220514⑥「額田王と天智朝巻1」
舒明天皇の後、皇后から即位した皇極天皇の時代に、最初の歌人・額田王が登場する。そして皇極天皇が乙巳の変の時に退位して、大化の改新を経て、もう一度即位して斉明天皇の代、滅亡した百済を復興させるために、国を挙げて九州へ向かう途中で、再び熟田津の歌が歌われる。そして皇太子であった中大兄の三山の歌が、この九州に下る際に歌われたと推測されると、前回話した。
その中大兄と額田王は夫婦である。正確に言うと大勢の妻の一人である。それを表す歌がある。
巻4-488 額田王、近江天皇を偲びて作る歌 同じ歌が巻8-1606にある
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く
あなたを慕って恋焦がれていると、我が家の簾を動かして秋の風が吹く。貴方が来たのかと思った。
巻4-489 鏡王女の作る歌 同じ歌が巻8-1607にある
風をだに 恋ふるは羨もし 風をだに来むとし 待たば何か嘆かむ
風に思いを巡らせるなんて羨ましい 風の訪れもない私と比べて、何を嘆くことがあるでしょうか
これは全く同じ歌が万葉集の二か所に載っているという事である。厳密には、少しだけ原文の文字が違うので異なる資料から採録されたと思われる。訓読したら同じてある。この二つの歌の関係は書いてないが、巻4巻と巻8でもこの順で書いてあるし、共に風を歌っているので、一対であることは間違いない。題詞から額田王は、天智天皇の妻の一人として扱われているという事になる。鏡王女は特殊な書かれ方をしている。この人については別の機会に述べる。やはり天智天皇の妻の一人であった。
さて額田王の歌、万葉の世界では恋と云うのは、基本的に否定的な感情である。字で表すと、孤悲。漢字の意味の連想を生かした表記である。恋とは孤独に悲しむ感情なのである。一方鏡王女は「風を感じるだけで羨ましい、私には風さえも待つことが出来ない。」と額田王の歌に反撥的に答えているのは確かである。二人とも、夫に捨て置かれて、寂して状況にあることを嘆いているが、これが本当に彼女たちの実情を表しているかは、分からない。
というのは夫を待つ女の所に秋の風が吹いてくるというモチ-フは、漢詩によく見られる。簾も良く出てくる。
また中国では秋は淋しく悲しいという季節感がある。額田王は、簾と秋の風を歌っているが、こういうのは漢詩と無関係では有り得ない。従って、二つの歌は、漢詩を和歌で歌ってみたものかもしれない。漢詩との関係は、この歌ばかりではない。次のような作品もある。
巻1-16 額田王 天智天皇が宴の中で、鎌足に命じて春と秋を比べさせた時に、額田王が
歌った歌
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山も茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてぞ偲ぶ 青木ほば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山吾は
冬が去り、春がやってくれば、鳴かずにいた鳥もやってきて鳴く。咲かずにいた花も咲く。だが、山が茂り、分け入っていくことは出来ず、草が深いので折り取って鑑賞することもできない。秋山は木の葉を鑑賞し、紅葉を手折って鑑賞することも出来ます。青葉が残り少なくなって残念だが、でも私は秋山が良いです。
万葉集で、天智天皇御代の最初に置かれた歌である。天智天皇が内大臣中臣鎌足に命じて、春の山の歌の花の爽やかさと、秋の山の紅葉の色と、どちらが哀れ深いか比べさせたときに、額田王は歌で表したというのが題の意味である。
天皇が群臣に命じて春秋の比較をさせたという事なので、普通の生活ではなく、集団の場、具体的には宴の中と考えるべきであろう。この歌い方も、宴に相応しいものと言える。
まず春になると、冬に鳴いていなかった鳥も声を立て、咲いていなかった花も咲くけれども、山の草木が茂っているので、入って取って来るも出来ない。反対に、秋山の木の葉を見ると、色づいたので、取って楽しむ。そこから春の美点と欠点、秋の美点と欠点を共ににあげて、どちらなのだろうと思わせて置いて、「秋ですよ、私は」と言い切る。
この歌は女性らしく、気まぐれな歌と評されていた。しかし現在は、それなりの理路があると考えられている。
鎌足に与えられた課題は、哀れを競うという事だったので、哀れの数が歌われているのは確かに秋の方だということが出来る。宴の中でこうした題が出されて、額田王は二つを比較しながら歌っていく。関係者もどちらになるのだろうかと、行方を案じている。そしてこの歌には、漢詩文の影響が指摘される。そもそも、春や秋という季節、鳥や花や紅葉と言った自然の景物を題にして歌うという事は、古事記、日本書紀にもないし、万葉集の他の歌にもない。
天智天皇が、春秋の趣深さを比較せよと命じたこと自体、漢詩文の教養に基づいていたという事である。
天智朝に漢詩が盛んに行われたことは、「懐風藻」という漢詩集にも述べられている。我が国の漢詩文の起こりを天智朝としている。懐風藻には、天智朝の宴の詩が載せられているので、この時代には詩の宴が行われたのは確かであろう。額田王の歌が漢詩文に関係しているのは、題詞に春山晩秋の宴と、漢詩風の言葉が見える事でも明らかである。
漢詩文は何といっても対句が命である。そして額田王の長歌にもやはり対句が多用されている。額田王は漢詩の真似をしたとだけなのかというと、それは違う。長歌の対句をよく見ると、花と鳥を対にして漢詩を思わせる。
対句の説明は、長いので省略する。
春秋の哀れを競う歌は、天智天皇の詔によって鎌足に命じられ、額田王が作った。前回見た皇極斉明朝の額田王の歌に通じる代表的性格を持っている。
但し次のような歌は、作者の違う面を伝えている。
巻1-17 額田王近江に下る時に作る歌 類聚歌林にもこの事は出ている
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
神聖な三輪山と奈良山とが、遠く隠れてしまうまで、未知の曲がり角毎に、細かく見ながらに行こうと思うのに、遠くからでも見晴らしたいその山を、無情にも隠してよいものか、雲よ。
巻1-18 反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや
雲よ どうして神聖な三輪山を隠すのか 雲よ、心があるなら何故隠したりするの
巻1-19 井戸王 左註に曰く、この歌は長歌の反歌とは違うが、そう書いてあるので
載せる。 作者不詳ともある。
綜麻形(へそかた)の 林の先のさ野榛(はり)の 衣につくなす 目につく吾が背
三輪山の麓の林の先に立つハンノキの真っ赤な木の葉が、あなたの衣類に染まったように鮮やかに目に付きます
近江遷都したのは、667年のことで斉明天皇は6年前に崩御していたが、中大兄は即位せず、皇太子のまま政務を取っていた。これを称制という。類従歌林は17・18の歌を中大兄の歌としている。
長歌 味酒(うまざけ)は三輪にかかる枕詞。酒、特に神に捧げる酒をミワという。そして三輪山は神の山であった。大物主という大和の国の国魂の神で、祟り神でもあった。10代崇神天皇の時代には、疾病で住民全滅の危機でもあった。
それ以来、現在まで、この神の祭祀は大神神社で続けられている。なお、この神社は山全体がご神体で、本殿がなく拝殿だけである。
その神の山こそが、この歌の主題である。
次にあおによしのあおには、青色の塗料の事で、これが奈良の枕詞。理由ははっきりしない。平城宮の北側、大和と山城の間の山が平城山。磐の姫皇后が家出をした時、山城川(木津川)を遡って、ここまで来たという話はした。今は奈良盆地側から、山を越えて山城、近江へ下っていく。
奈良の山々の間に隠れるまで、未知の曲がり角が折り重なるまで、つくづくと見ておきたいと続く。三輪山は円錐形の美しい山で、奈良盆地のどこからも良く見える。しかし平城山に差しかかると、山を登るたびに道は蛇行するし、そこを越えると見えなくなる。それまではずっと見ておきたい。それなのにという口調である。「山の端にい隠るるまで」「道の隈 い積もるまでに」「つばらにも 見つつ行かむを」「しばしばも 見放けむ山を」は、それぞれ対句になっているが、これも漢詩の様な対照的な物事を対等に扱う対句ではなく、春秋の哀れを競う歌のように、ほぼ同程度の事を繰り返しながら、話を進める形になっている。「見つつ行かむを」は、行きたいのにという逆説的な動きを表し、「しばしばも 見放けむ山を」は、逆説の気分を漂わせながら、下の「心なく 雲の 隠さふべしや」の目的格になっている。
長歌と短歌の組み合わせの意味
反歌18番は、長歌の末尾を反復的に歌いなおす歌である。前に述べたように、長歌と短歌とでは性格が大きく違って、両者を組み合わせるのは互いに補完する意味がある。この場合は、三輪山を見ながら、大和を去る過程全体を歌う長歌の中から、三輪山を隠している雲に、そんなことはやめてくれという末尾に、焦点を絞って反歌にしている。
この様な反歌の付け方も、この後の萬葉集の歴史の中で、受け継がれていく。
その次は、井戸王の歌であるが、額田王の歌にどう答えているのかわからない。編者も左註で、この歌は長歌に応える歌らしくないと言っている。
三輪山への惜別の歌の必要性
大和のシンボルで、古くからの信仰の対象でもある三輪山に、関別の情を述べることが近江に下る朝廷の人々にとって、必要だったのである。何故王権発祥の大和を捨てて、近江に都を移すのかと言えば、危機的状況だったからである。
前回話したように、斉明期には一旦滅亡した百済を復活させて、大和に協力する国を朝鮮半島に作ることが計画された。しかし661年斉明天皇が筑紫の朝倉宮に到着して間もなく崩御。中大兄の称制の下に、663年663年百済と共に唐・新羅連合軍と闘い、白村江で大敗。戦後、中大兄は国土防衛に追われる。要所に城塞を築き、飛ぶ火を作り、大宰府を内陸に移し、土塁の水城で守った。九州各地の海岸、対馬、壱岐等離島に防人を配備した。
近江大津への遷都も防衛策の一環であった。しかし、この遷都の評判が悪かった。日本書紀からして、天下の人民は遷都を喜ばず、批判する者が多く、放火が頻発したと書いている。こういう情勢の中で、朝廷の人々の心のわだかまる大和の地に対する未練を歌という形を与えることが、求められていたのではなかろうか。
額田王はこの地を離れたくないとは歌っていない。集団の場でこの歌を歌った時、人々の共感を得て、朝廷は一体化する。それが額田王の歌が持つ機能であった。
近江大津宮に移った翌年、668年正月、称制7年を経て、中大兄は即位する。その年の5月に行われたのが、琵琶湖湖畔蒲生野での遊猟であった。
巻1-20 額田王 蒲生野に遊猟した時に額田王が作る歌
茜色の紫草が一面に咲く野、しめ縄を張った標野を行き来なさって、野の番人は見ていないでしょうか。貴方が私に袖を振っているのを。
巻1-21 皇太子(大海人皇子)の答える歌
紫の にほえる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも
紫草の野に、よく映えるあなたが憎いならば、人妻と知りながらなお恋焦がれるでしょうか。
この歌は額田王の三角関係と読まれてきた。何故そう読まれてきたのかというと、額田王は大海人皇子の妻だったことがあるからである。そして天智天皇の妻となる。高貴な色の産地なので、朝廷の番人がいる。問題は野守は見ずや 君が袖振る。袖振るは、万葉集の中でも多く歌われ、自分の気持ちを伝える行為である。それを夫(天智天皇)が、見とがめているのではないかと言っている。しかし野守は遠くにいるので、この歌自身は虚構と考えねばならない。これに対して、の大海人皇女の返歌。額田王が心配していることを、表に出しているのである。
この遊猟は大イベント。人々を魅了した事であろう。そして、この歌は、恋を歌う相聞歌ではなく、雑歌と分類されている。
額田王と大海人皇子とのやりとりが、プライべ-トなやりとりとは、とても思えない。一種の恋のやり取りの歌がイベントを盛り上げ、披露されると群臣の喝采を浴びたことであったろう。
額田王はこの時既に40代、天智天皇との娘・十市皇女が孫を生むのも間近であった。
対外戦争に敗れた困難な時代、朝廷は額田王の歌を必要としていたのだ。
「コメント」
今まで万葉集を読む時、題詞と左注の読み方がいい加減であったことを痛感。やはり額田王は萬葉集最高の歌人であったと再認識。