220213王朝物語㊶和泉式部日記⑬「宮廷入りの前夜」
いよいよ、大詰である。
「朗読1」女は風邪をひいて死にそうに弱気になる。宮が励ます。
かくて、女かぜにや、おどろおどろしうはあらねどなやめば、ときどき問はせたまへれば、「すこしよろしうなりにてはべり。しばし生きてはべらばやと思ひたまふることこそ罪ふかく、さるは
「絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな」
とあれば、「いみじきことかな。かへすがへすも」とて、
「玉の緒の絶えむものかはちぎりおきしなかに心は結びこめてき」
「現代語訳」
こうしている内に、女は風邪を引いたのか、ひどくはないが気分が悪い。宮は時々お見舞いの文を下さる。「どうですか」と問われたので、「良くなって来ました。もう少し生きていたいと思います。そして歌を送った。「お出でが無くなったころは、途切れてしまえと思った私の命ですが、宮さまのお蔭でまた、命が惜しくなりました。」
宮は「よかったね」と言って次の歌を送ってくれた。
「命が絶えるものですか。約束した二人の仲に、心はしっかり結んでいたのですから。」
この歌で連想されるのが、式子内親王の歌 新古今集 百人一首
「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることのよわりもぞする」
→この恋が世間に知れたら生きてはいられない。玉の緒とは命、魂を体結びつけている紐である。
「朗読2」「私は出家するかもしれない」 軽薄な貴公子のそのもの。本気か、冗談か。本人にも分からない。女はびっくり。
その夜おはしまして、例のものはかなき御物語せさせたまひても、
「かしこにゐてたてまつりてのち、まろがほかにも行き、法師にもなりなどして、見えたてまつらずは、本意なくやおぼされむ」と心細くのたまふに、
「いかにおぼしなりぬるにかあらむ。
またさようなことも出で来ぬべきにや」と思ふに、いとものあはれにてうち泣かれぬ。
「現代語訳」
宮はその夜、お出でになって、いつものようにお話をして「貴女が私の屋敷に移った後、私が出家でもしたら不本意でしょうね。」と言うので、女は「どうしてそういう気持ちになったのだろう。そういうことが起きるのか。」辛くて泣いてしまった。
「朗読3」宮の出家の話に女は驚いて泣く。宮はそんなつもりはなく、女を慰める。
みぞれだちたる雨の、のどやかに降るほどなり。いささかまどろまで、この世ならずあはれなることをのたまはせた契る。「あはれに、なにごとも聞こしめしうとまぬ御有様なれば、心のほども御覧ぜられむとてこそ思ひも立て、かくては本意のままににもなりぬばかりぞかし」と思ふに悲しくて、ものも聞こえでつくづくと泣く気色を御覧じて、
「なほざりのあらましごとに夜もすがら」とのたまはすれば、「落つる涙は雨とこそ降れ」
御気色の例よりもうかびたることどもをのたまはせて、明けぬればおはしましぬ。
「現代語訳」
雨が静かに降っている。全然寝ないで、宮はこの世だけではなく来世の事までお話になる。何でも聞いてくける宮だからお屋敷に上がる決心をしたのに、出家をなさるのなら、私も念願の出家をしようと思うと、悲しくてものも言わずに泣いてしまう。これを御覧になって、連歌の上の句「とりとめのない
将来のことを云ったのに、そんなことに拘っているのですか。」
女は下の句を返す。「涙は雨のように降っています」宮は頼りない話をして、明けると屋敷に帰った。
「朗読4」女が宮の出家願望をなじると、言い訳に懸命。
なにの頼もしきことならねど、つれづれのなぐさめに思ひ立ちぬるを、さらにいかにせましなど思ひ乱れて、聞こゆ。
「うつつにて思へば言うはむ方もなし今宵のことを夢になさばや
と思ひたまふれど、いかがは」とて、端に
「しかばかり契りしものをさだめなきさは世の常に思ひなせとや 口惜しうも」とあれば、御覧じて
「まづこれよとこそ思ひつれ、 うつつとも思ひざらなむ寝ぬる夜の夢に見えつる憂きことぞそは 思ひなさむと。心みじかや、 ほど知らぬいのちばかりぞさだめなき契りてかはす住吉の松
あが君や、あらましごとさらに聞こえじ。人やりならぬ ものわびし」とぞある。
「現代語訳」
女は色々考えてお屋敷に上がる決心をしたのに、今になってどうしたらいいのだろうと、思い乱れて、宮に申し上げた。
「昨日のことを現実だと思うととても悲しいのです。昨日のことは夢にしたいものです。あれほど約束したのに、出家するということを納得しなさいということですか。とても情けなく悲しい事です。」宮から「まず私から手紙しようと思っていました。
あのことは現実と思わないで下さい。二人で見た夢です。思い込んでしまうとは、短気な事ですね。
命だけは無常ですが、二人の約束は住吉の松のように変わることはありません。今後、先の話しは致しません。自分が話したことが、あなたを悩ましたのは辛い事です。」
講師
「和泉式部日記」の作者は現在も判然としない。講師は和泉式部ではないと思っている。親王の死後、源氏物語成立以後に書かれているだろうと。