221022 ㉙「巻十三長歌の世界」 主な巻と歌番」
前回
前回は奈良時代前期に地方に伝わる伝説を素材にして、高橋虫麻呂や山部赤人の歌を読んだ。それは地方の伝説を宮廷に語り継ぐという姿勢を持つ点で、前々回で読んだ富士山や筑波山の話と同様に、歌の世界を大きく広げた。或るスト-リ-を語るという点では、平安時代の説話文学にも通じる。
平安時代には長歌は作られなくなる理由
出来事による叙事という事は、長歌の大きな機能である。平安時代には、長歌は作られなくなるが、それは仮名文字の発明と共に、日本語による散文が書けるようになったということと、引き換えになったと思われる。奈良時代以前にも漢文や変体漢文による叙事は勿論あった。例えば古事記、日本書紀の物語がそうであったし、民間に伝わる話としては、例えば丹後国風土記の逸文に浦島の物語が記されている。しかし読み下すのを前提に書かれたとしても、やはり漢文では日本語の細かいニュアンスを伝えるのは難しい。だから、長歌という日本語文で物語を語るという事は、奈良時代以前には有効であった筈である。しかし仮名によって自在に日本語文が書けるようになると、わざわざ五七の定型に整えて語るのは面倒で、下火にならざるを得なかったであろう。こうして長歌は平安時代には擬古的に作られるに過ぎなくなる。逆に言えば万葉集においては、長歌の持つ比重が大きかった。今まで読んだ作品も長歌の方が多かった。
巻13が丸ごと、長歌の歌集であることも、その比重の大きさの表れである。
本日は巻13の長歌を読む。ここの長歌は作者を記さない巻で、作者が分かっているのは異伝歌である。以前、柿本人麻呂歌集の外国への使節を見送る歌、3253、3254を読んだが、それは実に3250~3252の異伝として載せられているのである。巻13の体裁としては異伝を含めて何首かの歌を左注で右何首とまとめて一群とする。
今の場合ならば、3250~3254までが最後に、右五首とまとめられている。巻13全体は、雑歌、相聞、問答、譬喩歌、挽歌という五つの部立てに分かれている。問答は男女の事だし、譬喩歌も男女関係を物の譬喩で歌う歌なので、いずれも相聞に近いと言える。従って多く見れば、雑歌、相聞、挽歌の三大部立てを揃えた巻という事である。長歌の見本市である。各部から少しずつ見て行く。
巻13-3225 作者不詳 題詞なし
原文
天雲之 影塞所見 隠来矣 長谷之河者 浦無カ 船之依不来 磯無蚊 海部之釣不為 吉咲八師 浦者無友 吉畫矢寺 磯者無友 奥津浪 諍傍入来 白水郎之釣舟
訓読
天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川は 浦なみか 舟の寄り来ぬ 磯なみか 海人(あま)の釣りせぬ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 磯はなくとも 沖つ波 競ひ漕入り来 海人の釣舟
巻13-3226 作者不詳 題詞なし 左注 右二首
:原文 沙邪礼浪 浮而流 長谷河 可依磯之 無蚊不怜也
訓読 さざれ波 浮きで流るる 泊瀬川 寄るべき磯の なきが寂しさ
3225長歌 略
泊瀬川を歌った長、反歌である。長歌は「天の雲の影までが見えるこもりくの泊瀬の川は、良い瀬が無いせいか、舟が寄ってこない。良い磯がないせいか、海人が釣りをしない。構わない、浦など無くとも、磯が無くとも構わない、沖の波を乗り切って漕ぎ入ってこい海士(あま)の釣舟よ。」
泊瀬川は大和川の上流で三輪山の麓から平安時代に長谷寺が建てられる辺りまで、非常に深い谷になっている。泊瀬川 は、今は長谷川という事が多いが、長い谷と書くことが多い。単調な谷川だというのか、この歌では港になる良い浦が無いせいか、舟が入ってこない。良い岩場が無いせいか、海人が釣りをしないと歌われている。実は、泊瀬川については、後で見る歌でも、鵜飼をして鮎をとることが歌われているので、海人が釣りをしないとは疑問である。
しかしここでは泊瀬川が、むしろ単調な川と印象付けるのが目的であろう。よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 磯はなくとも と 「良い磯が無くとも良いじゃないか」という事になるからである。最後は海人の釣り人に対して、沖の波を乗り越えて越えて入ってこい と、呼びかけている。それにしても何でそれ程に泊瀬川を言うのかよく分からないが、最初の
天雲の 影さへ見ゆる が、その理由に当たるかもしれない。天の雲の影が写るのは、水が清らかである事の表現であろう。そのような素敵な川だから、ここまで漕ぎ入っておいでという事であろう。
3226 さざれ波 浮きで流るる 泊瀬川 寄るべき磯の なきが寂しさ
「細かい波がおいて流れる泊瀬川は,寄りたいような磯がないのが寂しい」これは結局、海人の釣舟が入ってこないのでがっかりして述べた様にも取れるし、海人の立場に立って、そんなに呼ばれても入りたいような磯がなくて物足りないと答えている様にも見える。巻13の反歌名は、長歌と立場を異にしている作品も多い。さざれ波 浮きで流るる とすると、天の雲の影も写る事は無いので、長歌が最初にあげる美点が無くなってしまう。そうだとすると、海人の立場で答えているとすると、写る方がいいと思っているのか。いずれにせよ、泊瀬川の魅力を押し出している様には思われないが、何故そんな歌が載っているのだろうか。気付いた方もいるだろうが、長歌の中のよしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 磯はなくとも は、柿本人麻呂の石見相聞歌の第一首 巻2-131 に書き込まれた異伝と全く同じなのである。
石見相聞歌は別れなければならない妻の住む海岸は何もない所だけど、自分には掛け替えのない所だという事を強調する。巻13の長歌は、むしろ有名な長歌の一部をもじることが、興味の中心にあったのではないか。突飛な事を言うようではあるが、同じ雑歌に次のような歌もある。
巻13-3240 作者不詳
原文
王 命恐 雖見不飽 楢山越而 真木積 泉河乃 速瀬竿刺渡 千速振 氏渡乃 多企都瀬乎 見乍渡而 近江道乃 相坂山丹 手向為 吾越往者 楽浪乃 志我能韓埼 幸有者 又反見 道前 八十阿毎 嗟乍 吾過往者 弥遠丹 里離来奴 山又越来奴 剣刀 鞘従抜出而 伊香胡山 如何吾将為 往邊不知而
訓読
大君の命(みこと)畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 早き瀬を 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡りの たきつ瀬を 見つつ渡りて 近江道(ぢ)の 逢坂山に 手向けして 我が越え行けば 楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれば またかえり見む 道の隈 八十隈ごとに 嘆きつつ 我が過ぎ行けば いや遠に 里離り来ぬ いや高に
山も越え来ぬ 剣太刀 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡(いかご)山 いかにか我がせむ ゆくへ知らずて
巻13-3241 作者不詳 反歌 左注 右の二首 但しこの短歌はある分に曰く穂積老が佐渡に
配流の時に作る歌に作る
原文 天地乎 嘆乞祷 幸有者 又反見 思我能韓埼
訓読 天地(あめつち)を 嘆き祈(こ)ひ祷(の)み 幸(さき)くあらば またかへり見む 志賀の唐崎
3240 長歌 略
これは北陸道の道行きの歌である。巻13にはこのような道行きの歌が何首かある。最初の大君の命(みこと)畏み →「天皇の御命令を恐れ謹んで」で、藤原京から平城京への遷都の歌にもあった。見れど飽かぬ 奈良山越えて奈良山は山城との境の山で、大和国の見納めである。真木積む は、材木を積むという意味で、和泉川を修辞する。今の木津川で上流から材木を流して集める場所が木津である。そこで早い瀬を、竿をさして渡り、次は宇治川。
神に掛かる枕詞ちはやぶる が、この歌では宇治川に掛けられている。宇治川は流れが急で、渡るのが恐ろしいので言うのであろう。その宇治川の激流を見ながら渡る。すると間もなく近江路の逢坂山の神に手向けして越える事になる。
逢坂山は山城と近江の境の山で、畿内と畿外の境でもある。ここを出れば、鄙の地である。琵琶湖の湖畔に出て、楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎にいた。その名の通り幸くあれば またかえり見む→「運よく無事ならば帰ってきて見ることがあるだろう。」道の隈 八十隈ごとに 嘆きつつ 我が過ぎ行けば いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ→「道の曲がり角は多くあるのに、行き当たる度に嘆きながら通過していくと、どんどん里は離れていく。益々高く山を越えてきた。」最後には琵琶湖の北の端、長浜市木之本町の伊香胡山に至る。そして越の国に入る。
剣太刀 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡(いかご)山→「剣太刀を鞘から抜き出して如何にする」という形で、伊香胡を引き出している。前に巻き1-60 長皇子の歌で 朝(明日)顔(おも)無み 名張にか を紹介したが、それと同じく地名を引き出す修辞である。そしてその伊香胡(いかご)山 は、序詞となって最後のいかにか我がせむ ゆくへ知らずて と結びになっている。
3241 天地(あめつち)を 嘆き祈(こ)ひ祷(の)み 幸(さき)くあらば またかへり見む 志賀の唐崎反歌
「天地の神に訴えかけ祈願申し上げて、運よく無事なら又帰って見る事が出来るだろう、志賀の唐崎を。」志賀の唐崎 は、長歌にも出ていたが、その反復ということになる。但し注によると、この反歌は、別の本によると穂積老(おゆ)が佐渡に配流された時の歌だとされているとのこと。
確かに当時の旅が危険を伴うものとしても、天地(あめつち)を 嘆き祈(こ)ひ祷(の)み 幸(さき)くあらばというのは、普通の旅だとすると少し大袈裟な感じもする。幸(さき)くあらば またかへり見む は、謀反を計画したとされる有間皇子の結び松の歌 磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあれば また還り見む を連想させるので、流罪にされた者の歌として相応しい。穂積老は、続日本紀によると、養老6年 722年 元正天皇を非難したとして、不敬の罪に問われ、皇太子後の聖武天皇のとりなしで死罪を免れ、佐渡に流罪となった。その人の歌としても無理はない。
巻13の長歌の特徴 机上で過去の作品を参考に作られた?
長歌を振り返ってみると、こちらの方は最初に大君の命(みこと)畏み とあるので、天皇の命で下っているのだが、最後にはいかにか我がせむ ゆくへ知らずて 公務ならば赴任先があるはずで、るざいでも行く先は決まっている。そして嘆きつつ 我が過ぎ行けば とあり、鄙の地に下る哀愁も表されるが、剣太刀 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡(いかご)山 のような地名への興味から出た修辞もある。どうもこの長歌は実際に旅をしながら作ったというリアリティに欠けている様に思う。そして注意されるのは、やはり人麻呂の歌との繋がりである。楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれば またかえり見む
は、近江荒都歌の第一反歌 巻1-30 楽浪の 志賀の唐崎 幸(さき)くあれど 大宮人の船待ちかねつ がすぐ連想される。奈良山越えて も、巻1-29の長歌に出て来る。そして道の隈 八十隈ごとに や いや遠に 里離り来ぬ いや高に山も越え来ぬ は、石見相聞歌131が この道の 八十隈ごとに 万(よろず)たび 返ヘリ見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ と歌うのとそっくりである。するとこの作品に次のような想像が成り立つ。
穂積老が配流の時の歌とされる短歌があり、その歌に既に有間皇子の結び松の歌や、近江荒都歌とかが含まれていた。その短歌を基に、更に近江荒都歌や石見相聞歌の表現を取り込んで、北陸道の主要な地点を織り込む道行きを歌ってみたという経緯であろう。巻13の長歌には、こうした机上で作られた作品が多いよう思われる。そしてそれらは宴の席などで、歌われたのではないだろうか。巻17以降の家持を中心とする歌日記の中には、出席者によっては古歌が披露された例が記録されている。ここまで読んで来たところでは、巻13は人麻呂の歌のもじりばかりと思われるかもしれないが、勿論オリジナリティのある歌もある。
巻13-3295 作者不詳
原文
打久津 三宅乃原従 常上 足迹貫 夏草乎 腰尓魚積 如何有哉 人子故曽 通簀文 吾子 諾々名 母者不知 諾々名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 真木綿持 阿邪左結垂 日本之 黄楊之小櫛乎 抑刺 卜細子 彼曽吾妻
訓読
うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑぞ 通はすも我子(あこ) うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊(つげ)の小櫛を 押へ刺す
うらぐはし子 それぞ我が妻
巻13-3296 作者不詳 反歌 右二首
原文 父母尓 不令知子故 三宅道乃 夏野草乎 菜積来鴨
訓読 父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道(ぢ)の 夏野の草を なづみ来るかも
3295 長歌 省略
うちひさつ は、三宅 に掛かる枕詞。三宅は奈良県磯城郡三宅町付近。当時は原野。「三宅ヶ原を裸足で行って足を傷付け、夏草に腰まではまって、苦労しながらどういう人の娘の為に通うのか、我が子よ。」最初は親が苦労しながら女のもとに通っているらしい息子に、相手はどんな人なのかと問いただしている。それに対して、息子が答える。
「なるほど、お母さんはご存じないでしょう。お父さんもご存じないでしょう。真っ黒な髪に、木綿(ゆう)であざさを結い垂らして、大和で作られている黄楊の小櫛をさして、髪を抑えている美しい娘、それが彼女です。」蜷(みな)の腸(わた) は、巻貝の腸の事で、真っ黒な所から か黒き髪に に掛かる枕詞。 あざさ は、水面に浮かんで花をつける植物、ジュンサイ。ここでの大和は国の名前ではなく、大和盆地の中の一地域をさすというのが良いであろう。
3296 父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道(ぢ)の 夏野の草を なづみ来るかも 反歌
「父母には教えない、あの子なのだが、その子の為に、三宅の道の夏草に阻まれながら来たことだよ。」この反歌は長歌に対して、反復的でもあるに拘わらず、両親に知らせぬと言ったのは変な感じもする。長歌よりも前の時点を歌っているとも思われる。尤も長歌では、黒髪を櫛や花で飾った可愛い子だよと惚気(のろけ)ているだけなので、どこの誰とも答えていないのが、長歌の後でも知らせぬ子ゆゑ でいいのかも知れない。
次は問答の部から読んでみよう。
巻13-3314 作者不詳
原文
次嶺經 山背道乎 人部末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 毎見 哭耳之所泣 曽許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻蛉巾 負並持而 馬替吾背
訓読
つぎねふの 山背道(やましろぢ)を 人夫(ひとづま)の 馬より行くに 己(おの)が夫(つま)し 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まその鏡に 蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ) 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背
巻13-3315 作者不詳 反歌 右四首
原文 泉川 渡瀬深見 吾世古我 旅行衣 蒙沾鴨
訓読 泉川 渡り瀬深み 我が背子が 旅行き衣 ひづちなむかし
巻13-3316 作者不詳 或る本の反歌に曰く
原文 清鏡 雖持吾者 記無 君之歩行 名積去見者
訓読 まそ鏡 持てれど我は 験(しるし)なし 君が徒歩(かち)より なづみ行く見れば
巻13-3316 作者不詳 右の四首
原文 馬替者 妹歩行将有 縦恵八子 石者雖 吾二行
訓読 馬買はば 妹徒歩ならむ よしゑやし 石は踏むとも 我はふたり行かむ
問答であるが、この歌は長歌同士の問答ではない。長歌と反歌は女の立場が歌われていて、男の答えの歌は最後の和歌一首である。舞台は山城である。つぎねふは、山城に掛かる枕詞。「山城の道を他人の夫は馬で行くのに、私の夫は歩いていくので、それを見るごとに声を挙げて泣いてしまう。それを思うだけで心が痛む。母の形見として私が持っているよく磨いた鏡に、トンボの骨の様に透き通った絹の領巾、この二つを一緒に持っていって、馬を買って下さい。旦那様。」
というのが長歌である。領巾は女性が肩から首に掛けるもので、スカ-フ。人麻呂の泣血哀慟歌にも出て来る。
蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ) は、トンボの羽のように薄く透き通った領巾を言う。女性の装身具の中でも高級品なのであろう。自分の宝物を売ってでも、夫の苦労を減らしたいという。
反歌は二種類あって、一つは「泉川の瀬が深いので、あなたの旅の衣は濡れてしまうでしょう。」泉川は木津川で、山城の道を通れば、必ず渡らなければならないのである。濡れて可哀そうと言うのである。
別の本では「鏡を持っていても私には必要ありません。貴方が道を苦労しながら行くのを見ると」という事である。
最後の男の歌は「馬を買ったら私は馬に乗るが、君は歩いていく事になる。まあいいが、私は石を踏んでも二人で歩いていくよ。」 夫思いの妻と、妻に優しく応じる夫。ほのぼのとした寸劇である。しかし、内田賢徳京都大学名誉教授によると、これにも裏があるという事である。
馬は今の高級車の価値があって、幾ら高級品でも鏡やスカ-フを売った位ではとても買えない。だからこの女性はよほど世間知らずか、お嬢さん育ちなのだろうという。夫は苦笑いをしながら、上手に断っている様である。単に微笑ましいだけではなく、思いがけなく裕福な家の娘を妻にした貧しい男の苦みの混じった喜劇である。複数の本に載っていたので人気のある歌だったのであろう。
最後に挽歌を読んでみよう。
原文
隠来之 長谷之川之上瀬尓 鵜矣八頭漬 下瀬尓 鵜矣八頭漬 上瀬之年魚矣令昨下瀬之鮎矣令昨 麗妹尓 鮎遠惜 麗妹尓 鮎矣惜 投左乃 遠離居而 思空 不安国 衣社簿 其破者 継乍物 又母相登言 玉社者 緒之絶簿 八十一里喚鶏 又物登曰 又毛不相物者 妻尓志有来
訓読
籠口(こもりく)の 泊瀬の川の 上つ瀬に 八つ潜(か)け 下つ瀬に 鵜を八つ潜(か)け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を惜しみ しはし妹に 鮎を惜しみ 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 衣こそは それ破れぬれば 継ぎつつも またも合ふといへ 玉こそは 緒の絶えたれは くくつつつ またも合ふといへ またも逢はむものは 妻にしありけり
巻13-3331作者不詳
原文
隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山(おっさか)の山は 走出の よろしき山の 出立の くはしき山ぞ
あたらしき 山の荒れまく惜しも
訓読
隠口(こもりく)の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走出のよろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき 山の荒れまく惜しも
巻13-3332作者不詳
原文 高山 与海社者 山随 如此毛現 海随 然真有目 人者花物曽 空蝉与人
訓読
高山と 海とこそば 山ながら かくもうつくしく 海ながら しかまことからぬ 人は花ものぞ うつせみ世)
3330 長歌 略
「隠口(こもりく)の初瀬の川の、上流の瀬で鵜を潜らせて、下流の瀬で鵜を潜らせ、上流の鮎を食わせ、下流の鮎を食わせ」ここまでが序詞であるが、以下でも鮎の事は複雑に絡んでいく。鮎を食わせではないが、何にでも詳しい妻、繊細で麗しい妻、逃げられた妻に、逃げた鮎を惜しんで矢を投げた様に遠ざかっていって思う心は安らかでなく、嘆く心は安らかでなかったのに。ここは諸説あるが、くはし妹に 鮎を惜しみ を、「妻に鮎を惜しんで与えなかった」と取るのは変なので、くはし妹には、遠ざかり居て に繋がっていると見て置く。そして「逃げた鮎を惜しんで、矢を投げるように、遠く離れて暮らしていた」という事に解釈しておく。「しかし妻は遠くで死んでしまったらしい。上着ならばそれが破れたら縫い合わせられると言うが、玉ならば糸が切れたら、また括って合わせられると言うが、妻の着ていた上着とか身につけていた玉を思い出しながら、この様に言うのであろう。またも逢はむものは 妻にしありけり 「またも会うことは出来ないのは、妻だったのだなあ」
布を縫い合わせるように、玉を括り合わせる様には、人は戻ってこない。もう二度と妻とは会えないのである。
この一首は非常に繰り返し歌謡的である。しかも妻とはもう会えないというのは歌っているが。妻が亡くなったという事は、はっきり述べられていない。挽歌というものが全体に、人が死んだとは決して言わず、とても遠くへ行ってしまったとか、山に隠れてしまったと表現するのが、この歌の遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに というのは、妻が離れた所に居て、心 が安けない という事で、妻が亡くなったとするのは難しい。衣と玉を対にするのは、天智天皇に対する夫人の挽歌2-150に 玉ならば巻き持ちて 衣ならば 脱ぐ時もなく 我が恋ふる とあるので、挽歌的な匂いはある。そしてこの歌に出てくる初瀬が、人の葬られることの多い土地だったことも確かである。なので挽歌だと言われれば挽歌と見て不自然ではない。
しかし挽歌としてしか読めないかというと、必ずしもそうではない。遠ざかったまま、妻はどこかに行ってしまって、遂に絶縁してしまったと解することも出来る。挽歌かどうかという点では、次の歌も同様である。
3331隠口(こもりく)の 泊瀬の山 青旗の 忍坂(おさか)の山は 走出のよろしき山の 出立の
くはしき山ぞ あたらしき 山の荒れまく惜しも
隠口の初瀬の山は既に何度も出てきた。青旗の は、忍坂の山 の枕詞。忍坂(おさか)の山は桜井市の東部で、初瀬の南側。走出のよろしき山の 出立の くはしき山 は、「すそ野の引き具合の素敵な山、立った姿が美しい山」この表現は国見歌をした時に、紹介した日本書紀の雄略天皇の巻に出て来る 隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山の こもりくの 泊瀬の山は あやにうら麗し あやにうら麗し という歌謡に出て来る。忍坂の事が加わっているが、むしろ山誉めの歌謡が原型と考えるべきであろう。泊瀬の山も忍坂山も形の良い美しい山だと、まず誉める。しかし巻13のこの歌は、その惜しむべきその山が荒れてしまうのが残念だという。あたらしき は、今も「あたら若い命を」と言うように、惜しい勿体ないという意味。新鮮だという事は、「あらたし」という。平安時代になると混同するようになる。
しかし何故泊瀬や忍坂の山が、荒れるのかははっきりしない。人が亡くなってその屋敷や通っていた道が、荒れるという事は歌われるし理解できるが、山全体が荒れてしまうのは個人の死とは考えにくい。事実に即しているというよりは、放置されて手入れをされなくなった山が、荒れていく事を人が亡くなり、その生活の跡が荒廃していく事の象徴としているのではないか。
象徴的という点では、第三首も同じである。
3332 高山と 海とこそば 山ながら かくもうつくしく 海ながら しかまことからぬ 人は花ものぞ
うつせみ世人
「高い山と海では、山の性格としてこの様に現実的で確かである。海の性格としてあれほどに真なのである。それに対して、人間は花のようなものだ。空蝉なんだよ、人は。」うつせみ世人 の世は、世の中の世を取る説もあるが、万葉仮名で書かれているので、よし と とっておく。
空蝉は元々、リアルな世界に生きる人間を表すのだが、次第に譬喩や抜け殻のイメ-ジと結びつけて、儚い存在と伝えられるようになる。ここもその例で、高い山や海のように、確実で堅固なものに対して、花のように短く、現われては消える存在だと言っている。人の死に際して、作られたというよりは、人間の存在というものを考えてみたという趣である。
この三首がセットにされている。旅の歌も他の巻のものとは大きく違う。ここまで読んで来た様に、巻13の表現はどれも具体的な場面に即して、作られたというよりは、自由に創作を楽しんだ結果のように思われる。無記名であることは、
作者の立場や、題詞の設定する事実に縛られないことに繋がる。
江戸時代の国学者 賀茂真淵は、この巻13を古くから朝廷に伝わる歌集と考え、勝手に順番を入れ替えて、巻1~2に続く古歌の集として、巻3としている。しかし今の目で見ると、これ等の歌々にむしろ遊び心のようなものが窺われ、だから誕生からはよほど時間が経った作品が多いように思われる。私達もそのような楽しみ方をしても良いのではないか。
「コメント」
歌人達で勝手に歌を作って、宴会で盛り上っている情景が浮かぶ。玄人同志なので、成程なるほどと。