221001 ㉖養老・神亀の吉野讃歌 巻3、巻6

前回の概要

前回は志貴皇子とその子供達の話をした。志貴皇子は天智天皇の息子で、天武天皇の世の中では不遇だが、奈良時代まで生きて多くの子孫を残した。その一人が湯原王で漢詩文を参考にしながら、非常に洗練された叙景歌を作っている。

志貴皇子自身もどことなく陰翳(いんえい)の有る繊細な歌を残した。巻1は古い歌を集めた巻であるが、奈良時代に入った所で終わる。巻末部で破損したと考えられ、今は残っていないが、最後は志貴皇子の歌だったらしい。又、巻2も同様に奈良時代の歌を僅かに含むが、最後の歌は志貴皇子の挽歌である。巻8の巻頭歌は、志貴皇子の喜びの御歌であった。

万葉集はこの不遇な皇子に関わる歌を目立つ位置に置いているらしい。これは志貴皇子の子・白壁王が、天武皇統が尽きた後に即位して、光仁天皇になったことと関係するかもしれないとも述べた。光仁天皇の子が桓武天皇で、以後ずっと天智系の系統が続くのである。光仁天皇が即位するのは、宝亀元年 770年で、万葉集の中の歴史が天平宝字3年 759年 元日の巻20 巻末歌で終わった後の事であるので、天武期以降の歌は全て天武皇統の時代に作られていたという事になる。

草壁皇子の死、その子の文武天皇の即位そして10年足らずで崩御

しかしその天武皇統は決して順調に引き継がれてきた訳ではない。天武8年 679年 吉野での盟約によって、有力な皇子たちを序列化して、草壁皇子を皇太子に定めたものも、686年天武天皇が崩御すると、すぐさま大津皇子が草壁皇子に取って代わろうとした。その後、皇后と草壁皇子との二人で統治して、その内に草壁皇子が即位するはずが、僅か3年後に亡くなってしまう。やむなく皇后が即位して、持統天皇となり序列三位であった高市皇子が、準皇太子格の太政大臣に就く体制となった。その高市皇子が持統10年 696年に亡くなってしまうのを受けて、草壁皇子の子・軽皇子が立太子し、即位して文武天皇となるが、こうして天武天皇が目指した嫡子相続は何とか実現したのである。所がその文武天皇が、慶雲4年 707年 25歳で崩御してしまう。皇位継承は再び混沌とせざるを得ない。

母の元明天皇の即位 首皇子の立太子と元正天皇への譲位 首皇子・聖武天皇の即位

まず即位したのは文武天皇の母、阿陪 (あへ) 皇女であった。草壁皇子の后であった阿陪皇女は、天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹。持統天皇と同じ様に自分の子が亡くなった後、孫に皇位を継承させるために元明天皇になった。

皇位を継がせるべき文武天皇の皇子は首皇子と言って、7歳であった。元明天皇は平城京に遷都する大事業を行い、和銅7年 714年 首皇子が元服・立太子すると、皇位を文武天皇の姉に当たる、自分の娘の日高皇女に譲って太上天皇になる。元明上皇、元正天皇の母と娘で、首皇子の成長を待つという体制を作った。そして養老5年 721年 元明上皇が崩御すると、20歳を越えた首皇子が即位する事となる。聖武天皇である。

聖武天皇 吉野行幸

聖武天皇が即位するのは7242月 養老8年が改元されて元亀元年となる年である。その前後 養老7年、元亀元年、二年と三度続けて吉野行幸が行われている。これまで何度か触れてきたが、吉野は元々山岳信仰の霊地であった所が、天武天皇の創業の地となる事で、天武皇統の聖地となった所である。天武8年の盟約の時、天武天皇はよき人の

・・・・という歌で、繰り返しよく見るという事を命じた。後を継いだ持統天皇は、それを忠実に守って在世中に31回もの行幸を繰り返したのである。柿本人麻呂も吉野を見れど飽かぬと表現し、絶ゆることなく また還り見むと言挙げして、その誓いを宮廷全体のものとした。所がその後は、文武天皇が大宝2年 702年に行幸したのを最後に、天皇が吉野を行幸することは絶えていた。元明、元正の二代の女帝は吉野には行かなかった。それには様々な理由が考えられる。元明天皇が平城京に遷都すると、藤原京と違って吉野は遠くなるので、持統天皇のように頻繁に行幸することは困難であった。

又大宝律令が完成して、法によって統治することが定着すると、もう常に天武天皇のカリスマ性を意識させたり、国つ神の奉仕を受ける天津神の子孫としての天皇を強調したりする必要がなくなったのかも知れない。しかし久々に題詞の天皇が即位する。それは偉大な天武天皇の再来として盛大に祝わねばならない。それを吉野で行うために首皇子の成長を待つ中継ぎの女帝たちは敢えて吉野行幸をしなかったのだとする見方も成り立つ。

 

吉野行幸の歌

6は全巻 雑歌の巻で、聖武天皇の御代を描いている。その冒頭の部には、吉野を始め様々な土地に聖武天皇が行幸する際に従った宮廷歌人の歌で占められている。

 

聖武天皇即位前年の5月 吉野行幸があった時の作。最初は志貴皇子の挽歌を歌った笠金村の作である。

6-907 笠 金村 養老7癸亥夏五月吉野離宮に行幸の時 笠 朝臣金村が作る歌並びに短歌 1

原文

瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓 生有 刀我乃樹能 弥継嗣尓 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者

神柄香 貴将有 国柄鹿 見欲将有 山川乎 清々 諾之神代従 定家良思母

訓読

瀧の上の 三船の山に 端枝(みずえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(とが)の木の いや継ぎに 万代に かくし知らさむ

み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ

定めけらしも

 

6-908 笠 金村 養老7癸亥夏五月吉野離宮に行幸の時 笠 朝臣金村が作る歌並びに短歌 2

原文 毎年 如是裳見牡鹿 三吉野乃 清河河内之 多藝津白浪

訓読 年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内の たぎつ白波

 

6-909 笠 金村 養老7癸亥夏五月吉野離宮に行幸の時 笠 朝臣金村が作る歌並びに短歌 3

原文 山高三 白木綿花 落藝迫 瀧之河内者 雖見不飽香聞

訓読 山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 瀧の河内は 見れど飽かぬかも

 

907 長歌 略

作られた時がキチンと題に記されている。最初の瀧の上の 三船の山に 端枝(みずえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(とが)の木の は、いや継ぎに を引き出す序詞。「吉野川の激流の畔にある三船の山に、瑞々しい枝を伸ばして盛んに茂っている栂の木のように生き生きと」という事で、ここで今見えている景物を序詞にするのである。吉野離宮は吉野川の北岸にあり、対岸の左手に見えるのが三船の山である。(とが)の木の いや継ぎには、(とが)継ぎが似た音であると共に、栂(とが)即ち栂(つが)の木が真っすぐ伸びるようにと、譬喩的な意味も繋がっている。これは皆さんの記憶にあると思うが、柿本人麻呂の近江荒都にあった樛(つが)の木の いやつぎつぎに をここに持ち込んでいるのである。巻1-29

それは初代神武天皇以来の系統の継承を述べたものであった。金村はそれをいや継ぎに 万代に かくし知らさむ

み吉野の 秋津の宮は →「益々次々とこの様にお治めになっていくであろう み吉野の秋津の宮は」という、これからの皇位の継承に用いているのである。皇位の継承の前祝いの行幸であるから、この様に表現している。

み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ →み吉野の秋津の宮は、土地の神の為にこれほど貴いのか、国の側がこれほど見たいと思わせるのか と続く。

 

国見歌の類型にどこそこから見れば、これこれが見えるという見れば型と、どこそこはこうだと対象を直接誉める話型の二つがあると以前に話したが、この歌はこの話型を取っている。神からか の神は、人麻呂が吉野讃歌の巻2-38で歌った山神(やまつみ)川の神を指しているのだろう。見が欲し は、見たいという事でやはりこの歌が見る を強調する

吉野讃歌の伝統の上にある事を示している。最後の山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしもは、 川も清らかで爽やかだから成程神代からここを宮と定めたのも尤もだという事である。無論 神代と言っても、古事記日本書紀の神話に吉野が出て来る訳ではない。神武東征の物語に通過地点として吉野が出て来るが、そこに宮が作られたとはされていない。古事記で吉野宮が初めて出て来るのは、雄略天皇の所である。日本書紀では応神天皇である。ここはそう云った時代よりも、人麻呂が巻1-39吉野讃歌 第二首の最後に山川も 依りて 仕ふる神ながら たぎつ河内に 船出せすかも と歌ったのを受けていると思われる。山や川の神が挙って仕える天津神の意志が実現したと讃えられる天武、持統朝が神代とされていると思う。

 

第一反歌

908 年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内の たぎつ白波

「毎年、この様に見たいものだ。み吉野の清らかな河内の谷に流れる白浪は」という事である。

矢張り見る事が主題になっている。清きは、長歌にも清みさやけみとあり、人麻呂吉野讃歌 巻1-36山川の 清き河内(かふち)と 御心を 吉野の国 という表現を引き継いでいる。

しかし一方たぎつ白波 を毎年見たいというのは、人麻呂の たぎつ河内に 船出するかもと比較すると、自然の美を強調する傾きが強いように感じられる。

 

第二反歌

909 山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 瀧の河内は 見れど飽かぬかも

この歌にも同様なことが言える。「山が高いから白い木綿(ゆう)の花のように、たぎつ落ちる激流の河内は見ても見飽きないなあ」 白木綿花は、木の繊維を使った白い造花で、吉野川の泡立つ激流を、それに例える表現である。それが

見れど飽かぬかも という人麻呂の吉野讃歌が作り出した定型句に繋がっている。

所々出てきた人麻呂の語句の使用は、模倣として批判的にみられてきた。しかし今は吉野行幸の伝統の復活なのであるから、かって歌われていた人麻呂の吉野行幸を想起させるように歌うのは当然なのである。そして見が欲しからむ とか 見れど飽かぬかもと言った 見る ことの強調は 吉野よく見よ・・・という天武天皇の遺言が今も、そしてこれからも生きていく事を示している。

 

しかし人麻呂に倣って作れば自ずから異なるものが出来る。倣うという姿勢は所詮、オリジナルなものとの姿勢とは異なるからである。うべし神代ゆ 定めけらしも という長歌末尾は、はしなくも金村の現代が神代ではないという事を表している。人麻呂が歌った山や川の神が天皇に仕え奉ると言った表現は、今繰り返すのは大袈裟で、リアリティが無いのであろう。金村の歌に見える自然美への傾斜は、そういった天皇神話との距離感に現れていると考えられる。

 

山部赤人も笠金村と同じく、宮廷歌人の一人である。赤人にも吉野讃歌がある。但し赤人の歌は、金村の様に製作年を書いていなかったので、三度ある吉野行幸の内、どの行幸の歌か分からず、編者は最後の神亀2年 5月の行幸の時に金村が作った歌の後に、赤人の二首を載せている。二首目は中皇命の狩りの歌を扱った時に読んだので、今回は

一首目を読む。

6-923 山部 赤人の作る歌二首 反歌二首

原文 八隅知之 和期大王之 高知為 芳野宮者 立名附 青垣隠 河波之 清河内曽 春部者 花咲乎遠里

    秋去者 霧立渡 其山之 弥益々尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常将通

訓読 やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく青垣隠(こも)り 河なみの 清き河内ぞ 春へには

    花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの

    大宮人は 常に通(かよ)はむ

 

6-924山部 赤人の作る歌二首 反歌二首

原文 三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

訓読 み吉野の 象山の際の 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ 鳥の声かも

 

6-925山部 赤人の作る歌二首 反歌二首

原文 烏玉之 夜之深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

訓読 ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生()ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く

 

923 長歌

長歌はやすみしし 我ご大君 で始まる。初期万葉にも多く見られた天皇の呼び名ではあるが、人麻呂の吉野讃歌にも

1-36,38共にこの言葉で始まっている。赤人も人麻呂に倣う意図がうかがわれる。

「わが大君が深くお治めになる吉野の宮は、たたなづく青垣に染まり、川の流れも清らかだ」

この歌も国見歌の「話型」の構成を取っている。たたなづく青垣 は、古事記のヤマトタケルの「国偲びの歌」

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(こも)れる. 大和しうるはし に出て来る言葉である。青々とした山々に囲まれ守られていることを褒め称えている。そして人麻呂吉野讃歌 巻1-38にも たたなはる 青垣山 と少し形を変えて出ている。そして次にある河なみの 清き河内ぞ は、人麻呂吉野讃歌第一首 巻1-36 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国 という表現を受けたものであろう。その後に更に対句が続く。春へには 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる

花咲きををりとは、花が多くついた枝が重みで撓む事をいう。「春には花で枝が撓むほどに咲き乱れ、秋になると霧が一面に立ち込める。」 これは今見えるものを歌っているのではない。春と秋とを一遍に見ることは出来ない。春と秋、それぞれの典型的な美しさをあげて、吉野を讃えているのである。人麻呂吉野讃歌第二首にも 春へには 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり と言ったように、長歌は歌の時点を定めず、むしろ複数の時点の事を併せ歌うのが普通である。春と秋では対照的な位置にあり、交互に巡ってくる。そのいずれの春も花は咲き乱れ、いずれの秋も霧が立ち込めでいる。そうした盛んな自然が吉野では永続している。最後はその山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通(かよ)はむ →「その山がいよいよ折り重なる様に、この川が絶えることが無いように、宮廷の人々は変わらず通うであろう。」と締めくくられている。

この表現は明らかに人麻呂の吉野讃歌第一首巻1-36この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らず みなそそく 瀧の都は みれど飽かぬかも を踏襲している。ただし赤人は山 川の順番で歌っているのに対して、人麻呂は川 山の順になっている。人麻呂はその前の 大宮人は 舟並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る という川の叙述があるのを受けているので、この川の 絶ゆる事なく となるのである。又人麻呂の場合、この川の絶ゆる事なく と、この山いや高しらずと修飾するので完全な対句にはなっていない。一方赤人はその山の いやしくしくに と この川の 絶ゆることなくが、大宮人は 常に通(かよ)はむ を修飾していて、対句としてより整っている。振り返って見ると、赤人の長歌は

最初のたたなづく青垣隠(こも)り が山、河なみの 清き河内ぞ が川、春へには 花咲きををり が山、秋されば 霧立ちわたる が川と、ずっと山と川を対照的に述べてきている。最後は山も川も限りないことを述べて、ももしきの 大宮人は 常に通(かよ)はむ という結論に繋げている。

吉野は山と川で構成される世界で、赤人はその関連性を生かすことで反歌とするのである。

 

924 み吉野の 象(きさ)山の際の 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ 鳥の声かも

「吉野の象山の間の梢では、こんなにも騒ぐ鳥の声がする」という。象山は、金村の歌に出てきた御船の山の右側に見える山で、動物の象の山とかく。象の事を古代日本語で きさ と言った。

 

925  ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生()ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く

「夜が更けていくと、久木の生えている清らかな川原に、千鳥が頻りに鳴いている」久木は今、アカメガシワと呼ばれている木で、この反歌二首は共に鳥の声を詠んでいるが、対照的な反面もある。第一首のここだも騒ぐ 鳥の声かも は、

一般に鳥がよく鳴くのは朝なので、恐らく朝の情景を歌っている。そしてこれは象山の梢なので山の歌である。一方第二首はぬばたまの 夜 と時間を明示している。ぬばたま は、黒いもの、夜のものに関する枕詞で、恐らく深夜なのであろう
鳥は鳥目で夜は活動しないのが普通だが、この千鳥は夜盛んに鳴いている。そして場所は清き川原、川の歌という事になる。長歌の山、川の対が反歌二首にまで及んでいる。そして長歌の春、秋の対に対して、反歌は朝と夜の対になっている。反歌はそれぞれの時点を持つので、二首で対照的な時点を歌って、完全な時間を作り上げるのである。

アララギ派の意見

この反歌二首は長歌と切り離されて叙景歌として鑑賞されることが多い。アララギ派の歌人、島木赤彦は、

「万葉集の鑑賞及びその批評」という本で、至純であるとか、静粛なる感動とか と講評して、この長歌及び反歌を激賞している。アララギ派は写生を重んじたので、こうした、心情を交えず淡々と情景を述べる歌の評価が高いのは解る。しかし寂寥とか、騒ぐと言って却って寂しく、鳥の声が多いと言っていよいよ寂しくなるなどと言うのは、

一種の思い込みではないだろうか。

象山の谷あいには、象の小川という川が流れているが、この谷を溯ってみたら、梢からこんなにも多くの鳥の声が聞こえる。そこは賑わっているのである。第二首の方は夜だが、千鳥は群れる鳥なので千鳥しば鳴く→しきりに泣いているというので、やはりその空間は音で満たされているのであろう。久木生()ふる とあるので、歌の主体が河原に降りて歌っていることも明らかである。

 長歌の切り捨て

二首併せて朝も夜も吉野は賑やかな事を示している。長反歌は合わせて一つの作品なので、反歌だけを切り出して鑑賞するのは考え物である。長歌の春へには 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる という、盛んな情景の描写と合わせれば、

反歌も又吉野では自然物が盛んに生動していることを描くと見る方が自然な事が分かるであろう。島木赤人は教育者でもあって、万葉集を学校教育を通じて広げた人である。その功績は勿論であるが、近代では実作するのは短歌のみで

いきおい長歌を切り捨てる事に成りがちである。そうした読み方は現代では見直されてきている。

 

さてこの長反歌には、見る・見ゆ という言葉は一度も出てこない。反歌二首ではむしろ聞こえるものを歌っている。それは吉野讃歌には異例の事である。しかしそれは伝統に背を向けたというより、見るのみでなく聞くことにまで拡張したと考えるべきであろう。賑わう吉野は、見ること以上に聞こえる物音で良く表現されると思う。山部赤人のこの作品にも、万葉集が歌った国つ神の奉仕と言ったことは出てこない。それはやはり時代の趨勢で、天皇神話的叙述は影を潜めているのである。しかしそれは必ずしも天皇讃歌として後退したのではない。吉野の自然はずっと変わらずに盛んで、山の神や川の神の力が自然の美として現れる事を、金村や赤人は歌うのである。その力は漸く誕生する男性天皇の即位を支えるのである。

叙景歌と呼ばれる歌も自然を歌うのではなく、それを通じて自分或いは自分たちの心情を、象徴的に表現していると考えた方がよい。

 

大伴旅人の吉野讃歌

さて笠金村や山部赤人は、宮廷歌人による養老・神亀の吉野讃歌を読んで来たが、彼らと違う立場の官人が作った吉野讃歌が巻3に乗っている。

3-315 大伴旅人 暮春の月 吉野で中納言大伴卿 勅を奉じて作る歌一首 並びに短歌 

原文 見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 水可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之宮

訓読 み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 

万代(とこよ)に 変わらずあらむ 幸(いでま)しの宮

 

3-316 大伴旅人 暮春の月 吉野で中納言大伴卿 勅を奉じて作る歌一首 並びに短歌 

原文 昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨

訓読 昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも

 

315 長歌 略

題詞に暮春の月とあるので、これは神亀元年3月の行幸の時と分かる。元正天皇から聖武天皇への譲位が行われて

一ヶ月後の事である。中納言大伴卿とは大伴旅人の事である。6年前から中納言となり、聖武天皇即位と共に、正三位に昇進した。人麻呂や赤人と比べ物にならない高級官僚である。その人が歌う吉野讃歌は、どういうものであろうか。

まず宮廷歌人たちの歌と比較すると、ずっと短い。僅か11句。形はみ吉野の 吉野の宮は と提示する話型の国見歌

の型式を取っている。「吉野の山は山の性格からして貴いものらしい。川の性格からして爽やかであるらしい。」山と川で構成するのは、宮廷歌人たちの歌と同じである。しかし人麻呂は山祇や川の神の活動を造成したり、金村や赤人が

山、川の盛んな部分を取り上げて、美しく表現するようなところが旅人の歌にはない。

 天地長久 万代不易  聖武天皇の即位の宣命より

その上でこの長歌は観念的である。

続く天地(あめつち)と 長く久しく 万代に 変わらずあらむ 幸(いでま)しの宮 は、「天地と共に長く久しく万代ににもかかって変わらないであろう、この吉野の宮は」と言った意味で、これまた極めて観念的である。観念的というと、貶している様に聞こえるであろうがそうではない。これは観念に意味がある。天地(あめつち)と 長く久しく は、天地長久という漢語を読み下した言葉と考えられる。老子に「天は長く、地は久しい・・・」とあって、それと同じ様にいつまでも変わらないことを言う。一方万代(とこよ)に 変わらずあらむ の方も、万代不易という漢語が連想されるが、これにはよりはっきりとした

元があると思われる。それは一ヶ月前に出されたばかりの聖武天皇の即位宣命である。宣命は天皇の言葉で、漢文の詔勅に対して日本語のものをいう。但し天下万民に宣言する儀礼用に特殊化された言葉である。聖武天皇は、自分が即位する事に成った次第を宣命に述べている。その中で、元正天皇が自分に言った言葉として次のような一節がある。

「この天皇の位は貴方の父・文武天皇が、この度授けたものである。貴方がまだ若くて皇位に就けないと思って、文武天皇はまず母の元明天皇に授けられた。元明天皇は平城遷都という大事業をなさって、霊亀元年に私・元正天皇に皇位を譲られた。その時元明天皇は、私に、これは近江の大津宮で天下をお治めになった天智天皇が、何世にわたって変わってはならない、常の典としてお立てになった法則のままに、聖武天皇・貴方が必ず皇位に就くことが出来るようにと思って譲るのですよ」と仰った。「去年の秋、白い亀という瑞兆が顕れた。これは私の治世ではなく、あなたを寿ぐものだと思う。

今神亀と改元して、皇位を貴方に譲ります。」

 

元明・元正二代の女帝は、自分たちは文武から聖武への中継ぎだとはっきり認識していたことが分かる。そしてこの文武から聖武への皇位継承は、天智天皇が立てた「万世に改むまじき常の典」 万世不改常典 によるものと言っている。

嫡子が皇位を継ぐという事は、天智天皇の孫・大友皇子の子である葛野(かどの)王が、高市皇子が亡くなった後、文武天皇が即位する時に主張して、持統天皇を喜ばせたのと同じ論理である。万世不改常典は本当に天智天皇が定めたかどうかは定かではない。それに天智天皇から天武天皇への皇位継承は、嫡男・大友皇子を滅ぼして、弟・天武天皇が即位しているのだから、嫡子相続は天智天皇が定めた原則だというのは、誠に皮肉な事と思える。

しかし持統天皇も、父が天智天皇だからこそ即位できたのだし、元正天皇は母が天皇になったから即位できたのである。

だから天智天皇の権威を持ち出すことは、中継ぎを勤めた女帝たちにとっては必要な事でもあった。

 

旅人の長歌の万代(とこよ)に 変わらずあらむ というのは原文では 萬代尓 不改将有という字で書いてある。宣命の字面と一致するのである。中納言であった旅人は、宣命の発布にも立ち会ったはずだから、この表現に無関係とは考えにくい。旅人は万世不改が守られたことを祝いながら、この吉野の宮から永続することを歌い上げたのであろう。

 

316 昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも

「昔見た象の小川を改めて見ると、いよいよ清冽になったなあ」 旅人はここで見るを用いている。旅人はこの時60歳。

は、盛んに吉野行幸が行われていた持統朝の事であろう。その時も清らかであったが、久し振りに来てみると、いよいよ清らかに思われる。聖武天皇の即位を祝う吉野行幸。晴れの日を迎えた喜びがあふれている。しかし、これは持統朝の昔を知っている者の言葉であって、吉野行幸は20年以上もなかったので、朝廷全体を代表するものではない。そのような歌い方をしているのは、旅人が中納言という高級官僚であったからである。

この歌は題に、勅を奉じて作られたとあるが、天皇に差し上げることはなかったとも注記されている。

それは勅が官人全体に出されていて、それに応えるのは金村や赤人と言った宮廷歌人でであったからのようである。

下級官人達は、自分の立場と言ったものを持たないので、却ってその言葉が宮廷全体を代表することが出来る。それはいわば勅を受け、任務として歌うのである。

一方旅人には義務はなく、歌いたいから好きなように歌っている。旅人の属する大伴氏は、皇室を最後まで守るものであるという事を、アイデンティティ-としている氏族である。聖武天皇即位は、天智天皇の立てた原則に従って天武皇統が守られたことである。二人の偉大な天皇の遺志を受けて、若い男子の天皇による新たなステ-ジを開かれたという事を、

旅人は歌に歌って、喜ばないではいられなかったのだろう。しかし旅人の期待はやがて、大きく裏切られることになる。

 

「コメント」

 

持統天皇の苦心惨憺した文武天皇から聖武天皇の即位がやっと実現した。その為の努力は大変であったろう。ここの講座では表に出ないが、不比等、三千代の裏方の活躍が偲ばれる。しかし壬申の乱で、本来近江方に付くべき大伴氏が天武方に付いたのがいつも不可解。結局、天皇を守る氏族と言っても、強い方に付くのか。ここに言及した解説を知らない。