220326紫式部日記㉖「紫式部日記と源氏物語」 最終回
「道長を讃える為の紫式部日記、柳沢吉保を讃える松影日記」
今回で最終回となる。紫式部日記が書かれた最大の目的は、道長を讃える為であったと思う。ここで思い浮かぶのは、江戸時代に書かれた松影日記という作品。松影日記は、徳川綱吉の一介の側用人から老中まで上り、栄華を極めていく柳沢吉保の半生を描いた日記文学。「源氏物語」や「栄花物語」を踏まえ、様々な典拠を溶かしこんだ側室正親町町子の典雅な和文が「元禄の消費文化」とも言うべき、将軍の寵愛を受けた吉保の日々の姿とその時代を表している。
柳沢吉保は大名庭園の六義園を作ったことで有名である。六義は古今和歌集に由来する言葉である。つまり王朝和歌の理念に支えられていた。吉保の人生をしるす松影日記の著者は、側室であった正親町町子。彼女は公卿の出身、自分の夫の空前の権力を、源氏物語の文体を用いて書いた。源氏物語とそっくりである。
「北村季吟と柳沢吉保」
古今伝授 定家-為家・・・宗祇…細川幽斎・・・松永貞徳・・・北村季吟-柳沢吉保
北村季吟は源氏物語の第一人者で、江戸に招かれ出てくる。柳沢吉保に王朝文化のエッセンスを
ある古今伝授を授けた。
「藤原道長と紫式部日記、大鏡」
二人の妻がいて、これに自分の類まれな人生を書き留めさせるのがベストであるが、能力上不可能であった。
まして松影日記には「源氏物語」という手本があったが、当時11世紀初頭には手本となるものはなかった。道長が紫式部を中宮彰子の女房として、宮仕えさせた時「源氏物語」がどこまで書かれていたかは分からない。けれども道長は自分と娘の類まれな幸福を源氏物語のスタイルで、書き残しておきたかったのであろう。彼女らのどちらかが書けばよかったのだが不可能であった。
紫式部が中宮彰子に宮仕えしたのは、既に源氏物語を書き始めた後であった。道長が紫式部を宮仕えさせた時に、源氏物語がどこまで書かれていたかは分からない。けれども道長は、源氏物語の
スタイルで、自分の人生を後の世に残しておきたかったのであろう。
道長の繁栄を描いた文学作品として、紫式部日記の外に、歴史物語である大鏡と栄花物語がある。文学史の教科書では、大鏡には道長への批判精神があるが、栄花物語には道長を讃えるだけのものであると教わった。そして、同じく彰子に仕えた赤染衛門が作者ではないかと言われている。
大鏡は、道長が権力を獲得するプロセスを描くが、長命な老人が昔話をしながらという会話体の組み立てである。
書き方がドライであるので、読者は政治権力の実態を知る。感動ではなく、シニカルな笑いが大鏡の特長である。
但し道長の死後でもあったので、書けたとも言える。大鏡の中で、道長が花山天皇を退位させる場面は興味深い。
蜻蛉日記にも登場する道長の父の兼家が、孫の一条天皇を即位させるために花山天皇を出家させるのである。
この時神家は、息子の道兼を使って、出家をためらう花山天皇に嘘泣きをして、宮中を抜けださせる場面がある。
花山天皇も後に、兼家と道兼に図られたことに気付く。このような政治抗争を生き抜いて来たのが、兼家の息子の道長である。
「蜻蛉日記」藤原道綱の母
道長の父である兼家の人生を、妻の一人であった女性の身から描いたものである。兼家の冗談好きで明るい一面と、家庭を顧みない側面の対比が鮮やかであった。兼家が、道綱を使って蜻蛉日記の作者を鳴滝の般若寺から連れ出す場面が思い出される。
「道長の政治活動の例」
紫式部日記で道長が、政治家としての厳しさを垣間見せる場面がある。一条天皇が土御門邸に
行幸された場面である。
敦成親王が新しい宮家を頂戴した事に感謝して、道長は天皇に感謝して、一族を引き連れてお礼の舞を舞う。しかし一族であっても、道長の政治的立場から判断して、そういう人は除外している。
「源氏物語の政治性」
作者が女性なので、政治の世界には触れないという原則があるが、翌読めば政治の出来事が詳しく書かれている。
光源氏は女性には寛容であったが、政治の世界では自分を裏切った人には厳しかった。
源氏物語は男と女の恋愛模様を描いているというのが、一般的であるが、源氏物語の読まれ方の歴史を辿って行くと、室町から江戸にかけて正しい政治とは何かと問いかける作品だという読まれ方が有力であった。
今回の冒頭で紹介した北村季吟が、その様な読み方の代表者である。それを時の権力者である柳沢吉保が受け継いだのである。源氏物語をどのように読めば、政治論、社会論的になるのであろうか。
雨夜の品定め
そのカギは、源氏物語の第二帖帚木の巻の雨夜の品定めにあったのである。雨夜の品定めは、
理想の女性論ではなくて、理想社会の基盤となるべき理想の人間関係論である。これは北村季吟の読みかたである。
為政者こそ源氏物語を読んで、理想の人間関係への理解を深めるべきとした。紫式部日記には記録の部分の外に、消息文という手紙の部分があった。ここでは人物批評が繰り広げられていたが、
これが紫式部の批評の文体であり、源氏物語の雨夜の品定めと対応する部分であった。
中宮彰子の白楽天の勉強
紫式部日記の消息文の終わりの方に、紫式部が白氏文集を中宮彰子にレクチャ-する場面がある。白楽天の文集である白氏文集の中で、ここの部分は社会性が濃密であるとされる。
紫式部が源氏物語を書いた志は、このあたりにあったのではないか。中宮彰子が新楽府に関心を抱いて、紫式部に講義させた理由も、正しい人間関係が機能している社会こそが、理想の人間社会であり、そういう社会を中宮である自分は作っていく責任があると思ったからではないかと思う。
最後の紫式部
源氏物語の夢の浮橋の巻は中途半端な終わり方をしている。そしてその次を書き継ぐことは無かった。自分の生まれた現実社会をどのように書いておくべきか、自分はどのような人間関係を作り上げていくべきか。この事を紫式部は源氏物語の執筆を通して、考え続けたのである。そしてある見通しを持ったので、夢の浮橋の巻で筆を置いたのである。
その後紫式部は、中宮彰子と共に、宮中世界で彼女なりに奮闘したのであろう。
二年間にわたって更級日記、和泉式部日記、蜻蛉日記、紫式部日記を読んできた。
私が大事にしたのは、これ等の日記を書かせた女性たちの心である。もう一つは、それをその後の日本人がどの様に読み込んできたかという事であった。
「コメント」
女性による日記の代表作四作を読んだのだ。抜粋とは言うけれど。実に長かった。体調が悪く入院の時期も含んで、我ながらよく続いたものと自分を誉めたい。夫々に個性も生き方も違う人達であるが、先ずは逞しさと好奇心を感じる。
出身は全員従五位位の国司クラスの娘で、夫もほぼ同クラス。いわば当時の上流階級である。著作に関わることの出来る環境を持っていた、そして、必要な教養も持っていた。女性の目から見た当時の社会は実に貴重である。
苦しみながら楽しみながら、二年間が終わった。ご苦労さん。