221126 ㉞「大伴旅人の酒を讃むる歌」

前回

前回、旅人が大宰帥として赴任していた神亀6729年に、都で長屋王の変というク-デタ-あって、局外に置かれた旅人がいかに落胆したかという事を話した。そうした個人の心情を歌に籠める事は、それまでの和歌の歴史の中では稀であったが、漢詩ではむしろ普通で、漢籍に精通し懐風藻に詩を残す旅人は、自分から政治的立場に即した心情を和歌に帰することを始めた。但し中国詩と日本の歌とでは、自ずから相違もあって、中国の詩人たちは帰るべき根拠地・故郷を持っていたのに対し、万葉歌人となる官人たちは文化の有る自前の土地が無く、都以外に帰る場所がない。特に皇室の守りに付く自分たちの職掌を考えていた大伴氏の人間は、天皇の居る都以外にいる場所はなかった。

旅人が都に戻れないかもしれないと思った時、思いを馳せる場所は吉野や飛鳥藤原京といった、自分が若い頃通った、或いは過ごした栄光の地であった。精神的に頼ることの出来るものが過去にしかない。しかしそれが時とともに今は古び、変わってしまっていることを思うと、それをむしろ忘れてしまいたいとさえ思うのである。大宰府で妻を失った旅人は、更に苦い思いをせざるを得なかった。

 

本日はまず旅人がその様な苦しい心情を持った歌群・太宰帥大伴卿の 酒を讃()むる歌 13首を読む。旅人は吉野で作った短い長歌が、今に残る最初の歌であるが、その後大宰府赴任以降の歌は、全部短歌である。それも12首の物が多く、前回読んだ帥大伴卿の歌5首は例外的な数である。まして13首の歌を 酒を讃むる という一つのテ-マで歌う事は旅人の他には例がない。旅人の代表作と言っても良いであろう。まず最初の五首を読む。

 

3-338 大伴旅人 題詞 大宰帥大伴卿 酒を讃むる歌13首 1/13

原文 験無 物乎不念者 一杯乃 濁酒乎 可飲有良帥

訓読 (しるし)なき 物を思はずは 一杯の 濁れる酒を 飲むべくあるらし

 

3-339 大伴旅人 題詞 大宰帥大伴卿 酒を讃むる歌13首 2/13

原文 酒名乎 聖跡負帥 古昔 大聖之 言乃宣左

訓読 酒の名を 聖と負ほせし いにしえの 多き聖の言の宣しさ

 

3-340 大伴旅人 題詞 大宰帥大伴卿 酒を讃むる歌13首 3/13

原文 古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良帥

訓読 いにしへの 七(なな)の賢(しこき) 人たちも 欲()りせしものは 酒にしあるらし

 

3-341 大伴旅人 題詞 大宰帥大伴卿 酒を讃むる歌13首 4/13

原文 賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為帥  益有良之

訓読 (さか)しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし

 

3-342 大伴旅人 題詞 大宰帥大伴卿 酒を讃むる歌13首 5/13

原文 将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之

訓読 言はむすべ 為()むすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし

 

13首は同じような言葉遣いがくり返し現れる。例えば今読んだ5首だけでも、2首目以外は全て らし という助動詞で歌が終わっている。そうした言葉の表し方で分けると、様々に13首の構成を分けることが出来るが、私は今読んだ5首を前半と捉えている。

338  (しるし)なき 物を思はずは 一杯の 濁れる酒を 飲むべくあるらし 1/13

「甲斐の無い、もの思いをするよりは、一杯の濁り酒を飲むべきであるらしい」物を思はずは の ずは は、上代の特殊語法と言われる。前に磐之姫皇后の歌 かくばかり 恋ひつつあらずば 高山の 石根(いわね)しまけて しなましものを で話した。「これ程恋しく思い続けているのより、高い山の岩を枕にして、死んでしまえればいいのに」

ずば は、後には、大抵死ぬというような極端に悪い言葉がくるのが普通である。ずば は、虎穴に入らずんば虎子を得ず の形で、仮定を表すようになるが、ずは の仮定の形は上代にも普通にある。

では同じ ずは なのに磐の姫皇后の歌のように~するより~した方がましだ という意味になる場合があるかというと、これも一種の仮定と考えられる。もし~しないですむならのなら~だってする というのが直訳になる。磐の姫皇后の歌で言えば、「これほど恋しく思い続けないでいられるのなら、高山の岩根を枕にして死んでしまおうものを」という事で、普通の仮定とは起こる順番が逆なのである。さて今の場合は、ずは の後に来ているのは、一杯の 濁れる酒を 飲む という事で、死ぬような悪いことではない。飲むべくあるらし 「飲むべきらしい」 となっているのもその為である。この歌は特殊語法の例外に見える。

しかしそこがこの歌の微妙な所であろう。「甲斐の無い物思いをするなら、酒でも飲んで忘れてしまった方がいい。しかし素面ではどうしても忘れられないことは、自分にとって大事な事に違いないので、それを甲斐の無いもの思いと言い切って、酒を飲んで忘れてしまった方がいいのだ」と、自分に言い聞かせるのがこの歌である。酒を飲むことは、物思いに耽るそれまでの自分を無くしてしまうという点では、死ぬのと同じ意味を持っているのであろう。 酒は憂いの玉箒(たまははき)という言葉があるが、悩みを忘れさせてくれるのが、酒の効用の一つである。

酒を讃むる歌 という題は、その酒の効用を讃めるのに違いない。だから 酒を讃むる歌 の酒は、独酌で万葉集一般の歌のように宴会で楽しんで飲む酒ではないのである。

 

339 酒の名を 聖と負ほせし いにしえの 多き聖の言の宣しさ 2/13

「酒の名を聖人とつけた、古の大聖人の言葉の何と素晴らしいことよ」これは中国の故事を踏まえている。三国時代の魏の曹操が禁酒令を出した時に、徐邈(じょばく)いう人が禁を破って泥酔して聖人に会ったといった。伝え聞いた曹操が怒って罰しようとすると徐邈(じょばく)の友人が、世間では清酒を聖人、濁り酒を賢人と隠語で呼んでいる。徐邈(じょばく)は普段まじめで、偶々酔って放言しただけであると、弁護して事なきを得たという。

但しこの話は酒を聖人と名付けたのは、ただの世間の酒飲みで別に大聖人ではない。

旅人はそこをずらしている。人を救うのが聖人とするなら、酒は確かに聖人である。そう名付けた人は、大いなる聖人だよ というのであろう。

一杯を口に含んだ自分は、甲斐なき物思いから、解放されつつある。その酒の働きをこのような形で褒めたたえているのである。

 

340 いにしへの 七の憲(しこき) 人たちも 欲()りせしものは 酒にしあるらし 3/13

いにしへの 七の憲(しこき) 人たち は、中国の魏・晋の時代にいた竹林の七賢人 阮籍(げんせき)嵆康 (けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう) の七人の事で、彼らは一つのグル-プではないが、いつも俗世に背を向け韻律を志向し、清談を行っていたことで知られる。例えば劉伶(りゅうれい)は、家の中で真っ裸になっていて、人が訪ねて来てその恰好を咎めると、「俺にとっては天地が家で、家はフンドシだ。お前は何故、人のフンドシの中に入って来るんだ。」と言い返したそうである。劉伶(りゅうれい)酒徳頌(しゅとくしょう)という酒の徳に対する誉め歌を作っており、内容は大分違うが、 酒を讃むる歌 との関連が指摘される。また阮籍(げんせき)は、母の喪中にも酒、肉を食らい、埋葬に当たっては吐血して失神したと伝えられている。魏・晋の時代の時代は政争が続き下手に関わるとすぐ貶められる可能性があった。清談という老荘思想の難解な議論に耽るのが流行したのも、世俗から離れる為の処世術で゜もあったのである。阮籍(げんせき)には、晋の王族との縁故関係を持ちかけられた時、60日間酔っ払い続けて行けなかったといった話もある。

 

旅人はそうした乱世を生きた賢人たちを思い、彼らも酒が必要だったのだと歌っている。賢人たちも世に出て、自分の才能を発揮したいはずだけれど、高潔な彼らは用いられることなく身の危険もある。その矛盾は酒で紛らわせるしかない。それは自分も同じだという思いであろう。

 

341 (さか)しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし 4/13

「賢しこぶってものをいうよりは、酒を飲んで泣き上戸になった方がましであるらしい」

(さか)しみと 物言ふ は、酒を飲まずに冷静に話をすること。一方酔ひ泣き は、酒を飲んで理性を無くしオイオイと泣くことで、世間的には恥ずかしいことである。後の話であるが、ある武人がいつも酒席で泣いて、名声に傷をつけていたと伝えられる。普通の価値観なら、当然前者が勝る訳であるが、この歌はその価値観を転倒させ、竹林の七賢だって酒を欲して理性を失う必要があった。今、飲んでいる濁り酒も、賢人に例えられた。むしろ飲んで理性を失うのが真の賢さで、飲まないで世俗の論理を振り回すのは、愚でしかない。無論それは酔っ払いの論理である。

 

342 言はむすべ 為()むすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし 5/13

「言いようもなく、しようもなく貴いものは、酒であるらしい」

手放しの酒の礼賛である。ともあれ 一杯の濁れる酒 最初の歌 巻3-338 を口に含んだ所から、酒を飲み続けてすっかり理性も苦悩も忘れ去ったのが、今の状況なのであろう。前の歌に酔ひ泣き 3-341 が歌われていたのは、飲む前の自分にいかに屈託が溜まっていたかを表し、酒を飲んで泣けばそれが浄化されるのでしょう。そしてその酒の効用が、極まりて 貴きもの と称えられるのである。

 

後半の歌に入る。まず第6首 343から第9346 までの4

3-343 大伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 6/13 

原文 中々尓 人跡不有者 酒壺二 成而師鴨 酒二染嘗

訓読 なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染()みなむ

 

3-344 大伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 7/13 

原文 痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見者 猿二鴨似

訓読 あな醜(みにく(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む

 

3-345 大伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 8/13 

原文 償無 寶跡言十方 一杯乃 濁酒尓 豈益目八方

訓読 値なき 宝といふとも 一杯(ひとつき)の 濁れる酒に あにまさめやも

 

3-346 大伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 9/13 

原文 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遺尓 豈若目八方

訓読 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遺()るに あにしかめやも

 

343  なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染()みなむ 6/13

「なまじっか、人間でいるより酒壺になってしまいたい。酒に浸っていよう」

冒頭の歌と同じく、再び特殊語法の ずは が出てきた。又ここまでは酒以外の物は出てこないが、ここに酒壺が歌われて、以下様々なものが出て来る。先の手放しの酒礼賛を一つの頂点として、ここで区切った所以である。

さてこの歌にもやはり中国の故事が踏まえられている。三国時代の呉の国に鄭泉(ていせん)という酒飲みがいて、遺言に「自分が死んだら酒の甕を作る窯の傍に埋めてくれ。時が経ったら土になり、甕に作られて酒に浸りたい」と言ったと伝えられている。但しこれが酒飲みの愉快な逸話に過ぎないのに対して、ずは の特殊語法で歌われる歌は、それに留まらないものである。つまり鄭泉(ていせん)は、死後は酒の甕になりたいと言っているのに対し、この歌は人間であることを止めて、酒壺になる事を望んでいるのである。それは人間であることの拒否であり、物体となって物思いから救われたいという気持ちの表れである。甲斐なき物思い が再び蘇ってくる。

344  あな醜(みにく (さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む 7/13

「ああ醜い。賢い振りで酒を飲まない人を見ると、猿に似ているではないか」

強烈な(さか)しら 批判である。この酒飲まぬ 人 が誰かという議論はあるが、詮索は無用であろう。それは素面で理性を保っている人全員であり、飲む前の自分でもある。猿は人に似て、人に非ざる存在である。まさに(さか)しら の象徴である。この汚い世俗の中で理性を保っているのは、却って人間らしくないという、痛烈な批判意識がこの歌には含まれているのであろう。無論、それも又、世間から見れば酔っ払いの戯言で、猿に似ているのは真っ赤な顔をした酒飲みの方であろう。

 

345 値なき 宝といふとも 一杯(ひとつき)の 濁れる酒に あにまさめやも 8/13

「値の付けられないほどの宝でも、一杯の濁り酒にどうして勝ることがあろうか」

値なき 宝 は、仏典で言う 無値宝珠(むげほうじゅ)の事である。ある貧乏な男が金持の友人を訪ねて、その家でごちそうになって寝てしまう。金持は用があって男を残して外出するのであるが、その時その男の服に値の付けられないほど貴重な珠玉を身につけて与えた。男はそのまま帰りつましく暮らしていたが、その後金持とあうと「なぜあれを売って豊かな生活をしないのか」と言われたという話である。服に縫い付けられた珠玉は、人 皆に備わった仏性の例えで、それに気づけば極楽往生が可能なのである。がしかし、この歌はそんなものより、目の前の一杯の酒の方が勝っているという。極楽往生は、所詮、来世の話で今の苦しみを救いはしない。一杯の濁れる酒は、最初の一首にも出てきた。上等でもない酒の方が、値の付けられないほどの宝より貴重だというのは、現世の価値観を転倒させるものである。

 

346 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遺()るに あにしかめやも 9/13

「夜光る玉と言っても、酒を飲んで心を解放するのにどうして及ぼうか」これは殆ど前の歌の反復である。夜光る 玉 は、

夜行玉という蛍光物質を含む珠玉で、中国では蛇が恩返しに咥えてきたという伝説と共に珍重される。しかしそれが又、酒が心を楽にさせるのに比べれば何ほどでもないと歌う。宝玉との比較は、憶良の 子等を思う歌 を連想させる。

この13首では、比較が大きな役割を果たしている。人と猿、宝物と酒、往生と苦悩の忘却。前者を選ぶ現実的、理性的価値観が酔いと共に全て否定される。

 

最後の4首に入る。347-350

3-347 大伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 10/13

原文 世間之 遊道尓 冷者 酔泣為ニ 可有良師

訓読 世間(よのなか)の 遊びの道に すずしきは 酔ひ泣きするに あるべくあるらし

 

3-348大伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 11/13

原文 今代尓之 楽有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武

訓読 この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ

 

3-349伴旅人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 12/13

原文 生者 遂毛死 物尓有者 今生在間者 楽尓有名

訓読 生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば このよなる間()は 楽しくあらな

 

3-350人 大宰帥大伴卿 酒を讃うる歌13首 13/13

原文 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚夫如来

訓読 (もだ)おりて 賢(さか)しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり

 

347 世間(よのなか)の 遊びの道に すずしきは 酔ひ泣きするに あるべくあるらし 10/13

第三句  は、原文では 冷者 と書くが、なんという読むべきか現代でも定まっていない。洽と書く字は誤りと見て、かまえるはと読む説、怜は誤りと見て、楽しきは と読む説まであるが、今は 冷 を尊重して涼しきと読み、さわやかと解しておく。

「世の中の遊びの道の中でも爽やかなのは、酔って泣き上戸になる事らしい」

遊びというのは、精神や肉体を開放することで、不安定になるが自由である。そのように開放する方法の中でも、最も爽やかなのは酔いに任せてオイオイと泣くことだ。集団の中ではそんな事は迷惑なだけであるが、独酌であれば人目を憚る事ではない。存分に泣いて心を浄化させることが出来るのだろう。

 

348 この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ 11/13

「この世で楽しくいられるのであれば、来世では虫にでも鳥にでも私は喜んでなろう」

来世を歌うこの歌は、仏典に基づいている。仏教では飲酒は戒に反する行為で、破れば全ての功徳を失って、怒りの感情が強ければ蛇、虫などの毒虫に生まれ変わる。愚かなれば虫や鳥に生まれ変わると説く。しかし自分は第8首で歌ったように、遠い来世の救済よりも、今すぐ現世で苦悩から逃避することを選ぶのであるから、来世で虫や鳥になるのを知っていても、今は飲酒するのはむしろ当然である。刹那的・享楽主義的と言ったら、その通り。でもそれがどうした。この我にとっては虫や鳥の方が人間よりはよほど自由で気楽に見えているのであろう。

 

349  生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば このよなる間()は 楽しくあらな 12/13

「生きている人が結局死ぬものと決まっているならば、今この世にある間は楽しくありたいものよ」

生ける者 遂にも死ぬる もの は、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌の 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりける と同じく生者必滅という仏教的テ-ゼである。先の第11この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ も同じく仏教に基づいており、この二首には 酒や酔う という言葉も出てこない。これも享楽思想に他ならないのであるが、単に命は短いので楽しまねばという意味ではなくて、この世で折角受けた生が、如何に苦痛に満ちているかということを背景にした言葉なのであろう。

 

350 (もだ)おりて (さか)しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり 13/13

「黙って賢ぶっているのは、酒を飲んで泣き上戸になるのにやはり及ばなかったなあ」

(もだ) は、その場を黙ってやり過ごすことを言う。(さか)しら  酔ひ泣き は、13番の中に何度も出てきた言葉である。自分は酒を飲む過程で何度も甲斐の無い、もの思いを思い出しては、酔い泣きを繰り返してきた。(さか)しら 方は、素面でいる人を猿のようだと罵倒することもあった。しかし第四首に(さか)しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし と歌ったように、素面で理性的に物を言うよりは、泣き上戸の方が救われる。それは内なる反省というものであった。ここでは更に黙ってもの思う事は、泣き上戸に及ばないという。そして結びの けり は、気付きを表す助動詞である。第四首では らし と推定されていたが、 けり で結論的に確かな事とされている。最初の方は らし で結ばれる半信半疑の歌が多かったが、後半では確信に変わっていく。それは酒を飲んで酔いを深めていく過程での変化ということであろう。

かってはこの13首を飲みながらぽつりぽつりと詠んでいったものの集積とする見方もあっが、これは酔っていく自己を造形する意図的な連作と捉えるべきと思う。理性を放棄し、現世の価値観を転倒させる自己を造形する裏には、漢籍や仏典の多識を豊かに持った知性があったのであろう。こうした自己を客観的に描き出す目を持つという点では、

嘉摩三部作を作る憶良に通じるところもある。先に述べた様に大和歌には集団で酒を楽しむ歌はあるが、独酌の趣を述べた作は稀で、殆どは大伴旅人の周辺にしかない。長屋王の変の時、大宰大弐・首席次官だった多治比県守(たじひのあがたもり)という人が、当時都に出張中で、そのまま帰らず民部卿になった。その人に送った旅人の歌に 

4-555 大伴旅人 大宰帥大伴卿 大弐 多治比県守が岷部卿に選ばれた時に送る歌一首 

原文 為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手

訓読 君がため 醸()みし待酒(町酒) 安の野に ひとりや飲まむ 友なしにして

「貴方のために醸しておいた来客用の酒だが、一人で飲む事に成るのか、友とするものなしで」という歌もある。友と語らう静かな酒と、その友もなくて独酌になるのかと言う寂しさを歌って、惜別の辞としている。

                                                                                                                                                                       

こうした友情を歌う和歌もそれまでにはあまり例はない。独酌の歌、友情の歌などは、旅人が漢籍の主題の中から、和歌に持ち込んで来たものといって良いであろう。しかし同じ主題でも漢詩と和歌では自ずと違いが出て来る。

「酒を讃むる歌十三首」 を踏まえながら、その意味をずらして用いていた、

有名な陶淵明の「飲酒」と比べてみよう。

結廬在人境   廬を結んで人境(じんきょう)にあり      自分は人の住む所に廬を結んでいる

而無車馬喧   而も車馬の喧(かしま)無し           しかし車馬が通ってやかましい事もない

問君何能   君に問う 何ぞ能く爾(しか)ると         何故そうなのかと問われれば

心遠地自偏   心遠くして 地自ずから偏(へん)なればなり 心が俗から遠ざかり住む場所も村はず

                                     れだからと答える

菜菊東離下   菊を菜().る 東離の下            家の東側の竹垣の下で菊を摘む

悠然見南山   悠然として 南山を見る            体を起こして悠然と南山を見る

山気日夕佳   山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳なり    山の佇まいは夕日に映え 

飛鳥相与還   飛鳥(ひちょう) 相い与(とも)に環(かえ)る 飛ぶ鳥が連れ立ってねぐらに帰っていく  

此中有真意   此の中に真意有り               この境地に人生の本当の姿がある

欲弁己忘言   弁ぜんと 欲すれば 言(ごん)を忘る   説明しようにもその言葉を忘れてしまった

 

陶淵明の影響は上代には余り無かったというのが通説であったが、この詩は「文選」に載っているし、陶淵明の書いた「桃花源記」などは上代人もよく知っていたので、韻律詩人としての陶淵明は旅人位になれば知っていたと思われる。

酒を歌う という主題にも陶淵明の示唆が大きかったであろう。しかし陶淵明のゆったりとした詩境に比べると、旅人の酔い泣きや人間でいたくないという表現はあまりにも切迫している。勿論陶淵明にも世間と相容れず、志を得ないという葛藤はある。しかしそれを抱えながら、田園に暮らす余裕が、詩の世界にはあった。

 

前回述べたように万葉人には故郷が無い。天皇の住む都しか帰る所がないという事がこの違いを作っていると思う。

旅人は苦悩を抱えながら、都へ戻るしかない。巻5に藤原房前に対馬の青桐で作った倭箏(やまとごと)を送った時の書簡文と歌がある。対馬の青桐は箏の良材となるので有名であった。

3-810  題詞 は以下

旅人は琴の化身である乙女に語らせる形で次の様に述べる。

大伴旅人が謹んで申し上げます。

対馬の青桐の和琴一面。対馬の結石山(ゆいしやま)のひこばえである。この琴は私の夢に乙女の姿で現れてこう言いました。「私は遠い対島の高い山に根を下ろし、幹は大空の美しい光に照らされていました。長く霧や霞に包まれて、山や川の隅々までさすらい歩き、風に立つ波を遠く眺めながら普通の木々と一緒に過ごしていましたが、ただ百年の後に空しく谷底で朽ち果てるのではないかという事が心配でした。けれども幸いにも優れた匠に出会い、小さな琴になりました。材質も粗く音が乏しいことを顧みず、立派な人の傍に末永く置いて頂きたいと願っています。」そして次の様に歌った。

原文 伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武

訓読 いかにあらむ 日の時にかも 声知らぬ 人の膝の上() 我が枕かむ

 

3-811 題詞同じ

原文 許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志

訓読 言とはぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし

 

810 いかにあらむ 日の時にかも 声知らぬ 人の膝の上() 我が枕かむ 娘の歌

「いつになったら自分の音の分かる人の膝の上を、私は枕に出来るのだろうか」

 

そこで私は歌で答えてこう言いました。

811言とはぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし 旅人の歌

「言葉を話さない木ではあるが、立派な方の愛用の琴になるに違いないよ。」

 

すると琴の乙女が「承知しました。有難うございます。」と答える。暫くして目が覚め、夢の中の言葉に感慨を覚え、そのままにしておくことが出来なくなった。公の使いにつけて差し上げる次第です。

 

題詞の 長帶烟霞逍遥山川之阿→ 長く烟霞(えんか)をめぐらして 山川(さんせん)の隈に逍遥し は、仙人の住む世界で自由気ままに暮らすことである。鴈木之間の間に周遊す は、荘子の故事に基づき、良く鳴いて役に立つ雁は生き残り、丈夫で役に立つ木は切られてしまう。役に立つのは人間にとって良いことなのかどうか という問を表している。

ここでは自分が有能なのか無能なのか分からないと言った事だろう。遥かな対馬で、気ままに暮らしてはいるが、自分の能力も知れず、ただこのまま朽ち果てる事だけを恐れている。それはク-デタ-のあった都から遠く離れた大宰府にいる旅人が、描いて見せた自画像ではないか。勿論実際には大伴氏の氏の上として、何としても旅人は都に帰らねばならない。

贈る相手の房前は、長屋王の変では目立った動きはしていない。しかし四氏の中では真っ先に内閣に入った実力者で、中衛府という最も格の高い、軍隊を率いる大将の地位にあった。旅人にとって藤原氏の中では、交渉するのに適当な相手であっただろう。その相手に旅人は、手の込んだ寓話を作って、自分の境遇を哀訴したのである。

和琴は膝の上において弾く楽器なので、乙女が膝枕をするという媚態を作り出した。そして 声知らん人 は、琴の名人である伯牙(はくが)とその優れた聞き手であった鐘子期(しょうしき)との季吟の故事を踏まえて、「貴方こそこの琴の音のわかる人だ」と房前を持ち上げている。季吟というのは自分を

理解してくれる人の事であるから、「貴方なら私の気持ちを分かってくれますよね」という事でもある。

 

房前はどう見たであろうか。次は房前の返事。

5-812 題詞 は以下。

「お手紙を頂戴して嬉しく存じます。また拙い身に特別な恩顧を頂いたことを知りました。慕わしく思う心が、いつもの百倍にも感じられます。謹んで白雲に乗ってきたお歌に腰折れ歌でお返しします。」と述べた。歌は以下

原文 許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母

訓読 言とはぬ 木にもありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かめやも

 

812 言とはぬ 木にもありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かめやも

「言葉を話さない木であっても、貴方様のご愛用の琴を粗末にいたしましょうか」 と旅人の歌に答えている。あくまで丁寧な応対である。房前は旅人より16歳も年下なので、当然ともいえる。しかし何となく勝者の余裕も感じられる。何より旅人の用意した琴の乙女の趣向は、言とはぬ 木 という旅人のことばを繰り返す中で、無視される形になった。それは媚態と追従を含む趣向を座興として取り合わなかったという事かも知れない。却ってその方が思いやりのある扱いのようにも思える。旅人の書簡の日は、107日は長屋王の変から7か月。6月 天王貴平知百年 天皇の治世が貴くて百年に及ぶという字を甲羅に書いてある亀が藤原麻呂によって献上され、その捏造臭い瑞祥によって、85日天平に改元され、810日に藤原光明子を皇后にする詔が出された。旅人は、藤原四氏による体制が完全に固まった所で、政治的に膝を屈してでも誼を通じて、中央政界に復帰しようとした。そこには深い葛藤があったであろう。妻を異郷で亡くし、都での政治的地盤を失った旅人の苦悩を、酒を讃むる歌 は、描き、かつ慰めたのであろう。

 

「コメント」

今までの旅人像とは違い、妻を亡くした寂寥感と政治的に追い込まれている危機感に包まれた旅人。これはこのような解説が無いと理解できないこと。単なる酒の好きな老人ではないのだ。