200905更級日記⑲「初瀬に詣でる1」
更級日記も残り少なくなってきた。作者は今、39歳。前回は逢坂の山を越えて石山寺に籠りの場面を読んだ。今回と次回は大和国の長谷寺に詣でる場面を二回に分けて読む。10年位前に作者の母が長谷寺に鏡を奉納して、作者の未来を占ってもらったことがあった。その時に作者たちの代わりに、一人の僧を代理人に仕立てて、籠りをして貰った。僧は喜ばしい未来と、悲しい未来が鏡に映って不思議な夢を授かったのであった。今度は作者が初瀬にある長谷寺に向かう。
驚くべきことには作者が都を出発した日は、都中の人々がおめでたい行事で沸き返っているまさにその時であった。
「朗読1」
「そのかへる年の十月二十五日、大嘗会の御禊とののしるに、初瀬の精進はじめて、その日京を出づるに、さるべき人人、一代に一度の見物にて、田舎世界の人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でていかむも、いとものものぐるほしく、ながれての物語ともなりぬべきことなり」など、はらからなる人はいひ腹立てど、児どもの親なる人は、「いかにもいかにも心にこそあらめ」とて、いふにしたがひて、出だしたつる心ばへもあはれなり。ともに行く人々も、いといみじく物ゆかしげなるは、いとほしけれど、「物見て何にかはせむ。かかるをりに詣でむ志を、さりともおぼしなむ。必ず仏の御しるしを見む」と思ひ立ちて、その暁に京を出づるに、二条の大路をしも渡りて行くに、さきに御明かし持たせ、供の人々浄衣姿なるを、そこら、桟敷どもにうつるとて、往きちがふ馬も車もかち人も、「あれはなぞ、あれはなぞ」と、やすからずいひおどろき、あさみ笑ひ、あざける者どももあり。
「現代語訳」大嘗祭の日に、初瀬に向けて出発決意。
作者が石山寺に詣でた次の年の永承元年(1046年)後冷泉天皇即位の年。神無月に大嘗祭があった。
大嘗祭→天皇が皇位継承に際し行う皇室行事。新穀を神々に備え、国家安寧と五穀豊穣を記念する。
それに先立ち天皇は百官を従えて賀茂川で御禊をする。その日に作者は初瀬に向かって出発するのだ。身内の人々は
挙って反対した。「大嘗祭は天皇一代に一度限りの事だ。分別のある人がやる事ではなくて、悪い評判が立ってしまう。」
夫、橘俊道はこう言って、作者をバックアップしてくれた。「世間からどう思われようと、自分自身の心が大切だ。自分の好きな方法でいいんだよ。」作者は供の人々には悪いが、大嘗祭見物を止めて長谷寺で仏のご利益を願って、大きな幸せを得ようとしたのである。ここに「天皇になる人の乳母になりたい」という一生の願望が浮かび上がってくる。
その日の暁に、京を出発する。大嘗祭の行列と反対の方向に行く一行を見て、人々は「あれは何だ」と驚き、嘲る。
「朗読2」大嘗祭に日に出発して、周囲に嘲り笑われる。
「良頼(よしより)兵衛督と申しし人の家の前を過ぐれば、それ桟敷へ渡りたまふなるべし。門広ろうおしあけて、人々立てるが、「あれは物詣人ナメリな。月日しも世に多かれ」と笑ふ中に、いかなる心ある人にか、「一時が目をこやして何にかはせむ。いみじくおぼし立ちて、仏の御徳かならず見たまふべき人にこそあめれ。よしなしかし、物見で、かうこそ思ひ立つべかりけれ。」とまめやかにいふ人一人ぞある。
「現代語訳」
藤原良頼(よしより)兵衛守の家の前に差し掛かった。良頼は大嘗祭見物に出発しようとしていた。彼の供人たちは一行を嘲笑っていたが、たった一人だけ作者の心を代弁してくれる人が居た。
「今日行われる盛大な行事を見物して、一時的に目を楽しませてそれが何か人生の本質的な事であろうか。楽しみを断念して仏詣でに行く人々は、仏のご利益を受けるであろう。大嘗祭見物は詰まらないことだ。」
そして一行は宇治川に到着する。
「朗読3」
「道顕証ならぬさきにと、夜深う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそむしう深き霧をも少しはるけむとて法性寺の大門に立ちとまりたるに、田舎より物見に上るものどーも、水の流るるようにぞ見ゆるゆ。すべて道もさりあへず、物の心知りげも無き文氏の童べまで、ひきよきて行き過ぐるを、車をおどろきあさみたることかぎりなし。これらを見るに、げにいかに出で立ちし道なりともおぼゆれど、ひたぶるに仏を念じたてまつりて、宇治の渡りに行き着きぬ。」
「現代語」
人目に付かないうちにと出発した。法性寺の前で、後から来る人達と待ち合わせた。
法性寺→藤原忠平創建の藤原氏の氏寺 東福寺の近くにある。道には都に登ってくる人々が大勢いた。大嘗祭の意味も解らない小さな子供までいた。一行はこれらの人々にも嘲笑われるが、励まし合って宇治川に到着した。
「講師」
宇治というと源氏物語の「宇治十帖」である。作者は14歳で源氏物語を読んでから浮舟というヒロインに惹かれていた。そして初めて宇治を訪れたのである。
「朗読4」 宇治の渡しは大混雑てある。
「そこにもなほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟の楫とりたるをのこのこども、舟をを待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔に当てて、棹におしかかりて、とみに舟を寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじううすみたるさまなり。むごにえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮のむすめどものこととあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かなと思ひつつ、かろうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君の、かかる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる。」
「現代語訳」
そこにも奈良から京を目指して宇治川を渡ろうとする人々の群れがいる。客が多いので、船頭は勿体ぶって得意げにしている。
宇治十帖は源氏物語での後半であり、光源氏亡き後の事。八の宮(皇族、源氏の弟)が登場する。彼の三人の娘、長女
大君、次女の中君、三女の異母妹が浮舟。この三人のヒロインが薫と匂宮という二人の男と恋愛模様を繰り広げる。作者は源氏物語の中で、最初に登場する夕顔と最後の浮舟に心惹かれている。作者は宇治十帖に疑問を感じていた。どういう理由から、紫式部は宇治という場所を選び、三人の娘を登場させたのだろうと。自分の眼で見てみたいとかねてから思っていた。今回の長谷寺詣でのもう一つの目的でもあったのだ。
「コメント」
大嘗祭の日の出発とは、作者も相当変わった人であり、その夫もそうだ。むしろへそ曲がりともいえる。又順路とはいえ、宇治への訪問は源氏物語への思い入れでもある。改めて、更級日記を読むには源氏物語の下敷きが無いと正確には理解できないことを確認した。私は失格。