211127紫式部日記⑩「水鳥と時雨」
今回は若宮の誕生を祝う儀式が続く、土御門邸で、紫式部は、ふと生きる事の寂しさを感じる。
水鳥と時雨を詠んだ歌が、紫式部の悲観的な人生観を表している。
「朗読1」 行幸を待つ土御門邸の素晴らしさと、それに引き換え、鬱々としている自分を、水鳥に例えて表現している。
行幸ちかくなりぬとて、殿の内を、いよいよつくりみがかせたまふ。よにおもしろく菊の根を、たづねつつ堀りてまゐる。
色々うつろひたるも、黄なるが見どころあるも、さまさ゜まに植ゑたてたるも、朝霧の絶え間に見わたしたるは、げに老も退きぬべき心地するに、なぞや、まして、思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すきずきしくももてなしわかやぎて、常なき世をもすぐしてまし、めでたきこと、おもしろきことを、見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の、ひくかたのみつよくて、もの憂く、思はずに、嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき。いかで、いまはなほ、もの忘れしなむ、思ひがひもなし、罪も深かなりなど、明けたてば、うちながめて、水鳥どもの思ふこともなげに遊びあへるを見る。
水鳥を 水の上とやよ そに見む われも浮きたる 世をすぐしつつ
かれも、さこそ、心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそらへる。
「現代語訳」
天皇の行幸が近くなったというので、道長様は一生懸命になって、邸を立派になさる。人々が見事な菊を、探して持って来る。色とりどりに美しく色変わりした菊も、黄色が見る盛りである菊も、様々に植えこんである菊も、朝霧の絶え間に見わたした風景は、老いもどこかに退散しそうな気持になる。しかし人一倍物思いが激しい私が、もう少しいい加減であったらば、いっそ風流好みに若々しく振舞って、この無情の世を過ごしも出来るのに。結構な事、面白い事を見聞きするにつけても、心に願う出家遁世の事ばかりが強くて、憂鬱で、思いに任せず、嘆かわしいことばかりで実に苦しい。でも、どうにかして何もかも忘れてしまおうと思ってみても、仕方のないことだし、こんな事では罪も深いと思ってしまう。夜が明けて、ぼんやり外を眺めて、池の水鳥がなんの物思いもせずに、遊んでいるのを見ている。
あの水鳥を、水の上をただ無心に遊んでいる、儚いものと見ることが出来ようか。私だって同じ様に浮かない日々を過ごしているのだから。→水鳥も私と同じに、水に浮いているが、心は乱れているのだろう。
「講師」
最初に土御門邸の素晴らしさが語られ、次にその素晴らしさに没入できない、醒めた自分がいると
いう内容である。自分の分身として、紫式部は水鳥を発見した。
菊は不老長寿のシンボルである。ここから紫式部は暗転する。彼女の心の奥の部分が告白されている。他人からは楽そうに、水鳥と同じ様に浮いている様に見えるだろう。本当は苦しいのだ、水鳥も
そうだろう。見えない所で足を使って、藻掻いているのだ。
菊は盛りを過ぎてからが美しいというのは、中世の世阿弥が完成した謡曲の理論に似ている。
世阿弥は若く盛りの人間が経験している花と、老成してから咲かせる花とでは、後者の方が格段に
素晴らしいと言っている。
「
「朗読2」(宇治十帖 橋姫の巻)
水鳥と言えば、源氏物語に印象深い和歌がある。宇治十帖の「橋姫の巻」である。
八の宮は北の方に先立たたれ、幼い姫二人を育てながら、淋しく暮らしている。父親である八の宮が、池の水鳥を見ながら、娘たちと歌を詠み合う場面である。
八宮の歌
春のうららかなる日影〔ひかげ〕に、池の水鳥どもの、羽〔はね〕うち交〔か〕はしつつ、おのがじしさへづる声などを、常は、はかなきことに見給〔たま〕ひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺め給ひて、君たちに、御琴〔こと〕ども教へ聞こえ給ふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻き鳴らし給ふ物の音〔ね〕ども、あはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮け給ひて、
→春のうららなる日の光で、池の水鳥どもが、羽を交わしながら夫々がさえずる声などを、普段は何ともなく御覧になったけれども、雌雄が離れないのを羨ましく、物思いに耽りながら御覧になって、姫君たちに琴などをお教えなさる。とても可愛らしく、幼い体で、それをかき鳴らして音色が、いじらしく面白く聞こえるので、八宮は涙を浮かべて
うち捨てて 番(つが)ひさりにし 水鳥の かりのこの世に たちおくれけん
見捨てて行った番の母鳥は、儚いこの世に、子供を残して行ってしまったのだろうか。
心尽くしなりや」と、目おし拭〔のご〕ひ給ふ。→気苦労が絶えないなあ」と、目を押し拭いなさる。
大君(おおいきみ)の歌
姫君、御硯〔すずり〕をやをらひき寄せて、手習〔てならひ〕のやうに書き混ぜ給〔たま〕ふを、「これに書き給へ。硯〔すずり〕には書きつけざなり」とて、紙奉〔たてまつ〕り給へば、恥ぢらひて書き給ふ。
→ 姫君〔:大君〕は、硯を静かに引き寄せなさって、手習いのように混ぜてお書きになるのを、「これに書きなさい。硯には書き付けないということだ」と言って、紙を差し上げなさるので、恥じらってお書きになる。
いかでかく 巣立ちけるぞと 思ふにも うき水鳥の 契りをぞ知る
どのようにしてこのように、大きくなったのだろう。でも水鳥の様な辛い前世からの運命が思いやられます。
この八宮は北の方と死に別れて孤独である。けれども二人の娘、二羽の子鳥と暮らして
いる。けれども、結構な世の中とは到底思えないのである。残されたのは父親と水鳥と二羽の子供。水鳥の姿に自分の孤独を見たのであろう。その姫の大君も水鳥の歌を詠んでいる。
紫式部日記には、水鳥は水の上ら浮かんでいるという事と、生きる事の憂きを掛詞にしている。
橋姫の巻の大君の歌も、同様である。
大君の浮水鳥の契りは、やがて宇治川の上を漂う儚い浮舟の契りとなって、宇治十帖は
展開していく。
「朗読3」女房仲間で仲のいい、小少将の君との手紙のやり取り。最近会ってないので、早く有って色々と話したいとの気持ち。
小少将の君の、文おこせたる返りごと書くに、時雨のさとかきくらせば、使ひも急ぐ。「また、空の気色も、うちさわぎてなむ」とて、腰折れたることや書きまぜたりけむ。暗うなりにたるに、立ち返り、いたうかすめたる濃染紙に、
雲間なく ながむる空も かきくらし いかにしのぶる しぐれなるらむ
書きつらむこともおぼえず、
ことわりの 時雨の空は 雲間あれど ながむる袖ぞ かわくまもなき
「現代語訳」
小少将の君が寄こした、手紙の返事を書いていると、時雨がさっと降ってきたので、使いの者も返事を受け取るのを急いでいる。「又自分の気持ちだけではなく、空の様子も騒がしい」と書いて、拙い腰折れ歌を書いて送ったかな。もう暗くなっているのに、折り返し返事が来て、とても濃い紫の雲型に染めた紙に
暇もなく物思いに沈んで眺めている空も、何を偲んである時雨なんだろう。→それは私が
貴方恋しさの時雨なのです。
先にどんな歌を歌を書いてやったのかも、思い出せないままに
当然季節柄、時雨の空には雲の絶え間はありますが、あなたを想って物思いら耽っている 私の袖は、涙に乾く暇もありません。
「講師」
小少将の君→道長夫人・源倫子の姪の女房。同僚の女房から手紙が来ていたのは、彼女が里帰りをしていたからであろう。その手紙には和歌かあった。それへの返事である。和歌の三句目を腰と言う。上の句と下の句との繋がり具合が、上手く行っていない下手な和歌を
腰折れと言う。紫式部の心境を分かってくれる数少ない友が小少将の君なのである。
「朗読4」朝顔の巻で、光源氏かかねてから懸想して叶わない朝顔の斎院に、時雨の歌を
送る。
源氏物語には晩秋から初冬にかけての景物として、時雨が何度も描かれている。私の好きな時雨の場面は葵の巻である。光源氏は無くなった妻・葵上の喪に服している。時雨の降る日、光源氏は朝顔の斎院に歌を送る。
わきてこの 暮こそ袖は露けけれ もの思ふ秋は あまた経ぬれど
もの思う秋は何度も過ごしてきましたが、とりわけこの夕暮れは涙が流れてなりません
「講師」
朝顔の斎院は、光源氏の求愛を最後まで拒否続ける。けれども季節の節目、光源氏に和歌を返して心を交流させている。
光源氏は、妻の葵上に先だたれ、悲しみが時雨で一層高まったので、朝顔の斎院に歌を送った。
季節は晩秋。私が興味深く思うのは、光源氏が和歌に書き記したのが、「空の色したる唐の紙」で
あったことである。
この色はどんよりと暗い色であったろう。紫式部日記に出てきた紙と同じ色である。
光源氏の歌も悲しい内容である。秋は物思いが深まる季節である。今年の秋は、特に葵の上を失ったので、悲しくてたまらない。
光源氏のこの歌に、時雨と言う言葉はない。しかし、歌の後に光源氏は、いつも時雨はと書き付けた。これは古歌を引用している。
神無月 いつも時雨は 降りしかど かく袖くたす をりはなかりき
冬の季節である神無月は、いつも時雨が降って、私の袖を濡らすが、これほど袖が濡れてボロボロに朽ちたことは無い。
それほど泣き続けていますという意味である。
紫式部日記の歌も葵の巻の光源氏の歌も、光源氏が口ずさんだ古歌も、全てが、空から降って来る時雨よりも、人間の心で降っている、涙雨の方が激しいと言っている。
光源氏は妻を失った喪失感、紫式部日記は本当の自分を、見出せない虚しさがテーマである。
時雨と水鳥を詠んだ紫式部の歌を、源氏物語と響き合わせて味わった。紫式部と言う人物が、抱え込んだ絶望感を理解するし共有することで、源氏物語の世界が開けてくる。
「コメント」
そうか、源氏物語と紫式部日記とは繋がっているのだ。そして、源氏物語を理解するには、関係資料の勉強も必要なのか。それとそれらを豊富な知識で書き綴った紫式部は大したもの。とても開設なしでは分からない。私にはとても。