220430④中皇命と狩の歌

前回の復習  舒明天皇の国見歌 見えて欲しい願望を歌っている

前回は巻12番の歌、舒明天皇の国見歌の事を話した。それは天の香具山という、天から降ってきたという伝承を持つ聖なる山から、国見をすると、国土に人々が立てる煙が立ち、海原には魚を狙ったカモメが立ちに立っているのが、みえる。現実の天の香具山からでは、見えない国家としての大和全体を視野に収めた歌である。

それは現実に見えるものを歌っているのではなく、見えて欲しいものを歌っている。それが見えているという事で、言葉の上で理想を作り出し、言葉の力、言霊によって現実を招き寄せようとする祈りの歌である。

それは古事記、日本書記の歌謡に出てくる天皇が国を見えるものを歌い、風景を誉める歌の形を引き継ぎながら、天皇が天皇になりつつある、即ち天や太陽のイデオロギ-を背負って、超越的な君主になっていく時代になっていくのに相応しい歌なのである。

中国に隋の統一王朝が出来て、東アジアの力学が変わり、中国に直接向き合いながら、国内の中央集権化を進めなければならないという、大きな変化なのである。

超現実的な祈りの言葉というのは、初期万葉に特有であり、不思議に感じるかもしれない。巻頭の雄略天皇の牧歌的な歌と比較すると、全く違うもの、いわば国家全体を背景にした和歌という詩型が出来ていることを感じる。やや詳しく前回の復習をしたのは、今回中心に扱う1-3番、1-4番の歌を考える上で、欠かせないからである。

 

先ずはその歌を読んでみよう。

長歌 巻1-3 中皇命

中皇命の間人(はしひと)(むらじ)(おゆ)をして献らせたまふ歌

やすみしし 我が大君の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕べには い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭(はず) 音すなり 朝狩りに 今立たすらし 夕狩りに 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭(はず)の 音すなり

国を治められる天皇陛下が、朝になれば手に取ってお撫でになり、夜にはお傍に立てておかれて、いつも大事になさっている、梓弓。その中弭(はず)のなる音が聞こえます。そのたびに私は、朝の狩りに出発されるのだな、夜の狩りに出発されるのだなと思うのです。いつも大事になさっている梓弓、弓のなる音が聞こえます。これから出発なのですね。

反歌 巻1-4 中皇命

たまきはる 宇智(うじ)の大野に 馬並()めて 朝踏ますらむ その草深野

今頃は宇智の大きな野に、馬を並べて、朝の大地を踏んでおられることでしょう。その草深い野を。

 

この歌は2番の歌と同じく舒明天皇の事を歌った歌である。その舒明天皇が宇智の野で狩りをした時、中皇命(なかつすめらみこと)という人が、間人連老(はしひとのむらじおゆ)という人を使者として、天皇に献上した歌。

 

6-1001 山部赤人

大夫(ますらお)は 御狩りに立たし 娘子は 赤裳裾引く 清き浜辺を

男達は狩りに出ていく。乙女たちは赤い裳裾を引いて美しい浜辺を歩いている。

 

天平6734年聖武天皇の難波行幸の時の歌である。周辺の歌から推して、難波より少し南の景勝地住之江に遊んだ時の歌。万葉集で狩りに立つというのは、例外なく狩りをすることを意味していて、出発する事ではない。

中皇命とは誰であろうか

中皇命について触れておこう。

万葉集にはもう一ヶ所その名が見える。三首

1-10  中皇命 紀の湯に行く時の歌1 

君が代も 我が世も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな

世間の人達は、私達が岩代の岡に寄り添っていることを知っているでしょうか。草の根をしっかり結び付けて二人を結びましょう。

あなたの命も私の命も懸かっているかもしれない岩代の岡の草。岩代は紀州の聖地。旅人はここで健康無事を祈る。

1-11 中皇命 紀の湯に行く時の歌2

我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね

貴方は萱で仮屋を作ろうとなさる。でもそれに相応しい草がなければ、近くの松の下の草を集めて作ればいいではありませんか。

我が君は仮屋を作っておられる。旅先で狩りの宿を作る楽しみを歌っている。

1-12 中皇命 紀の湯に行く時の歌3

我が欲()りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 玉ぞ拾はぬ

私が見たいと言っていた野島ですね。そこまで透き通っている美しい阿胡根の浦の玉を拾いましょう

 

題詞には御歌とあるので、高貴な身分であることが分かる。舒明期から斉明期にかけて高貴な女性として、何人かの候補がある。一人は斉明天皇その人、スメラミコトは普通天皇を指すので、斉明天皇でないかとなる。舒明天皇崩御後は、即位して皇極天皇となる。大化の改新で、弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇崩御後もう一度復位して、斉明天皇となる。皇后は中皇(なかすめらみこと)ともいい、斉明天皇を中宮天皇ともいう。その略称が中皇命である。

しかし天皇に対して略称で呼ぶのは考え難い。この三首は山上憶良の類従歌林に天皇の御製歌として、即ち斉明天皇の歌として載っていた。

定説になりつつあるのは、間人皇女という女性。この人は舒明天皇と斉明天皇の間の皇女で、天智天皇と同母の皇女である。叔父である孝徳天皇の妃となる。天皇に殉ずる高貴な身分である。間人(はしひと)というのは、養育した氏族の名と考えられる。古代では出生した子を朝廷に仕える氏族に養育させる制度があり、皇子、皇女の名は、その養育した氏族の名が取られる。

中皇命が間人皇女だとすると、間人連老(はしひとのむらじおゆ)が使者に立った理由が分かる。養い親か乳兄弟の関係と見られる。

さて中皇命が舒明の皇女、間人皇女とすると。天皇が日ごろから弓を大事にしているのを見て知っている。一方女性だから狩りには参加しない。山部赤人が歌う所では、男達が狩りをしている間、女性達は美しい浜辺を散歩している。それならば何故、天皇の弓の音が聞こえるのだろうか。実は現実には聞こえない。しかし聞こえる筈のないことを歌うのが和歌である。この時に中皇命は都に残っていると思う。そしてそこから、間人連老を使わして、狩場で歌わせるのである。

これは、前回読んだ舒明天皇の国見歌と同じ仕組みではなかろうか。それが人々の心を高揚させ、理想の実現を確信させるのである。

この場合、間人連老の名前が残されているのは、それが単なる伝言の使者ではなく、集団の場でのパフォ-マンスであったからであろう。作者も当人だろう。天皇やそれに準じた高貴な人々の儀礼に際しての歌は、自分で考えるものではなく、臣下の歌詠みが貴人の立場に立って製作するのが普通であった。

 

中皇命の反歌 巻1-4はどうであろうか。たまきはる 宇智(うじ)の大野に 馬並()めて 朝踏ますらむ その草深野

狩りの始まる朝という時点を取り出し、その焦点を絞って、想像の風景を描いている。長歌と反歌を一組とするのは、異なる性格を持つ両者を補完的に用いる技法である。

その深草野という体言止めは、風変わりかもしれない。しかし古事記などの歌謡に比べて映像的で

鮮やかである。

 

雄略天皇時代からの変化 中国の影響

古事記、日本書紀の中にある表現を受け継ぎつつ、質的に変化している。それはやはり、新たな時代を迎えて、儀礼も新たな装いを持ってきたというべきであろう。

儒教には、天子は五年に一回諸国を巡回することと定められている。具体的には、地方の名山に行き、天を祀り山や川を望む祭を催し、その地の諸侯を謁見する。地方視察である。こうした中国の

儀礼は、周辺諸国に広く伝わって各地の王権は模倣した。古事記、日本書紀、万葉集の国見もそれに倣ったものである。

 

万葉集の狩りの歌

万葉集には狩りの歌が沢山ある。第二期の柿本人麻呂、第三期の山部赤人、第四期の大伴家持にも狩りを歌った作品がある。その中から山部赤人の歌を読んでみよう。狩りは中国でも日本でも一種の示威行動であり、ページェント。

華やかな揃いの装いの行列は、民衆にも新たな力を印象付けた。

中皇命の狩りの歌も、間人連老の口を通じて、歌い上げられた時、宮廷の人々に対して、同じ効果を持ったであろう。

そして、この儀礼歌の流れはその後の萬葉集の中で、一つのモデルとなっていった。

6-926 山部赤人 長歌

やすみしし 我が大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見(とみ)すゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝狩に 鹿猪踏み起こし 夕狩りに 鳥踏み立て 馬並めて み狩りそ立たす 春の茂野に

我が大君はみ吉野の、秋津の小野の野の上に、獲物を追うものを配置して、山には射手を潜ませて、朝の狩りには猪や鹿など追い立てて、夕べの狩りには鳥たちを驚かせて飛び立たせ、馬を並べて狩りの為に、春の草木の茂る野に、出発されていくことだ

6-927 山部赤人 反歌

あしびきの やまにも野にも 狩人 さつ矢手挟( たばさ)み 騒ぎてあり見ゆ

山の中でも野原でも、帝に従う狩人が、矢を手に挟み、忙しく動く姿がよく見える。

 

長歌は、中皇命の歌の構成と同じ。最後に見ゆで歌い治めるのは困歌が、国見歌の系譜を引いていることを示している。そして長歌には、朝夕の対句によって、表現の時間を定めずに歌い、反歌では山野には多数の狩人達が展開する場面を切り取って歌っている。このような構成も、中皇命の狩りの歌と同じである。

 

「コメント」

 

万葉集は、先ずは天皇讃歌で始まるのである。国見歌、狩りの歌から始まっていく。確かに天の香具山の国見歌には、強い印象を受ける。雄略天皇は一寸違うが。