220806⑰「柿本人麻呂の泣血哀慟歌 巻2」
前回は柿本人麻呂の石見相聞歌を読んだ。それは長歌二首と、反歌二首ずつを加えて大規模な作品で、時点を変えた連作によって、妻と別れて次第に遠ざかっていく我の心情を巧みに描きだしていた。そして長歌一首、反歌一首だけで成り立っていると思われる、異伝によって柿本人麻呂の構想が連作へと発展したことが伺われる。従ってこれは作品として作られたものであって、柿本人麻呂が石見から上京する道すがら、次々と作品を作っていったと言うようなものではないというのか明らかである。
今回読む泣血哀慟歌も、反歌二首ずつを伴った長歌二首ずつから成り、或本の歌として異伝の長歌があることまで、石見相聞歌と同じである。泣血哀慟歌とは、血の涙を流して悲しみ、慟哭するという意味である。妻の死去という生活に関わる点でも、石見相聞歌に通じている。これを第一歌群、第二歌群と分けて見て行こう。
第一歌群
巻2-207 柿本朝臣人麻呂 妻が死んだ後、泣血哀慟して作る歌二首並びに短歌
天飛ぶや 軽の道は我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ顧(たの)みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる
千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も ひどりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
最初の天飛ぶやは、軽に掛かる枕詞。軽は地名で、今の橿原神宮駅付近である。今も電車の線路が集まっている場所で、当時から交通の要衝であった。人が集まりやすいので様々なセレモニ-の場になったという記録がある。そこは、妻のいる場所であった。その土地を、心を込めてみたいと思うのだが、何度も行けば人目に付く。人通りが多いので、知られることを恐れて、足繁く通う事が出来なかったというのである。それでさね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ顧(たの)みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに この辺は華麗な修辞で飾られている。さね葛は、蔓性で高く延びる所から、後も逢はむとの枕詞になり、大船のは、乗っていて安心なので、思ひ顧(たの)みてに、掛かる。
玉かぎるは、キラキラとしたものに掛かる枕詞で、美しい岩に囲まれる川の淵に掛かり、その二句で隠(こも)りのみ 恋ひつつあるにを譬喩する。のちには一緒になれるだろうと安心しきって、家に閉じこもって恋しく思っていたというのが主旨である。自分と妻との関係は人に知られてはいけない。和歌の上では、男女の仲は基本的には人に知られてはいけないというものである。
例えば大友家持と従兄弟の大伴坂上大嬢は、彼女の母・大伴坂上郎女が認める仲であるが、
巻4-730 大伴坂上大嬢が大伴家持に贈る歌
逢はむ夜は いつもあらむを 何すとか その宵逢ひて 言の繁きも
逢おうとすればいつでも逢えたのに、よりによって噂の立つあの夜にお会いしてしまいました などと歌っている。
他人を排除することによって、二人だけの関係を作る訳である。だから人の目をしのぶといっても、それは普通の事なのである。
柿本人麻呂と彼女は、通い婚の段階だったことは確かである。将来は共に暮らせることだろうと、頼みに思っていた自分の所に使いがやって来る。渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば →空を渡る日が沈んでしまうように、照る月が雲に隠れる様に、沖の藻のように靡き合った妻は、枯れ葉のように今、将に、ここを去っていくと使いは言ったのである。沖つ藻の 靡きし妹は、石見相聞歌に妻との共寝を、海の藻に繰り返し例えていたし、黄葉の 過ぎては、安騎野の歌に亡くなった草壁皇子を、黄葉の過ぎにし君と表現していた。柿本人麻呂愛用の修辞法といって良いであろう。知らせを聞いた自分はどうしたか。
梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに→知らせを聞いてどうしようもなく、しかし知らせを聞いただけではいられない。こういう時、常識的には妻の家に駆け付けるのであろうが、柿本人麻呂はそうしなかった。
我が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば→恋しく思う心の千万の一でも慰められるかと思って、愛しい妻がいつも出掛けていた軽の市に立って聞いてみると、と歌っている。過ぎて去にきと、使いは言ったので、妻は去って行ってしまったので家にはいない。それでは、いつも出掛けていた軽の市にいるのではないかと。自分はそれを信じている訳ではない。渡る日が暮れる様に、月が雲に隠れる様に、枯れ葉が枝を離れる様に、去っていった。使いの言葉の真の意味は分かっているのである。
一般に挽歌の中では死ぬという言葉は殆ど使わない。今でも、世を去る・みまかると呼ぶ。使いの言葉は実質的に、妻が死んだというに他ならない。しかしその言葉を聞いただけでは、納得できない自分は千分の一でも慰められるかと思って、妻を探しに出掛けるのである。
しかし妻はそこにはいない。玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も ひどりだに 似てし行かねば→ 玉だすき 畝傍の山という表現は、近江行とかにあった。畝傍山は軽の市の近くである。そこに鳴く鳥の声は聞こえても妻の声は聞こえない。玉鉾のは、道に掛かる枕詞。軽の市に行き交う人々は沢山いるけれども、妻に似た人はいない。すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる→万策尽きた自分は、人に知られることを恐れていた妻の名前を呼びながら、袖を振った。この行為は魂を呼び寄せる呪術と見る見方もある。
しかし、自分は妻が死んだという事に納得していないのだから、声を上げ袖を振って自分の存在をどこかにいる筈の妻に知らせようとしているのだ。
次に反歌二首
巻2-208 柿本朝臣人麻呂 妻が死んだ後、泣血哀慟して作る短歌二首 1
巻2-208 柿本朝臣人麻呂 妻が死んだ後、泣血哀慟して作る短歌二首 2
黄葉の 散りゆくなへに 玉梓(たまづさ)の 使を見れば 逢いし日思ほゆ
解説
第一反歌208は、秋の山の黄葉が激しく降りしきるので迷い行った妻を求めようにも、山道が分からない。黄葉が激しく降るために視界が閉ざされるという事は、石見相聞歌にも使われていた。それは、妻が山に迷い行った原因とも、妻を探しに行く道が分からないことの原因ともとれるが、探しに行けない方に解しておく。
第二反歌209は、黄葉が散っていく中、使いを見ると妻と逢った日が思われるという意味である。
長歌には黄葉の 過ぎて去にきという表現があり、第一反歌にも第二反歌にも黄葉が歌われている。季節が秋に設定されていることは、間違いない。しかし時点はそれぞれ少しずつずらされている。逢いし日思ほゆは、必死に妻を求めて
軽の市を探しまわっていた激しさとは程遠い。妻の姿を見出すことが出来ず、心の中にいる過去の妻の面影しかないのが第二反歌の段階である。
長反歌の間で時間が異なるのは石見相聞歌の反歌や吉備津の采女の挽歌などにも見える柿本人麻呂の連作の方法なのである。
第二歌群に入る。
巻2-210 柿本人麻呂妻が死んだ後、泣血哀慟して作る歌二首 並びに反歌
うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我がふたり見し 走出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがご゜とく 思へりし 妹にはあられど 頼めりし 子らにはあれど 世間を 背きしえねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲(しろたえ)の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝し 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮し 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども
逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人のいへば 岩根さくみて なづみ来しよけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば
この長歌は先ず想い出から語り始める。いつまでもこの世の人であると思っていた時、取り持って私達二人で見た長く延びる堤に立っている槻の木のあちこち延びた枝に就く、春の葉が茂る様に思っていた妻なのだが。頼みにしていたあの子なのだからと 述べる。槻の木は、落葉樹の大木である。春にはびっしりと若葉が出て、それを取り持つというのは、植物の生命力を我が身に振り付ける呪術で、自分と妻の二人はかってそうしたのである。妻はその言葉のように生命力が豊かで、行く末頼もしいと自分は思っていた。しかし世間を 背きしえねば→世の中の条理には逆らえない。不条理なようでも若い人が命を落とすことがあるのが、この世の条理なのである。
かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲(しろたえ)の 天領巾(あまひれ)隠り鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば →妻はかげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のスカ-フの中に隠れて、鳥のように朝、出立して夕日のように隠れていた。領巾は、細長い薄物の女性の首から肩へかけたらす装身具で、天領巾は天女の巾なのであろう。領巾の部分は葬列を思わせるが、イメ-ジ化、幻想化されていて、やはり妻がどこかに消えて行ったように述べられている。
残された自分はどうしているのか。
我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち
妻が形見に置いて行った赤ん坊が乳を欲しがって泣く度に、男である自分には与える物が無く、男らしくもなくその子を脇に抱えてウロウロするしかない。妻が亡くなったのも出産が原因と想像される。赤ん坊は妻の形見だけど、乳がない自分には育てようもない。
我妹子と ふたり我が寝し 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮し 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
私が妻と共寝した妻屋の中で、昼は淋しく暮らし、夜はため息をついて置き明かし、嘆いてもどうしようもなく、いくら恋しく思っても方法がない。
大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人のいへば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき
私が恋しく思う妻は、羽がいの山にいると人が告げてくれる。羽がいの山は萬葉集中に、表現が一つあり、これに従うならば、今の奈良市の東春日の地にあることになるが、第一歌群で歌われた軽の市とは離れているので、これを疑い、天理市東部の竜王山辺りとする説もある。その人の言葉を頼りに、自分は岩をかき分け難渋しながら来てみたが、何も良いことはない。うつせみと 思ひし妹が玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば→確かにこの世の人と思った愛しい妻が、ほんのりとさえ見えない。
この長歌はうつせみと 思ひし時にで始まり、うつせみと 思ひし妹がで終わる。という対照的な首尾を持っている。
うつせみと 思ひし時にとは、万物の成長する春、妻は二人で取り持った枝の若葉のようにはつらつとしていた。いつまでも変わらない確かな存在だと思っていたのである。しかし、うつせみ→この世の人間は、この世の条理からは逃れられない。妻は天女の領巾(ひれ)に隠れる様に、夕日が沈むように逝ってしまった。妻がいると言われた所に行ってみても、あれほど確かに思われた妻はほんのりとさえ見えない。しかし自分は諦めたのかというと、そうではない。長歌の最後には、見えなく思へばとある。
うつせみという見える存在であったのが、見えなく思へば→見えなく思った なのである。しかし自分には見えないと思っているだけで、本当は、妻はそこにいるのではないか。という余地を残した表現のように思われる。
第二歌群の反歌を読んでみよう。
巻2-211 柿本人麻呂 妻の死の後、泣哀慟して作る歌二首 反歌二首 1
去年見てし 秋の月夜(つくよ)は 照らせれど 相見し妹は いや年離(さか)る
巻2-212 柿本人麻呂 妻の死の後、泣哀慟して作る歌二首 反歌二首 2
衾路(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし
第一反歌
去年見た秋の月夜は、今も照らしているけれども、一緒に見た愛しい妻は、どんどん離れていく。
秋の月夜は 照らせれどというのは、今の感覚では変に思われるかもしれないけど、暗い夜空をバックにした月を、月夜(つくよ)という例は万葉集に沢山ある。この歌は自然は変わらないのに、人間は必ずうつろうという形の歌である。
結局山まで来ても、妻を見出すことが出来ず、妻は記憶の中にしかいなかった。去年一緒に月を見た妻は、一年を隔ててドンドン遠ざかっていく。秋の月夜は、第一歌群の長歌冒頭に歌われた春の葉の 茂きがご゜とくと、対照的に置かれていたのである。若葉の美しさは、秋に色を変えて散る事と引き換えである。妻は黄葉のように姿を変えて去って行ったのである。
第二反歌
衾路(ふすまじ)を 引手の山は、地名と思われるがどこか不明。衾とは、寝具の事であるが、天理市の竜王山とする説もある。その衾路(ふすまじ)を引手の山に妻を置いて山路を行くと生きている気もしないというのが、歌の意味である。
この歌には妹を置きてとあるので、自分は妻が衾路(ふすまじ)を 引手の山にいる事を知っている。ならば自分は妻に会ったのかというとそういう叙述もない。長歌末尾にほのかにだにも 見えなく思へばとあるのが、覆されることはない。妻がそこにいると人が言った大鳥の 羽がひの山と、(第二歌群の長歌)この歌の衾路(ふすまじ)を 引手の山とが、違うのが気になる。謎は残るのだが、羽がひの山を訪ねた自分が、更に妻を探し求めて、山中をさまよった挙句、引手の山に
妻がいると確信しながら、山路を更に辿っているのだと考えておくしかないであろう。その山路を辿る自分は生けりともなし→生きているという実感もない。
第一歌群と第二歌群とは連作であるという根拠
第一歌群と第二歌群を読んで来た。第一歌群と第二歌群共に長反歌の中で、時間の進行による連作構造を見る事が出来た。但し石見相聞歌とは違って、第一歌群と第二歌群との間では、連作と見る説と、互いに別の歌群とみる説とが現在も対立している。しかし私は二つの歌群は連作と見るべきと思う。例えば第一歌群に第二反歌は、逢いし日思ほゆと結ばれるが、第一歌群の中では、人目があるので頻繁には会えなかったと述べられるだけで、会った時の想い出は語られない。それを補うのが第二歌群の冒頭句で、春、池の堤で二人、槻の木の枝を取り持ったという事が回想される。
又第一歌群の第一反歌は、惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずもと歌っていたが、第二歌群では、人に告げられてまさに山に妻を求めに来ている。第一歌群では語られないことが第二歌群で補完されるという関係が見て取れる。別々の歌群だとする説は、第一歌群では人目を忍ぶ仲なのに、第二歌群では子供がいるとか、連作とした場合のリアリティを問題とすることが多い。しかしこの泣血哀慟歌は、妻の死とそれによる自分の行動や心情を、劇的に描くのであって、
史実の問題に引き下ろして、当否を論ずるべきではないと思う。それよりも、人の死を現実世界から別世界へと移ってしまうことと捉えた上で、どこかにいる筈の妻を探し求めてやまない自分が、第一歌群、第二歌群にもいるという事を、重く見るべきではなかろうか。そのように考えるのは、或本歌群がそれと大きく異なる主題を持つからである。石見相聞歌の或本歌群は第一歌群の異伝であったが、この泣血哀慟歌の或本歌群は第一・第二歌群の異伝である。或本歌群として別に掲載されているのは、歌の間に書き込むという方法で処理しきれない為である。どう違っているのか読んで確かめよう。
巻2-213 柿本人麻呂妻の死の後、泣血哀慟して作る歌 或本歌曰く
うつそみと 思ひし時に たづさはり 我がふたり見し 出立の 百枝(ももえ)槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 妹にはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かがるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ち行きて 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇挟持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼は うらさび暮らし 夜は息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢うよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 汝(な)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なつせみ来し よけくもぞなき
つつそみと 思ひし妹が 灰にてませば
この世にずっといると思っていた彼女と、手を携えて見た、堤に立っていた槻の木。そのあちこちの枝につく春の葉が生い茂っている様な美しい妻であり、頼みとしていたのに、世の無常には抗し難く、太陽が燃える荒野に白い領巾(ひれ)を覆って鳥でもないのに、朝に旅立ち、沈む夕日のように隠れてしまった。妻が残した形見のみどり子が乳を求めて泣く度に、与える物もない。脇に抱え込んでしまう。妻とふたりで寝た妻屋に居て、昼間はうら寂しく過ごし、夜はため息ばかりついて明かす。いくら嘆いても、なすすべもなく、恋焦がれるばかりで、逢う術もない。大鳥の羽がひの山に彼女が隠れていると人は言う。岩を押し分ける様にして、苦労してやってきたが、何も良いことはない。この世にいると思っていた妻が、灰になっていたので。
或本群の解説
うつそみは、うつせみの別の形だが、奈良時代になると殆どうつせみとなる。この歌の最初と最後にうつそみが、使われているのは、これが後に時代に伝承された結果生じた異伝ではないという証拠である。うつそみではじまる冒頭部分が、まず第二歌群と大きく異なる。妻がいつまでもこの世の人と思っていた時、手を携えて私達が見た枝の多い槻の木、あちこちに枝を伸ばすように、春の葉が茂る様に思っていた愛しい妻なのだが、頼みに思っていた愛しい妻なのだが。第二歌群では、二人で取り持っていた枝の若葉に例えられていた妻が、或る本群では、一杯に枝を伸ばし、若葉をもえ出でさせた槻の大木に例えられている。春に逢った時の妻の生命力を表現するのがあるが、第二歌群と比べて見るといささか、誇張が含まれている様に思われる。その後の中間部は、第二歌群とあまり変わらない。世の条理には逆らえないので、妻はかげろうの燃える荒野に、天女の領巾の中に、鳥のように朝 出発して、夕日のように山に隠れてしまった。妻が形見に残していったみどり子は乳を乞うて泣く度に与える物もないので、男らしくもなく、脇に挟んで持ち、我妻とふたりで寝た妻屋の中で、昼は淋しく暮らし、夜はため息をついて明かし、嘆いてもどうしようもなく、恋しくても逢う方法もない。そして貴方が恋しく思う妻は、大鳥の羽がひの山にいると人が言うので、岩根をかき分けて分け入ってきたが、何の良い事もない。そこまでは同じである。しか最後は違う。うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば
妻の姿を到頭見たのである。しかし妻は灰になっていたのである。火葬は柿本人麻呂の時代に始まった。
火葬について
続日本紀には、文武天皇4年700年 道昭という僧が亡くなった時、火葬にしたのが我が国の火葬の始めとする。
703年持統天皇が崩御した時にも火葬されている。文武天皇4年と言えば、柿本人麻呂の年代の分かる最後の歌を作っている年である。考古学によれば、もう少し早い時期から火葬の例はある。仏教の浸透と共に、ただの物質に過ぎないという考え方から、火葬は広められたのである。しかし人が灰になってしまうという事実は、当時の人々の人間観に大きな影響を与えたようである。柿本人麻呂には、巻3の挽歌部に、土形の乙女、又出雲の乙女を火葬した時の歌とされる作品があり、火葬の煙を雲や霧に見立てた表現が見える。この、泣血哀慟歌・或本歌群の表現は、より直接に
うつそみと 思ひし妹が 灰にてませばと歌う訳だが、やはり火葬は特別な意味を持った時代の歌であるという事は、間違いない。
さて妻が灰になっている、自分はどうするのか。反歌三首を読もう。
反歌三首
巻2-214 柿本人麻呂妻の死の後、泣血哀慟して作る歌 反歌三首 1 或る本歌群
去年見てし 秋の月夜は 渡れども 相見し妹は いや年離(さか)る
去年眺めた秋の月夜は、今年も同じ様に渡っていく。一緒に見た妻も遠ざかっていく
巻2-215 柿本人麻呂妻の死の後、泣血哀慟して作る歌 反歌三首 2 或る本歌群
衾路(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山道(やまじ)思ふに 生けるともなし
襖をひいて閉めるように、妻を葬った山に別れを告げてきた山道を思うと、生きる気力がない
巻2-216 柿本人麻呂妻の死の後、泣血哀慟して作る歌 反歌三首 3 或る本歌群
家に来て 我が屋を見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕
家にやってきて一緒に寝泊まりした部屋の床に、妻の枕が転がっていた
反歌の解釈
214
第二歌群の211とほぼ同じであるが、照らせどもが渡れどもになっている。月が渡るという表現は、奈良時代に少なく、柿本人麻呂時代に特有である。時間の経過を強く印象付ける。
215
215も212によく似ているが、下の句に違いがある。山道(やまじ)思ふには、既に山道にはいないことを表す。
衾路(ふすまじ)を 引手の山で、妻が灰になっているのを見た自分は、それを置いて山を出てしまったのである。212のように、そこにいる筈の妻と共に山中を行く風情はない。そして生けるともなしは、生きる気力が無いという事で、212の
生けるともなし→生きている実感がないというのと異なる。あの灰になった妻のいる山道を思うと、現世で生きていく気力が失われてしまうというのである。
216
或る本歌群だけにある歌で、家に戻って私達の家を見ると、木の枕があらぬ方向に向いていた。自分はもう家に戻ってきている。枕は、人の魂が宿ると信じられていたのであろう。しかし妻が灰になっているのでは、この世にいるとは思えない。主を失った枕は、ただの物質になって転がっている。
かように或本歌群は槻の木のように生命力にあふれた存在であった妻が、灰になってしまったという火葬の衝撃と、それに打ちのめされて生きる気力を失う自分を描く。それは妻を追い求めてやまない第二歌群とは全く異なる主題である。
石見相聞歌は、或本歌群が独立して先行し、第二歌群を付けて連作化する時に、第一歌群へと大きく改編されたものであった。それから類推するならば、泣血哀慟歌は、或本歌群が独立して先行し、前に第一歌群を付ける事で連作し、やはり第二歌群へと大きく改編されたものではないだろうか。そして泣血哀慟歌には、石見相聞歌以上に、ドラマツルギ-の大きな変更があったと思われる。
火葬の衝撃は確かに歌うべき主題であったのだろう。しかし柿本人麻呂にはそれを越えて、他界へと去って行った妻をいつまでも求めてやまない、我という存在を作り出したのである。そこに柿本人麻呂という歌人の、作家としての構想力を見たのである。
「コメント」
長歌と反歌の関係の話までは何とか分かるが、そこに第一歌群、第二歌群の関係とか、異伝とか或本歌群とか、この関係はどうとか言われるともう理解の外。まあ何とか講義録は書いたが、誰かに解説して貰わないと意味不明。ああシンド。歌の解説だけで充分です。