210807蜻蛉日記⑲「石山詣で」その2

前回に引き続き、石山詣でを話す。前回は、石山寺に到着し、夜に御堂でお祈りをする。
そして、そこから周囲の情景の描写。鹿の鳴き声が聞こえる。

「朗読1」夜明けの情景描写。瀬田川には霧が立ち、放牧の馬が見える。

夜の明くるままに見やりたれば、東に風はいとのどかにて、霧たちわたり、川のあなたは絵にかきたるように見えたり。

川づらに放ち馬どものあさりありくも、遥かに見えたり。いとあはれなり。

「現代語訳」

夜が明けるままに見てみると、東の方では風がのどかに吹いて、霧が立ち込め、川の向こうは絵にかいた様であった。川には、放し飼いの馬の姿も、遥かに見えている。しみじみと、感動を覚える。

 

「朗読2」子供のことが気掛かり。死にたいと思うが、この子の事を想うと悲しくなる。

二なく思ふひとをも、人目によりて、とどめおきてしかば、出で離れたるついでに、死ぬるたばかりをもせばやと思ふには、まづこのほだしおぼえて、恋しう悲し。涙のかぎりをぞ尽くしはつる。をのこどもの中には「これよりいと近かかなり。いざ、佐久奈谷見には出でむ」「口引きすごすと聞くぞ、からかなるや」など言ふを聞くに、さて心にもあらず引かれいなばやと思ふ。

「現代語訳」

かけがえのない子供は、人目を憚って京に残してきた。家から離れたこの機会に、死ぬ思案をしたいと思うに、この子のことが気になって、恋しく悲しくなる。涙が涸れるまで泣いてしまった。

供の男たちは「ここから近いらしいぞ。佐久奈谷見物に行こう」「谷の口から引っ張り込まれてしまうという話だぞ、それは嫌だね」などと言うのを聞くと、私も引っ張り込まれ、死にたいと思った。

 

「朗読3」池に生えているシブキと言うものを、柚をかけて食べたらおいしかった。 シブキドクダミ・ギシギシ

かくのみ心尽くせば、物なども食はれず。「しりえのかたなる池にシブキというふもの生ひたる」といへば、「取りて持て来」と言へば、持て来たり。笥にあへしらひて、柚おし切りてうちかざしたるぞ、いとほかしうおぼえたる。

「現代語訳」

この様に心労が続くので、食欲もない。「寺の後ろの池に、シブキと言うものが生えていますよ」と言うので、「取って来て」と言うと、持って来た。器に盛って柚をあしらうと、とても素晴らしい味であった。

 

「朗読4」夜、御堂でお祈りをする。まどろんでしまい、法師が膝に水を注ぐ夢を見る。

さては夜になりぬ。御堂にてよろづ申し、泣き明かして、あかつきがたたにまどろみたるに、見ゆるよう、この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかくと見るとおどろかされて、仏の見せたまふにこそはあらめと思ふに、ましてものぞあはれに悲しくおぼゆる。

「現代語訳」

そんなことをしている内に夜になった。御堂に色々とお祈りをして、泣き明かして、朝方にうとうとと、まどろんだところ、この寺の別当と思われる法師が、銚子に水をいれて持ってきて、わたしの右の膝に注ぎかけるという夢を見た。ふと目を覚まして、仏がこの事をみせてくれたのであろうと思うと、心を動かされ悲しみをおぼえた。

 

「朗読5」いよいよ、京への帰り道である。船着き場で、世話をしてくれた僧との別れである。

明けぬといふなれば、やがて御堂より下りぬ。まだいと暗ければ、湖の上白く見えわたりて、さいふいふ、人二十人ばかりあるを、乗らむとする舟の差掛のかたへばかりに見くだされたるぞ、いとあはれにあやしき。御灯明たてまつらせし僧の見送るとて岸に立てるに、たださし出でにさし出でつれば、

いと心細げにて立てるを見やれば、かれは目なれにたらむところに、悲しくやとまりて思ふらむとぞ見る。をのこども、「いま来年の七月まゐらむよ」と呼ばひたれば、「さなり」と答へて、

遠くなるままに影のごと見えたるもいと悲し。

「現代語訳」

夜が明けたという声がするので、御堂から下りた。まだとても暗いけれど、湖上は白々と見えている。立ち去り難く、思う。供人二十人ばかりいるが、乗ろうとする舟が靴の片方くらいの大きさに見えたのは、何とも侘しく、不安である。

仏に灯明をあげた僧が、見送りに出て、岸に立っているのに、私たちの舟がどんどん漕ぎ出し行くので、とても心細げに立っている。その僧は、私達と馴染みとなった寺に、留まって別れを悲しく思っているのであろう。

供の男達が、「来年の七月に又来ますよ」と呼びかけると、「はい、分かりました」と答えて、遠くなるにつれて、その姿が影のように見えているのも悲しいことだ。

 

初瀬の長谷寺、琵琶湖の畔の唐崎でのお祓い、今度の石山寺などの様に、蜻蛉日記には旅の要素も含まれている。

仮名で書かれた日記文学の始まり、土佐日記は、全編が舟旅の記録であった。

更級日記は、冒頭に東海道を上る大きな旅が、描かれているし、その後物詣の旅が何度も繰り返し、書かれている。そして、人生は旅である。旅に出て、人生を深く考えるようになる。

 

「コメント」

 

大旅行団である。寺にとっては、いいお客であったろう。