191019 ㉙「日野の草庵(其の三)長明の工夫と創意

今日は長明の物作りにおける才能・工夫、創意について。

今まで長明の「方丈記」「発心集(仏教説話集)」「無名抄(歌論書)」を取り上げていたが、今回は「今昔物語集(日本最大の古代説話集(千の説話より成り、今は昔で始まる 編者不明))の話から始める。

鎌倉時代に作られた「宇治拾遺物語(197話からなり、編者不詳。宇治大納言源隆国物語の拾遺の意)と並んで、二大説話集といわれる。ここで当時の技術の水準の高さを見てみる。

「朗読① 今昔物語巻24 5話」 百済の川成と飛騨の匠

百済の川成(絵師)と飛騨の匠のエピソ-ド。二人は仲の良い友達であった。飛騨の匠は「私はお堂を建てたので、見にいらっしゃい、そして壁に絵を描いて下さいと言った。」絵師は見に行って南の戸から入ろうとすると、ひとりでに閉まり西の戸が開く。西の戸から入ろうとすると閉まり、南の戸が開く。北から入ろうとすると同じ事が起きる。これを見て、飛騨の匠は笑ったので、絵師は悔しがって帰った。今度は絵師が飛騨の匠を、家に招く。家に入ると、死人が死臭を放って横たわっている。恐る恐る近づくと、それは絵であったという。仕返しであり、ふざけ合いのお話。

「朗読② 今昔物語巻24 2話」 高陽(かや)親王の人形     桓武天皇の皇子。細工物が得意な人。

日照りが続いた時に、高陽親王は人形を作って田に立てた。人形は器を手にもって、その器に水を入れると、人形が動いて其の水をかぶる仕草をする。この事が人気となって、人々は水を入れては

喜んだ。これで田は、水が潤った。

「朗読③ 今昔物語巻12 21話 山階寺 再建の時のエピソ-ド 

山階寺 藤原鎌足夫人が山科に創建、一時藤原京に。平城京に移ってから興福寺と称した。となっているが、実際は藤原不比等が現在地に創建。藤原氏の氏寺。東金堂、南円堂、北円堂、三重塔、五重塔、・・・。

大火で焼失し、1048年に再建。本尊(釈迦如来坐像)を、本堂に入れる供養となった。所が本尊に大きな天蓋が付いていて、作業の為にお堂の中に大きな材木を入れねばならなくなった。一部を壊さねばならないので、一同困惑した。

所が、お堂を作った大工が「工事の時に、大きな材木を中に入れて、そのまま出すのを忘れていた。それが使えます。」と言った。これを利用して、無事に本尊を、お堂に入れることが出来た。

→このような事態を予め予想して、大工は材木を入れて置いたのだ。

「朗読④ 巻12 34話」 書写山 (しょう)(くう)上人 誕生秘話

この中に性空上人が作った草庵の部分があり、「三間の庵」とある。仏間・居間・台所。 

「朗読⑤ 発心集 巻7 13話」 尾張 齋所権介の子、高野に住むこと

齋所権介の長男が、どうしても高野山で出家するというので、親は思いとどまるように近くに草庵を建てたとある。その草庵のことが書いてある。三間の庵とある。この当時の隠遁者の庵のスタンダ-ドは、三間であった。

 

〇色々な事から、当時の庵は三間が普通であった。長明の方丈の一間はある意味では、画期的。そして移動可能で、新しい草庵のモデルとなった。

〇当時の隠遁者は、草庵について関心が高く、西行・兼好法師も事前にあちこち見て回っていた。

〇長明は建築についての知識技能を持っていた。

〇草庵は、後の茶室に繋がっていく。

 

「コメント」

隠遁者になる余裕がある人しか、草庵を持っていない。教養のある、経済的に不安のない人たちの贅沢であったのだ。そして、それゆえに著作も残り、そのことが記録に残っていると言える。