221029 ㉚「東歌の世界 巻14

前回

前回は作者を記さない長歌を集めた巻13について話した。題詞や作者名を記さないという事は、具体的な事実から切り離されているという事である。長歌は叙事、事柄を語る事に長けた歌型で、巻13の長歌もそれぞれに世界を語っているが、実際に起こった事柄が元ではなく、実際に歌を作ることによって事柄を作り上げるのである。

 

14東歌ついて 歌の国別の順番 

さて、今回は巻13に続く巻14について話す。巻13は作者不詳の長歌の巻であったのに対して、巻14は作者不記の短歌の巻である。170首余りであるが、全部短歌である。その点で巻13との間で、共通点と相違点を持つのであるが、巻14は更に全巻が東歌の巻であるという特徴を持っている。巻頭に東歌と記されており、前半が勘国歌(かんこくか)、後半が未観国歌(みかんこくか)と別れている。勘は考える、調べるという意味である。つまりどの国の歌かを調べて、分かる歌と分からない歌に先ず大別する。それぞれまた部位に分ける。前半の勘国歌は雑歌、相聞、譬喩の三部。後半の

未勘国歌は雑歌、相聞、防人歌、譬喩歌、挽歌の五部。但し、その分量は偏りがあって、圧倒的に多いのは相聞歌である。勘国歌の雑歌は5首しかない。未勘国歌の防人歌、譬喩歌も各五首。末尾の挽歌に至ってはわずか一首のみである。勘国歌の方は、勿論判明した国毎に載せられている。

 

東歌の国々 遠江(静岡の西部)、駿河、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上毛野、下毛野、

        陸奥

勘国歌として、歌の載せられている国は、相聞の部の順でいうと、遠江(とおとうみ 静岡の西部)、駿河、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上毛野、下毛野、陸奥となっていて、雑歌、譬喩歌の部もこれに矛盾する順番はない。最初の方を聞いて、段々に西から東になっていくと気付くであろう。これはまず遠江の都に近い遠江から遠い方へ流れ、その後東山道を同じ順番に並べている。これはまず東海道の都に近い方から、遠い方へ流れ、その後東山道を同じ順番に並べている。説明が必要なのは武蔵国の順番である。伊豆、相模ときて、その次に武蔵となっている。そしてその次が上総、下総、常陸。武蔵国は今の東京都、埼玉県、神奈川県北部で、その隣は下総、今の千葉県西部。上総は房総半島の先の方で、むしろ武蔵からは遠い。

当初の東海道とは 今の東海道とは違う。 当初、武蔵国は入っていなかった。

何でこうなっているかというと、元々東海道は相模から上総に渡っていた。古事記、日本書紀では、ヤマトタケルが相模国の国造の計略に掛かって、火攻めにあった後、走水の海、今の横須賀市観音崎辺りから、浦賀岬の対岸 富津岬の方に渡ろうとする。ところが土地の神が波を起こして舟を進ませない。そこで后の弟橘媛が人身御供になって海に入り、海神をおさめたのである。そこで東征を終えたヤマトタケルは、東国を出る時、我妻を偲んで「吾妻はや」と叫んだので、東国地方を吾妻という起源説話になっている。因みに「吾妻はや」叫んだのは古事記では足柄峠、日本書紀では碓氷峠となっている。足柄峠は静岡県と神奈川県、東海道の境で、碓氷峠は長野県と群馬県、東山道の境である。東海道と東山道が、東の道だという事が良く分かる。東は狭い意味では足柄峠、碓氷峠より東の関東地方であるが、東歌の東は遠江や信濃を含んでいる。

柿本人麻呂の高市皇子挽歌では、更に西まで含んでいる。東(あづま)には広い、狭いがある。

話を本論に戻すと、東海道はヤマトタケルが進軍した順路を通り、相模から上総へ渡るのが本道であった。武蔵国は通らない。武蔵国は元々東山道に属していたのである。武蔵国は、今の東京都府中市の大国魂神社(おおくにたま)の辺り。

国分寺は国分寺市にある。その国分寺の近くで、南西に通る東山道の跡が見つかっている。それは上毛野の国から枝分かれし南下して、武蔵国の国府へ至る道であった。しかし今は東海道新幹線が東京駅から出て、新横浜、小田原と行くように、武蔵野国は東海道を行く方がずっと近いのである。長らく東山道に属しているには理由があるのであろうが、やはり東海道に属していた方が便利と言う事になったのであろう。それで武蔵国の東山道から東海道への所属替えが行われた。東海道が相模で、武蔵国に行く道と、上総・下総・常陸へ行く道へと、枝分かれする事に成った。巻14は所属替えになった後の配列に従っていて、相模から武蔵へと来て、次に上総、下総、常陸という本来のコ-スを辿る。

 

それでは東歌がいつ頃のものかというと、東歌には作歌事情が題詞や注で示されないので、はっきりとしたことは解らない。但し信濃国の相聞歌の一首 これより時代を推察する。→奈良時代初期 720730

14-3399 作者不詳 

原文 信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之奈牟 久都波気和我世

訓読 信濃路は 今の墾()り道 刈りばねに 足踏ましなむ 沓はけ我が背

「信濃路は最近開いたばかりなので、木の株で足を踏みぬいて、怪我してしまうでしょう。沓を履きなさい、あなた」

信濃路は 今の墾()り道 とあるのは、信濃道が出来たばかりだと言うので、その時期を特定することが出来る。続日本紀の和銅6713年に、険しくて通行困難であったと美濃国と信濃国の国境に木曽路という道路が開通したことが記されている。これは大宝2年に事業が開始されたことは解っているので、10年以上もかかった難事業であったことが分かる。この一首はそれが完成して間もなくの頃、奈良時代の初期の歌という事に成るのであろう。この一首で全体を推し量ることは出来ないが、東国に和歌という定型詩が成立したのは、それほど古いことではない。

朝廷は全国を把握し、統治しようとした→風土記の編纂命令

先程触れた木曽路が完成した和銅6年 713年は、丁度、各国風土記を編纂せよとの命令が出た年でもある。奈良時代に入ると、朝廷全体が日本列島全体を把握し、統治することを目指すようになった表れである。そうした動向が、山部赤人や高橋虫麻呂といった下級官人達による、東国の山や伝説を歌う作品に繋がったことは以前に話した。東歌に関心が寄せられるのも、そうした奈良時代以降の情勢と関わっていると思う。

 

14の東歌にも、山部赤人や高橋虫麻呂が既に歌った山々や伝説に取材した歌が含まれている。

14-3355 作者不詳

原文 安麻乃波良 不自能之婆夜麻 己能久礼能 等伎由都利奈波 阿波受可母安良牟

訓読 天の原 富士の柴山 この暗(くれ)の 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ

 

14-3356 作者不詳

原文 不尽能祢乃 伊夜等保奈我伎 夜麻治乎毛 伊母我理登倍婆 気尓餘婆受吉奴

訓読 富士の嶺()の いや遠(とお)長き 山道をも 妹がり問へば けによばず来()

 

14-3357 作者不詳

原文 可須美為流 布時能夜麻備尓 和我伎婆 伊豆知武吉弖加 伊毛我奈気可牟

訓読 霞居る 富士の山びに 我が来なば いづち向きてか 妹が嘆かむ

 

14-3358 作者不詳

原文 佐奴良久波 多麻乃緒婆可里 古布良久波 布自能多可祢乃 奈流佐波能其登

訓読 さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の鳴沢のごと

 

3355 天の原 富士の柴山 この暗(くれ)の 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ

「天空に聳え立つ、富士山の麓の柴山の木で出来た暗がりの時が移って行ったならば、あの子と会わないままになるのであろうか」

これは意味を補って解釈しないと分り難い。富士山にある柴山、つまり雑木林の暗がりで会う約束をしたのに、相手が何時までも来なくて、益々暗くなってこのまま結局会えないのだろうかと不安になっている と取れるが、柴山の木が集まって暗がりが出来る時期、夏過ぎたらもう会えないのだろうか。上の句と下の句の関係がはっきりしない。こういうゆるさ加減があるのも東歌の特徴の一つである。

 

3356 富士の嶺()の いや遠(とお)長き 山道をも 妹がり問へば によばず来()

「富士の嶺の長い山道であっても、いとしいあなたの為というので、息も上がる事もなくやって来た。」という男の歌である。

けによばず は、難解であるが。が息の事で、によ が 喘ぐ、うめく という説に従っておく。

におう という言葉は、今の静岡県の方言にあるらしい。問へば は、言えば の縮まった形。

富士山は巨大な山なので、その麓の道も遠く長いが、その道も貴女に会う為なら、造作なくやってこられると歌っている。途中苦労しながらやって来たと、相手にアピ-ルする歌は中央の歌にも多いが、更に貴女の為ならへっちゃらというのは珍しい。

 

3357 霞居る 富士の山びに 我が来なば いづち向きてか 妹が嘆かむ

「霞のかかる富士山の山辺にまで私が来たら、どっちを向いて愛しい人は嘆くであろうか。」これは旅人の歌でしょう、もしかしたら防人の歌かもしれない。防人は九州の防衛に派遣された兵士であるが、東国からわざわざ派遣されることになっていた。防人の歌の部も、未勘国歌の方に別にあるが、そこに入っていない防人の歌が巻14に含まれていると思われる。→「富士山の麓はあまりにも広大で、そこに差し掛かったら、残してきた妻も私の居る所が分からずに、どちらを向いて嘆いていいのか分からないだろう。」

 

3358 さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の鳴沢のごと

「共寝するのは、玉を通す紐のように短い時間だけ。恋しく思うのは、富士の高嶺の鳴沢のように激しい。」

鳴沢は富士山の西側にある大沢という所で、幅400M、深さ100Mくらいで、10KMにわたって崩壊している所である。落下する岩石の音のすさまじさを、ほんの少ししか会えない相手への、恋の思いの激しさに例えている。

 

東国の人の富士山の感じ方

どの歌も富士山の巨大さには何らかの形で触れているが、山部赤人や高橋虫麻呂が強調していた山頂の雪や、噴煙には触れていない。相聞歌であり、短歌であるという点では、当然なのかも知れないが、平安時代になると、富士山の噴煙を恋の思いに例える歌等もあるので、そうした歌もあってよさそうなものである。

「富士山と文学」という本の著者 石田千尋は、「富士山を異境の高山として所見した宮廷官吏たちの歌と、富士山を生活圏の一部として暮らしている人々の歌が、発想においても表現においても、全く異質であるのは当然である。表現上の最も大きな差異は、東歌四首に富士山を仰ぎ見る視点による詠作が見られない点であろう。」と書いている。東歌は東国の人の発想で、歌われているというのは大事な点である。

 

筑波山

次に筑波山を見てみよう。筑波山は万葉時代も観光地で、歌垣も行われたことは話したが、東歌にもよく歌われる。

常陸国の歌は、雑歌・相聞合わせて12首あるが、その内11首までは筑波山の歌である。但し、相聞の最後の3首は、おつくば と、接頭語をつけており、現在は、地元で親しみを込めて お を付けて呼ばれたと解釈されているが、万葉集の中では別の山と認識されていたのかも知れない。

11首の中から雑歌の2首、33503351と、 の相聞の2首 33893390を読んでみよう。

 

14-3350 作者未詳

原文 筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母

訓読 筑波嶺(つくばね)の 新桑繭(にひぐわまよ)の 衣(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)し 

    あやに着欲しも

 

14-3351 作者未詳

原文 筑波祢乃 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母

訓読 筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも 愛しき子ろが 布()の乾さるかも

 

14-3389 作者未詳

原文 伊毛我可度 伊夜等保曽吉奴 都久波夜麻 可久礼奴保刀尓 蘇堤婆布利弖奈

訓読 妹が門(かど) いや遠そきぬ 筑波山 隠れぬほどに 袖は振りてな

 

14-3390 作者未詳

原文 筑波祢尓 可加奈久 和之能 祢乃未乎加 奈伎和多里南牟 安布登波奈思尓

訓読 筑波嶺の かか鳴く鷲の 音()のみをか 泣きわたりなむ 逢ふとはなしに

 

3350 筑波嶺(つくばね)の 新桑繭(にひぐわまよ)の 衣(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲しも

「筑波山辺りの新桑(にいぐわ)で育てた、蚕の繭で作った着物ではあるけれども、あなたの御召し物が無性に着たいのです。」新桑繭(にひぐわまよ)→春に芽吹いた桑で育てた一番繭で、上質の糸が採れる。それで作った着物はあるのだが、あなたの着ているものを私は着てみたい。」

 

3351 筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも 愛しき子ろが 布(にの)乾さるかも

「筑波山に雪が降ったのかな、いやどうだろうかな。愛しい娘が布を乾しているのかな。」

降らる 乾さる は、中央語ならば降れるという所で、東国方言である。(にの) も、布の訛りである。

これは見たての歌で、晒した布を乾したのが一面に見えるのを、筑波山に雪が降ったのかと見違える程だと表現している。麻布の生産は、東国の主要産業の一つで、特に女性の仕事とされた。有名な武蔵国の相聞歌 巻14-3373

多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだ愛(かな)しき 等と布を晒す作業を序詞にして、相手への愛を表現している。その多摩川周辺には、調布、布田とか布に関する地名が実在しており、調布の調は特産物を税として納める事である。筑波山辺りでも、布の生産が盛んであったのだろう。

 

3389 妹が門(かど) いや遠そきぬ 筑波山 隠れぬほどに 袖は振りてな

「妻が見送ってくれた家の門は、いよいよ遠くなってしまった。筑波山が隠れない内に、袖を振っておこう。」

遠方への旅人の歌で、或いはこれも防人の歌かもしれない。袖を振るのは別れの時に、自分がそこにいること、相手の事を思っている事が相手に分かるようにすることである。それは柿本人麻呂の石見相聞歌で見たとおりである。

妹が門(かど)見む 靡けこの山 とあった。門は人を送る場所である。この東歌では、もう妻の居る門は遥かになってしまっているが、別れの袖は筑波山が見えている内に、振っておこうと言っている。筑波山は関東平野の高い所からは、何処からでも見える山なので、歌い手はもう常陸国から出てしまっているのかも知れない。無論、妻にそれが見える筈はないが、自分の心の整理として袖を振ったのである。

 

3390 筑波嶺の かか鳴く鷲の 音()のみをか 泣きわたりなむ 逢ふとはなしに

「筑波山の嶺にカッカッと鳴く鷲のように、声を出して泣き続ける事か、逢う事もなくて」

筑波山に鷲の居る事は、高橋虫麻呂の筑波山の歌垣の歌の出だしにも、鷲の住む筑波の山も とあった。鳥の鳴き声を人の泣き声と重ね合わせるのは、万葉集全体に見られるが、鷲の声に例えるのは珍しい。そのように東歌は、万葉集に普遍的な部分と、そこからすこしずれた部分とを併せ持つのが特徴である。

 

下総の国から、真間の手児奈の歌を2首。

14-3384 作者未詳

原文 可都思加能 麻未能手児奈乎 麻許登可聞 和礼尓余須等布 麻未乃弖胡奈乎

訓読 葛飾の 真間の手児奈を まことかも 我に寄すとふ 真間の手児奈を

 

14-3385 作者未詳

原文 可豆思賀能 麻萬能手児奈我 安里之可婆 麻未乃於比尓 奈美毛登杼呂尓

訓読 葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに

 

真間は現在の千葉県市川市の国府のあった場所。高橋虫麻呂の歌う所では、化粧っ気もなく働き者だったけれど、誰よりも美しく男達が引きも切らない有様であった。何故か自分の身を見切って死んでしまったと歌っている。山部赤人の歌によれば、その墓と言われる場所は既に木に覆われて、判然としない状態であったらしい。江戸川の河口付近にあった古墳を巡る、遠い昔の物語として語り継がれている様である。東歌は短歌だから、その物語を語ることは出来ない。

 

3384 葛飾の 真間の手児奈を まことかも 我に寄すとふ 真間の手児奈を

「葛飾の真間の手児奈の事を、私と付き合っている様に噂していると言うのは本当かな。あの真間の手児奈を。」

手児奈が生きている時に身を置いて、その伝説の美女と交際している様に、噂されるという状況をワクワクしながら想像しているのであろう。

 

3385 葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに

おすひ の意味が分からない。磯の周りを意味する 磯へ がそれぞれ母音交替して おすひ になったとしておく。

それだと「葛飾の真間の手児奈がいたので、真間の礒辺では波が打ち寄せて轟くほどに噂が高かった。」手児奈が評判の美女であったことを、寄せる波の音に例えている歌であるのは間違いない。

 

東歌らしさとは

この様に東歌と、赤人や虫麻呂等宮廷から下ってきた官人たちとでは、歌い方が大きく異なる。しかし逆に見ると、東歌と官人達とでは歌う素材が共通しているともみることが出来る。中には未勘国歌の雑歌の一首 

14-3450 乎久佐男(をくさを)と 乎具佐受家男(をぐさずけを)と 潮舟の 並べて見れば 

         乎具佐勝ちめり

「乎久佐の男と乎具佐の若い男とを、海を行く舟のように並べてみると、乎久佐の男が勝っているようだ。」などと言う歌もある。乎久佐も乎具佐も地名で、受家男は 若い男を指している。

その様に東国で歌われた現場でだけでわかる歌というのはないわけではないが、それほど多くはない。それは万葉集という中央で作られた歌集の中に収められているので当然の事ではある。東歌の東歌らしさは、これまでにもあったように直接に対象物との接触を直接に歌う事であろう。そのような歌をあげて見よう。

14-3404 作者未詳

原文 可美都気努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴礼杼安加奴乎 安杼加安我世牟

訓読 上つ毛野 安蘇のま麻()むら かき抱(いだ)き 寝()れど飽かぬを あどか我がせむ

 

14-3439 作者未詳

原文 須受我祢乃 波由馬宇馬夜能 都追美井乃 美都乎多麻倍奈 伊毛我多太手欲

訓読 鈴が音の 早馬(はゆま)駅馬(うまや)の 堤井(つつみい)の 水を給へな 妹が直手(ただて)

 

14-3459 作者未詳

原文 伊祢都気波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈気可武

訓読 稲つけば かかる我が手を 今夜(こよい)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ

 

14-3525 作者未詳

原文 水久君野尓 可母能波抱能須 子呂我宇倍尓 許等乎呂波敝而 伊麻太宿奈布母

音読 水久野(みくくの)に 鴨の這()ほのす 子ろが上に 言(こと)()()へて 

    いまだ寝なふも

 

14-3554 作者未詳

原文 伊毛我奴流 等許能安多理尓 伊波具久留 水都尓母我毛与 伊里弖祢末久母

訓読 妹が寝る 床のあたりに 岩くぐる 水にもがもよ 入りて寝まくも

 

3404 上つ毛野 安蘇のま麻()むら かき抱(いだ)()れど飽かぬを あどか我がせむ

上つ毛野の相聞歌で、「上ツ毛野の安蘇の麻をかき抱くようにして寝るが、満足できないので、私はどうしたらよいのか。」

安蘇は地名である。あどか は、どうして、どうやってという意味の東国語で、中央語では などか とか いかにか という所である。麻は繊維を取って、布に織る素材であるが、人の身長より高く育つので、何本もまとめて抱くようにして収穫するのである。その様が男女の抱擁に似ているので、()れど の序詞としたと言われる。共寝をすることを歌うのは、万葉集の相聞歌にはごく普通にあるが、柿本人麻呂はよく共寝を ものより会う様 に譬喩するのに比べても、麻を抜く時のように抱いて寝るというのは、よりストレ-トな印象を与える。

 

3439 鈴が音の 早馬(はゆま)駅家(うまや)の 堤井(つつみい)の 水を給へな 妹が直手(ただて)

未勘国歌の雑歌で「鈴の音のする早馬の厩にある堤井(つつみい)の水汲み場で、水を下さいな。貴方の手から直接に。」

早馬(はゆま) は、連絡用に早く駆けさせる馬の事で、それを飼っておくのが駅家(うまや)。早馬(はゆま) は、正式の使いであることの印に、駅鈴という鈴を持って走ったので、鈴が音の という枕詞が付いている。駅は又旅人の休憩場にもなっており、水飲み場もある。そこで働く女性に、あなたの手で水をすくって飲ませて下さいと言っている。

 

3459 稲つけば かかる我が手を 今夜(こよい)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ

未勘国歌の相聞で、「稲を脱穀して赤切れの出来た私の手を、御殿の若様が取って、可哀そうにと嘆くことだろう」

辛い労働をする農家の娘を、豪族の息子が夜な夜な訪ねてくるという、娘の夢物語のようなものであろう。東歌の代表のようによく知られた一首で、確かに中央の歌には類例が見つからないが、さりとて東歌の中にこの様な歌が多数登場する訳でもない。農作業の辛さを紛らわす労働歌と説明されることもあるが、もしそうだとしてもそれが東歌の主流なのではない。

 

3525 水久野(みくくの) 鴨の()ほのす 子ろが上に 言(こと)()()へて 

    いまだ寝なふも

水久野(みくくの)に 鴨が這うように、あの娘の所に言葉をかけ続けているが、まだ共寝はしていないことだ。」

水久野(みくくの は、地名だろうが不明。この歌名は東国の訛りや方言が多数みられる。()ほのす は、中央語ならば 這いなす という所で、這うようにという意味。鴨は水鳥なので、野を這うのは苦手。こんな風にたどたどしい様子で、という事に成るのであろう。子ろ は、東歌には多数現れるが、中央語の子ら に当たる。最後の寝なふも のなふ は、東国独特の否定、歌消しの助動詞。まだ共寝をしていないという意味。声だけはかけ続けているものの、ちっとも仲が進まない。自分の情けなさを自嘲している男の歌である。

 

3554 妹が寝る 床のあたりに 岩くぐる 水にもがもよ 入りて寝まくも

「岩間を潜る水になれればなあ。愛しいあの子が寝ている辺りに、そっと入って寝ようものを。」

何かに変身したいという歌は相聞歌には多いが、大体無心になって恋を忘れたいという歌になる事が多い。又監視が厳しくて、中々逢えない時に、風になって逢うという発想はある。このように水になったのでは、折角忍び込んでも寝床は濡れてしまう。やはり中央の相聞歌とは違う。

 東歌への講師の見方 明治維新で万葉集を国民文学にとの動き

私のみる所では、東歌は全体としては野趣あふれる和歌と言った所である。野趣はあるけど、卑ではない。洗練されてはいないけど下品ではない。

東歌は東国の民謡だとする見方は、現在も根強くある。それは大きく言うと、明治になって日本が、武士が統治する体系から、ヨ-ロッパ諸国のような国民国家に変革しようした時に、そうした国々が持っているような国民文学、全国民が共有できる文学が必要だとされたことと関係する。森鴎外、夏目漱石といったヨ-ロッパに留学した人々が帰国して、英語のノベルに当たる小説を書くようになったのも、彼らエリートには日本にも近代文学が必要だと痛感されたからであった。

一方では国文学研究も、そうした国家的要請に従って、過去に存在した日本語の文章の中に国民文学を探し求めた。

そして天皇の歌に始まり、下級官人の歌、そして作者を記さない歌を多量に含む万葉集に、その白羽の矢が立ったのである。今でも万葉集というと、天皇から庶民までと口癖のように言うのは、その名残である。素朴で雄大というキャッチフレ-ズも、素朴でないと庶民も共有するものではなくなってしまうからである。ドイツでゲ-テの先生に当たるベルダ-という人が、フォルスクリ-ト 民謡を研究すると、その概念が導入されて、万葉集の作者が分からない歌は押しなべて、民謡と扱われるようになる。この辺りの経緯については、東大教授品田悦一(よしかず)の「万葉集の発明」に詳しい。

作者が不明なのは、それが庶民であるという事と同義ではない。

 東国への中央の和歌文化の浸透

和歌はこれまで見てきたように、基本的に宮廷の文化で、作者の分からない歌もその文化を共有する人の作と考えるのが自然である。無論民謡と言うべきものが庶民に歌われていたであろうが、それと和歌とは源が別なのである。

東歌も和歌だから、宮廷文化が東国に及んだものと考えられる。地方を朝廷が直接支配しようとするようになると、中央と地方とに人的交流が盛んになる。そうなると、宴の席で和歌も披露されるようになる。東国の中でも和歌を作る人も出て来る。そうするとお国訛りが混じる。中央の歌とは異なる発想の歌も出て来て、中央の人々も面白がるといった経緯があったのだろう。東歌は短歌のリズムを踏みはずすことはないし、序詞などの技法も共通である。もし庶民の歌うもの 民謡そのものならば、もっと下品な物も混じるし、不揃いな歌であったであろう。柿本人麻呂歌集に載っていると注記される歌が、三首ほど含まれている。かっては説明に窮していたが、中央から下った官人が持ち込んで東国でも愛唱されたという事情で説明できる。中央の和歌と東歌とは連続的な物である。だから東歌の作者たちも、基本的には中央の人に触れる人々、郡司と呼ばれる各地の豪族から始まっていったであろう。その文化が庶民層に及んだのかも知れないが、階層の上から下りてきたというという点が重要である。民衆に根生(ねお)いのものなら、東歌は平安時代以降、例えば古今和歌集には巻末に10数首収められるだけといった急速なしぼみ方はしない筈だと、東大教授品田悦一(よしかず)はいっている。

東歌の歌集はいくつかあったようで、訓字を中心に書かれたものも有ったらしい。万葉集の編者は、それを集め全体を一字一音による表記に改め、国の分かる歌を抜き出して行政区画の序列に従って並べ、未勘国歌は、素材ごとに整理して配列した。

それは和歌という宮廷文化が「鶏が鳴く東」と言われた辺境にまで及んだことの記念として、巻14という位置に置かれたのである。

 

「コメント」

 

今回の話は万葉集の成り立ちについて、とても貴重な話。東歌は赴任した官人たちが、現地へ普及させた和歌文化なのである。又明治時代になって、万葉集が俄に注目された理由も大いに納得。夏目漱石がやはり正岡子規の思想的背景なのだ。