220618⑪大津皇子と大伯の皇女
前回は天武天皇と持統天皇の歌を扱った。天武天皇は壬申の乱で勝利して即位した天皇なので、
万葉集を4期に区分する考え方からすれば、前回から第二期に入った。第一期初期万葉の時と比べると、第二期の歌はしっかりした構成を持っていて、理解できる歌が多くなるが、天皇の歌はやはり不思議な歌が多くあった。それは天皇が神話の形式と共に、超越的な神秘的存在になっている事と
関連する。
皇位継承方法の変化 氏族の推戴→天皇の意志による自分の子への継承 母の出自が問題となる
皇位継承の形も変わる。以前の皇位継承は大兄と言われる有力な皇子の中から、群臣たちの推戴を受けたものが即位していた。皇室は多くの氏族の盟主の様なもので、誰が天皇になるかは、その力関係によって変わる。しかしこの方式では争いが不可避である。天智、天武も争いに勝利して即位した天皇である。彼らはそれぞれ権力の集中を図り、氏族たちを仕えるものと位置づけ、自分の子を
後継者に指名しようとした。
天智天皇が後継者とした大友皇子は、以前から皇太子であった大海人皇子に敗れてしまったが、
勝利した大海人皇子即ち天武天皇は吉野で有力な皇子たちを集めて、互いに争わないという盟を立てさせ、皇后の子・草壁皇子を皇太子とするという策を実行した。元々、有力な皇子と言うのは、能力もさることながら、母親が誰かによって定まる部分が大きい。天智天皇には、皇后や有力な氏族出身の妻には男子が無く、大友皇子は身分の低い伊賀の采女を母としていた。それが壬申の乱で敗れた原因の一つであったろう。
天武天皇は天智天皇の皇女という高貴な女性を皇后とし、その嫡子を皇太子とすることが出来た。
しかしそれでも後継者の指名という、新たな制度に納得出来ないものもある。今回の主役、大津皇子と大伯皇女はそういう人達であった。
大津皇子の謀反
朱鳥元年986年9月9日、天武天皇が崩御すると、皇太子草壁皇子に取って代わろうとする。日本書紀の持統天皇の巻を読んでみる。
10月2日に謀反が発覚し、大津皇子は逮捕され、加担した30人余りも捕らえられた。翌日、大津皇子は死を賜る、つまり自死をすることを強いられる。后の天智天皇皇女の山辺皇女は、髪を振り乱し、素足で駆けて殉死し、見る者は皆嘆いた。
その後の記述では1月29日に詔があって、加担した舎人が流罪、他は釈放された。軽い処分で決着。こうした事から、この事件は皇后(後の持統天皇)と草壁皇太子がライバルとなる大津皇子を抹殺しようとした陰謀ではとの説もある。但し万葉集や懐風藻といった文学書は、此の事件に関しては、正史にのらない裏話を語っていて、それは大津皇子に行動する意志があったことを示している。まず万葉集を見てみよう。
大津皇子が伊勢の斎宮に姉・大伯皇女を訪ねる 大津皇子は何故伊勢に行ったのか
巻2-105 大泊皇女 大津皇子を伊勢で見送る時
我が背子を 大和に遣ると さ夜更けて 暁露に 我れ立ち濡れし
弟の御子を倭に見送る夜、夜が更け暁になるまで、私は立ち尽くし、露に濡れました。
作者大伯皇女は大津皇子の姉。天武2年673年の4月、天照大神に仕える為に初瀬で潔斎し673年の10月伊勢に移る。天武天皇が祈願して、壬申の乱に勝利したことに対するお礼として斎宮を実質的に始める。
それ以来ズット伊勢に滞在していたと思われるが、そこに密かに弟大津皇子がやってきたと題詞に
有る。
歌は大和に帰っていく弟を見送る内容である。背子の本来の意味は女姉妹が男兄弟を呼ぶときに使うもので、それが転用されて恋しい人になっていく。ここでは本来の使い方である。弟を見送り立ち尽くす姿が目に浮かぶ。
巻2-106 大伯皇女
ふたり行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
ふたりで越えても大変な秋の山を、あなたはたった一人で越えている事でしょうか
弟を思いやる心情溢れる歌で、二人の心の結びつきの強さを感じさせる。大津皇子が伊勢にやって来たのは、決起に当たって今生の別れをする為だったと解することもある。しかしその為だけにわざわざ伊勢まで来たと見るのは、少々センチメンタルに過ぎる。伊勢神宮は私弊禁断である。→私弊とは天皇以外の人が献ずるお供えの事。神宮では禁じられている。天皇及び皇位を継承する可能性がある者だけが、奉弊出来るとされている。皇位を狙う仕業として厳禁され、大津皇子は自分こそが正当な皇位継承者であると自任して、先ず神宮に奉弊しに来たのである。そして伊勢の斎宮である大伯皇女はその手引きをしたのだという説に組したいと思う。以上二首の題詞は、ひそかに伊勢の神宮に上りて下るとあった。
大伯皇女は神宮から15KM離れた斎宮にいたはずで、姉に会いに行くのなら目的地は斎宮になるはずである。先の二首は、巻2相聞部持統天皇の代の最初に置かれている。その後に大津皇子関連の歌が三首、そして標的となった草壁皇子の歌が一首ある。
巻2-107 大津皇子
あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに
山の雫に濡れながらあなたを待っていました。山の雫に濡れながら
巻2-108 石川郎女
我を待つと 君がぬれけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
私を待ってあなたが濡れたという山の雫。その雫に私はなりたいものです。
巻2-109 大津皇子
大船の 津守が占に 告らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し
津守の占いによって、私達の交際が知られるとは承知していたが、私は共寝したのだよ
巻2-110
最初の二首、107、108は大津皇子と石川郎女との贈答歌である。大津皇子がまず歌を送る。足引きのは山の枕詞。しずくは夜露。どうやら山でのデ-トにすっぽかされた様である。石川郎女は大津皇子の五句を用いながら、答えている。相手の恨み言に正面から答えず、その夜露になったら一緒に居られたのにとかわしている。濃厚な媚態を示しながら、一方退かない姿勢を示している。それでも、大津はその人と結ばれた様である。
それは彼らの関係を津守連通(むらじとおる)と言う人物が、その関係を明るみに出した時に、大津皇子が歌ったというのが109である。秘密の暴露に対して、強気で通している。津守連通は、陰陽道の大家として有名な人である。
但し本当にこのような出来事が有ったのかどうか、編者も疑わしく思ったのか、題詞の下に未詳という註がついている。
何故二人の関係が秘密であったのかは、草壁皇子の110の歌で判るようになっている。
皇太子であった草壁皇子は、母の皇后と並んで政治を見る事になったので、日並皇子と呼ばれる。
巻2-110 日並皇子 石川女郎に贈る歌
大名児(おおなこ)を 彼方(をちかた)野辺に 刈る草(かや)の 束の間も 我れ忘れめや
大名児が彼方の野辺で、草を刈って束にしている。その草束ではないが、束の間も彼女のことが忘れられない。
彼女は皇太子の恋人だったのを、大津皇子が密かに奪って、明かされても居直ったという経緯が読み取れる。これらの歌は、持統朝に配列されているが、無論大津皇子は天武崩御後まもなく死んだので、持統朝に歌われたのではない。謀反に関わる大伯皇女の歌の後に、二人の皇子の恋のさや当てを事件の背景として述べている。後日談ならぬ、前日談である。古事記には政治的な敵対関係が男女関係を巡って語られる物語が多いが、ここにも似たような物語化があると言わねばならない。
懐風藻に見る大津皇子
此処で懐風藻に目を転じる。これには大津皇子伝があり、謀反の経緯を次の様に述べている。
大津皇子は大人になると、武を好み、力が強く、剣に優れて居た。自由気ままできまりに従わない一方、ひとかどの人物にはへりくだって尽くしたので、人が多く集まった。その中に新羅の僧・行信という占いが得意なものがあって、皇子に向かって「貴方は臣下の人相ではない。ずっと下にいると恐らく生命を全うできない」といった。それで謀反へと突き進んだ。誤った占いに惑わされ、道を踏み外した。筆者は、優れた資質を持ちながら忠孝は守らず、詰まらない人物に近付いて遂に死に至ったのは、まことに惜しいことだったと評している。
又懐風藻には、川島皇子の伝もあり、大津皇子とは親友であったが、大津が謀反を企てると、それを密告した為、朝廷はその忠義を誉めたが、友人たちは薄情だと非難したと出ている。筆者も、私情を捨てて公に忠を尽くしたのは分かるが、友を破滅に突き落とした行為には、自分も疑問を持つと感想を述べている。
懐風藻の大津皇子伝は、最初に大津の容姿が立派で、器が大きい事を述べた後、幼い頃から学問を好み、物知りで文章が上手だったと言う。
日本書紀の持統天皇の巻には、謀反事件の経緯の後、大津皇子の人物を述べる中で、大人になると分別があって、学才秀で、特に文章を好んだ。我が国における漢詩の隆盛は、大津皇子に始まるとさえ言っている。文武両道に秀でたすぐれた人物であったことは確かであろう。
懐風藻には四首の詩が収められており、一首は春の宴の歌、一首は狩りに出た時の詩。三首目は志を述べるという詩、一連の対句だけが残っている。世に表れない優れた徳を持つ人物は、用いられることもなく悶々としていると言った意味である。興味深いのはこれを連想させる趣向が、大津皇子が万葉集に残した和歌にも見られることである。
巻8-1512 大津皇子
経(たて)もなく 緯(ぬき)も定めず 娘子(をとめ)らが 織る黄葉(もみじば)に 霜な降りそね
経糸、横糸とはっきりとはしていないが、乙女たちがおる織物のように黄葉が綺麗だ。霜が降って散らさないで欲しい。
織物の経糸、横糸を、紅葉がとりどりに色づいているのを錦に見立てているのである。霜な降りそねとは、霜は降らないでくれという事で、霜が降りると折角の紅葉が散ってしまうというのだが、やはり
晩秋の景物を織り込んでいる。見立てと言う技法自体は、漢詩に起源があり、例えば三日月を女性の眉に見立てたり、白い梅の花びらを雪に見立てたりする。しかし大津皇子の作のように、見立てを連発するというのは、中国詩には見かけない。それはむしろ平安時代に和歌が盛んになる縁語
を思い出させる。大津皇子は漢詩を作る場合にも和歌的発想を交えているのではないか。それは
漢詩としては、和臭といい、日本人臭さとして評価を落とすのだが、見方を変えれば唐と大和のハイブリッドな表現と見ることも出来る。懐風藻の第四首は、謀反発覚後自殺を強要されるときの辞世である。
懐風藻 大津皇子漢詩 五言
金烏(きんう) 西舎(せいしゃ)に臨み
鼓声 短命を催(うなが)す
この夕 誰か家に向かう
太陽は西に傾き
鼓声は命の短いことを実感する
黄泉路には客も主人もなくただ一人
この夕、私は誰の家に向かうのか
初めの句は太陽が西の家を照らす、つまり夕方になったことを表す。日没が処刑の時期なのであろう。二句は鼓声それが時刻を知らせる。それはまるで自分の短い命を更に急き立てるようだという。
3句 泉路は黄泉の国への道で、そこには客も主人も区別はない。4句 此の夕べに自分は住み慣れた家を離れて、その死出の旅路に向かうのだと述べている。実はこの詩には似たような詩が中国に何首もあることが知られている。此の中国の詩と類似する詩を、辞世とする人が何人も以降出てくる。この為に大津皇子の辞世の詩も、後世に仮託の詩が挿入されたのではないかとも言われる。但し
大津皇子の詩は、中国の詩と比べるといくつかの点で特徴的である。鼓と日の光の順番が変わっている事、大津皇子の懐風藻の詩に和歌的な発想が含まれているのを見ると、中国の詩を改作して
自らの辞世の詩としたという事を認めてよいように思う。
大津皇子の辞世は和歌にもある。
巻3-416 大津皇子
百(モモ)伝ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
磐余の池に鳴く鴨を見納めにして、私はあの世に旅立つのだ
題詞に出てくる磐余の池と言うのは地名で、現在の桜井市内で、飛鳥から東北になる香具山の麓である。大津皇子の処刑の行われたのは、訳語田(おさだ)の家の近くであった。初句の百伝ふは、磐余の枕詞。雲に隠れるのは死ぬことの譬喩。これを巡っても、この歌を仮託だとする説がある。雲隠りは貴人が死ぬことの表現で、自分に使うことは無いというのである。
確かに雲隠りは貴人の詩に用いることはある。しかし逆に貴人の死にしか用いないかと言うと、そうではなくて新羅から来た尼僧に使った例がある。そもそも自分の死には用いない表現だとすれば、仮託の作として破綻していることになるので、これは根拠にした仮託説は成り立たない。大津皇子が自分の死を雲隠りとしても良いと思う。これは最初がやがあり、最後をむで結ぶ形で不本意を表す語法。雲隠りなむはヤマトタケルの様に、自らの死出を造形したかも知れないのだ。
しかし大津皇子は自分の生が、突然亡くなる事に納得していない。それは自分こそが皇位に就くべきものだという思いが強かったからであろう。大津皇子の母は天智天皇の娘の大田皇女で、皇后で
皇太子の母の鸕野讚良の姉であった。血統で言えば自分の方が上だと言う意識は有ったろう。太田皇女は天武天皇が即位する前の天智6年667年に亡くなっていた。日本書紀によれば、大津皇子は幼い時から、容姿に優れ言葉が明瞭で、天智天皇に愛されたとある。
その為に天武天皇は12年正月には、政事に参画するようにも言った。大海人皇子、大友皇子が皇位に近い存在として並び立った天智朝末期の様な様相になっていたのである。
自分こそはという思いは、同母の姉である大伯皇女にも共有されていた。
巻2-163 大伯皇女
神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに
神風の吹く伊勢の国にいても良かったのに、どうして私はここ藤原京に来たのでしょうか。あなたもいないのに。
巻2-164 大伯皇女
見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
会いたいと思うあなたもいないのに、どうして私はやって来たのでしょう。馬が疲れるだけなのに。
日本書紀によれば、大伯皇女は事件の一ヶ月後、11月16日に伊勢から都に帰る。大津皇子事件の影響とも、天武天皇崩御による斎宮交替とも言われる。その上京の旅の二首である。
二首は殆どくり返しで、自分の帰京が徒労に過ぎない事を嘆いている。最後は旅を続けてきた自分の疲れと馬の疲労が同調している。大伯皇女の歌はもう二首ある。
巻2-165 大伯皇女 二上山を見て歌う歌1
うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と 我が見む
この世の人である私は、明日からは二上山を弟と思ってみる事でしょう
巻2-166 大伯皇女 二上山を見て歌う歌2
磯の上に 生(おふ)る馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに
磯の上に咲く馬酔木の花を手折ろうと思うが、見せたいと思うあなたはいない
二首は大津皇子の遺体を葛城の二上山に移して葬った時の歌である。罪人である大津皇子は埋葬が許されず、野ざらしになっていたらしい。ようやく許されて、飛鳥から良く見える二上山に埋葬された。
第一首
うつせみは、この世の事。ここにもやがあり、むで結んでいる構文に注意しよう。この歌は気持ちを切り替えて明日からは、二上山を弟と思ってみようという風に解されることもあるが、やとむという助詞を考えると、自分のその様な明日からの行為に疑問が抱かれていることが分かる。現実世界に生きる自分が、何故弟をと思ってみなければならないのか。
第二首目
此処にもそれを窺うことが出来る。礒辺に生えている馬酔木を手折ろうと思うけど、見せるべき君がいる訳でもないのにと言った意味である。この歌の注は、移しはべる時らしくない。伊勢から帰京した時の歌ではないと疑っている。大伯皇女が帰京したのは、冬10月なので、馬酔木の花が咲いている時期ではない。見当はずれの注である。
しかし作者がその様に書くのは何故なのか。それはこの歌が、帰京の時の歌にそっくりだからなのではないか。
自分の行為が全て空しく思われるという徒労感が共通している。その原因は大津皇子が、この世にいないという一点にある。それは姉が自己の存在意義を弟にのみ、依っていたということである。自分達こそが正当であり、大津皇子が即位すべきという思いは、姉弟に共存されていたと思われる。それは都と伊勢に、離れていても変わらなかったことなのである。
大伯皇女は大宝元年701年に没したことが、続日本紀からわかるが、帰京後の事績は何も残ってない。
大津皇子が二上山に葬られたのは、その霊を祀るという以上に、その霊でもって大和の守り神とする意味があったのかも知れない。二上山は大和川の近くでそこは大和盆地の水が流れ出す唯一の出口である。それは又、風や病といった悪しきものの入口でもあった。有馬皇子の歌の時に述べたが、貴い血筋が無念の最期を遂げた人物を丁重に祀るのは、怨霊となる事を防ぐのに重要な事であった。
重要な土地に墓を営むというのも、その一環と考えられる。
日本書紀の事件の記し方も、古事記の例も大津皇子に関しては、非常に好意的である。謀反を計画したかどで、刑死する人物であるにも関わらず、美点を並べ、日本に漢詩文を興したとして、文名を挙げ、横死を惜しんでいる。それはやはり貴種を鎮魂するという意図に発していると思われる。古事記に詩を載せる事、そして万葉集に姉の歌も含めて、謀反事件の裏側を語る事も又、事件の興味を引くこともさることながら、やはり鎮魂の意味を見出すことが出来よう。
大津皇子や大伯皇女を巡る詩にも歌にも仮託ではないかと言う疑問が付きまとう。全部が後の人の創作であるという人さえいる。確かに石川郎女を巡る歌など、信憑性が疑われる歌もある。しかし例えば大伯皇女の挽歌などは、殆どくり返しで、後の人の創作ではこうはならないと思う。万葉集をはじめ、色々な文献が、この姉弟をどう表現しているかに尽きるであろう。
「コメント」
大津皇子の謀反事件は、巧みに作られた陰謀であると思う。そして、万葉集、日本書紀も持統以下の天皇の意図によって作られているのではないか。持統天皇の母としての執念の強さを見る。しかし、歴史学者はなかなかそうは言えないのだろう。何せ、根拠となる史料が無いから。