220813⑲「柿本人麻呂の臨死歌歌群と行路死人歌 巻2」
前々回は石見相聞歌と呼ばれる、石見の国から妻と別れて都に上ってきた時の歌。前回は同じく柿本人麻呂の泣血哀慟歌と呼ばれる、逢えない間に亡くなってしまった妻を追い続ける歌を読んだ。
何れも反歌二首ずつを伴う長歌二首という大規模な歌群で、全体が時間を隔てた連作と見るべき作品であった。そしてかなりの異同を含む異伝、或る本歌群を持つことによって、それらが長歌一首の形から二首の連作へと発展した経緯を読み取れるという事を話した。従ってそれらの歌は、柿本人麻呂が石見からの上京や、妻の死を実体験する時々に歌ったというようなものではなく、もし実体験があったとしても、それをフィクションとして昇華させた作品であると考えられる。そうした作品は皇子の挽歌や、吉野讃歌などと同じく、宮廷の場で披露された事であろう。その意味で作家と言えるのではないか。
正岡子規の影響 万葉集は雄大で質実剛健とするキャッチフレーズ
しかし万葉集の中について、フィクションであるという事は、長い間伏せられてきたように思われる。それは近代短歌の歩みの始めに、正岡子規がそれまで和歌の規範であり続けた、古今和歌集の価値を全面的に否定し、その対極として万葉集を置いて賛美した事と関係がある。仮名文字による縁語、掛詞を駆使し、見立てを多用する古今和歌集の歌の表現を、正岡子規は虚飾に満ちた嘘の趣向などと排撃して、万葉集の素朴で質実の表現こそが貴いと述べた。子規のみならず、明治の文学者たちは、挙って天皇から庶民まで素朴な和歌表現を共有していたという万葉集を健全であるべき姿としたわけである。作者層が幅広いとか、素朴で雄大とかのキャッチフレ-ズは、今でも文学史の教科書に書いてあるし、数年前に年号が変わった時にも全国放送で流れた。素朴ということは、生活に根差したこと、事実そのものを写生的に歌うという事と通じるから、万葉集的歌人である柿本人麻呂の歌に、物理的なフィクションを認めるのは、キャッチフレーズ的な万葉集に傷をつけるものとして避けられてきたのである。
その為に泣血哀慟歌に述べられたような柿本人麻呂の歌を、作品として読み解くという読み方は、昭和40年代になって、ようやく行われるようになったのである。
柿本人麻呂はどんな人であったのか
ここまで柿本人麻呂という歌人が、どの様な人であったかについては触れてこなかった。これは勿論よく分からないからでもある。続日本紀などには名前が見えない。古今和歌集の序に、歌の聖とまで崇められている柿本人麻呂は、一体どういう人なのかという事は、当然人々の興味を引く。近代に入っても、柿本人麻呂に対する議論はどこで生まれ、どこで亡くなったかという事に集中していた。泣血哀慟歌の二首の関係も、そこで歌われる亡くなった妻が、同一人物なのか、別人であるのかといった問われ方をしていたのである。それが柿本人麻呂の歌を、作品として語ることが少なかったもう一つの理由である。特にこれから読む歌群が、柿本人麻呂の死を歌っていることが問題を複雑にしている。
巻2-223 柿本人麻呂 石見の国にありて死に臨み、自ら傷んで作る歌一首
鴨山の 岩根しまける 我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ
巻2-224 柿本人麻呂が死ぬ時、妻依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の作る歌二首 1
今日今日と 我が待つ君は 石川の 貝に交りて ありといはずやも
巻2-225 柿本人麻呂が死ぬ時、妻依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の作る歌二首 2
直(ただ)の逢(あ)は 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ
223
題は柿本人麻呂が石見の国で死を前にして、自ら傷み悲しんで作った歌という事である。歌の意味は、鴨山の岩を枕に横たわっている自分の事を、知らないで妻は待ち続けているのだろうか。枕は安眠の為に使うので、草枕が旅の枕詞になる様に、不自由でもせめて草を枕にする。岩のように固いものを枕にするという事は、明らかに異常で山の中に倒れて、そのまま死んでしまう事を言っている。柿本人麻呂の場合、その様な状態で死ぬ時も先ず思うのは家で待つ妻の事。
224
柿本人麻呂が死んだ時の妻の歌で、妻の名は依羅娘子。今日か今日かと待ち焦がれているあの方は、石見の貝に混じっているというではないか という意味である。人が貴方の夫はこうなっていると言ったというのである。
225
直接に逢おうとしたら、逢うことは出来ないでしょう。石川に雲よ立ち渡っておくれ、それを見ながらあの人を思う事にしよう という意味である。夫がばらばらの骨になったのでは、もう直に会おうとしても会うことは出来ない。石川に雲が経ち渡ってくれれば、それをあの人がそこにいる徴として、見て偲ぶことができるであろう と言っている。亡き人の墓所に雲が立つことを願う歌として、
今城(いまき)なる 小丘(をむれ)が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か嘆かむ 前に日本書紀 歌謡で読んだ。
斉明天皇が孫 建皇子を失った後、墓のある今城谷を歌ったものである。同じ発想である。
柿本人麻呂の歌の題詞に 死に臨み自ら傷みてとあるので、これ等の歌を、臨死歌群と呼んでいる。今の三首によれば、
柿本人麻呂は妻を残して旅立ったけれども、病になったか遭難したのか、鴨山という山で自分を待つ妻を思いやる歌を残して死んでしまった。残された妻、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)は、その時は知る由もなく、長い間待ち続けて、夫柿本人麻呂が骨になって石川の峡(かい)に入り混じっていると聞いた。二度と直接会うことは出来ない。せめて石川に立つ雲を夫の徴として見たいと願ったという意味である。
臨死の歌の疑問点
問題は柿本人麻呂の歌の題詞に、石見の国にありて死に臨み と明記してありながら、柿本人麻呂の歌に出てくる鴨山も、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の歌二首に共に歌われる石川と、石見の国にはそれらしき山と川が無いという事である。
古来議論があったが、近世の国学者たちによって、有力視されていたのは、島根県益田市にある高津という土地である。ここの沖合に元篭島と呼ばれる島があり、平安時代の万寿3年1026年に大津波があって、一夜にして海に沈んでしまったという伝承がある。その島が鴨山で、そこに流れ込むかわが石川だというのである。
斉藤茂吉の鴨山論
そこに登場するのが斎藤茂吉である。そこを実際に見た上で、よしんばそのような小島があったとしても鴨山の 岩根しまけるという漢字ではない。それが不満であるとしたのが斎藤茂吉で、新たに鴨山と石川を探し求めた。正岡子規の流れを汲むアララギ派の歌人であった茂吉は、柿本人麻呂を非常に尊敬し、歌の注釈も含めて大著「柿本人麻呂」を著して、その中に鴨山考という文章を収めている。
茂吉は、石川は石見第一の河川 江の川であり、その上流に鴨山があると見当をつけ、昭和9年1934年に現在の島根県邑智郡美郷町周辺を探索して、そこが柿本人麻呂終焉の地であるという確信を持ち、そこの角山という山が鴨山と決めた。現在同町には、斎藤茂吉記念館がある。
斎藤茂吉は不思議な人で、自分の考えが客観的に見れば恣意的だということが分かっていながら、一方自分の実践した事は決して譲らずに主張する。そして自説を変更するのにも、躊躇が無い。昭和12年角山があると同じ村にユヤカイという大字に鴨山という山があると聞くと、又現地を訪れそこが本当に鴨山であると結論を変更している。
妻の出自 依羅(よさみ)という地名
さて石見相聞歌にも高角山、和多津などの地名が出てくるが、どれも島根県のこの地と確定することは出来ない。だから石見の国に、ここがという事を決める事が出来ない。しかし柿本人麻呂が石見で亡くなったとすれば、石見相聞歌に歌われる妻が、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)になるはずであるが、これには問題がある。依羅(よさみ)の娘子(おとめ)は、依羅(よさみ)という土地出身、或いは依羅(よさみ)の豪族の娘と考えられるが、石見には依羅(よさみ)という地名は見当たらない。
摂津河内の依羅(よさみ) 依羅(よさみ=依網 →、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)は、石見の女ではない
依羅(よさみ)という地名で知られているのは、摂津の国河内の依網(よさみ)郷で、今の大阪市住吉区から松原市の一帯である。古く崇神天皇の代に、依羅(よさみ)の池という貯水池が作られたと伝わり、現在も住吉区庭井町に式内社・大依羅神社が残る。そこの豪族 依羅氏に関しては、日本書紀の神功皇后の巻に依羅氏が見え、奈良時代の天平勝宝2年750年に、依羅の宿祢という姓を貰っている。依羅(よさみ)の娘子(おとめ)がその地、或いは氏族の女性である蓋然性は高い。
一方、石見相聞歌の妻は角(つの)の里に住んでいて、旅立つ自分にとってかけがえのない土地だと歌っているので、石見に生まれ育った女性と考えられる。
第二歌群の長歌 135に、さ寝し夜は 幾だもあらず→共寝した夜は幾らもなかった というのであるから、都から赴任してきた自分、石見で設けた妻であり、都に帰る時に置いて行ったと考えるのが自然である。その石見の女性が依羅(よさみ)の娘子(おとめ)という名を持っていたとは考えにくい。
斎藤茂吉の論点 前提が全て疑わしくなった
茂吉は「鴨山考」の最初に論を進める前提として、次の三点を認める必要があると言っている。
・柿本人麻呂が石見の国で死んだという事
・石見の乙女 依羅(よさみ)の娘子(おとめ)が同一人であり、且つ柿本人麻呂没時に、石見にいたこと
・柿本人麻呂は晩年石見国府の役人をしていたこと
これが前提となるのは正当だと思う。しかし今、二番目に疑問符が付いた。そして三番目にも疑問がある。
柿本人麻呂の長歌に付く反歌の題は、反歌とされているものと、短歌とされているものがあるという事は前に述べた。
そして年代の分かる作では、反歌とされているものは古く、短歌とされているものが新しいという事も言った。
例えば持統3年689年、草壁皇子挽歌の反歌には反歌とあり、持統10年、高市皇子挽歌には短歌とある。それは柿本人麻呂が、持統朝の半ばから反歌から短歌へと変更した可能性がある。
ここで石見相聞歌の反歌には、反歌とある。一方泣血哀慟歌に反歌には短歌とある。これによると、石見相聞歌は泣血哀慟歌以前の作品であると推測される。すると石見相聞歌は、柿本人麻呂の晩年の作ではないかもしれない。すると、最初の点も疑わしくなる。
臨死歌群には、関連する歌が他にもある。
巻2-140 柿本人麻呂が相別るる時、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の歌一首
な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか わが恋ひずあらむ
巻2-226 作者不詳 丹比(たじひ)真人 柿本人麻呂が心を当て測りて作る歌一首
荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにありと 誰かに告げなむ
巻2-227 作者不詳 或本の歌に曰く
天離(あまさか)る 鄙の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし
140 な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか わが恋ひずあらむ
柿本人麻呂の妻 依羅(よさみ)の娘子(おとめ)が、柿本人麻呂と別れる時の歌という題で、意味は 心配してくれるなとあなたが幾ら言っても、次に会う時は何時と知って私が恋しく思わないでいられるでしょうか。貴方に次に会う時が何時だか分からないのだから、恋しく思って当然でしょうという事である。これは巻2相聞部の最後の歌で、その前は131-139まで石見相聞歌の大歌群である。テ-マも夫の旅立ちによる別れで共通するので、140が石見相聞歌と関連する歌のように見えるのは当然である。しかし一方140は依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の作という点では、臨死歌群と共通する。
もし140が臨死歌群の一部で、別れる時の歌、夫の死ぬ前の歌、妻が夫を偲ぶ歌という構成だったとすると、編者が最初の別れの時の歌を相聞の部に、夫の死ぬ前の歌以降を挽歌の部に振り分けたという事になる。その時、現資料で石見相聞歌と臨死歌群とが連続していたら、編者は、石見相聞歌と臨死歌群とを一体のものと考えて、柿本人麻呂が石見で死んだと思ったのかも知れない。
すると挽歌の部に配列される最初の柿本人麻呂の歌 223に、石見国にありてと編者が書き加えた可能性がある。相聞部と挽歌部に泣き別れになっているけれども、石見相聞歌と140を含む臨死歌群とは、一体なのだと示す為である。
しかし臨死歌群は、石見相聞歌と本当に一体なのかと言えば、223の題詞 石見国にありて 以外にその証拠はない。
舞台は畿内である
依羅(よさみ)の娘子(おとめ)は、名前からすると摂津河内等の畿内出身と考えられる。鴨山も石川も畿内ならば対応する場所がある。
石川は今もそう呼ばれている川が、大阪府南部、奈良県に近い河内長野市から富田林市にかけて流れ、大和川に合流している。蘇我氏が後に石川氏を名乗るようになるのも、この川の名前に由来している。そして大阪府と奈良県の境にある葛城山が鴨山とも呼ばれる。葛城山の奈良県側の麓、御所市に今も鴨都波(かもつば)神社や、高鴨神社などがある。
探し求めるまでもなく、鴨山と石川は近接している。臨死歌群が、元々この辺りを舞台としていたと考えると分かり易い。
これらはその時に作られたものではなく、後に練られて作られたと見る そしてフィクション
石見相聞歌も泣血哀慟歌も、妻との生き別れ、死別を柿本人麻呂が経験したとしても、その時に作ったのではなく、練り上げられて作られた作品として再構成されたものであるという事は、夫々の回に述べた通りである。
臨死歌群はこの体験を再構成したものではないのは当然であるが、やはりフィクションと見るべきであろう。
その上にこの臨死体験の場合は、伝承されていく中での変化というものも考えなくてはならない。
226 荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我れここにありと 誰かに告げなむ
依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の石川に 雲立ち渡れの歌の後に、丹比(たじひ)真人という人の作った作で、死んだ柿本人麻呂を忖度して、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)に答えた歌である。
荒波によって打ち寄せられる玉を枕にして、私がここにいるとだれが妻に告げてくれたのだろうという意味。行き倒れになった柿本人麻呂の事を、誰か妻に告げたのかは確かに不思議である。歌の趣旨は分かり易いのだが、ここで注意したいのは、この歌が柿本人麻呂が、浜辺で死んでいる様に歌っていることである。それは依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の石川の 貝に介りて ありといはずやもという表現に応えたものであろう。石川は川のはずだが、貝がいるのは一般的に海なので丹比(たじひ)真人も、波に打ち寄せられる玉にしたのであろう。
227 天離(あまさか)る 鄙の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし
しかし或る本歌群の227の方は、又違う柿本人麻呂の死を描いている。天離(あまさか)る は鄙に掛かる枕詞。鄙の荒野にあなたを置いたままで、あなたの事を思い続けて居ると生きている気力もない といった意味である。
泣血哀慟歌の或る本歌群 215 衾道(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山道(山路)思ふに 生けるともなしによく似ている。恐らく柿本人麻呂の歌と知って真似しているのだろう。この歌は荒野にあなたを放置したままでとあるので、海辺でも川辺でもない様である。鴨山の 岩根しまけるという臨死歌群 2-223に状況としては近いであろう。しかし鄙のとあるのに注目しよう。鄙は畿内つまり大和、山城、河内、摂津の外側、畿外の地を指す事から、この歌を柿本人麻呂の死に関連付けた人は、柿本人麻呂は河内や大和辺りで死んだのではない、例えば石見のような鄙の地で死んだと考えているのであろう。こうして見てくると、柿本人麻呂は万葉集の中でも常に伝説化されている様である。
柿本人麻呂の伝説化
有間皇子が刑死する前に松を結んだとする説が伝わって、長 奥麻呂や山上憶良が追和の歌を作ったように、柿本人麻呂伝説に参加することが試みられたらしい。
巻2-143/144 長 奥麻呂の結び松を見て哀しむ歌二首
岩代の 岸の松枝 結びけむ 人は還りて また見けむかも
岩代の 野中に立てる 結び松 心も解けず いにしえ思ほゆ
巻2-145 山上憶良 追和する一首
鳥翔(かけ)り 成(あ)り通ひつつ 見せらめども 人こそ知らね 松は知るらむ
古今和歌集の序で、正三位の高官で奈良の帝と心を合わせてとされ、後には歌の神様として祀られ、今でも西日本を中心に600ヶ所の柿本神社、人麻呂神社があるという信仰の元は、万葉集の中にあったのであろう。
今見る柿本人麻呂の臨死歌群が柿本人麻呂の歌や依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の歌も含めて、その伝説化の結果である可能性もないとは言えない。但し、伝説化の核となったのが、柿本人麻呂によるフィクションであった可能性もある。
臨死歌群の舞台は、石見ではなく畿内なのではないか
依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の第二首 石川の 貝に交りての所は、石川の峡(かい)に交りてとする異伝がある。これなら自分の待つ夫は谷に入り込んでしまったというではないかと解することができる。河内の石川、大和の葛城を舞台とした歌としても、それなら充分に納得がいく。そもそもは柿本人麻呂と依羅(よさみ)の娘子(おとめ)との合作で、葛城の鴨山の谷に、紛れ込んで死んだ男を巡る歌による物語だったのではないか、それが谷を峡(かい)とも言う事から、貝と取り違える解釈を生じ、石川の海から歌を出して石見相聞歌と結びつくことで、柿本人麻呂が海辺で死んだという伝説も生まれ、
編者もそうした理解の上に立って編集したと、私はその様に想像している。そのようなフィクションや伝説化の基盤となったのは、行路死人歌の類型と考えられる。柿本人麻呂の行路死人歌とは、旅先で亡くなった無名の死者を悼む歌で、聖徳太子の作とされる伝説的な歌から萬葉集末期まで例がある。
巻3-41 聖徳太子 家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こ)やせる 此の旅人(たびと)
あはれ
巻3-426 柿本人麻呂 香具山で死人を見て哀しむ歌一首
草枕 旅の宿りに 誰が嬬(つま)か 国忘れたる 家待たまくに
旅の宿りに草を枕に寝ているのは誰の夫だろうか。故郷に辿りつけず、家では妻が待っているだろうに
旅の歌は総じて旅先で家の事を歌い、行路死人歌も例外ではない。しかし死者は無名で家族に告げる方法もない。弔う人もなく、朽ち果てる死者をただ痛ましく思う以外にない。臨死歌群で柿本人麻呂はこのような行路死人となって歌っているのであった。そして行路死人歌では伝えられない消息が、もし伝えられたとするならば という仮定を表現するのが、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)の歌なのである。その仮定の部分を、 誰かに告げなむという形で歌にしたのが、丹比(たじひ)真人某(なにがし)の歌と考えられる。
臨死歌群は、行路死人が歌い出すという点でエキセントリックであるので、様々な人々の想像を呼び込む所があったと思われる。石見の国での死去というのも、柿本人麻呂と依羅(よさみ)の娘子(おとめ)のみならず、その後の人々の想像力が作り上げたものではないかと思う。しかし万葉集が石見の国にありて死に臨み と書く以上は、鴨山も石川も、石見の国にある土地として、読むべきかもしれない。フィクションと考えるのであれば、石見に有力な鴨山と石川が見当たらないとか、依羅(よさみ)の娘子(おとめ)は石見の人とは思われないと言った事実のㇾベルには必ずしも拘泥しないでいいと思う。
実際の柿本人麻呂像
それでは実際の柿本人麻呂はどういう人であったのか。柿本人麻呂の歌に柿本人麻呂 石見の国にありて死に臨みとある事からすれば、六位以下といわれている。身分制社会であるから、死ぬのにも階級があって、夫々の階級によって呼び方が違う。六位以下の位のない人に至るまで、死である。昭和50年代に哲学者 梅原猛が、日本書紀の天武天皇10年681年に記事があって、続日本紀に和銅3年708年四位で卒去した柿本人麻呂猿という人こそ柿本人麻呂で、万葉集に死とあるのは罪人であったからだと説を立てた。
鴨山は益田の籠島として、そこで水漬けにして刑死したというのである。猿が柿本人麻呂だというのは、大きな反響を呼んだが、続日本紀に従四位下柿本人麻呂佐卒(さる)とある。何故正式に続日本紀で佐卒(さる)という名前にされながら、四位の官人の待遇がされているのかという根本的な疑問が残る。柿本人麻呂の位階化は繰り返し行われた。柿本人麻呂は五位上の官人ではなかった。しかし同族に四位の中級官人がいるので、庶民とは言えない。天皇から庶民まで和歌を歌うという状況は、少なくとも柿本人麻呂の時代にはない。柿本人麻呂は下級官人として長らく石見や讃岐の地方に赴任したり、使いをして出向いたりすることがあった。現地の女性との別れとか、旅先で行き倒れになって亡くなる言ったことを見聞きすることがあったであろう。
そうした体験を基にした創作は、それまでは天皇の周辺にしかなかった歌の世界を大きく広げた。下級官人としての立場でしか行わない文学は確かにあったのである。
「コメント」
今日も講師の論理立てがもう一つ良く分からない。理解度50%。柿本人麻呂の歌は、挽歌を除いてはフィクションが多い、自分の死を歌にしているくらいだから。下級官人である。要するに歌の専門職であったのだろう。