220528初期相聞歌の世界 巻2
前回の挽歌は、謀反を企てたとして逮捕され護送されていく有間皇子の悲しみの歌で始まっていること、一方日本書紀の同時期の所には、天皇や皇太子が肉親の死を悼む歌が、載せられて居るという話をした。
今日は同時期の相聞歌を読んでみよう。
巻2巻頭が磐の姫の歌で始められていることは既に話した。それは不在の長くなった大君を嘆いて煩悶する歌であった。
又、額田王と鏡王女が、天皇の訪れが無いことを嘆く歌の唱和が、巻4、巻8に重ねて乗せられている事を話した。
それは実際の人間関係を反映したものではなく、創作と思われる。恋の歌としては額田王の大海人皇子との唱和もあった。これは巻1 雑歌の部に、天智天皇とその妻の一人である額田王、そしてその元の夫である大海人皇子との三角関係は歌の上でのことであって、実際に兄弟が額田王を巡って争っているという事実はない。
男女の愛情に関わってはいても、今まで見てきた歌は、相聞という範囲から外れている。相聞という言葉は、勿論漢語で、消息事というのと同じである。つまり書簡のやり取り、離れている者同士が、
連絡を取り合うという事である。そういう意味での相聞歌を読んでみよう。
巻2-91 天智天皇 鏡王女に賜る歌
妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを
あなたの家をずっと見て居たいものだ。大和の、あの大島の嶺に家もあったらなあ。
巻2-92 鏡王女奉る歌
秋の山の木々に隠れて下る水のように、私の方こそ思いは勝る一方です。貴方が思って下さる以上に。
巻2の相聞歌は、仁徳天皇の代で磐の姫の歌の次は、いきなり天智天皇の代まで飛ぶ。そしてその最初は、天皇と鏡王女との贈答歌である。まず天智天皇が鏡王女に賜った歌であるが、「貴女の家をずっと見て居たい」と言った現実仮想で、現実と異なる願いを創造する表現を作る。2句と5句に
「ましを」という表現の繰り返しに現れている。
余程その願望が強いという事である。しか天皇が何を望んでいるのかは、はっきりしない。
一つには鏡王女の家が「大島の嶺に有ったらな」と解する説がある。大島の嶺はここから見える、
あなたの家がそこら有ったらいつも見えるのにという訳である。
もう一つは、自分の家が大島に有ったらと解する。山の上に家があったら、こちらから貴方の家はいつも見えるだろうというのである。「大和なる 大島の嶺」がどこか分からないことが複雑にしている。
通常「大和なる」は、大和以外に自分がいる事を表す。しかし、近江のスメラミコトというが、近江の大津宮に遷都するのは、崩御の4年前、天皇位につくのはその1年後。そのような老年期の歌とも思えないので、天智天皇の時代に分類されているが、もっと前の孝徳天皇の難波宮にいた時の歌ではないだろうか。難波宮は大坂の上町台地、今の大阪城の南西にあったから、今の大阪平野、昔の難波潟を隔てて、大和との境の山、生駒、信貴の連山が嶺のように見えたはずである。それを大島の嶺と
呼んだとしたら、そこに鏡王女の家があったとするのは分かり易いと思う。
さてそれに対する鏡王女の返事であるが、「秋山の 木の下隠り 行く水の」3句まで序詞となっている。序詞は相聞歌に多い修辞で、歌の趣旨とは別の事柄から歌い始めて、途中で趣旨へ転換していくのだが、物の描写が序詞となって、心理表現と転ずるのが普通である。
この場合、描写されたものが、心情の譬喩になる場合が多い。今の歌ならば、「秋の山の紅葉の下に流れる水、それは隠れて見えないけれど、長雨で水量を増している様に、人に見つからないかもしれないようでも、私の心の恋しさは募っているのです。」と表現している。そして、その序詞は同時に、「私の思いの方が勝っている、あなたの思っているよりは」とも引き出すのである。それは益すという言葉が、増えるという言葉とも、優越するという意味にもなるので、序詞はよくこのような場合に使われる。
全体的に鏡王女の歌は、天皇に対して反抗的に答えている。自分の思いは目立たないけれど、勝っている。それは天皇の歌は派手でも実質がないという事とも成りかねない。それでもいいのでしょう。
むしろこうした対抗するような歌の方が、和する歌では普通であった。巻4、巻8の額田王と鏡王女の唱和で、「あの人が来たと思ったら風だったと」という額田王に対して、鏡王女は「私なんて風を恋しく思うことすら出来やしない」と答えていたことが思い出される。
続けて次の二首の贈答歌を載せている。
巻2-93 鏡王女 内大臣藤原鎌足が鏡王女に結婚を申し込んだときに、鏡王女が鎌足に
送った歌
玉櫛笥(くしげ) 覆うを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも
化粧箱のふたを閉めておけば安心とばかり、貴方は夜が明けてからお帰りになりますが、それでは浮名が立ってしまいます。貴方はそれでいいでしょうが、私は困ります。
巻2-94 藤原鎌足 鏡王女に送った歌
玉櫛笥 みむろの山の さな葛 さ寝ずはつひに 有りかつましじ
三室の山のさね葛ではないが、あなたと共寝をせずに、そのまま帰るなんて出来ましょうか
藤原鎌足と呼ぶのが普通であるが、実は藤原という姓は、天智8年 669年、鎌足が亡くなる前の日に、天智天皇から賜った姓で、それまでは中臣であった。ついでに、名前も最初は鎌子であったが、鎌足と孝徳朝から改名した。
此処では、後の時代の名称で遡らせている。歌自体も、天智朝の配列であるが、先の天智、鏡王女の唱和同様に、もっと前の時代の作であろう。
但し、今度は鏡王女の歌の方が先に在る。2句迄は序詞。櫛笥は串を入れる箱→化粧箱、玉は美称。
化粧箱の蓋を、開けっ放しであれば、箱の底が丸見え、貴方が明るくなって帰ったら、同じ様に丸見えで、あんな男を通わせていると噂になったら、そっちは平気かもしれないけれど、こっちにとっては名折れです。
随分な物言いである。これに対して鎌足はどう応じているのでしょうか。
鎌足の歌は余計、手が込んでいて二重の序詞になっている。序詞が二段階になっている。
まず玉櫛笥でみむろを引き出す。玉櫛笥→美しい串の箱を見るという形で、みむろの山、即ち三輪山を導く。みむろとは、本来は、神の降臨する憑代(よりしろ)を指す言葉であるが、日本書紀の三輪山の歌について話したように、三輪山は大物主の神の憑代で、大神神社のご神体なので、みもろ山と言えば、三輪山を指す。
そして、みもろの山のさな葛では、二段目の序、さな葛は、今は美男葛(びなんかずら)と呼ぶ。つる性の植物である。
実を煮て、男の整髪料に使った事から。
3句のさな葛と次のさ寝ずとは、近い音の繰り返しで、続いていく。さ寝ずは、遂には有りましじは、寝なければ終には生きてはいけなくなるだろうという意味で、ここが主旨である。
さてさ寝ずはつひに 有りかつましじは、は、共寝が出来なければ最後には死んでしまうだろうとはどう言うことであろうか。自分は恋しさの余り、死んでしまうというのが一般的であるが、これだと鏡王女に冷たくあしらわれたのに、哀願するような口調となろう。これに対して、共寝しなければ死んでしまうよと相手を脅しているのだという見方もある。
それは序詞の内容に関わらせた解釈である。
神との結婚 大物主と倭迹迹日百襲姫命 山幸彦・火遠理命(ほおりのみこと)と
豊玉毘売命(とよたまひめ)
前に話したように、みもろの山は人間の女性と結婚する。三輪山説話という。服の裾に刺した針の糸が、三輪山に伸びていたという古事記の神話とは別に、日本書紀の崇神天皇の巻にも、結婚説話がある。
此処では崇神天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめ)が、三輪山の神の妻となる。
所が来るのは夜ばかりで昼には来ない。姫は一度顔を見たいと言うと、神は「それでは明日の朝、御前の櫛笥(くしげ)箱に入っている。私の姿に驚くなよ」と答え、姫は怪しみながら朝を待つ。櫛笥の中を見ると、美しい色をした蛇がいた。姫は思わず叫び声をあげると、神はそれを恥と思って、人間の姿になり、御前は私に恥をかかせた。お返しに御前に恥をかかせてやる。と言い捨てて、三輪山に帰って行った。姫は落胆の余り、ドスンと尻餅をつく。するとそこに箸があって、姫は陰部を貫かれ死んでしまう。まことに恥ずかしい死に方であった。それは三輪山の近くにある箸墓古墳で、この古墳は、昼は人が作り、夜は神が作ったと日本書紀には記されている。神の正体を知って結婚が破綻するのは、結婚神話の定型で、古事記上巻の山幸彦・火遠理命(ほおりのみこと)と海の神の娘・豊玉毘売命(とよたまひめ)の結婚も同じである。狐女房とか、鶴の恩返しとかその末流と考えられる。
鎌足、鏡王女の応答の歌の解説 結婚に至る
鎌足の歌が玉櫛笥 みむろの山で始まるのは、日本書紀の結婚説話を想起させる。勿論、日本書紀は鎌足や鏡王女よりずっと後の成立であるが、説話自体は箸墓古墳の由来として以前からあったと考えられるので、この説話では死ぬのは女の方なので、鎌足の歌でもさ寝ずはつひに 有りかつましじ→起きていられなくなるのは鏡王女の方という事になる。加えて言えば、さな葛・美男葛は実のなる株と実のならない株とがあって、後で紹介する歌では、実のならない株には、神が取りつくと歌われている。鎌足の歌でも、そういう連想を呼ぶのかも知れない。ともあれ、鏡王女の手ひどい、はね付けの歌に対して、そんなにツンツンすると、後が恐いよという事を暗示的に歌っていると見るのがいいのではないか。
或いは、どっちが生きていなくなるとか。そんなひどい応答なので、求婚は失敗に終ったろうと、思うとそうではない。
興福寺縁起という奈良の興福寺の起こりを書いた文献では、鎌足が亡くなった時、鏡王女が、山科に建てたのが興福寺の始まり・山階寺という。興福寺縁起は平安時代初頭の製作であるが、満更デタラメとも思えない。異論もあるが鎌足と鏡王女の結婚は成り立ったと思われる。
鏡王女とは何者? 額田王との関係
鏡王女の王女という表記は、万葉集の中でも、この人だけに用いられる。特別な貴人であったようである。
この人は天武天皇12年 683年に亡くなる前日に、天武天皇が見舞いに訪れた。延喜式には、鏡王女の墓を、舒明天皇の陵墓の域内にあると記しているので、舒明天皇の縁者と考えられる。
最近の歴史学では、舒明天皇の子で、中大兄や大海人皇子の異母兄・古人大兄の娘ではないかと言われている。
古人大兄は曽我氏の母から生まれ、皇位継承者として有力であったが、乙巳の変で曽我氏が滅びると、失脚し出家したが、結局中大兄に謀反を疑われて殺された。しかし大兄と言われる貴族なので、その娘が特別に扱われたとしても不思議はない。
なお、日本書紀との関係について触れておくと、日本書紀によると額田王の父は鏡王。皇族の名は養育する氏族の名が取られるので、鏡王女と額田王の父は同じ場所で育った可能性があって、額田王と鏡王女は、縁があった可能性がある。
しかし鏡王女は日本書紀でも特別扱いだし、万葉集でも天智天皇との贈答歌では、「答えまつる御歌」と書かれていて、やはり貴人の扱いである。額田王は、日本書紀による天武天皇の妻の序列でも下の方で、その歌に御歌と記されることもない。二人を姉妹とするのは妥当ではない。
万葉集以外の事を想像すると、鏡王女は天智天皇の妻の一人である。天智天皇は皇后も古人大兄の娘の倭姫だから、古人大兄の娘である蓋然性は高い。姉妹が同じ男の妻になるのは、普通である。しかしその後、鏡王女は内大臣藤原鎌足の求婚を受けて、鎌足の妻となった。当然天智天皇の許しがあったからではある。
つまりは天智天皇から鎌足に下げ渡されたのである。額田王は最初大海人皇子の妻であったが、後に天智天皇の妻になったのも同じ。つまり有力者の間には、妻や娘を交換し合うことが行われていた。
天智天皇と鎌足は、乙巳の変を計画実行し、曽我氏を打倒し、大化改新を成功させた盟友である。
本来皇籍にないものが、天皇の孫娘を娶ることは許されない。まして、天皇の妻に求婚するようなことは有り得ない。
しかしそれが、歌の贈答という形で残されているのは、まさに鎌足は別格であるという事を表現している。
次の歌95番もその続きである。
巻2-95 藤原鎌足 采女安見児を娶る歌
我れはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり
私は、どうだ、安見児を貰ったぞ。人の得難いという皆が言う安見児を得たぞ。
2句と5句を繰り返すやり方で、喜びを述べている。采女は、律令で、豪族が見目麗しいものを奉れと規定されて、天皇に献上される官女。鎌足が手を触れないられない女性であった。初期は地方豪族の服属の験、人質として制度化されたものである。地方とはいえ、最も位の高い階層に属する女性で、華やかな存在であった。その中で安見児は、才気も美貌も際立っていた。その安見児との結婚を許されたのは、天智天皇との特別な関係に有ったからである。鎌足の喜びの歌は、
自分のそうした位置を誇示する事でもあったろう。
相聞歌は、雑歌や挽歌と違って、政治と関係は薄いと思われるが、そうではない。婚姻は人間関係種族同士の関係を作るものなので、むしろ政治そのものともいえる。相聞という部が、雑歌や挽歌と並んで三大部立てとして、立てられること自体、大和の国の社会の特徴が表されている。臣下たちはどうであろうか。
久米禅師という人が、石川郎女という人に求婚した時の歌である。郎女とは身分の高い女性に対する呼称である。石川氏は曽我氏の縁者で、川田の曽我氏の本拠地に由来する名前なので、石川郎女は名族のお嬢さん。その二人の五首である。
巻2-96 久米禅師 石川郎女に求婚する時に歌う歌
み薦(こも)刈る 信濃の真弓 我が引かば 貴人(うまひと)さびて 否といはむかも
信濃の弓をつがえて、私が恋の矢を放っても、貴人を気取る貴女は否と言うだろうな
み薦刈るは、信濃の枕詞。真弓という木で作った弓。信濃はその産地。み薦(こも)刈る 信濃の真弓は序詞で、
我が引かばにかかる。久米氏は武人の豪族で、弓が得意であったのだろう。日頃、手にする弓を
序詞にして、弓を引く
ように貴女を引いてみたいという。貴人(うまひと)さびては、貴人らしい振る舞い→お嬢さんぶって。
そして嫌というのでしょうねと少し言い寄る。予防線を張った、腰の引けたプロポ-ズにまず、
石川郎女が答えたのが次の歌。
巻2-97 石川郎女の歌五首 その1
み薦(こも)刈る 信濃の真弓 引かずして 強ひさるわざを 知ると言はなくに
実際に弓を引きもしないで、弦が的をめがけて矢を放つことなどあろうはずがないではありませんか
先ず2句までは久米禅師の言葉を反復している。引かずして→まだあなたは引いてもいないで 、何もしていないでと非難している。4句強ひさるわざをは、弓弦を付けるも方法もわかっていないのでしょうと、弓を射る以前の話と揶揄している。まず引いてごらんなさいよと挑発。もっと誠意を見せてよ。
巻2-98 石川郎女の歌五首 その2
梓弓 引かばまにまに 寄らめども 後の心を 知りかてぬかも
弓を構えたばかりの状態で結婚したら、不安です。貴方の後の心が
引いてくれるならば、お気持ちに従って乗ってもいいですよ。けれどもそんなことでは、後々の心も
知れたものではありませんね。とても信じられません。少し乗り気も見せてダメ出しである。
こうした二面性は、女性の返事によくある事である。
巻2-99 久米禅師
梓弓弦緒(つらを) 取りはけ 引く人は 後の心を 知る人ぞ引く
長く張った弦を引く人は 後々の事を思っているからこそ引くのです。
郎女の好意を秘めた歌に応えて、私は将来まで変わらないから、求婚しているのですと歌う。
巻2-100 久米禅師
東人の 荷前(のさき)の箱の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも
東国から届く初荷のしっかりとした紐のように、彼女は私の心にしっかり結び付けられたよ
3句まで序詞。東から朝廷に名産品を献上する荷物の荷造りのように、がっちりとあの子は私に
心を寄せてくれた。
歌だけで見れば、彼女の圧勝であろう。しかしプロポ-ズは成功したようなので、メデタシメデタシ。
妹は心に 乗りにけるかもという下の句を持つ歌は、万葉集に沢山ある。
乗りにけるかも を使う相聞歌は多数ある
巻10-1896 柿本人麻呂
春になると、しだれ柳の枝がたわわに垂れ下がるが、その枝のように彼女は私の心にどっかりと乗るようになった。
宇治川の 瀬々のしき波 しくしくに 妹は心に乗りにけむかも
宇治川の瀬々に繰り返し寄せてくる波のように、頻りに彼女の事が心に思われてくる。
巻11-2748 作者未詳
大船に 蘆荷刈り積み しみみにも 妹は心に乗りにけむかも
大船に蘆を刈り取って一杯になってしまったように、彼女は私の心にいっぱい占めてしまった。
巻11-2748 作者未詳
駅路(はまゆじ)に 引き舟渡し 直(ただ)乗りに 妹は心に乗りにけむかも
浜路に出る為に、舟を引いて一直線に渡すように、彼女は私の心を一直線に占めてしまった
巻12-3174 作者未詳
漁(いさ)りする 海人(あま)の楫(かじ)音 ゆくらかに 妹は心に乗りにけるかも
漁をする海人の船を操る楫の音は、ゆったりしているが、その楫のようにあの子は私の心にじわじわと寄ってきている。
等々の序詞を付けて、貴女が心の上に乗ったようだという事が、表現されたのである。逆に言えば、適当な序詞を作れば、恋の歌はそれ程困難なく、誰にでも作れるものであったのだ。もしかして、
久米禅師はあまり歌を作るのが得意ではなかったかもしれない。
もう一組、求婚の歌を読んでみよう。
巻2-101 大伴安麻呂 巨勢郎女に求婚する時の歌
玉葛(たまかずら) ならぬ木には ちはやぶる 神ぞつくといふ ならぬ木ごとに
玉葛の木に実がならないのは、背後に神様がついているようで、とりつくしまがありませんね。実が
成らない木はどれもそうですよ。
作者は大伴旅人の父、家持の祖父。巨勢郎女は豪族巨勢氏のお嬢さん。葛城山の麓の御所市が
本拠地。
共に氏族のトップの子女である。このプロポ-ズの時の歌であるが、玉鬘の実のならない木には恐ろしい神が取っつくぞという意味。その神の嫁になると、倭迹迹日百襲姫(やまとととそももそひめ)のように、殺されるかもしれないよと匂わせて、恫喝しているのである。こんな求婚の歌に彼女はどう答えるのであろうか。
巻2-102 巨勢郎女
玉葛 花のみ咲きて ならずあるは 誰が恋にあらめ 我れ恋ひ思ふを
玉葛に花だけ咲かせて、実にさせないのはどこのどなたでしょう。私の方はずっと恋い慕っていますのに。
玉葛の花だけ咲いて、実のならないように、口先ばかりで実のない男に例えるのである。しかし恋と云う言葉を使っているのがポイントでしょう。誰の恋でしょうといって、相手の悪口は、「私が恋しくてそんなことをおっしゃるのでしょうけど」と受け止めて、しかしあなたの事は誠意がない、私は本心から恋しく思っているのにという。攻撃的な口調は受け流しつつ、不実な言葉にはNOを突きつけ、「誠意が無いのよね」と言いながら、こちらの誠意は伝えて承諾しているのである。
巨勢郎女は大伴安麻呂の三男・少麻呂の母であることが万葉集からわかる。
求婚の歌の特殊性
こんなやり取りでも、求婚は成立するのである。読んで来た様に相聞歌、特に初期の歌は言い合いの歌の様なのが多い。しかしそれでもどうやらお互いに好意を持っていた。和歌は韻文、詩であるから、日常の言葉とは区別されていたのであろう。そういう特別な言葉を探し合うこと自体、特別な関係を相手と作る訳である。それは日常の自分とことなる自分を仕立て、演技するという事である。
そうだと歌の心は、作者の心そのままではないということになるが、そういう建前があるからこそ、
日常語で言えない様な事を、そこには込めることが出来るのである。
序詞の様な修辞で使われた言葉を共有して、贈答が出来れば、それが共同作業となり、コミニュケ-ションが成立するのである。本当に交渉の余地なく拒否したければ、返事をしないのである。無視である。
今回詠んだ歌など背景を話すと、違和感をもつ人が多いと思う。女性を物扱いしている様に感じるかもしれない。
妻の交換とか、服属とか、勿論現代の人権認識からは外れている。
しかし磐の姫の時に触れたように、彼らは自らの出身氏族を背負って結婚する訳である。女性だって、男性と対等に渡り合って、男性に誠意をもとめねばならない。彼らの結婚は、政略結婚ではあるが、政略結婚だからこそ、真剣に愛し合わねばならない。はぐらかしばかりではなく、時にはおだて、又拒否して誘うなどというコミニュケ-ションが必要とされるのは、いつの世も同じである。和歌はそうした男女の間を取り持つツ-ルとして、発展していった面がある。
「コメント」
相聞歌の在り方が講義で良く分かった。歌だけではとても相互理解とはならないとは思っていたが、説明で了解。
それにしても一回の作業が長い、目はしょぼつくし、指は腱鞘炎になりそう。でも面白い。