210925紫式部日記①「『紫式部日記の魅力』」

昨年4月より古典講読を担当してきた。「更級日記」「和泉式部日記」「蜻蛉日記」と読み進めてきた。

「更級日記」では作者である菅原孝標の女が、裕子内親王に宮仕えしたことが書いてあった。

裕子内親王は御朱雀天皇の皇女。「和泉式部日記」では和泉式部と敦道親王の恋が繰り広げられていた。敦道親王は冷泉天皇の皇子。「蜻蛉日記」では作者と藤原兼家との、夫婦生活が書いてあった。兼家の孫娘が中宮定子である。

これまで読んできた作品では、天皇や中宮が話題になる事はあっても、直接に作者に関わることは

無かった。

「紫式部の背景」

「紫式部日記」では一条天皇の中宮である、彰子に仕えた紫式部によって、日本文化が頂点に達した11世紀の宮廷文化の実態が、あのままに記録されている。そこに紫式部日記の魅力がある。
今回は謎の多い
「紫式部日記」の人生について考える。成年、没年も不明。

(湖月抄) 源氏物語についての湖月抄の説に対し、本居宣長の反論

「源氏物語」は江戸時代に、北村季吟の注釈をした「源氏物語湖月抄」で広く読まれた。

・本文の前に、源氏物語作者についての紹介がある。

・室町時代に書かれた「源氏物語」の注釈書を引用しながら、「源氏物語」の作者の様々な説を紹介

 している。

湖月抄を厳しく批判したのが、江戸時代後期の本居宣長であった。本居宣長は、以下の説は

間違いと断じている。

・「源氏物語」の作者複数説

・「宇治大納言物語」には紫式部の父親の藤原為時が大筋を書いて、紫式部が描写を加えたという

 説が書いてある。

・御堂関白(藤原道長)が、「源氏物語」に加筆したという説

・宇治十帖は、紫式部作ではない。娘の大弐三位ではないか。

・女性が書いたにしては、漢詩文の教養が溢れすぎており、政治的背景に詳しすぎる。→

 作者は男では?

 

「朗読1」  源氏物語玉かずらの巻の冒頭について

紫式部の父親は藤原為時、この時代を代表する漢詩人。父の弟・為頼は歌人として有名である。

彼の代表作を用いて紫式部が書いた「源氏物語・玉かずらの巻」の部分を読む。

世の中にあらましかばと思ふ人なきが多くもなりにけるかな  拾遺和歌集 藤原為頼

  →疫病が大流行して、多くの人が亡くなって、それを悲しんで歌ったもの

年月隔たりぬれどあかざりし夕顔をつゆ忘れたまはず‥‥‥‥‥‥‥     玉鬘巻頭 紫式部作

  →光源氏は年月は経ったけれども、飽きることなく思いを寄せた夕顔の事を、少しも忘れて

   いない。生きていたならなあと思い、悔やんでいた。

「講師」 この解説

紫式部は叔父のこの歌を、亡き夕顔を想う光源氏の思いに重ねている。それに加えて亡き夕顔の娘である玉かずらが、光源氏の前に姿を現した。紫式部は叔父さんの歌の「あらましかば」という部分を利用している。紫式部の話を戻すと、父為時の祖父が兼輔である。大変な文化人の堤中納言で

ある。ひ孫が紫式部。

 

「朗読3」 曾祖父の歌

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな  藤原兼輔 後撰和歌集

我が子の行く末を思えば、親である私の心は、闇夜でもないのに道に迷ったかのように思い乱れる。

この歌は子供のことを心配する親の心の悲しさをテーマとしている。

「子ゆえの闇」という慣用句の出典である。
紫式部は
「源氏物語」の中で、自分の曾祖父である兼輔のこの歌を、二十回以上使っている。

「源氏物語」は恋愛が主眼なのだが、親子関係も大切なテーマである。

 

紫式部の情報  湖月抄による

・母親 藤原為信の女

・道長の寵愛を受けた?

・夫 藤原宣孝  娘 大弐三位  小倉百人一首には親子で選ばれている。

  紫式部  めぐり合いて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな

  大弐三位 有馬山ゐなの笠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする

 

江戸時代の小倉百人一首の注釈書に国学の先駆者・契沖の「百人一首改観抄」がある。

それより抜粋。

・紫式部の歌は伊勢物語11段の歌を本歌取りしていると指摘している。

 

「朗読4」 伊勢物語11(空ゆく月)  旅に出る時、私を忘れないでと、言っている。

むかし、男、あづまへゆきけるに、友だちどもに、道よりいひおこせける。

忘るなよほどは雲居になりぬるとも空ゆく月のめぐりあふまで

→空の雲程遠く隔たっても、忘れないで欲しい。空の月が巡って戻ってくるように、再び我々が巡り

  合うまで。

「講師」

月が巡り合うと歌っている点で、確かに伊勢物語の歌と似ている。更に契沖は百人一首の歌の順番にも言及。一つ前は和泉式部である。

あらざらむこの世の外の思い出に今ひとたびの逢ふこともがな

→私はもうすぐ死んでしまうでしょう。あの世に持っていく思い出として、もう一度だけ逢いたい。

二人が同じような身分で、文学者として並び称されていたからだろうと言っている。そして紫式部と

大弐三位が連続しているのは、母娘だからとも。
「湖月抄」の紫式部の関する解説に戻る。

(紫式部の名の由来) 「湖月抄」より

紫式部は中宮彰子の女房として、宮仕えに出た当初は、藤原氏出身なので、藤式部と呼ばれていた。そして紫式部と変わった理由を述べている。

・「源氏物語」の中で、「若紫」の巻が深く書かれているから。

・「源氏物語」の登場人物の中で、紫の上が特別に描かれている。

・藤式部では、幽玄的な響きが無い。

・一条天皇と同じ乳母子なので、天皇の色の紫とした。

(紫式部の名の由来) 「源氏物語玉の小串」本居信長より  現代語訳

紫式部という呼び名については、最初は藤式部であったが、それでは美しくないという理由で、紫式部に改めと言う説がある。これは俗説であり、信じるに足りない。次に「源氏物語」で、紫の上のことが、とりわけ書かれているので、これに因んで紫式部と呼ばれるようになったという説がある。そうかもしれない。但し源氏物語全体で、若紫の巻がとりわけ優れているから、紫式部と呼ばれるようになったという説には納得できない。

この巻がとりわけ優れているのではない、54帖全てが素晴らしいのである。

 

(「湖月抄」の指摘する紫式部の教養の広さ)

本居宣長の立場は明瞭である。更に「湖月抄」による紫式部に関する解説は、紫式部の教養の広さを指摘している。

・和歌の造詣が深かった。

・漢籍に詳しい。歴史書「史記」には、特に通じていた。

・仏教にも精通していた。紫式部は観音の化身とさえ言われた。

・日本の歴史にも詳しかった。

これらの広い知識が、「源氏物語」に反映しているという。「紫式部日記」からも、紫式部の教養の深さと広さが窺い知れる。

(「源氏物語」誕生の伝説について)

この後、「源氏物語」が何故書かれたのかについて、石山寺で琵琶湖に映る中秋の名月を見て、

発想を得たという伝説を紹介している。これは有名な伝説であり、「湖月抄」の名もここからきている。
以下現代語訳。

有名な伝説であり、湖月抄と言う名もここからきている。上東門院は紫式部が女房として仕えた、

一条天皇の中宮彰子である。大斎院(選子)とは、半世紀以上も賀茂斎院を務めた選子内親王のことで、文化サロンの中心であった。

その文化サロンに対する紫式部のライバル心は強烈で、この様子が「紫式部日記」に書かれている。

中宮定子と賀茂斎院(選子内親王)の文化サロンの、競争の中から「源氏物語」が生まれたのである。
ある時、賀茂斎院から中宮彰子に、「何か面白い物語はありませんか」との、問い合わせがあった。

古めかしい物語では面白くないと考えた中宮彰子は、全く新しいものを作るようにと、紫式部に

命じた。

紫式部は石山寺に詣でて、観音に祈った所その時丁度815夜で、中秋の名月が湖水に映って

いた。

紫式部の心は澄み渡り、須磨・明石の情景が浮かんだので、まずそれから書き始めた。その後少しずつ書き足していって、54帖の大長編として完成した。書道の名人の藤原行成が清書して、斎院に献上した。その際に、法勝寺入道関白(道長)が、奥書を書き加えた。

 

(本居宣長は湖月抄の説を否定している)

それが、紫式部の「源氏物語」に、道長が一部筆を入れたという説に繋がった。

藤原定家から始まる中世の古典学は、古今伝授と言う形で受け継がれていった。

石山寺で「源氏物語」の最初の発想を得たという伝説は、北山季吟の「湖月抄」では大切な言い伝えであった。

但し本居宣長は、この説を全く有り得ないと完全否定している。そして次の様に言っている。

「須磨の巻に、今宵は15夜なりけりとある個所を、紫式部が15夜に書いたというならば、初音の巻で「今日は子の日なりけり」と書いてあるのは、紫式部が此の個所を書いたのは、子の日でなければ

ならない。そんなことはあり得ない。まことに稚拙で幼稚な文学論である。」

 

「紫式部日記について」

ここで「湖月抄」を離れて、「紫式部日記」へと進む。

これは紫式部が書いた日記である。紫式部日記は不思議な構成となっている。

四つに分かれている。

寛弘5(1008)秋の始め~大晦日まで

 この部分は中宮定子が、出産することがテ-マ

・寛弘6(1009)の幾つかの出来事

・紫式部がある人物に宛てた書簡体の文章

 この部分に賀茂斎院のサロンに対するライバル意識や、和泉式部・清少納言・赤染衛門たちに

 対する歯に衣着せぬ批評が含まれている。

・寛弘7(1010)正月の記録

 この部分は中宮彰子にとっては、二人目の男子誕生の状況が書かれている。

 

「紫式部日記」には、内容上の問題点がある。

それは寛弘5年秋の始めから書いてあるが、その前にその年の5月からの出来事が脱落しているのではないかと言う説である。けれども、今の構成で読んでも違和感はないが。

 

藤原道長にとっては、自分の娘が二人の皇子を産んで、大満足の事であった。又華やかな王朝文化も描かれている。

「源氏物語」を執筆している同時期なので、「源氏物語」の創作にまつわるエピソ-ドも満載である。

次回から本文を読み始めるが、「群書類従」と言う古典アンソロジ-に収められている「紫式部日記」本文で読む。

「群書類従」は、江戸時代の後期に塙保己一が中心となって編纂された。
文学と歴史に関する古典作品が多数収録されている。この
「群書類従」「紫式部日記」で、江戸時代後期から現代までの人々は、「紫式部日記」を読んできた。

(与謝野晶子と源氏物語)

「源氏物語」の現代語訳の、最大の貢献者である与謝野晶子も、「群書類従」で読み、紫式部の

イメージを作り上げた。
彼女の
「紫式部日記」の現代語訳は「群書類従」の本文に基づいている。
まず与謝野晶子の
「紫式部日記」冒頭の部分を読んでみる。

夏から初秋に移ったこの世界に、もっとも趣の多い所がある。それは土御門殿である。池を中心としている立巡っている大木の梢にも、鑓水をはさんで草原にも、色々な紅葉が出来て、上には全ての

色を引き立てている美しい空がある。
下には読経の声が響き、白銀のような心地よい風に、寂しい水の音が夜通し混じって聞こえた。」

 

小説は最初の一文で読者の心を掴まないとならない。訳文でも同じことである。

夏から初秋に移ったこの世界に、最も趣の多い所があった。この行は、研究者には思いつかない

名訳である。

何よりもこの世界と言う言葉が印象的である。上には下には、ここには大きな世界の存在を意味する。与謝野晶子は、白銀の心地よい風に、→現代の真理の世界を発見したのだ。

 

「コメント」

研究者と、詩人とでは表現が違うのは当たり前でしょう。色々な「源氏物語」があるが、与謝野源氏が最高なのだ。どれもちゃんと読んでいないのは、恥ずかしい。