆の暮らしを、政に携わる人に知らせる意図があったのだろう。そこに世のために働きたいという、憶良の志があったとみてよい。

 

憶良は最晩年に、大規模な作品群を残している。

最初に 沈痾自哀(ちんあじあい)の文 という長大な漢文。重病になって自ら憐れむ文という事である。

神仏にこんなに礼拝してきたのに、病に罹り体が動かない。しかし人間死んだら何の値打ちもない。人間の寿命は120歳と聞く。まだ74才の自分は、まだ生きられるはずだ。何とかこの病を治す方法はないものか という愚痴とも哀願ともつかない叙述が多くの仏典、漢籍の引用を伴って続けられている。世の中の留まり難きを哀しむる歌 巻5-804805の系列に属する作品である。俗道の假合 郎ら離れて去り易く留り難きを悲歎する詩 という序を持った漢詩である。

「この世は因縁によって出来た仮の世界で、去り易き留まり難きを哀しみ嘆く詩」という事で、無論 世の中の留まり難きを哀しむる歌 と、共通するモチ-フ であるが、表面的には旅人に献上した 日本挽歌 の前に置かれた漢文に近い。

 

そして最後に 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 という長歌に反歌6首を連ねた作品である。巻5-897903

5-897 作者不詳 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

たまきはる うちの限りは 謂瞻州(せんぶしゅう)の人の寿(いのち)の百二十年なるを謂ふ 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世の中の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩(からしお)を 注ぐちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷(うわに)打つと いふことのごと 老いにてある 我が身の上に 病をと 加えてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みし渡れば 月累(かさ)ね 憂へ吟(さまよ)ひ ことことは 死ななと思へど 五月蠅(さばえ)なす 騒く子どもを 打棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩(わずら)ひ 音のみし泣かゆ

 

たまきはる うちの限りは は、謂瞻州(せんぶしゅう)の人の寿(いのち) が、120歳であるという。謂瞻州(せんぶしゅう) とは、ジャンブーという木の生えている島という意味で、この世を表す仏教語である。インドではこの世をそう捉えたのであろう。その120年の間は、平安に無事で災いなくありたいものなのに、この世の特に嫌で辛いことと言えば、痛い傷に塩水を注ぐという様に、益々重い馬荷の上に、又荷を載せるという様に老いさらばえた我が身に、病が加わることだと歌う。謂瞻州(せんぶしゅう)の人の寿(いのち) 120 とか、痛き傷には辛塩を注ぐ という当時の諺などは、沈痾自哀(ちんあじあい)の文 にも見える。老いた身に、病を重ねた結果、昼は嘆き続けて暮らし、夜はため息をついて明かし、もう何年も病み続けで、何か月もぼやいては呻く有様で、同じ事なら死んでしまいたいと思う。しかし、という所で、子等を思うに到る。五月蠅(さばえ) のように、騒ぎ、まつわる子供達を捨てては死ぬことも出来ず、見ていると心が燃えるようだ。

五月蠅(さばえ) とは、5月 夏の蠅の事で、衛生状態が悪く、今とは違うので、それはすざまじい数で物にたかるのであろう。子供に対する矛盾する思いが、この表現に現れている。一方では面倒で勘弁してほしいと思う一方、自分がいなくなったら、この子供達はどうなるのかと思うと堪らない気持ちになる。しかしだからと言って、病で体の効かない自分に何が出来る訳でもない。かにかくに 思ひ煩(わずら)ひ 音のみし泣かゆ あれこれと思い悩んで、声を立てて泣けて来るばかり。

 

嘉麻三部作の 子等を思う歌 にも、子による煩悩の苦しみが歌われていたが、命が尽きようとする今、その葛藤は極限に達しようとしている。恐らくこうして、その葛藤を漢詩文や和歌にすることだけが、憶良を慰めていたのであろう。

 

反歌は6首に及び、万葉集中で最多である。内部に展開があるので、この数が必要なのである。

5-898  老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

原文 奈具佐牟留 心波奈之尓 雲隠 鳴往鳥乃 祢能尾志奈可由

訓読 慰むる 心はなしに 雲隠り 鳴き行く鳥の 音()のみし 泣かゆ 1/6

 

5-899 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

原文 周弊母奈久 苦志久阿礼婆 出波之利 伊奈々等思騰 許良尓佐夜利奴

訓読 すべもなく 苦しくあれば 出で走り 去()ななと思へど こらに障りぬ 2/6

 

5-900 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

原文 富人能 家能子等能 伎留身奈美 久多志須都良牟 期奴綿良波母

訓読 富人(とみひと)の 家の子どもの 着る身なみ 腐(くた)し捨つらむ 絹綿らはも 3/6

 

5-901 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

原文 麁妙能 布衣遠陀尓 伎世難尓 可久夜嘆敢 世牟周弊遠奈美

訓読 荒栲(あらたえ)の 布衣(ぬのきぬ)をだに 着せかてに かくや嘆かむ 為()むすへをなみ 4/6

 

5-902 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

原文 水沫奈須 徴命母 栲縄能 千尋尓母何等 慕久良志都

訓読 水沫(みなわ)なす もろき命も 栲縄(たくつな)の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ 5/6

 

5-903 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(くるしみ)、及(また)、児等を思(しの)へる歌 長歌短歌6

原文 倭文手纏 敷母不在 身尓波在等 千年尓母何等 意母保由留加母

訓読 しつたまき 数にもあらぬ 身にはあれど 千年(ちとせ)にもがと 思ほゆるかも 6/6

 

898 慰むる 心はなしに 雲隠り 鳴き行く鳥の 音()のみし 泣かゆ 1/6

「気が晴れる時もないように、雲に隠れて鳴きながら飛んでいく鳥のように、泣けてばかりだ」

これは長歌末尾の反復であるが、雲隠り 鳴き行く鳥の という序詞が使われている。憶良は修辞的表現をあまり用いないが、鳥はよく詠う。貧窮問答歌 の反歌 鳥にしあらねば では、自由にこの世を離れられるものとして歌われている。反対に飛べない鳥が、もち鳥である。ここで歌う 雲隠り 鳴き行く鳥 は、もうすぐ死出の旅に出る自分の象徴ではないだろうか。漸くこの世の苦しみから解放される、しかし子供達を残していく未練に耐えられず泣きながら飛んでいく、自分が先取りされて歌われている様に思われる。

 

899 すべもなく 苦しくあれば 出で走り 去()ななと思へど こらに障りぬ 2/6

「どうしようもなく苦しいので、走り出てこの世を去ってしまいたいと思うけれど、こいつらに邪魔される」

こら は、子供達という意味に取れそうであるが、そうだと上代特殊仮名使いの異例となる。上代特殊仮名使い というのは、仮名遣いというより、音韻の問題である。奈良時代までは、私達が区別しない音の区別があって、この甲類と乙類の音とが違っていて、それぞれ使う万葉仮名が違うのである。こ の甲類は、口を丸くして発音し、 の乙類は少し口を開いて発音していたと言われている。ここの こら は、許 が書かれており、これは乙類の  を表す字である。一方子供の 子は 甲類で、古 等と表すので、許 の字で書かれた こら は、子供達という意味ではない。

これ この という指示後の こ は乙類なので、あまり例のない言い方であるが、 こいつら という意味で こら と言ったという説が良いであろう。その言い方は、子供の持つ矛盾をよく表している。

余りの苦痛に死んでしまいたいと思うのに、こいつらは邪魔である。子供達は生きる原動力でもあったが、死を前にしては自分を締め付けるものであった。そこで現れてくるのが 貧窮という主題である。

 

900 富人(とみひと)の 家の子どもの 着る身なみ 腐(くた)し捨つらむ 絹綿らはも 3/6

「金持の家の子供達の中で着る人が無くて、駄目にして捨ててしまうであろう、絹や綿の着物よ」

はも は、目前にないものを思って詠嘆する助詞である。いくら金持ちでも身は一つ、沢山高級な着物を持っていても、着ないまま捨ててしまう。それがあったら、もう少し家の子供に満足なものを着せてやれるのに という。

 

901 荒栲(あらたえ)の 布衣(ぬのきぬ)をだに 着せかてに かくや嘆かむ 為()むすへをなみ 4/6

「粗末な布だけの上着も着せられず、こうして嘆いていることか。どうしょうもなく」満足な着物を着せてやれない貧しさを、今 病床にいる自分はどうしようもないという嘆きである。憶良が昇った従五位の下という地位は、貴族の端くれだから、子供に満足に服を着せてやれない程、貧乏だったかどうかは分からない。ただそれなりの俸給を貰っても、家を整える経費は掛かるだろうし、憶良の様に家柄が低くて資産を持っていないものは、貧しかったかも知れない。少なくとも自分が死んだ後残せるものは、ごく僅かだったと考えられる。

 

902 水沫(みなわ)なす もろき命も 栲縄(たくつな)の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ 5/6

「水の沫の様に弱弱しく詰まらない命も丈夫な縄が千尋も続くようにあって欲しい と願って一日過ごしたことだ」

第二句は もろき命 と、訓読することが多いが、原文は 微妙の 微 という字で、松浦河に遊ぶ の乙女たちが 草の庵のいやしきもの と名乗ったのと同じ字である。いやしき は、身分が低いというだけではなくて、取るに足りない弱弱しいという意味がある。ここの 水沫(みなわ) は、沫 という字で、バブルではなくてホームに当たる沫(あわ)を表し、仏典では、人の身が弱くて壊れやすい譬喩に用いられる。

老いと病で更に弱々しくなったこの身が、丈夫でいつまでも保っていられたならばと、どうしても願ってしまうというのである。

 

903 しつたまき 数にもあらぬ 身にはあれど 千年(ちとせ)にもがと 思ほゆるかも 6/6

しつたまき とは、数にもあらぬ に掛かる枕詞。「物の数にも入らない詰まらない身ではあるが、千年生きたいと思われることだ」

この歌には 去る神亀2年の作だが、同類なのでここに改めて載せる という註がついている。神亀2725年は8年前のまだ大宰府で、旅人と出会う前である。その時からずっとこういう気持ちだったという事なのであろう。

この世とは別の世界がある。そこにはいずれ行かなくてはならない と思いつつも、だからこそこの世の生に執着しないではいられないというのが憶良のありかたであった。そこに生きる理由としての子供と、生きる苦しさとしての貧窮の問題が絡んでくる。

自哀(ちんあじあい)の文 から、今読んだ長反歌までは、天平563日の日付で纏められている。それから遠からず、憶良は亡くなったのであろう。

 

6におなじ天平5年の箇所に配列されている歌に次のものがある。

6-978 山上臣憶良 沈痾の時の歌一首 

 左注 右一首 山上憶良臣沈痾の時に藤原朝臣八束 田辺朝臣東人を遣わして病める様を問わしむ

     ここに憶良臣答ふる詞既におわり、暫らくありて涙をのごい悲しみ嘆いて この歌を歌う

原文 士也母 空應有 萬代尓 語續可 名者不立之而

訓読 (をのこ)やも 空しくあるべき 萬代(よろづよ)に 語り継ぐへき 名は立てずして

 

沈痾の時 は、重病だった時 という題である。「憶良が病に陥った時、藤原八束は田辺臣東人を遣わして、病状を尋ねさせた。憶良は答え終わって暫くすると、涙を拭いながら悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ」 と注は語っている。

978 (をのこ)やも 空しくあるべき 萬代(よろづよ)に 語り継ぐへき 名は立てずして 

「男子たるもの空しいままで、良いものか。万世に亘って語り継ぐ値打ちのある名を立てないままで。」

中国では名を立てることは先祖に対する孝行であった。孝経 という儒教辞典では、「身を立て道を行い、名を後世に上げ、もって父母を顕(あらわ)すは考の始めなり」とある。人の身は消えてしまっても、立派な行いをして名を残せば、自分の名だけでなく父母の名も残り、伝えられて消えることがない。歴史の一コマとして、いつまでも生きることが出来るのである。憶良はまだその様な名を立てていないと嘆いている。

 

 憶良の人となり

憶良が得た従五位の下、伯耆守、筑前守と言った官は、全く無名の山上氏に生れ、41歳まで無位無官であった憶良にとっては破格の出世である。しかし父や祖父の位に応じて、高い位からスタ-トする門閥貴族にとっては、従五位の下は中級官人の最低ランクで通過点に過ぎない。憶良は遣唐使に抜擢される程の豊かな才能と知識を持っていたが、55歳で従五位の下に至ってからの20年間、全く昇叙されなかった。

ここまで頑張ったという自負と、遂に門閥の壁を破ることが出来なかったという悔恨とが、憶良の涙の中には含まれていたであろう。しかしそうした経歴が憶良の文芸を育んだことも確かである。人間として平等であるはずなのに、何故かくも格差があるのか。かくばかり 術無きものか 世の中の道 貧窮問答歌 長歌末尾 という問いは憶良にしか立てられないものであったろう。学識と多面的な人格とを併せ持った憶良には、私淑する青年がいた。

藤原八束もその一人である、八束は房前の三男で、優秀で人柄も良かった。母は美努王の娘、牟漏女王後に真楯と改名して、後の藤原北家隆盛の礎を築いた人である。そしてもう一人、憶良と共に筑紫の文学集団を率いた旅人の子、家持も又、憶良を尊敬していた。

家持は先の 沈痾の時の歌 の歌に追和して、

19-4165 大伴家持 題詞 勇士とて名を高めたいと願う歌一首と短歌 長歌は4164

 左注 右二首 山上憶良に歌に追和する歌

原文 大夫者 名乎之立倍之 後代尓 聞継人毛 可多里都具我祢

訓読 大夫(ますらお)は 名を立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね

 

「立派な男は名を立てねばならない。後の人に引き継ぐ人も語り継ぐように」

家持のその歌は、憶良の名を語り継いでいるのである。憶良は官人としての名は、立てられなかったかもしれないが、その漢詩文や独特の倭歌で、今日までその名を語り継がれている。

 

「コメント」

 

旅人の章は、彼の暗い気分に引っ張られてかなり落ち込んでしまったが、今回はもっとであった。旅人は憶良に比べるとマダさっぱりとしている。憶良は晩年、病気になって貧窮と共にこれを悔やみ、何処か粘着質でしつこい性格なので、その詩文を読むだけでかなりの負担を与える。ここの重たい二回を終えて、少し口直しをしたい。