220910㉓「高市黒人と旅の歌 巻1、巻3

前回は天武天皇の皇子、皇女の歌を読んだ。柿本人麻呂が大きな存在であった時代、その近くに居て人麻呂の影響を受けながら自分たちで和歌の担い手になっていた。又、互いの男女関係がその

大きな主題となっている所も見えた。

高市黒人 羇旅の歌人

本日は柿本人麻呂と同じ万葉集第二期の歌人・高市黒人の歌を中心に読む。高市黒人の歌は短歌ばかりで、全部合わせても20首に足りない程で、人麻呂の存在感には到底及ばないが、歌風は人麻呂とは大きく違う。

そしてその歌風は次の時代に確実に受け継がれている。高市黒人の歌は都で作ったと思われるものはない。どれも旅先で作った歌である。旅の歌を羇旅の歌というが、高市黒人は羇旅の歌人である。

製作年代の分かる歌が巻1にある。大宝2年 70210月、持統天皇が三河に行幸した時の歌で、周囲の歌人たちの歌も含めて詠んでみよう。

 

1-57 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ) 大宝二年 太上天皇(持統上皇) 三河の   国に行幸の時に作る歌

原文 引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓

訓読 引間野に にほう榛原(はるはら) 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに

 

1-58 高市黒人 大宝二年 太上天皇(持統上皇) 三河の国に行幸の時に作る歌

原文 何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 傍多味行之 棚無小舟

訓読 いづくにか 船泊()てすらむ 安礼(あれ)の埼 漕ぎ廻()み行きし 棚無し小舟

 

1-59 誉謝(よさ)女王 

原文 流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良武

訓読 流らふる 妻吹く風の 寒き世に 我が背の君は ひとりか寝らむ

 

1-60 長(なが)皇子御歌 

原文 暮相而 朝面無美 隠尓加 気長妹之 廬利為里計武

訓読 宵に逢ひて 朝(あした)(おも)()み 名張にか 日()長く妹が 廬(いほ)りせりけむ

 

1-61 舎人娘子(おとめ)

原文 大夫之 得物矢手挿 立向 射流圓方波 見尓清潔之

訓読 大丈夫(ますらお)の さつ矢手挟(葉さ)み 立ち向ひ 射る圓方(まとかた)は 見るにさやけし

 

この時の行幸は、行先は三河とされていたが、伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の五か国に使いを送って、前もって準備させており、実際に一ヶ月半の時間をかけて回っている。

57 引間野に にほう榛原(はるはら) 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに

「引間野で色づくハンノキ林、そこに皆で一斉に入って衣に色を付けなさい。旅の記念に。」

引間野は愛知県豊川市御津(みと)町一帯。榛原はハンノキの林で、にほはせにはどういうことか諸説ある。ハンノキは木の皮や果実を染め物に使うので、その事を言っているとも言われるが、入り乱れ→皆でハンノキの林にてんでに入ってというのと合わない。ハンノキは花が11月に房状に沢山垂れてつき、そこから淡黄色の花粉が出る。

この行幸は大宝21125日頃までなので、花の穂を擦りつけて花粉の色を衣に写すことを言っているのであろう。

旅の記念として衣に色を付けることは、住之江の岸の埴生(海岸の粘土質の土)でも行われている。 その歌

1-69 清江娘子 草枕 旅行く君と 知らまさば 岸の埴生に にほはさましを   

住吉の女性が長皇子に奉った歌で、「旅行く方と知っておりましたら、岸の埴生で色を付けてさしあげたものを」

 旅の記念に住吉の海岸の粘土で衣に色を付ける事が歌われている。

長忌寸意吉麻呂も、旅の歌の多い歌人で、以前有間皇子の歌の話をした時に、紀伊の岩代で彼が作った歌を紹介した。

岩代の 岸の松が枝() 結びけむ 人は還りて また見けむかも

又、巻3-265苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎 狭野(さの)の渡りに 家もあらなくに「苦しいことに雨が降って来るなあ。三輪の崎の狭野の渡りには、雨宿りの家もない。三輪の崎は和歌山県の南部、新宮市の海岸近くの土地で、そこに降る雨は豪雨なのであろう。」 旅の苦労を歌った歌である。

藤原定家はこの長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌を本歌取りして、

駒とめて 袖うち払ふ 陰もなし 佐野のわたりの 雪の夕暮

新古今和歌集に入る名歌を作っている。ただしこれは雪が降っているので、佐野のわたりは紀州ではなくて、大和など別の場所の様だ。

 

58 いづくにか 船泊()てすらむ 安礼(あれ)の埼 漕ぎ廻()み行きし 棚無し小舟

安礼(あれ)の埼は、場所不明であるが、57の歌の引間野に近い岬なのではないかとも言われる。漕ぎ廻()は、漕ぎ廻ること。棚無し小舟は、波除けが無い小さな小舟を言う。

歌全体では、「どこに舟を泊めているのだろうか。あの安礼の崎を漕ぎまわっていた棚無し小舟は」である。

漕ぎ廻()み行きしは、漕ぎまわったのが過去の事を示す。だから小舟はもう目の前にはいない。さっき、岬を廻って隠れていった小舟は、今頃どこの湊に停泊しているのかと案じているのである。

59 流らふる 妻吹く風の 寒き世に 我が背の君は ひとりか寝らむ

誉謝(よさ)女王という系統不詳の女性皇族の歌である。この人は慶雲3706年に亡くなっている。

妻吹く風は、分からないが、つむじ風であろう。「吹き付ける風が寒い夜に、我がいとしい方はひとりで寝ているのであろうか」誉謝(よさ)女王自身は、行幸に加わっていない。誰か分からないが、夫が行幸の一行に居て、風が吹き付ける寒い中、一人で寝ているのだろうかと思いやっているのである。この様に家に残る者が、旅人を思いやる歌を留守歌という。

以前、大和に戻っていく大津も子を見送る姉・大柏皇女の歌 

2-106 二人ゆけど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ という歌を詠んだ。らむという助動詞を付けて、今、目の前に居ない人を思いやるのが留守歌の特徴である。

60 宵に逢ひて 朝(あした)(おも)()み 名張にか ()長く妹が 廬(いほ)りせりけむ

二句まで 宵に逢ひて 朝(あした)(おも)()は、名張という土地の名を引き出している。地名・名張を隠れるという

意味の動詞・なばる を掛詞で引き出すのである。「朝になって恥ずかしくて隠れるという名の名張で、何日も何日もあの子は仮寝して私を待っているのだろうか」名張は畿内と畿外を分ける東側の境であったが、その地名から思いついた

序詞と思われる。

その序詞の面白さに焦点があって、()長く妹→何日も何日も愛しい女 とあるが、恐らくこの歌を纏める為の存在なのであろう。やはり行幸の旅先から、愛しい人を思いやる留守歌である。

61 大丈夫(ますらお)の さつ矢手挟(葉さ)み 立ち向ひ 射る圓方(まとかた)は 見るにさやけし

舎人娘子(おとめ)は、舎人氏の女性という事で詳細は不明。舎人皇子との贈答歌が巻2-117,118にある。舎人皇子と乳兄妹と言った所。この歌も前の長皇子の歌と同じく、三句までの大丈夫(ますらお)の さつ矢手挟(葉さ)み 立ち向ひは、

圓方(まとかた)という地名を引き出す為の序詞である。圓方(まとかた)は、現在の三重県松坂市中野川周辺であると言われている。鎌倉時代の万葉集注釈に引用された伊勢風土記の逸文には圓方(まとかた)の浦の地形が、矢の形に似ているのでこの名があると、又天皇行幸でこの名が歌われたという事が示されている。この風土記の逸文の歌が、舎人娘子(おとめ)の歌の異伝であることは明らかである。この歌は圓方(まとかた)の地の実際については、見るにさやけし

風光明媚だと言っているだけなので、その前の序詞→立派な殿方たちが狩猟用の矢を挟んで立ちいる的という圓方(まとかた)という修辞に眼目がある事は明白である。長皇子や舎人娘子の歌の様に地名から連想された事柄を修辞として前に置くのは、もののふの八十宇治川など柿本人麻呂の関係する歌にも多くあったが、それが主題と深く結びついていたのに比べると、今 見た歌等は遊戯的で序詞の面白さに主眼がある印象である。もっと積極的な例に巻9-1710

我妹子が 赤裳ひづちて 植ゑし田を 刈りて収めむ倉無の浜→「わが愛しい子が赤い裳を濡らして植えた田なのに、稲刈りをして収めようとしても倉が無いという倉無の浜だ」という歌がある。倉無の浜という地名に対する興味だけで出来ている。尤も長皇子や舎人娘子のような遊戯的な歌も、くだらないとして取り去るには及ばないと思う。

 

行幸は一種のぺ-ジェントで民に朝廷の盛んな様を見せる場なので、仕える大宮人達は楽し気に遊ぶことも必要なのである。第一首の長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)もやはり行幸先での遊びを歌っているのである。誉謝(よさ)女王の歌の様に、冬の寒さを歎ずる歌もあるが、基本的には殆ど類型の中にある。その中で、高市黒人の歌は独自性が見える。既に目の前から消え去った小舟の行方を案じている。頼りない小舟だったけれども、それすらここには無いのである。その事は、今、旅先にいる自分の足元にも、何か不安を思わせるのではないか。そうした旅の心細さが、自然に滲み出てくる所に、高市黒人の歌の特徴がある。高市黒人の主な歌は巻3に多く載せられている。270-2778首並んでいる内、前半4首を詠む。

 

3-270 高市黒人 羇旅の歌八首 1

原文 客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保船 奥傍所見

訓読 旅にしてもの恋しきに 山下(やまもと)の 赤(あけ)のそほ船 沖を漕ぐ見ゆ

 

3-271 高市黒人 羇旅の歌八首 2

原文 櫻田部 鶴(たづ)鳴渡 年魚(あゆ)市方 塩千二家良之 鶴鳴渡

訓読 桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚(あゆ)市潟 潮干(しほひ)にけらし 鶴鳴き渡る

 

3-272 高市黒人 羇旅の歌八首 3

原文 四極山 打越見者 笠縫之 嶋傍隠 棚無小舟

訓読 四極山(しはつやま) うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟

 

3-273 高市黒人 羇旅の歌八首 4

原文 磯前 傍手廻行者 近江海 八十之湊尓 靍佐波二鳴

訓読 磯の崎 漕ぎ廻()み行けば 近江の海( 八十の港に 靍(たづ)さはに鳴く

 

270 旅にしてもの恋しきに 山下の (あけ)のそほ船 沖を漕ぐ見ゆ

一首目からして変わった歌である。旅に出て物悲しく思っている時に、さっきは山裾に見えた朱塗りの舟が、沖を漕いでいるのが見える。山下は、やましたと読む説もある。又意味も地名としたり、(あけ)の枕詞としたり、色々な説があるが、ここではヤマモトと読み→向うの山の麓に見えていた と解する説に従って置く。(あけ)のそほ船は、木が腐らないように朱色の塗料を塗った舟の事である。変わっているというのは、和歌は何かを見てそれに対する考えを歌うというのが、基本的な構造である。以前、舒明天皇の国見歌の話をした時に、何々を見れば何々見ゆ と言うのが、国見歌の基本的な形式であると言った。その形式は国見歌の他にも受け継がれて何々を見れば何々見ゆという歌の形を生む。

例えば柿本人麻呂の泣血哀慟歌巻2-209黄葉の 散りゆくなべに 玉梓の 使を見れば 逢ひし日思ほゆ

柿本人麻呂と言えば旅の歌にも、巻3-304 大君の 遠(とお)の朝廷(みかど)と あり通ふ 島門(しまと)を見れば 神代(かむよ)し思ほゆ→大君の遠い朝廷として往来する出入り口(明石海峡)を見ると、遠い神代のことが偲ばれる という歌。

難波と大宰府を結ぶ幹線道路である明石海峡は、頻繁に船が出入りする。それを見ていると、神代にここが作られ人々が通い続けてきたのだという。旅の歌だが、朗々として不安を感じさせない。こうした構造からすると、旅にしてもの恋しきにと、最初から旅愁を述べる高市黒人の歌は実に代わっている。その構造自体が不安定で、歌い手の不安を表している。

沖を漕ぐ見ゆと結ぶのは国見歌を思わせるが、それは見ていたら見えたというのではなくて、物悲しい心がその鮮やかな赤に引き付けられたという形になっている。それで沖を漕ぐ舟は、旅先にポツンといる自分の象徴のようになっている。

271 桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚(あゆ)市潟 潮干(しほひ)にけらし 鶴鳴き渡る

「桜田に靍が鳴き渡っていく。鮎市潟の潮が引いたらしい。靍が鳴きわたっていく。」

桜田は今の名古屋市南区元桜田町。年魚(あゆ)市潟は同じく名古屋市熱田区及び南区の西側一帯で刈って入り江になっていた。年魚(あゆ)市潟は、潮が引いたらしいと推測しているので、歌い手の近くではない。靍はそこに餌を取りに飛んでいくのである。三句と五句を繰り返すのは藤原鎌足の巻2-95 我はもう 安見児得たり 皆人の得かてにすとふ 安見児得たりなど比較的古い歌の形であるが、勿論鎌足の歌とは違う。鶴の群れを見送ることを繰り返しいうことは、この鶴に対する思い入れを表しており、何か置いていかれたような寂しさを感じているのではないか。漠然とした旅愁が漂っている。

272 四極山(しはつやま) うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟

四極山(しはつやま)を越えて見ると、笠縫の島に漕ぎ隠れていく棚なし小舟よ」という歌。四極山(しはつやま)は諸説あるが、大阪市住吉区から東住吉区の東南部にかけての岡と言われる。笠縫の島も未詳だが、大阪市東成区、生野区、東大阪市の辺りだろうか。この歌は何々見れば、何々見ゆという国見歌の型、最後に見ゆはないが、その型どおりの歌といって良い。

しかし見えている物が、先程の三河行幸の時と同じ様に、棚なし小舟という頼りない存在であり、しかも漕ぎ隠る漕いで行って 見えなくなってしまうという点に、やはり旅の不安を感じさせている。

皆さんは古今和歌集羇旅部409 詠み人知らず ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ を御存じであろうか。「ぼんやりと明るくなっていく明石の浦、そこに立ち込める朝霧の中で島に隠れていく舟を思う事だ」

ある人の曰く 柿本人麻呂の歌也ともいうとあるという。後には柿本人麻呂の代表作のように思われたが、万葉集には載っていないし、柿本人麻呂の作風とは違う。尤も近いのが、今読んだ高市黒人の歌で、島に漕ぎ渡っていく舟を見送りながら、そこはかとない旅愁を醸し出している。

 

後半の四首に移る。

3-274 高市黒人 羇旅の歌八首 5

原文 我船者 枚乃湖尓 榜将伯 奥部莫避 左夜深去来

訓読 わが舟は 比良の港に 漕ぎ泊てむ 沖へな離りき さ夜更けにけり

 

3-275 高市黒人 羇旅の歌八首 6

原文 何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者

訓読 いづくにか 我は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば

 

3-276 高市黒人 羇旅の歌八首 7

原文 妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝靍

訓読 妹も我も 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる

 

3-277 高市黒人 羇旅の歌八首 8

原文 速来而母 見手益物乎 山背 高槻村散去奚留鴨

訓読 (はや)来ても 見てましものを 山背(やましろ)の 高の槻群(むら) 散りにけるかも

 

274 わが舟は 比良の港に 漕ぎ泊てむ 沖へな離りき さ夜更けにけり

比良の港はやはり琵琶湖の西岸、近江舞子のある比良川河口付近。「私達の舟は比良の港まで漕いで停泊するのだろう。余り沖の方に離れないでおくれ、もう夜が更けてしまっているから。」この歌は呼びかける相手がいる。船頭なのであろう。最後の句から夜の停泊であることがかる。いかに湖とはいえ、夜、灯を点して漕いでいくのは恐ろしい事であったろう。余り沖に出ないでくれと言っているは理解出来る。旅の不安がよく表れた一首だと思う。

275 いづくにか 我は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば

これも琵琶湖西岸の旅の歌である。高島の勝野の原は、現在の高島市なので、比良の港よりやや北の地である。「一体どこで我々は宿を取ろうか。高島の勝野の原で日が暮れてしまったら」という歌である。旅をしている内に日が暮れてしまった。しかしここは原の真ん中、一体ここで宿ることになるのであろうか。これまた、語り掛ける相手はいるのだが、自分達だけで孤立しており、旅の不安に苛まれていることの良く分かる歌である。

276 妹も我も 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる

「貴女と私は一体だから、三河の二見の道で別々に別れかねる事だよ」

二見の道は豊川市の辺り。ここは浜名湖と海との間を通る東海道の本道と、浜名湖の北を通る道との分岐点である。その浜名湖をはさんで南北の道は分かれてしまう。が、自分たちは一心同体なのだ。ここで判れようとも別れられないと歌うのである。しかし何故妹とよぶ女性と別れなければならないのか。その事情は分からない。この歌は三河の三、二見の二、そして一つを表す歌なのかもしれない。そこに面白さがあるともいえる。

この歌の異伝として「三河(さんかわ) 二見の道ゆ 別れなば 我が背も吾も 一人行かなむ」がある。三河の二見の道で別々の方へ、あなたも私も行く事になるのだろうか という女の歌が載せられているが、同じく三、二、一と数を入れる事に興じているのだろうか。もっとも高市黒人の妻との唱和もある。

3-279 高市黒人 我妹子に 猪名野は見せつ 名次山(なすきやま) 角の松原 いつか示さむ→我が妻に猪名野は見せることは出来た。名次山も角の松原もいつか見せてやろう」 猪名野は現在の兵庫県伊丹市猪名川流域、名次山、角の松原はいづれも西宮市の地名である。

3-280 高市黒人 いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原(はりはら) 手折りて行かむ→「さあみんな、大和へ早く帰ろう。白菅の真野の榛原(ハンノキの林)の枝を手折っていこう。」真野は神戸市長田区の辺り。白菅は真野の代表的な景物で枕詞になっている。この後に黒人の妻の答える歌という題詞で

3-281 高市黒人の妻 白菅の 真野の榛原(はるはら) 行くさ来さ 君こそ見らめ 間野の榛原→「白菅の真野の榛原よ。行きに帰りに貴方は見ているでしょう、真野の榛原を。」二句と五句に真野の榛原を繰り返しているのは、この場所に対する愛着を表している。黒人も早く大和に帰ろうという歌に対して、あなたにとっては行き帰りに見ている榛原なんでしょうが、私は初めてきたのでもう少しここに居たい、そんなにせかさないで下さい というのである。

旅に妻がついてきて、歌を交わし合うというのは、万葉集中でも大変に珍しい。

 

黒人の歌にはこうしたほのぼのとした歌もある。さて、先程の8首に戻ると

277 (はや)来ても 見てましものを 山背(やましろ)の 高の槻群(むら) 散りにけるかも

「早く来て見てしまえば良かった。山城の多賀の槻(つき→けやき)の林はもう散ってしまっていたなあ。」

山背(やましろ)の 高は、京都府井出町多賀で、木津川流域の地。槻群(むら)は欅の林で、槻の木が落葉樹である事は、人麻呂の泣血哀慟歌の方でも言った。春は若葉し、秋は黄葉する、この黄葉を見たかったのに、もう散って見られなかったという。

 佐々木幸綱の「遅れてくる黒人ノ-ト」

歌人で研究者でもある佐々木幸綱に「遅れてくる黒人ノ-ト」という優れた高市黒人論がある。黒人は何故かいつも遅れてやってくる。高の槻群(むら)の黄葉にも間に合わなかったし、 四極山(しはつやま) 3-272から見る棚なし小舟は、島に漕ぎ隠れてしまう。早く来ていればであったはずのものだから、黒人は敢えて背を向けているのではないか。だから黒人の歌にはドラマが無いのだと言っている。これまで見てきた歌から見ても、確かに黒人の旅の歌には、旅先でその土地ならではの風景や景物に出会って、成功したというような作品はない。妻と同行しての旅でさえ、自分にとってもうとっくに知っている場所なのであるし、真野の榛原に至っては早く立ち去って帰ろうと言って、妻にたしなめられたりしている。といって、逆に自分の本拠、家を強く思う歌もない。大和に早くというのは珍しい方で、270-277までの8首には、家や大和については何も歌われていない。ただ旅先で、物珍しい思いをしたり、不安に襲われたり、多くのものを見たり聞いたりしているのである。万葉集の旅の歌は、旅先の見事な風景を歌って褒める歌と、何かにつけて家の方を眺めたり、家を思ったりする歌とが、二つの大きな柱になっているのだが、黒人の歌はどちらにも当てはまらない。

 

人麻呂と黒人の違い

二人の違いが良く分かる歌。

1-32 高市古人 近江旧都を見て感傷して作る歌

原文 古 人尓和礼有哉 楽浪乃 故京乎 見者悲寸

訓読 古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき

 

1-33 高市古人 近江旧都を見て感傷して作る歌

原文 楽浪乃 国都美神乃 浦在備而 荒有京 見者悲毛1-

訓読 楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒れた都 見れば悲しも

 

1-35 高市古人 近江旧都を見て作る歌

原文 如是故尓 不見跡云物乎 楽浪乃 舊都乎 令見乍本名

訓読 かくゆゑに 見じと言ふものを 楽浪の (ふるきみやこ)を 見せつつもとな

 

1-32-3233の作者は高市古人という名前になっているが、そういう歌人はいないので、或る本に言うように、高市黒人の間違いと考えてよい。

32 古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき

「私は遠い昔の人であるのだろうか、いや、そんなことはない。さざなみの古い都を見ると、悲しいことだ。」楽浪は、近江大津宮周辺の地名である。柿本人麻呂は近江荒都の巻1-29夏草が 茂くなりぬる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも と歌っている。見れば悲しも という点では、柿本人麻呂も高市黒人も同じである。そして人麻呂がその前に大津宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめらぎ)の 神の命の大宮は ここと聞けども と述べていて、初めて訪れる者の立場で歌っている点も黒人と共通している。しかし黒人が古の 人に我あれや と反語を用いて「私は古の人ではないのに」 と、古の人との関係を自分から断ち切ってしまうのは、人麻呂と大いに違う所である。無論、古の人ではない筈なのに、この無残な廃墟を見ると悲しくなってしまうと言っているが、それは今の人である自分が、古の人のように心を揺さぶられることに対する戸惑いとしている。

33 楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも

「さざなみの国の、国つ神の心がすさんで、荒れてしまった都を見ると悲しいことよ」

この歌も、見れば悲しも と歌っていて、人麻呂との長歌 近江荒都の巻1-29の末尾と同じ表現である。

しかしまず、荒れた都 と言っているのが、人麻呂とは違う。人麻呂の春草の 茂く生いたる 霞立つ 春日の霧れるも又、都が荒れていることの具体的表現に違いない。ただし人麻呂はそれを荒れたる と一言では表さない。そして、

人麻呂は反歌1-30楽浪の 志賀の唐崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ

         1-31 楽浪の志賀の大和田 淀むとも 昔の人に また逢はめやも

と、いつまでも忘れられずに昔の人の大宮人を待つ自然を歌っていた。いわば国つ神と共に、昔が還らないことを悲しんでいるので、その自然を国つ神と表し、その心が荒れすさんでしまったと歌う黒人とは対照的に感じる。

3233の黒人の歌の題詞には、近江の古き都を感傷して作る歌とあったが、感傷=センチメンタルという言葉は、黒人の二首に相応しいと思う。

35 かくゆゑに 見じと言ふものを 楽浪の (ふるきみやこ)を 見せつつもとな

「こうなるから見たくないと言ったのに、訳もなく楽浪の古い都をみせて」相手が自分にした行為を、どうしてこうしたのだと、非難する表現である。このような言い回しは、古都の荒廃を嘆くのには普通使わない。少々おどけた表現をわざと用いて、荒れた都を見るのを忌避している。目を背けないではいられない程、その有様が無惨であるという事は伝わるが、一方自分は古の人ではない。荒廃の当事者でないと言った意識が透けて見える。こうした歌い振りをとらえて佐々木幸綱は、人麻呂より遅れてきた人なのではないかと言っている。

高市黒人とは

確かに黒人の、年代の分かる唯一の歌も、最初にあげた三河行幸は大宝2年で、人麻呂が最後の歌を作った文武天皇4年、700年の2年後に当たる。黒人は人麻呂よりやや遅れて現れた歌人なのではないかと思われる。黒人の属する高市の連氏(むらじうじ)は、飛鳥を含む大和国の中心地・高市の郡を本拠とした一族だが、それほど有力ではなく、黒人も下級官人だったと思われる。旅の歌ばかりであることから、地方官を歴任して中央と地方を往復する生活だったのであろう。行幸にも従って、歌を作って披露することもあった。それは人麻呂も同様である。しかし人麻呂に遅れて現れたことで、人麻呂の作ったスタンダ-ドなものと、違った歌風を開くことにもなった。ずっと後、天平19年 747年、大伴家持が赴任先の越中で、黒人の歌が宴会で歌われるのを聞いて記録している。

 巻17-4016 婦負(めひ)の野に すすき押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ

「婦負(めひ)の野のススキを押し分けて降る雪の中で、宿を借りる今日は悲しく思われる」

婦負(めひ)の野は、越中の高岡市と富山市の間の丘陵地帯である。

如何にも黒人らしい線の細い、感傷的な旅の歌である。しかし家持は、こういう歌も好きだったのではないかと思われる。

例えば家持の巻19-4141 

春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ) 誰が田にか住む

「春を待ちうけて物悲しいその時、夜更けになって羽ばたき鳴く鴫よ、一体誰の田に住んでいるのか」

この出だしの春まけて もの悲しきに 最初にその時の気分を歌ってしまう構成は黒人の

3-270 旅にしてもの恋しきに 山下の 赤(あけ)のそほ船 沖を漕ぐ見ゆ を思わせる。

佐々木幸綱も言うように、高市黒人はマイナ-な歌人ではあったが、やはり和歌の歴史の中に現れた一つの大事なピ-スなのである。

 

「コメント」

高市黒人の名前は知っていたが、どういう人でどういう歌を作ったかは知らなかった。そして万葉集の仲での位置も。成程そうだったのか。