210821蜻蛉日記㉑「鳴滝に籠る」(その1)

蜻蛉日記中巻の山場である、鳴滝籠りである。36歳の作者は長期間、鳴滝の般若寺へ。兼家の訪れが無いだけでなく、家の前を通りながら、立ち寄らないという屈辱に疲れ切って、寺に籠ったのである。その経緯。

 

「朗読1」またも家の前を通り過ぎていく兼家の行列。なんと辛いことだろう。

あさましき人、わが門より、例のきらぎらしう追ひちらして、渡る日あり。行はしゐるほどに、「おはしますおはします」とののしれば、例のごとぞあらむと思ふに、胸つぶつぶと走るに、引き過ぎぬれば、みな人、面をまぼりかはしてゐたり。われはまして、二時三時まで、ものも言はれず。人は、「あなめづらか。いかなる御心ならむ。」とて、泣くもあり。

わづかにためらひて、「いみじう、人に言ひ妨げられて、いままでかかる里住みをして、またかかる目を見つるかな」
とばかり言ひて、胸の焦がるることは、いふかぎりにもあらず。

「現代語訳」

あの呆れ果てた人が、私の家の門の前を、いつものようにきらびやかに先払いして、通り過ぎていく。勤行をしている時に、侍女たちが「お出でです、お出でです」と騒ぎ立てるのでドキドキして急ぐと、又通り過ぎてしまった。侍女たちは皆、顔を見合わせていた。私は、二時も三時も物も言えない。侍女たちは「何てことでしょう、どういうお積りなのでしょう。」と言って、泣く者もいる。私は気を少し取り直して、「ほんとに悔しいことです。人に色々と言われて我慢をして、こんな里住まいをしているのに、

又こんな辛い目にあうなんて」とだけ言ったが、胸の焼けつくような思いは、言葉では言い表せない。

 

「朗読2」こんなことはとても耐えられないので、寺の籠ることにして、あの人の物忌の開けぬ

     うちに出発した。

さて思ふに、かくだに思ひ出づるもむつかしく、さきのようにくやしきこともこそあれ、なほしばし身を去りなむと思ひ立ちて、西山に、例のものする寺あり、そちのものしなむ。かの物忌果てぬさきにとて、四日出で立つ。

「現代語訳」

さて考えてみると、こうした事を思い出すだけでも嫌だし、この前の様なことは堪らない。暫く身を引こうと思って、西山にいつも行く寺があるので、そこに行こうと思い、あの人の物忌が終わらぬ内にと、四日に出発する。

「講師」

寺に出発の直前に、兼家からの手紙が来ていた。兼家の物忌が終わらぬ内にと、急ぎ出発するのである。

 

「朗読3」鳴滝に出発する前に、兼家に手紙を書く。

文には「『身をし変へねば』とぞ言ふめれど、前渡りせさせたまはぬ世界もやあるとて、今日なむ。これもあやしき問はず語りにこそなりにけれ」とて、幼き人の「ひたやごもりならむ。消息聞こえへに」とて、ものするにつけたり。

「現代語訳」

手紙には、「『身をし変へねば』と和歌に詠まれている様に、どうせ貴方は訪ねてこないでしょうから、同じことですが、それよりもせめて、私の家の前を素通りしない所でもあろうかと、今日出発しました。これも変な、問わず語りになりました。」と書いた。道綱は「私は母と一緒にこれからは、ずっと山寺に籠ります。お知らせします。」と言いに行くので、手紙を託した。

「講師」

和歌が引用されている。

身をし変へねば→いづくへも身をしかへねば雲懸かる山ぶみしてもとはれざりけり

→どうせ貴方は来てくれないでしょうから、同じことなんですが・・・

 

「朗読4」寺に着いて、あの華やかな牡丹が散っているのを見て、侘しい気分になる。

まづ僧房におりゐて、見出だしたれば、前に(ませ)ゆひわたして、なにとも知らぬ草どもしげき中に、牡丹草どもいと情なげにて、花散りはて立てるを見るにも、「花も一時」といふことを、かへしおぼえつつ、いと悲し。

「現代語訳」

寺に着いて、僧房に行って、見た。籬(ませ)垣があって、名も知らない草が茂っている中に、牡丹が風情もない風に、花を散らしている「花も一時」という和歌を思い浮かべて、悲しい気分である。

「講師」

牡丹は中国では花の王とされる。和歌では、ふかみそう、はっかそうとも言われる。

「花も一時」は、花も人生もその盛りはほんの一時という事。→自分の容色の衰えも示唆する。

 

「朗読5」僧房の周囲のスケッチ。

木陰いとあはれなり、山陰の暗がりたるところを見れば、蛍は驚くまで照らすめり。里にて、昔もの思ひうすかりし時、「二声と聞くとはなしに」と腹立たしかりしほととぎすも、うちとけて鳴く。くひなはそこと思ふまでたたく。いといもじげさまさるもの思ひの住みかなり。

「現代語訳」住まいの周りは、ほととぎすや水鶏が多く、如何にも侘しく物思いが募る。

木陰はとても風情がある。山陰の暗い所を見ると、蛍は驚くほど明るく照らしている。京で、昔、あまり物思いをしなかった頃、二声とは聞くことのなかったほととぎすも、ここでは気軽にいくらでも鳴いている。水鶏もほんの近くで、叩くように鳴いている。いよいよ侘しい限りで、物思いが募る住まいである。

和歌の引用

蛍→小夜更けてわが待つ人や今来ると驚くまでに照らす蛍か

ほととぎす→二声と聞くとはなしにほととぎす夜深く目をもさましさるかな

「講師」

引用の歌からも、男の来るのをどこかで待っている、女の気持ちがにじむ。松明を持った兼家の来訪を待っている。

源氏物語の「夢の浮橋」の巻を連想する。浮橋は出家して尼となり、京の北の小野の山里で暮らしている。浮橋が蛍を見て物思いに耽っていると、遠くに松明の光がみえる。薫の大将が来たのだ。

この情景と似ている。源氏寝物語の源流は蜻蛉日記なのである。

「朗読6」一緒に来た息子、道綱の事を心配している。

人やりならぬわざなれば、とひとぶらはぬ人ありとも、夢につらくなど思ふべきならねば、いと心やすくてあるを、ただ、かかる住まいをさへせむとかまへたりける身は宿世ばかりをながむるにそひて、悲しきことは、ごろの長精進しつつる人の、頼もしげなければ、見譲ね人もなければ、頭もさし出さず、松の葉ばかりに思ひなりにたる身の同じさまにて食はせたれば、えも食ひやらぬを見るたびにぞ、涙はこぼれまさる。

「現代語訳」

自ら進んでやった山籠もりなので、訪ねてくる人がなくとも恨みに思うべきでもないし、とても心安らかに過ごしている。

ただ、こんな山住まいをするようになった宿命を思うにつけ、悲しいことは、一緒に山籠もりして精進している道綱が、弱ってきている様なのだ。邸で世話をする人もいないので連れてきたが、私と同じ粗末な食事ばかりを食べさせるので、喉も通らない様なので、涙が止まらない。

 

「コメント」

 

何回目かのストライキ。今度は子供連れで、効果は増す手段。