220604⑨天智天皇挽歌群 巻2

前回まで

前回は初期万葉時代の相聞歌について話した。巻2の相聞の部の実質は、天智天皇時代から始まっていて、その最初は天智天皇と藤原鎌足が、時期は違うが鏡王女と恋の歌を交わしている。そこには天皇と鎌足との特別な関係が窺える。又有力な皇子同士や氏族間の関係に、結婚が大いに絡んでいて、相聞歌というツ-ルがそれに役立てられていたという事を話した。天智天皇は本当に在位していたのは、最晩年の3年余りに過ぎないが、645乙巳の変以来、30年近く権力の座に居て、その間には朝鮮半島での争いに介入して、手痛い敗戦もあったが、それを含めて困難な治世を行ってきた。

奈良時代半ばに編まれた漢詩集「懐風藻」では、天智朝が画期とされていた。

日本書紀でも中大兄が権力を持っていた広い意味での天智朝での、帰化人たちの力もあって新たな挽歌が朝廷に生まれたことが記録されている。そして万葉集でも、額田王という本格的歌人が誕生した。広い意味で天智朝は新しいステ-ジだったと言える。

 

今回は天智朝の終わり、天智天皇の挽歌群について話す。巻2挽歌の部は、斉明朝の有間皇子関連の歌、護送中の歌と、後の時代に様々な人が歌った追悼の歌という余り挽歌らしくない歌から始まっている。それは既に話した。

その舒明期の次が、天智朝で、ここに収められているのは、全部天智天皇への挽歌である。

全部で9首ある。

2-147  倭皇后 天智天皇が病になった時の、大后の奉った歌

天の原 振り放()けみれば 大君の御寿(みいのち)は長く 天足らしたり

天空をふり仰いでみますと、大君のお命は長く天に満ちています

2-148 倭皇后 天皇が危篤になった時に、大后が奉った歌

青旗の 木幡(こはた)上を 通ふとは 目には見れども (ただ)に逢はぬかも

青々と樹木の上を御魂が往来しているのは、この私の目でも見えますが、直接お会いすることは出来ません。

2-149 倭皇后 崩御された時に、大后が奉った歌

人はよし 思ひやむとも 玉葛 影に見えつつ 忘らえぬかも

例え人々は忘れることはあっても、私には玉鬘を冠した大君の俤が見えていて、忘れ去ることが出来るでしょうか。

 

最初の三首は大后つまり倭姫皇后の歌である。天智天皇の異母兄でライバルでもあった、古人大兄の娘である。娘をライバルに嫁にやることは、やはり対立関係の緩衝材となる。結局古人大兄は乙巳の変で、支持基盤であった曽我氏が滅亡すると、出家して吉野に隠遁するが、結局謀反を疑われて誅殺された。しかし倭姫は、皇后の地位を最後まで続ける。鏡王女も、古人大兄の娘で、先ずは中大兄(天智天皇)に嫁いだらしいと前回に話した。

 

最初の歌(2-147)は、天皇が病に倒れた時の歌という事である。日本書紀によると、天智天皇は天智10年 6719月に病気になったとある。次年に悪化したようで、9月に大海人皇子を呼んで、後を託した。その頃の歌ではないか。しかしこの歌は 、みじんも天皇の病気を感じさせていない。天の原 振り放()けみればは、天空遥かに見渡すとと言った意味で、後々は叙景歌の定型となっていく。

しかしこの場合、見渡すと何が見えるかというと、大君の御寿(みいのち)は長く 天足らしたり→天皇の命が長く天に満ちているという。人の命は目には見えないけれど、古代人はそれを何か紐のようなものと表象することがあったようである。玉の緒→玉を貫く糸で命を比喩する事も万葉集に色々と例がある。

この歌も天皇の命を目に見える様にして、長くしかも天空を満たしているという。最後のたりは、その様な状態である、そうなっていると見た儘を述べる表現である。命がその様な状態ならば、当然天皇は無事であるに違いない。見る事によって、その様な理想的な状態が見えてくる、このような歌を記憶されているか。舒明天皇の歌った国見歌がその様な歌だ。

この倭姫の歌は、見れば型の国見歌の方を踏んだ呪歌じゅか)なのである。言霊の力で天皇の命を元気づけようとする歌であった。しかし結局天智天皇は回復することは無かった。

 

次に2-148は危篤に陥った時の歌とされている。しかしこれも又不思議な歌である。

直訳すれば、「青旗のほとりを通うと、目には見えるが直接には会えないことだ」

木幡は、今もその名で呼ばれる宇治市内の土地で、大和から南山城を経て、近江に至る道の要衝である。青旗のは木幡にかかる枕詞。「そこを往来していると、目には見えるのだが、直接には会えない」と嘆く。何が目に見えるかは言葉にされていないが、天智天皇以外にはあり得ない。確かに大津宮に移ってからも、天皇自ら河内の高安山に登って、砦を作る計画を立てたりしているので、木幡の辺りを往復することはあったであろう。しかし病の頃は、ずっと大津宮に籠っていたはずである。そして、皇后倭姫も側にいたことであろう。そうすると皇后が見たのは何であったのだろう。天皇のかっての姿の幻影が、或いは病の天皇から脱け出した魂か、それを決めることは難しい。それにしても、

(ただ)に逢はぬかも→直接にはお会いできないと言っている所が、前の歌の様な呪術性、言霊で理想を引き寄せようとする歌とは異なる。

前に述べたように、目に見えることは最も確実な存在の証とされたのであるが、(ただ)に逢はぬ→手に感じる感触がないことによって、覆されようとしている。この歌は、題詞に「一書に曰く」とあるので、万葉集の原本とは別の資料から取り入れられたものとされている。それで危篤の時の歌と題詞を疑って、実は崩御後の歌なのではないかとする説も有力である。亡くなって魂となって、天智天皇が故郷飛鳥へと通っているのが、私には見えると解するのである。確かにその方が、分かり易くはなる。又まだ生身の天皇が、そこにいるのに、幻影や霊魂を歌うのはおかしいと考えるのも分かる。

しかし、すくなくとも万葉集の編者の見た一書が天皇危篤の時の歌として納得して載せているのも事実である。一応天皇は危篤という事態に対して、想像と現実がないまぜになった表現と考えておく。

 

第三首 巻2-149は、天皇崩御の後の歌である。日本書紀によれば、123日に崩御、ついで11(もがり)→仮に安置して葬送儀礼をおこなう事。陵墓は大津より一山越えた山科に作られたので、殯も山科で行われたものと考える。玉葛はここでは影にかかる枕詞。葛のようなつる性植物は、輪にして髪飾りを作ることがあり、それを玉葛と呼んだ。そしてそのような冠りものを影という事もあるから、玉葛を影の枕詞にしたようである。

歌全体では、人はもし天皇を思う事を止めたとしても、俤に見え続けて忘れないことだと言う。

それは崩御の後、少し時間が経って衝撃が収まりつつあるときの歌であろう。忘れてしまうかもしれない人と、天皇の俤がずっと見え続けて忘れない自分とかと対称させている。そうした歌い方が許されたのは、自分が

皇后という特別な地位にあったからである。

 

発病から崩御の後迄、皇后の三首の後、様々な人の挽歌が並ぶ。

作者は全部女性である。恐らく天智天皇の後宮を対象にしたものと思われる。

2-150 天皇崩御の時夫人の作る歌 姓氏不詳

うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 放(さか)りいて 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて

(きぬ)ならば 脱!()く時もなく 我が恋ふる 君ぞ昨夜(きぞ)の夜 (いめ)に見えつる

この世の身である私は、神様のようにお供も出来ず、こうして離れ離れで嘆きつつお慕いするしかありません。

もし大君が玉なら手に巻き付けていよう、着物なら脱ぐこともなく、恋焦がれていましょう。昨夜、大君が夢に見えました。

 

これは姓名の分からない婦人の歌とある。空蝉→この世の人を表す。うつせみとは、知覚できない神や霊に対して、リアルな世界で仕えるものとしての人間を捕らえる言葉なのである。三山の歌にある様にうつせみを争う~は、神とうつせみを対照的に使うことが多い。今の場合も、神と同時に用いられているが、神には会えないし、逆らえないのでと限界意識を表している。人の生死は神次第である。それは天皇も例外ではない。天皇は神の世界、見えない世界に行ってしまった。離れ離れになった。でも昨夜夢に見えたと言っている。姓名不詳であるが、天皇に愛された女性の歌であろう。一方夢に見えつるだが、夢では無く、いめである。い→睡眠の事でいねというし、寝坊の事をいぎたなしという。いめは相聞歌に多く使われる。自分が一生懸命思っていると、恋しい人を夢に見る事が出来ると歌うこともあるし、相手の夢に現れることが出来ると歌うこともある。全然夢に出てこないのは、私の事を忘れているからでしょうなどと歌う事もある。

夢は物理的に離れている相手と、顔を合わせる事のできる会話であった。それはうつせみの世界とは別次元にあるので、時に亡くなった人との会話にもなるのであろう。天皇が夢に出てきたというのも、やはり相聞歌の発想に基づくものと思われる。そして、慕う心か通じて、天皇と交信が出来たと述べることは、天皇がうつせみという存在を失っても、消えてしまったのではない、神の支配する見えない世界に確かにいる事を証明するのだろう。それは悲しみに沈む女性達には慰めになったと思う。

 

2-151 額田王 大殯の時

かからむと かねて知りせば 大御船 泊てし泊りに 標結はましを

お亡くなりになると知っていれば、予め、大御船が止まっている港に、しめ縄を張っていたものを

2-152 舎人吉年(とねりのえとし)

やすみしし 我ご大君の 大御船 待ちが恋ふらむ 志賀の唐崎

天皇の大御船を停泊させて、待ち焦がれているのかい。志賀の唐崎よ。

 

この二首は(おおあらき)の時の歌と題されている。天皇の場合、尊んで(おおあらき)と書く。

一首目の額田王の歌の読み方には問題はあるが、一般に読まれたことに従っておく。標は、額田王が蒲生野の狩りの時に歌ったあかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振るにも出てきた。立ち入り禁止や占有のしるしになる物である。標を結っておけば良かったという事には二つの意味がある。一つは、大御船に悪霊が入り込まないようにしめ縄を張っておくべきだったということ、もう一つは天皇の崩御を大御船に乗って冥界に旅立ってしまったと見立てて、しめ縄を張っておけば防げたかもしれないとの見方であろう。標は普通、入る事を防ぐことだから、その点では前者の方に分があるが、大御船 泊てし泊りに限定するのは何故か説明に困る。今は後者に従っておく。死者が舟に乗って旅立ったと表すことは、世界的にも広く認められており、大和の古墳などにも舟が置かれている例がある。

二首目。志賀の唐崎は湖畔の景勝地。近江宮時代から名所として知られ、天智天皇も舟で遊覧したであろう。

天智天皇が病気になり、そこを訪れる事も亡くなった、志賀の唐崎は舟の到着を今も待っているだろうかと歌う。

大御船は日本書紀の歌にも表れている。この二首は同じ場所で歌われている。

天智天皇の(おおあらき)は、山科で行われたと推測されているが、大御船を歌うこの二首は、琵琶湖湖畔の大津宮で詠まれたであろう。(おおあらき)の時の歌と言う題詞、必ずしも(おおあらき)で詠まれたことを意味しない。そしてこの二首のやすみしし 我ご大君の 大御船とか言った言葉遣いは、後宮の中にも自ら立場の相違があって、臣下の立場から、忍び申し奉るという歌い方が現れていることを示している。

 

次の二首を読んでみよう。

2-153 倭姫 大后歌一首

鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖抜けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 興つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたな跳ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ

近江の海(琵琶湖)の 遥かな沖をこぎ来る船 岸近く漕ぎ来る船 漕ぐ櫂で沖の波を強く立たすな 若草の様な夫が思う鳥が飛び立つではないか

2-154 石川夫人の歌一首

楽浪の 大山守は 誰がために 山に標結う 君もあらなくに

近江大津京の大山守は、どなたの為にしめ縄を張って、お守りするのでしょう 大君もいらっしゃらないのに

 

鯨魚(いさな)取りは、海にかかる枕詞、若草のは夫の枕詞、ここは夫の天智天皇をこう呼ぶのは皇后にだけ許される人はよし 思ひやむともと、自分は特別である事を歌った149に通じる。そして若草の 夫の 思ふ鳥立つ思うのが、現在の事のように言われている事にも注意しよう。

天智天皇が湖水に浮かぶ鳥が好きで、眺めていたのは勿論過去の事である。客観的に見れば、亡き夫の形見である鳥が飛び去るのを惜しむのは、むしろ皇后自身である。

しかしこのように歌う皇后は、今も天皇が近くで鳥を見ている様に感じているのであろう。見えないけれども近くに感じられる夫と、一体化しながら、鳥を見ているのである。

二首目の石川夫人だが、名前からすると石川氏出身の夫人と考えられる。夫人は天皇の妻の位の一つで、大豪族出身の夫人と思われ、大后に次ぐ地位である。石川氏は曽我氏の後身である。天智天皇の妻については日本書紀正式に即位した所に記述があって、皇后倭姫の他に、8人の女性たちが載せられているが、ここには石川夫人の名はない。その8人の女性たちは、いずれも生んだ皇子皇女の名前と同時に、名が載せられているので子を生む事のなかった妻は載せられていない。石川夫人の歌154は天皇を喪失した思いの強い歌である。なくにで止めるのはなくに止めといって、万葉集にはよく使われる。この場合、君はいないのに誰の為にしめ縄を結うだろうと、文脈の倒置になっているだが、倒置になる事によって、天皇はもういないという事が、強調されて、その悲しみの余韻が残る。

先の皇后の長歌は琵琶湖の沖や岸辺で、漕ぐ船を歌っていた。その前の額田王、舎人吉年(とねりのえとし)は、大御船を歌っていたのに通じる。又石川夫人の歌は、湖ではなく山を歌っているのだが、しめ結うという言葉が額田王の歌と共通している。確実な証拠はないが、これに4額田王、舎人吉年(とねりのえとし)倭姫、石川夫人は、同じ場所で歌われたと思う。

 

最後の歌155は、その時の歌々とは性格の違う歌である。

2-155 額田王 山科御陵退散の時に歌う歌

やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと

笑のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ

恐れ多くも大君の御陵に仕える山科の鏡の山で、夜は夜通し、昼は日中ずっと。仕えて声をあげて泣き続ける。都に仕えていた大宮人達は三々五々去っていく。

 

再び額田王の歌で天智天皇の山科御陵から退き、退散する時に作った歌と言うのが、題詞の意味である。

ももしきのは大宮人の枕詞。大宮人は男も女も含めて天皇に仕える人の総称。今までの歌々が、後宮と言う狭い範囲で女性たちが歌ってきたのに際して、この歌は大きく場を広げている。万葉集には上に疑問のと言う序詞をおいて、下を推量ので結ぶ形の表現がある。それは自身がもうしてしまった事、これからしようとすることについて、そんなことはしたくないのに自分ではどうしようもないという不本意を表す。かくてや嘆かむであれば、「こんな風に嘆いているより仕方ないのか」「いつまで嘆いていたらいいのか」という気持ちである。

泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむは、「泣きながら分かれていかなければならないのか」という形である。まだ先の整理がついていない、声を出して泣いているような状態で、この御陵を去るのかという残念の表現である。普通はその表現の主語は自分で、言葉で明示されないことも多いが、この場合はそこにももしきの 大宮人はという主語がはめ込まれている見ることが出来る。つまり額田王は、自分の嘆きを大宮人全体に広げて歌っているだと思う。これまで見てきた額田王の歌は、多く天皇や皇太子の作と言う異伝を持っていて、それがその場の主の歌とされることもあったという事である。今の場合、集団の主が亡くなったことを受けて、臣下全体大宮人を代表して歌っているのである。これは先の舎人吉年(とねりのえとし)の歌やすみしし 我ご大君の 大御船 待ちが恋ふらむ 志賀の唐崎とはレベルが違っていて、次の時代の柿本人麻呂に通じるところがある。

 額田王の陵墓を去る歌と言うのは例がない→何か理由があるのか

しかしこのように、陵墓を去る時の歌と言うのは、他に例がない。夜昼泣き続けたまま、御陵から去る無念を歌うのは、何か事情があるのかも知れない。

実は日本書紀によれば、天智天皇の遺言を聞いた大海人皇子は、皇位を譲りたいという申し出を断り、皇后と大友皇子とに政治を預けると言って、吉野に隠棲してしまう。しかし天智天皇崩御後、陵墓建設のために集めた民に、武器を持たせているという事が吉野に届き、壬申の乱が始まる。遥か後の699年に天智陵を改めて建設する旨の記事があるので、陵墓は完成しないまま、戦いが始まったのであろう。

或いは額田王の歌の背景には、儀礼を途中で終えて解散するという経緯があったのかも知れないと推測される。

 

天皇の葬儀の歌としては、古事記の中巻に、次のような歌が載せられている。

皇后・皇子たちがヤマトタケルの陵を作る歌がある。

なづきの 田の稲幹(いながら)に 稲幹に 這い廻(もとろほ)ろふ 野老蔓(ところづる)

浅茅が原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな 海処(うみが)行けば 腰なづむ 大河原の植草 海処(うみが)はいさよふ 浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ

これは例のヤマトタケルが、伊勢の能煩野(のぼの)で亡くなった後の話である。

第一首 后や子供達が悲しんだ状況と、千鳥に変身したヤマトタケルを追う情景

大和にいたヤマトタケルの后や子供達が、能煩野にやってきて墓を作り、泥田で這いまわって泣きながら悲しんだという。自分達の有様を泥田に生えている山芋の蔓に例えている。すると、ヤマトタケルは巨大な白い千鳥に変身して、海の方に飛び去ってしまう。后たちは篠竹の切り株で足を傷つけながらそれを追っていく。

第二首  飛び去った千鳥を追っていく状況の歌

丈の低い篠の原で腰まで埋まって先に進めない。私達は空を飛べずに足で行く事よという意味である。

第三首 千鳥は海に出たので、水につかりながら追いかける

そして白い千鳥は海に出で、后たちは海水の中を苦労しながら進む。海を行くと腰まで水に浸かって進めない。まるで広い川の表面に浮く草の様に漂うばかりである。

第四首 最後に千鳥が磯に降りた時に歌った。

浜千鳥と言うのに浜は行かずに、磯伝いに行ったという意味である。川ならば行きやすいのに、ごつごつした磯では中々追いつけないのである。

 

古事記はこの四首を今に至るまで、つまり奈良時代の初めまで天皇の葬儀に当たって歌っていると言っている。ヤマトタケルは景行天皇の皇子で即位していなかったが、古事記の文中では例えば亡くなる事 を崩御の崩で表したり、天皇に準じた扱いをしている。そしてこの物語を天皇の葬儀の歌の起こりとするのである。

この四首の歌詞が実際にいつ頃の成立かは分からない。しかし、先に読んだ天智天皇挽歌群の歌々と大きく異なる事はすぐわかる。

これらには苦痛ともどかしさが顕著である。悲しみにのたうち回ったり、霊魂を追って行くという肉体的な動作が中心にあり、泥田の芋づるや水面に浮かぶ草に、自分たちの姿が例えられている。天智天皇が崩御した時に、これ等の歌は歌われたと思われる。

しかし、それがいかにも土俗的で、未開を感じさせるものでもある。身もだえとか、何かを追いかけると言った所作を伴っていて、歌の表現だけでは何のことか分からないであろう。

こうした葬儀の時の歌とは別の場、後宮の妻たちによって、呪歌や恋歌の形を借りながら、和歌による挽歌、純粋に言葉による悲しみの表現が作られていった。そしてその最後には、天智朝のスタ-額田王によって、天智天皇に対する尽きる事のない悲しみが、大宮人を代表して歌われたのである。挽歌の上でも天智朝は一つの画期であった。

 

「コメント」

天智の崩御の前から、近江と吉野は不穏な空気があって、葬儀も落ち着いてされたとは言えないのでは。当然、大海人皇子、皇后などの近い皇族の参列もなかったろう。額田王も挽歌を披露したら、すぐに飛鳥に戻ったのでは。大物の天皇にしては、残念な葬儀となったと想像する。