201107更級日記㉘「更級日記と近現代文学」

今回が更科日記の最終回である。更級日記と作者が近現代の文学者たちにどのような影響を与えたかを考える。前回前々回は菅原孝標女が書いたと伝えられる「夜の寝覚」と「浜松中納言物語」を紹介した。

「三島由紀夫」

「浜松中納言物語」は三島由紀夫のライフワ-クである「豊饒の海」四部作に深く関わっている。

「中村真一郎」

三島と交流のあった中村真一郎にも「夜の寝覚」に題材を得た戯曲がある。

「円地文子」

源氏物語の現代語訳をやった円地文子は、「優しき夜の物語」という小説を書いている。「夜の寝覚」には現在伝わっていない部分があるが、円地文子は想像力で補い、小説を書いた。苦しさの連続で寝覚め勝ちな夜を迎えるヒロインに優しき夜が訪れた瞬間を描いたもので、綾の姫という名前が与えせれている。円地文子は、「夜の寝覚」を源氏物語より優れている思わないが、生きた人間をリアルに描いている秀作であると高く評価している。そして源氏物語を愛読していた作者が、源氏物語を換骨奪胎して書いたのが「夜の寝覚」であると思いたいのであると言っている。

「津島佑子」

「夜の光に追われて」という小説を書いた。これは「夜の寝覚」に題材を得ている。我が子を失った現代の女性が、苦悩と絶望の人生を送った「夜の寝覚」のヒロインに手紙を書くという斬新なスト-リ-である。読売文学賞作品。

 

ここからは更級日記そのものを近現代の文学者がどう読んでいるかを話題に話す。講師は更級日記というと、堀辰雄を連想する。

「堀辰雄」

「姨捨」という短編小説があり、これが更級日記を換骨奪胎した作品である。なお、堀には「姨捨記」というエッセイもある。小説の背景が語られている。その堀が「姨捨記」の書き出しの部分を紹介する。

「更級日記」は私の少年の日からの愛讀書であつた。いまだ夢多くして、異國の文學にのみ心を奪はれて居つたその頃の私に、或日この古い押し花のにほひのするやうな奧ゆかしい日記の話をしてくだすったのは松村みね子さんであつた。おそらく、その頃の私に忘れられがちな古い日本の女の姿をも見失はしめまいとなすっての事であつたかも知れない。私は聞きわけのよい少年の様にすぐその日から、當時の私には解し難かつた古代の文字で書綴られたその日記のなかを殆ど手さぐりでのやうに少し往つては立ち止まり立ち止まりしながら、それでもやうやう讀みすすんでゐるうちに、遂に或日そのかすかな枯れたやうな匂の中から突然ひとりの古い日本の女の姿が一つの鮮やかな心像として浮かんで來だした。それは私にとつては大切な一瞬であつた。その鮮やかな心像は私に、他のいかなるものにも増して、日本の女の誰でもが殆ど宿命的にもってゐる夢の純粹さ、その夢を夢と知ってしかもなほ夢みつつ、最初から諦めの姿態をとって人生を受け入れようとする、その生き方の素直さといふものを教えてくれたのである。

 

コクト-やリルケに傾注していた。その堀に更級日記の魅力を教えてくれたのは、松村みね子。歌人、アイルランド文学の翻訳者、芥川龍之介の恋人。掘は芥川の弟子。

 

堀辰雄のエッセイ「姨捨記」から「蜻蛉日記」の作者藤原道綱の母と更級日記の作者の菅原孝標女を対比している文章を紹介する。

「姨捨記からの引用1

「私は或晩秋の日々、そこで「蜻蛉の日記」を書いてゐた。私がさういふ孤獨のなかでそんな煩惱おほき女の日記を書いてゐたのは、私が自分に課した人生の一つの過程として、一人の不幸な女をよりよく知ること、――そしてそういふ仕事を爲し遂げるためにはよほど辛抱強くなければならぬと思つたからであつた。そして私の對象として選ぶべき女は、何か日々の孤獨のために、心の弱まるやうな、こちらを引き立てて、ずんずん向うの氣持ちに引き摺り込んでくれるやうな、強い心の持主でなければならなかった。しかもそれは見事に失戀した女であり、自分を去った男を詮め切れずに何處までも心で追つて、いつかその心の領域では相手の男をはるかに追ひ越してしまふほど氣概のある女でなければならなかつた。「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし」とみづから記するときのひそやかな溜息すら、一種の浪漫的反語めいてわれわれに感ぜられずにはゐられないほど、不幸になればなるほどますます心のたけ高くなる、「かげろふの日記」を書いたやうな女でなければそれはどうしてもならなかつた。

 

以上の部分は「蜻蛉日記」の本質を見事に言い当てている。作者の藤原道綱の母は強い心の持ち主である。「諦めない」という気概のある女である。それと対照的なのが、更級日記の作者菅原孝標女である。堀はなおも、二人を比較する。更に「姨捨記」から引用する。

「姨捨記からの引用2

「しかしさういふ不幸な女を描きかけながら、一方、私はそれとほぼ同じ頃に生きてゐた、もう一人のほとんど可憐といつてもいいやうな女の書き殘した日記の節々を思ひ浮べるともなしに思ひ浮べ、前者の息づまるやうな苦しい心の世界からこちらの靜かな世界へ逃れてきては、しばらくそれに少年の頃から寄せてゐた何んといふこともない思慕を蘇らせてゐたりした事もあつた。さういふ日の私にとつては、「更級日記」を書いたいかにも女のなかの女らしい、しかし決して世間並みにしあわせではなかったその淋しそうな作者すらも何となく幸せに見え、本当にかわいそうなのはやっぱり「かげろう」の作者であるような気がした。そうしてその時私が一つの試練でもあるかのように自分をその前に立ち続けさせていたのは、その何処までも諦めきれずにいるような一番かわいそうな女であったのだ。」

 

堀は強い女である蜻蛉日記の作者と静かで淋しそうな更科日記の作者の二つの女なるもののどちらにも引き付けられる心を持っていたのだ。しかも人生を諦めてない強い女である「蜻蛉日記」の作者の方が一番可哀そうな女なのだと見抜いている。人生に対する諦めに似た更級日記の作者の方が幸せだったと感じているのだ。しかも蜻蛉日記」の作者と更級日記の作者とは、伯母・姪の関係である。

 

エッセイ「姨捨記」については後で触れることにして、ここから堀が書いた短編小説である「姨捨」を紹介する。

「上総守だった父に伴われて、姉や継母などと一緒に東に下っていた少女が、京に帰ってきたのは、まだ十三の秋だった。京には、昔気質の母が、三条の宮の西にある、父の古い屋形に、五年の間、一人で留守番をしていた。

そこは京の中とは思えない位、深い木立に囲まれた、昼でもなんとなく薄暗いような処だった。夜になると、毎晩、木菟などが不気味に鳴いた。が、田舎に育った少女はそれを格別寂しいとも思わなかった。そうして其屋形にまだ住みつきもしないうつちから、少女は、母にねだっては、さまざまな草子を知辺から借りて貰った。京に上ったら、此世にあるだけの物語を見たいというのは、田舎にいる間から少女の願だった。が、まだしるべも少ない京では、少女の心ゆくまで、めずらしい草紙を求めることもなかなかむずかしかった。

次は、ヒロインが源氏物語を読む場面である。

「が、そうした云い知れぬ悲しみは、却って少女の心に物語の哀れを一層沁み入らせるような事になった。少女はもっと物語が見られるようにと母を責め立てていた。それだけに、其頃田舎から上ってきた一人のおばが、源氏の五十余巻を、箱入のまま、他の物語なども添えて、贈ってよこして呉れたときの少女の喜びようというものは、言葉に尽くせなかった。少女は昼はひねもす、夜は目の醒めているかぎり、ともし火を近くともして几帳のうちに打ち臥しながら、そればかりを読みつづけていた。夕顔、浮舟そういった自分の境界にちかい、美しい女たちの不しあわせな運命の中に、少女は好んで自分を見出していた。

 

ここが堀辰雄の「姨捨」のキイ・センテンスであり、堀の云う諦めである。少女にそういう人生を教えてくれたのが、源氏物語であった。小説だから更級日記そのものではない。色々と変更、改作をしている。けれども堀辰雄が原作である「更級日記」を最も大きく変更したのは、源資通と風流な季節論を話し合った後で、結婚した点である。原作では33歳で結婚し、夫が単身赴任中に35才で源資通と交流している。

 

「引用3」源資通についての部分を引用する。

源資通は、それからその時語りあった二人の女のうちの、初めて逢った女の事なぞを思い浮かべがちだった。男はもちろん、外にも幾たりかの女を知っていた。又、大方の女というものがどういうものかも知悉した積もりでいた。

しかし、その時雨の夜のように、何ぶん暗かったのでその女の様子なんぞよく見られなかったせいでもあるかもしれないが、その女と如何にもさりげなく話を交わしていただけで、何かこう物語めいた気分の中に引き摩られて行くような、胸のしめつけられるほどの好い心もちのした事などはこれまでついぞ出逢ったことが無かった。何かと云えば今一人の女房を立てて、自分はいかにも控え目にしていた、そんな内端な女のそういう云い知れぬ魅力というものは何処から来るのだろうかと、男は自問自答した。もう一度でいいから、あの女と二人ぎりでしめやかな物語がして見たい。私の琵琶を聞かせたらどう聞くだろうか、--此の頃になくそんな若々しい事まで男は思ったりもしていた。しかし男は何かと公儀の重い身で多忙なうちに、その女の事も次第に忘れがちになった。が、ときどき友達と酒でも酌んでいるような時に、思いがけずふとその仄かに見たかぎりの女の髪の具合などがおもかげに立って来たりした。

 

「姨捨」では、この後ヒロインは結婚する。そして驚いたことに夫と一緒に任地信濃国に下っていく。更級日記とは全く違う展開である。

 

「引用4」ヒロインが20才も年上の男の後妻となって、任地信濃に下っていく場面である。 エンディングである。

「女が前の下野の守だった、20才も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。夫は年もとっていた代わり、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。

女も勿論、その夫に、悪い気はしなかった。が、女の一向になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の眼にも明らかになるばかりであった。しかし、もうひとつ、そういう女の様子に不思議を加えて来たのは、女が一人でおりおり思い出し笑いを浮かべている事だった。が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。

夫がその秋の除目に信濃の守に任ぜられると、女は夫といっしょにその任国に下ることになった。勿論、女の年取った父母は京に残るように懇願した。しかし、女は既に意を決した事のあるように、それにはなんとしとても応じなかった。

或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を残して目に涙を溜めながら、京を離れて行った。

幼い頃多くの夢を小さい胸に抱いて、東から上って来たことのある逢坂の山を、女は20年後に再び越えていった。「私の人生はそれでも決して空しくはなかった---」女はそんな具合に目を輝かせながら、ときどき京の方を振り向いていた。

近江、美濃を過ぎて、幾日かの後には、信濃の守の一行はだんだん木深い信濃路にはいっていった。

 

講師の見解

堀辰雄はヒロインを空蝉のイメ-ジにしようとしていた。年上の男の後妻となり常陸に下って行った。そういう女に不思議を加えていたのは、女の思いだし笑いである。女は源資通との想い出の中で思いだし笑いを浮かべているのである。

 空蝉は源氏とのとの想い出を胸に、年上の夫と共にさびしく常陸に下っていることに似ている。

ここで再び「姨捨記」に戻る。そこに更級日記の結末を書き換えた理由を述べている。

 

「引用5」 姨捨を歌った古今集の歌を、どうしても連想し、その月を女主人公に見て貰いたかったからと言っている。

「更に私は不心得にも自分の作品の結末として、原文ではその女が結婚後、その夫が信濃守となって任国へ下った時には、京に一人残っているのであるが、その時その夫に伴って彼女自身も信濃に下るように書き換えてしまった。これは自分自身でもそこを書くまでは全然考えもしなかった事で、書いている内にどうしてもそう書かずにいられなくなっていた。信濃への少年の頃からの私の愛着が自分の作品の女主人公をしてそんな遠い山国暮らしている彼女の夫の身の上を気づかはしめる事によってのみ、信濃というものと彼女とを結びつけるだけではなく何となく物足りなくなって、知らず知らずのうち、私の筆をその様に運ばせていたものと見える。もう一つ、それをそう改竄させた抜き差しならないように気持ちも、私には生じていた。それは私が自分の作品の題詞とした古今集中
「わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて」

という詠み人知らずへの関心である。この歌は更級日記の主人公読むのにふさわしい歌なのである。

「講師見解」

堀辰雄は菅原孝標女に信濃国に来てもらい、姨捨山の月を実際に見て貰いたかったのだ。

 

「神西 清(じんざいきよし)ロシア文学者、翻訳家、小説家、文芸評論家  堀辰雄の終生の友人

ここで話題を転じる。其作品「見守る女」という作品を紹介する。日記のスタイルで書かれている。主人公は姪を育てている。更級日記で主人公が、亡くなった姉の子どもを育てていることを踏まえている。

 

「引用6」「見守る女」より  友人に更級日記を読むように勧められ読んでみて気に入る。

「先月の末、歌風会のあった帰りに暫らくぶりに恵子様とご一緒に寄って、よもやま話を窺った折、

更級日記の事をあんまり熱心にお勧めだったので、つい誘われて読んでみた。その時のお言葉に「ボ-ドレ-ルだって、敵わないことよ。」というのがあって、そんな怖いものと笑ったのだけど、読んでみるとそう大仰な文句を抜き出す筋合いのものでもないと思う。もっとも、恵子様はクラス切っての文学通でいらっしゃる。それに私がそうした西洋名前に一も二もなく怖気をふるってついに読まず仕舞いでいるものだから、そのボードレ-ルとやらにも知らず知らず見当はずれな連想をしていたのかもしれない。それはそうと、あの日記は随分と気に入ってしまった。これから長い間、時々引き出しては静かに繰って見るようなそんな本の一冊になりそうだ。どこがいい、どこが悪いと聞かれても、開き直った返事をする用意にかけては、とんと修養を積まぬ私だけど、あの菅原孝標女が「夢にいと清げなる僧が来て、法華経五の巻を習え」というのを見たり、またそれを人にも語らず、習おうとも思わず、物語の事のみ心を占めて、我はこの頃悪ろ気ぞかしと云う風な娘だったことが、私には却って優しく思いだされるのではあるまいか。今日、ふと日記をつけてみる気になったのも、あの更科のお陰なのだ。一体、日記というものはやはりああした風に、日付もなしに何年か幾月かの感想がしっかりと淀んで、味がよくよく沁み通った時分に綴るのが一番いいやり方のようだけど、私などにはとてもそれだけの余裕はない。でも出来れば10日位の時は置いてみたいものと思う。所詮は静かに振り返るわざではないか。

 

講師

更級日記は物語への夢や憧れから始まる。そして源資通との出会いという夢の名残があった。でも神西 清の「見守る女」のヒロインはその更級日記の終わった時点から書き始められたのである。前回「浜松中納言物語」を読み、その後の浮舟が書かれていると話した。神西 清の「見守る女」は更級日記が終わった時点から始まっているので、その後の孝標女を書こうとしたのだ。「見守る女」には、「更級日記」の猫についての部分がある。神西 清の「見守る女」の猫が登場する場面を紹介するが、白猫という。

 

「引用7」「見守る女」の続き。猫についてのくだり。

「6月13日午前、猫を盗むくだりをそらで覚えたりした罰に、てきめん白猫の眠る夢を見てしまった。「白猫眠る」という美しい詩集があって、一時は座右離さずにいたこともあったが、そのお陰もあるのだろう。

更級日記の姉妹が隠して飼ったという猫は白いか黒いかは何とも書いてないが、大納言の娘の化身と名乗る様だから、さだめし大柄な白猫ではないか。私が夢に見たのはやはりよく太った白猫で、イスパニア風の土塀の上に眠っているのが、むっくり起き上がって釉薬をかけた瓦を渡って行く所だった。その白猫が何か地面に見つけて、確か向こう側に飛び降りたところで眼が醒めた。不吉。」

 

講師

神西 清の「見守る女」の最後は、ヒロインがある男性からプロポ-ズされたのを、断る場面で終わっている。この後ヒロインはどういう人生を歩むのか。その楽しみは、神西 清が書きつぐ別の短編のテ-マとなっていく。今回は堀辰雄と神西 清を紹介した。堀辰雄の小説「姨捨」や、エッセイ「姨捨記」は今でも読まれているが、神西 清は読まれない。更級日記を愛した近現代の文学者たちが、堀辰雄といい、神西 清といい、西洋の芸術に詳しく、理知的で、抒情性を深く湛えた文章の書き手てあったことが、理解できたと思う。それが更級日記の近代性と現代性である。

 

「コメント」

正直言って、「更級日記」がこれだけ多くの文学者たちに色々な影響を与えているとは、どうしても実感できない。というより、糖度の上流階級の普通の女の少女からオイル迄の人生を淡々と書いてあるとしか思いようがない。それより、創作の「寝覚」「浜松中納言物語」などの方が、面白いと思うが。

 

国文学研究者というものは、色々なジャンルの文学を研究して、主たる対象との比較もしなければならないので大変だ。