210424蜻蛉日記④「父の陸奥国への赴任」
この作者は藤原倫寧の娘であり、19歳で藤原一門の御曹司・兼家(息子が道長)から求婚され、結婚した。父倫寧が陸奥国司として赴任。源氏物語では、浮舟が母の再婚相手と共に陸奥国に滞在したことが書かれている。
「朗読1」父の赴任はとても悲しく、心細い。あの人は気を使って、見捨てないよと言ってくれるけど、期待できない。
わが頼もしき人、陸奥国へ出で立ちぬ。
時はいとあはれなるほどなり、人はまだ見馴るといふべきほどにもあらず、見ゆるごとに、たださしぐめるにのみあり、いと心細く悲しきこと、ものに似ず。見る人も、いとあはれに、忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれにしたがふべきかはと思へば、ただひとへに悲しう心細きことをのみ思ふ。
「現代語訳」
私の頼りにしている父が、陸奥国へ出立することになった。季節は人の感傷を誘う頃であり、あの人(兼家)とも馴れたとは言える程でもなく、逢う度に私は涙ぐむだけ。とても心細く悲しいばかりである。
あの人も決して見すてたりはしないと言ってはくれるけど、あの人の心はいつまでも言葉の様ではないと思うので、たた゜ひたすらに悲しく心細さだけが心に浮かんでくる。
「講師」
昨年詠んだ「更級日記」でも、作者菅原孝標の女の父が常陸国に単身赴任する場面が切なく描かれている。作られたのは、蜻蛉日記がずっと前である。故に更級日記は蜻蛉日記を参考にし、旅立つ父を悲しむ娘の心境を書いたであろう。
蜻蛉日記の作者・藤原道綱の母=藤原倫寧の女は、更級日記の作者の母方の伯母に当たる。
「朗読2」父との涙の別れの情景描写。そして、夫兼家に手紙を残し、娘を宜しくとあった。
いまはとて、みな出で立つ日になりて、ゆくひともせきあへぬまであり、とまる人はたまひて言ふかたなく悲しきに、「時たがひぬる」と言ふまでも、え出でやらず、かたへなる硯に、文をおし巻きてうち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。見出ではてぬるに、ためらひて、寄りて、なにごとぞと見れば
「君をのみ頼むたびなる心にはゆくすゑ遠く思ほゆるかな」とぞある。
「現代語訳」
いよいよ、これでお別れと出発する日となって、出発する父も涙に暮れているし、あとに残る我々も言いようのない悲しさに沈んでいるので、「予定の時間が遅れますよ」とせかされるまで、父は出立できない。父は傍らにある硯箱に、手紙を巻いて入れて、又泣いて出発していった。
暫くはそれを見る気もしなかった。父の姿が見えなくなり、傍に寄って開けてみると、
「この度の旅立ちにあたり、貴方(兼家)だけが頼りです。娘を宜しくお願いします。」と書いてあった。
「朗読3」夫はその手紙を見て、「お任せください」と父に文を書く。でもどうにも頼りにはならなく思える。
見るべき人見よとなめりとさへ思ふに、いみじう悲しうて、ありつるように置きて、とばかりあるほどに、ものしためり。
目も見あはせず、思ひ入りてあれば「などか。世の常のことにこそあれ。いとかうしもあるは、われを頼まぬなめり」
などもあへしらひ、硯なる文を見つけて「あはれ」と言ひて、門出のところに、
「われをのみ頼むといへばゆくすゑの松の契りも来てこそは見め」となむ。
かくて、日の経るままに、旅の空を思ひやるここちいとあはれなるに、人の心もいと頼もしげには見えずなむありける」
「現代語訳」
夫である兼家に手紙を見て貰いたいと言うのであろうと思うと、父の気持ちが察せられてとても切なくなる。あの人がやってきた。私が顔を上げずに沈んでいると、「どうしそんなに悲しんでいるのか。別れは世の中にある事ではないか。悲しんでいるのは、私を信頼していないからなのではないか」などと、私を慰めた。そして、硯箱の手紙を見付けて、父が一時居る所に文を送ってくれた。
「私を頼りにしているとのお言葉、承りました。私達夫婦の変わらぬ契りを御覧下さい」
こうして、時が経つにつれて、父の旅路を心配する私は淋しさで一杯であるのに、あの人の心は頼りになるようには思えない。
「講師」
兼家の歌に「末の松山」が、詠みこんであるのは素晴らしい。とてもよく出来ているので、兼家自作ではなく道綱の母の手が入っているはず。
次の歌が、末の松山の歌として有名。
「君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ」古今集 詠み人知らず
多賀城市にある歌枕「末の松山」 男女の契りの固さを表す表現。
「朗読4」姿を見せないので、嫌味の歌を書いたりしている内に、体調が悪く、そして八月に
出産。その間は流石にあの人も心遣いしてくれた。
正月ばかりに、二三日見えぬほどに、ものへ渡らむとて、「人来ばとらせよ」とて、書きおきたる、
「知られねば身をうぐひすのふりいでつつんなきてこそゆけ野にも山にも」
返りごとあり
「うぐひすのあだにてゆかむ山辺にもなく声聞かばたづぬばかりぞ」
などいふうちに、なほもあらぬことありて、春、夏、なやみ暮らして、八月つごもりに、とかうものしつ。そのほどの心ばへはしも、ねんごろなるようなりけり。
「現代語訳」
正月頃にあの人が二三日姿を見せない時に、私は出掛けるので「あの人が来たら渡して」と言って
書き置いた。
「人に知られぬ鶯が野山で鳴くように、私は憂しと感じて泣きながら野山に手もなく出かけています」
返事があった。
「貴女が鶯の様に当てもなく山に出掛けても、私は訪ねて行きますよ」などと言っている内に、私は
普通の躰でなくなって、春夏と調子が悪く、八月末に出産した。その間のあの人の心遣いは、心が
こもっていたように思えた。
「講師」
作者は奈良坂の般若寺に願掛けに籠ることが多かった。そして藤原道綱の誕生である。
「コメント」
当時の通い婚も大変だ。夫が少し行かないと、嫌味たっぷりに言われる。上流階級の夫人は和歌しかやることがないのだから。