220320王朝物語㊻和泉式部日記⑱「和泉式部と紫式部」
和泉式部と紫式部の関係、即ち和泉式部日記と源氏物語との関係について話す。
和泉式部と紫式部は同時代人で、しかも中宮彰子に仕える女房として同僚でもあった。
紫式部日記には、和泉式部の生き方について辛辣な批判が書かれている。
「源氏物語の研究」
平安時代は写本づくりが盛ん、藤原定家の源氏物語は写本で有名である。研究は鎌倉時代から始まっている。「河海抄」という源氏物語の注釈書が四辻善成により書かれた。それによると
・桐壺帝のモデル
醍醐天皇(891~930年)、光源氏のモデルが源高明という指摘。当時の読者からは100年前のことなのである。
今日はこの関連を「河海抄」の指摘を源氏物語「葵の巻」、玉鬘十帖の「胡蝶の巻」、「御法の巻」を中心に見て行く。
「源氏物語 葵の巻」この巻には源氏が紫の上と相乗りして葵祭に出掛ける様子が描かれている。
葵祭、賀茂祭は4月に行われる。
葵祭に先立って賀茂神社に仕える内親王である斎院が賀茂川で禊をする。
「葵の巻」では桐壺帝が退位し代替わりがあった。それに伴い、新しい斎院が任命された。彼女の最初の禊に光源氏達がお供をする。それを見物しようと多くの人々が集まる。
そして、六条御息所と葵上との車争いが起きた。祭の当日、光源氏は紫上を同じ車に乗せた。
この場面が和泉式部と深く関わっている。(敦道親王と和泉式部は、車に相乗りをしていた。和泉式部日記より)
光源氏は二条院に住んでいる。邸の西の対には「若紫の巻」で見出した紫の上が住んでいる。光源氏22歳、紫上14歳。
「朗読1」 「葵の巻」 光源氏が紫の上と祭見物に出かけようと、車の準備を命じる場面である。
今日は二条院に離れおはして、祭見に出で給ふ。西の対に渡り給ひて、惟光に車のこと仰せたり。「女房出で立つや」とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするを、うち笑みて見たて給ふ。
「現代語訳」
源氏は住まいの二条院に滞在して、葵祭現物に行かれる。紫の上がおられる西の対に行って、惟光に車の準備を命じられる。「女房達も出かけますか」と仰って、紫の姫君(葵の上)がとても可愛らしく支度しているのを御覧になっている。
・源氏物語と和泉式部との類似
そして「葵の巻」で、光源氏と紫の上が車に相乗りして、葵祭を見物した場面について次のように指摘している。
「大鏡」に「敦道親王(帥の宮)と和泉式部が相乗りして葵祭を見物した」と書かれている。よって紫式部は源氏物語を書くのに、この事を参考にしたのに間違いない、
そしてほとんどの古典学者は、以降はこれを踏襲して葵の巻と和泉式部は関連していると言っている。
・「大鏡」の中の記述 大鏡→藤原道長の栄華を描いた歴史物語
(帥の宮、和泉式部と相乗りせられ給いて祭を御覧せられたり・・・・・)
源氏物語を読んだ読者は、葵の巻の光源氏と紫の上の二人に、敦道親王と和泉式部を重ね合わせて読んだのである。
和泉式部が敦道親王の邸で暮らしているのは人々の好奇心を掻き立てていた。
そして、人々は源氏物語の様に相乗りで葵祭を見物しているのも見ているのである。
(後三条天皇の弟達・・・為尊親王と敦道親王は軽薄な面があった。・・・・そして和泉式部と相乗りして葵祭見物の時には、車から式部の着物の一部を見せて、人々の興味を掻き立てた)
「源氏物語 胡蝶の巻」 亡き夕顔の娘の玉鬘が光源氏の前に現れる
和泉式部日記のどの部分と似ているだろうか。
・亡き人を偲んでいる光源氏と和泉式部の前に、亡き人にゆかりの人が現れる。
そして、双方に橘がキ-ワ-ドの和歌が配されている。橘は昔の恋人を思い出させるものである。
「源氏物語」 亡き夕顔を忘れられない光源氏の前に娘の玉鬘が現れて、光源氏の心を揺さぶる情景
(橘の薫りし袖によそふれば変われる身とも思はえぬかな) 光源氏
今は亡き夕顔を娘の玉鬘にみているのである。
(袖の香をよそふるからに橘の身さえはかなくなりもこそすれ) 玉鬘
貴方は橘の香りに誘われて、亡き母夕顔と私を比べておられます。そうすると私は母と同じ儚い命と思われます。
「和泉式部日記」 冒頭で亡き為尊親王を偲ぶ式部の前に、弟の敦道親王の童が橘を持って現れる。
(薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると) 和泉式部
橘の香りに亡き兄宮をこじつけたりせずに、直に声を聞かせてください。
「よそふる」という言葉に注目。この三つの橘の歌に共通。
そして、和泉式部の和歌の方が早く詠まれている。紫式部は和泉式部をかなり意識していたと考えざるを得ない。
「源氏物語 御法(みほう)の巻」 紫の上の逝去
この巻で、紫の上が死去する。ここにも和泉式部の歌が関連している。
紫の上を最後に看取ったのは夫の光源氏と養女の明石の中宮である。光源氏が正妻として女三の宮を迎えた事が紫の上を苦しめる。この日も体調不良であったが、明石の中宮が見舞いに来たので無理して話をする。そこに光源氏が来て三人で話をして、その後に歌を詠んで、光源氏と養女明石の中宮に看取られて紫の上は逝去する。
「源氏物語」屈指の名場面である。以下は三人の歌
おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露 紫の上
庭を見ると草の葉に降りた露が風に吹かれて吹き飛ばされそうだ。私の命もまもなく終わりを迎えそうです。
ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先だつほど経ずもがな 光源氏
草に降りた露はともすれば消えていく。それと同じように私とあなたの命も亡くなるのなら、
別々でなく一緒にそうなりたいものです。
秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉の上とのみ見む 明石の中宮
秋風に吹き飛ばされてしまうようなはかない露のように、私たち人間の辛い運命を持っているのですね。
ここで和泉式部との関連である。「河海抄」は光源氏の歌と和泉式部の歌との類似をあげている。そっくりである。
明治時代に読まれた源氏物語の研究所「湖月抄」にもそう書かれている。
ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先だつほど経ずもがな 光源氏
ややもせば消えぞ死ぬべきとにかくに思ひ乱るる刈萱の露 和泉式部
しかし不思議なことに、和泉式部の歌は現在探してもどこにも見つからない。「河海抄」「湖月抄」の出典が見つからないのだ。二つの研究書の作者は、紫式部は和泉式部の歌を参考にして、源氏物語を書いたと思っていたのであるが。
「講師」
よく分からないことだらけであるが、紫式部が和泉式部を強く意識していたことだけは間違いない。
二つの源氏物語研究書の指摘を中心に、類似点を話してきた。
「コメント」
千年以上も前のことで、当時の資料は散逸し、逆に残っているのが不思議なくらいの中での推論。もっと大胆に源氏物語は和泉式部日記からの盗作とでも言えば、大センセ-ションか。それにしても、後の世の人たちがここまで古典を研究していることに驚嘆する。よく解らない、
難解なことをまとめるのは疲れる。シンド。