200502⑤「更級日記(5)『都への旅(その4)いよいよ都へ』

「遠江から三河へ」

沼尻という所を過ぎて、病気になり遠江に差し掛かった。歌枕の「さやの中山」を越えたのも気付かなかった。とても苦しかったので天竜川のほとりに、小屋を作って貰い数日過ごした。病も治った。

秋も深くなって、川風が激しい中、天竜川を渡って浜名の橋に着いた。

遠江(とおとおみ) 遠い湖→浜名湖のある静岡県西部

さやのなかやま 歌枕  甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり伏せるさやの中山  西行

 →甲斐の山々をはっきり見たいけれど、「さやの中山」があるので見えないなあ。

浜名の橋は東海道を下るときには、樹皮のついた丸木であったが、今回は跡もなく、舟で渡る。

外海の波は荒れて高く、入江は松原が茂っていて、そこに波が寄せているのは、歌枕の「末の松山」にあるように、波が松を越えるようで、趣深い。

 ・末の松山 歌枕(陸奥)  君を置きて仇し心を吾が持たば末の松山波も越えなむ」 百人一首 

  古今集 清原元輔

八橋は名前が残るだけで、橋の跡もなく、何の見どころもない。八橋→伊勢物語の歌枕

ニむらの山の中に泊まっている夜、大きな柿が小屋の屋根に落ちていた。朝、人々はそれを拾っていた。

宮路の山という所を越えるときは、10月の末(11月)であるのに、まだ紅葉が散らず盛りであった。歌を作った。

  嵐こそ 吹き来ざりけり宮路山 まだもみじ葉の散らで残れる

  →嵐はここには吹かなかったのだ。宮路山ではまだ紅葉が散らないで残っているのだから。

三河と尾張の国境である「しかすが」の渡は、古歌にあるようにいくべきか行かざるべきか思い煩いそうである。

 ・しかすがの渡り  三河の歌枕  行けばあり行かねば苦ししかすがの渡りに来てぞ思いわずろう→行かねばならない、しかし行けば苦しいと判っていても思い煩ってしまう。 中務集(女流歌人)

要するに、「渡らねばならない橋だが、渡れば苦しい事がある.色々と渡るに際して悩むのである。」

「尾張~美濃~近江~京」

尾張の国鳴海を過ぎて行ったところで、潮が満ちて来て中途半端な所にいたので、走ってここを通り抜けた。美濃の国の墨俣という渡しを渡って、野上という所についた。そこに遊女が出て来て、歌うにつけても足柄山の遊女の事が思い出されて懐かしく恋しく思われた。雪が降ってきたので、興味のあることもないので、不破の関、つみの山などを越えて、近江の息長という人の家に4~5日泊まった。

みつさかの山の麓で時雨や霰が降り出して、陽も射さないのでうっとおしい。そこを出発して犬上・神崎・野洲・粟田などという所を何ということもなく過ぎた。

琵琶湖が見えて来て、なで島、竹生島などという所が見えて、趣深い。瀬田の橋は壊れていて、渡るのが大変だった。

粟津に滞在して、師走の二日、京に入る。暗くなって行きつこうと申の時(午後四時)ごろ出発していくと、逢坂の関近くに作りかけの丈六の仏が顔だけ出しているのが見えた。

有難い仏様と遠くに眺めて通り過ぎた。多くの国を通り過ぎてきたが、駿河の清見が関と逢坂の関は他の較べようもなく素晴らしい。暗くなってから三条の宮の家の隣の我が家に着いた。

 ・墨俣 墨俣川の渡し 尾張と美濃の国境 藤吉郎は一夜城で後世有名

 

「コメント」

下総・武蔵、相模、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、近江、山城の三か月の旅も終わった。前半は色々と興味深げで毛あったが、後半は帰心矢のごとしで途中の事はすっ飛ばし。数十年後の既述なので、興味のない所は忘却か。ともあれ、無事京都に帰り着いた。ここからの展開は?