201114和泉式部日記1㉙「和泉式部の人生と文学」
今日は和泉式部の人生をたどる。和泉式部と聞いて何を連想するか。「百人一首」である。
「あらざらむこの世のほかの思い出に今ひとたびの逢うこともがな」 後拾遺和歌集(4番目の勅撰集)
・和泉式部というのは、宮仕えの時の通称 中宮 彰子の女房
・夫 和泉守 橘道貞 父越前守 大江雅致、式部省の役人であった。
・娘 小式部内侍 「大江山いく野の道の遠ければまだ文も見ず天の橋立」
・当時「一条天皇」。道長の娘「彰子」の女房となって宮仕え。同僚に紫式部、皇后定子の女房に清少納言。
・為尊親王、敦道親王兄弟と恋仲となる。敦道親王との恋の深まりを描いたのが「和泉式部日記」である。
以下、和泉式部に関する部分を各種文献より引用する。
「朗読1」古今著聞集より伏見稲荷参詣の時のエピソ-ド
原文「和泉式部忍びて稲荷へ参りけるに、田中明神の程にて時雨のしけるに・・・・・」
大意→和泉式部が伏見稲荷にお参りに出掛けた所、田中神社の近くで雨が降ってきた。たまたま近くで稲刈りをしていた男の襖(上着)を借りて、その場を凌いだ。翌日、その男が現れて歌を差し出した。
「時雨する稲荷の山のもみじ葉は青かりしより思いそめてき」
→和泉式部は、卑しい身分の男の歌であるが、感動する。古今著聞集は、和泉式部が男に奔放であったこと、歌人であったことを強調している。
「朗読2」小式部内侍の歌を紹介する。
「いかにせん行くべき方も思ほえず親に先立つ道を知らねば」
娘 小式部内侍が病気で重体となる。親が泣いていると、小式部内侍が目を覚まして、歌を歌った。
「朗読3」「」紫式部日記より、紫式部の和泉式部のついての部分 誉めたり、最後はけなしている。
「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌詠みざまにこそしべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一父子の、目にとまる詠みそはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりいたらむは、いでやさまで心は得時。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。」
「大意」少し褒めて、最後はケチョンケチョンである。
和泉式部という人は、何回も文を交わしたので良く分かっている。文章力や和歌について、見所がある。しかし人物には感心できない所がある。本気で文学に取り組むというのではなく、気軽に手紙など走り書きする時などには、才能が目立つ。何気ない言葉遣いには華がある。歌も興味深いが、歌の歴史・約束事・詞の使い方には深い理解が必要だが、彼女場合、一流とは言えない。歌を詠む時に深く考えていないようだが、貰った人が感心する部分がある。しかし、他人の歌を批評しているのを聞くと、歌の道にたいして到達しているとは思えない。口先でやっている感じである。一流の歌人とは思えない。そして,定子の女房である清少納言への悪口へと続く。
「その後の人生」
最初の夫の死後、武勇で知られた藤原保昌と再婚。任国丹後に下る。この時に有名な小式部内侍の歌「大江山・・・」か゜生まれる。しかし晩年については不明。
「和泉式部日記について」
普通日記は、主語は一人称「私」であるが、この場合三人称「女」である。つまり物語風に書かれている。しかも和泉式部のいない出来事まで書かれている。小説風である。
「コメント」
奔放で人の事など気にしないで、したい様にするというイメ-ジが定着している人。それだけに、才女で女っぽい紫式部の恰好の餌食。紫式部の悪口をもっと聞きたいね。