220219紫式部日記㉑「和泉式部や清少納言への批評」
今回は紫式部が、自分と同じ時代を生きた三人の文学者を批評した事を取り上げる。和泉式部・赤染衛門・清少納言。
和泉式部は我が国の最も有名な歌人の一人である。赤染衛門は、賢女の誉れ高く、藤原道長の栄華を讃えた「
栄花物語」の作者と目されている。清少納言は画期的な散文作品である「枕草子」の作者である。
この三人のライバルたちを紫式部はどのように評価しているのだろうか。
最初は和泉式部の批評を読む。
「朗読1」歌や手紙では上手にこなすが、和泉式部には人間性も教養も知識もない。
和泉式部という人こそ、おもしろう書きはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌詠みざまにこそはべれざめれ、口に任せたることどもに、かならず一ふしの、めにとまる読みそはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。
恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
「現代語訳」
和泉式部という人とは、実に趣深く手紙をやり取りしたもの。しかし、彼女には倫理的に感心しない面がある。気軽に手紙を走り書きした場合、その方面に才のある人で、ちょっとした言葉にも色艶が
見えるようです。和歌はとても興味深い事ですよ。古歌についての知識、価値判断などは、本当の
歌詠みとは言い難いが、口に任せて詠んだ歌などには必ず、一点目に泊まるものがあります。それほどの歌を詠む人でも、他人の歌を非難したり批評したりしているのは、如何なものか。それほど
和歌に精通しているとは思えないのですが。考えもなしに、口をついて自然とさらさらと、歌を詠む質の人の様ですね。こちらが恥ずかしくなるような歌詠みではありませんね。
「講師」
誉めたりけなしたりの複雑な文章である。「才ある人」という云い方には、突き放した言い方である。「けしからぬかたこそあれ」という云い方には、紫式部の譲れない一線である。男女関係でとかくの噂の有った和泉式部には、文学者である前に、人間として問題があるという。
紫式部が和泉式部を批評する時に、二つの基準があった。一つには人間性に問題がある事、もう一つは知識、教養、理論が不足していること。紫式部は作品がすべてという立場はとらない。和泉式部は敦成親王誕生の翌年から、中宮彰子に出仕している。
歌の名人は歌論書を残して居る。紀貫之「古今和歌集仮名序」、明治時代に正岡子規に批判されるまで、日本文学の屋台骨であった。また紫式部と同時代の和歌の世界をリ-ドしたのが、藤原公任である。
家集『大納言公任集』、私撰集「金玉和歌集」。 「新撰髄脳」「和歌九品」などの歌論書がある。
王朝を代表する歌人を三十六歌仙という。これを選んだのが公任である。
紫式部の後では、定家がいる。彼は創作だけではなく、歌論書に「毎月抄」「近代秀歌」「詠歌大概」があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。又、小倉百人一首を選んだ功績も大きい。
それに対して、和泉式部には和歌の実作だけがあって、理論が無いと言っている。けれども、紫式部の和歌と、和泉式部の和歌とで、文学史に残ったのはどちらであったか。私は和泉式部だと思う。
源氏物語を絶賛し「源氏を見ざるものは、遺恨の事なり」と述べた藤原信西は、紫式部の散文は素晴らしいが、和歌はそれ程でもないと評価している。但し、源氏物語の歌は文化的プレミアムがついているので、長く読まれてきた。
さて、和泉式部の後に赤染衛門を論じている。和泉式部に不足していた人間性と、知識、教養を持っていたが、それは赤染衛門だからである。
「朗読2」極めて好意的」
丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには,匡衡門とぞいひはべる。ことにゆむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとて、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞こえたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰となれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこにおもひたる人、にくくともいとほしくもおぼえはべるわざなり。
「現代語訳」
丹波の守の奥方を、中宮様や道長様は匡衡衛門と言っています。歌は格別優れているとは思いませんが、実に由緒あり気で品格がある、歌詠みとして、歌を詠み散らかすようなことはしませんが、世に知られている歌(発表された歌)は、こちらが恥ずかしくなるような出来です。
それにつけても、どうかすると上の句と下の句が、離れてしまいそうな腰折れの歌を詠んで、由緒あり気に得意顔の人は、憎らしくも気の毒にも思われるものです。
「講師」
次は赤染衛門です。和泉式部に不足していた人間性と知識、教養を持っているのが、赤染衛門である。文字通りの絶賛である。ここで赤染衛門を誉めれば褒めるほど、和泉式部への批判と、次の清少納言への厳しい批判が効果的である。夫の大江匡衡は学者でおしどり夫婦として有名であった。
赤染衛門は、彰子の母の時代から出仕し、道長からの信頼も厚い。並々ならぬ教養の持ち主である。
それにつけても、文法の間違いはする、上の句と下の句の繋がりのおかしいような腰折れの歌が
世間にはあるが、赤染衛門の歌を目にすると、そういうエセ歌人たちが得意になっているのが、憎たらしくも哀れである。
ここにも、和泉式部へのあてこすりがある。和泉式部への攻撃を効果あらしめるために、赤染衛門への賞賛を準備したのである。和泉式部と正反対の人として、赤染衛門を持ち出している。
紫式部の批評の軸は、作品それ自体を評価するのではなくて、人間性や作品を生み出す基盤としての教養を見る事に特色がある。
近現代の文芸批評は、たとえ人間性に問題があるとしても、作品が卓越していればよしとされる。石川啄木、太宰治・・・。
又学識は文芸の質とは無関係。紫式部は源氏物語を生み出した自らの学識に自信を持っていたのであろう。
だから学識のない和泉式部を批判するのである。そして学識がありそうな清少納言を批判する軸は、
人間性に加えて、真の教養の不足なのであった。
「朗読3」清少納言は漢字を使ったりして利口ぶっているが、よく見ると足りない所ばかり。
先が思いやられる。
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほどる、よく見ればまだいとたらぬこと多かり。かき、ひとにことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末歌手のみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまらもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。
「現代語訳」
清少納言こそは、実に得意然として利口ぶった人です。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしているが、よく見ればひどく足りない所が沢山あります。このように人より優れ、そう振舞いたい人は、きっと後には見劣りし、ゆくゆくは悪くなって行くばかりだろう。いつも風流ぶっていて、それが身についてしまった人は、全く淋しく詰まらない時でも、感動している様に振る舞い、風流な事を見逃さないようにしている内に、自然と軽薄な態度になるのでしょう。そんな軽薄になってしまって、良いことは無いでしょう。
「講師」
兎に角、辛口である。紫式部は、清少納言を全否定している。紫式部の舌打ちが聞こえてきそうな
文章である。
清少納言が漢詩文を、ひけらかしているのが、紫式部のから見ると、それ程でもないと言っている。
枕草子には「香炉峰の雪」をはじめ、清少納言の教養を感じさせる言葉が沢山ある。けれども、その実態はそれ程でもないと見抜いているのだ。「枕草子」には、清少納言の漢詩文の知識が、殿上人たちを仰天させたと、度々自慢気に書かれているが、驚いた側の殿上人は、その事を何も書き残していない。彼らにとって清少納言は、暇つぶしの遊び相手であったのかも知れない。
紫式部はそこをついている。そして、紫式部の清少納言への苛烈な攻撃が開始される。
風流を気取っている人は、どんな状況になっても風流を見付けようとして、不自然な世界観を持ってしまう。
その結果、自分の生きている世界を歪めてしまう。知性と教養を自慢している人は、その内に自分らしい生き方が、出来なくなる。そんな清少納言の行く末がどうして良いことがあろうか。
紫式部の勝利宣言である。清少納言には、晩年に落ちぶれたという伝説がある。紫式部は快哉を叫んだことであろう。
清少納言の晩年の誌
そんな紫式部であるが、源氏物語を書いて善男善女をたぶらかしたとして地獄に落ちたという話もある。
紫式部の清少納言への憎しみに紫式部の本気を感じる。紫式部が清少納言を批判すればするほど、紫式部が清少納言の才能を恐れていたことが、見えてくる。清少納言の清と、紫式部の紫の漢字を並べて、清紫(せいし)という。清紫(二女は、天才文学者の双璧であった。ここで、清少納言が晩年、落ちぶれたという伝説を紹介する。
「古事談」鎌倉時代の説話集 隗より始めよ
清少納言の家が古くなって崩れていた。殿上人が牛車で、相乗りで通りかかる。昔、中宮定子に仕え、宮中で華やかに活躍した清少納言も、晩年は落ちぶれてしまっていた。ここは、あの清少納言の家ではないか。
ここまで落ちぶれてしまったかという。清少納言はその時、家にいて、彼らの言葉を聞いた。
そして鬼のように恐ろしい老婆が言い返した。かの中国の燕という国の王が、一日千里を走る駿馬を手に入れる為に、敢えて死んだ駿馬の骨を買った。骨を買う人ならば、本物の駿馬を売ろうという人が来るから。
お前たちも、若き美女を得ようと思えば、この私を恋人にしなさい。」と言ったという。
有能な人物を得ようと思えば、まずそれ程でもない人物を採用しなさいという意味の「隗より始めよ」の故事を引いての反撃である。清少納言の面目躍如。
樋口一葉の清少納言へのシンパシィ
明治時代に近代文学を開拓した樋口一葉は、紫式部より清少納言に強く、自己投影していた。
「棹の雫」 清少納言を高く評価し文章 要約
「ある時、紫式部と清少納言では、どちらが優れているかという事が話題となった。人々は口々に「それは、紫式部だといった。それはそうかもしれない。確かに紫式部の源氏物語は優れている。けれども、私に言わせれば、清少納言は、可哀そうな人である。父親は清原元輔といい、和歌の名門の
出身なので、少しは親の光もあったかもしれない。
けれども、女はきちんとした後ろ盾が無いと、うまく生きてはいけない。
清少納言はたった一人で、厳しい宮廷社会の中で、辛い、苦しい思いをした事だろう。
紫式部には道長という強力な後ろ盾があった。清少納言にはそれがない。樋口一葉は、父に早く死なれ、孤独に文学の道を進んだ。一葉は自分の孤独を、清少納言に投影しているのである。「棹の雫」には、この後、次のような文章がある。
「清少納言は普通の女性が望む家庭的な幸福や、権力者の支援など望むべくもない状況の中で、
他人の目など気にせず、がむしゃらに生きねばならなかった。「故事談」などで、見る影もなく落ちぶれ、哀れな姿をさらしたと語られているのを読んで、何とも浅ましいと毛嫌いするのは、彼女の真実を何も知らないからである。清少納言を女性としてのたしなみに欠けると批判するのは、間違っている。彼女は若くして、女の幸せは諦めた。赤染衛門のように、理想の夫と連れ添う事は出来なかった。
紫式部のように、後の世に、名前を残す娘に恵まれることもなかった。そんな中で、必死で枕草子を
書いたのである。枕草子は、一見したところ華やかな事柄が書かれているように思われるが、二度三度読めば、しみじみとした悲しみ、生きる事の寂しさが、枕草子の本質で有ることが分かる。皆さんは、源氏物語が、空前絶後の不朽の傑作だと讃えているが、紫式部は父親の教えや道長の援助や、中宮彰子の協力があって、源氏物語を書くことが出来たのである。清少納言はたった一人で、枕草子を書いた。
だから清少納言に紫式部程の才能が無いというべきではない。確かに紫式部の人間性は、清少納言より優れていたかもしれないが、だからと言って清少納言の悪口を言うべきではない。
紫式部は、この世界で愛された幸運な女性だった。清少納言は、冷たい霜の降りた荒野に放り出された、捨て子であったのだ。彼女は自分が女であることを捨てて、文学の道に進んだ。まさに同情すべきは清少納言だと思う。こう言ったが、誰の賛同も得られず、その場にいた人たちは、冷たく笑った。」
樋口一葉は明治時代の清少納言であったのだ。父の亡き後、母と妹の三人の貧しい生活に苦しんだ。だから、清少納言の人間性や孤独が理解できたのであろう。
「コメント」
三人への批評は、よくぞそこまで見ているな、又それを文章的にうまく表現していると感じる。今でも、各組織の中、ご近所などでささやかれている内容ではないかと。ただ、樋口一葉は、
どうしてここまで清少納言に入れ込んでしまうのか、よく理解できない。今までの印象だと、控え目な文学少女の面影だけど。貧乏に苦労はしたであろうが。